Todd Rundgren
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Todd Rundgren (トッド・ラングレン) プロフィール

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トッド・ラングレンは1948年6月22日、米ペンシルヴァニア州フィラデルフィアのアッパーダーヴィに生まれた。トッドは4歳の頃から家にあったピアノを弾き始めたと語っているが、一方で少年時代はひどく個人主義的な傾向を持ち問題児でもあったという。8歳の時に初めてギターを手にし、12歳でフルートを覚えようとして失敗していたトッドは、1964年、16歳でビートルズローリング・ストーンズなどいわゆるブリティッシュ・インヴェイジョンのバンド達に多大なる影響を受ける。彼らの音楽にただならぬ影響を受けたトッドは髪を伸ばし、エレクトリック・ギターを手に入れロックを演奏するようになった。

1967年にウッディーズ・トラック・ストップなるバンドに参加。初めてバンドに加わったが、そのバンドに満足できなかったトッドは、ローカル・バンドにいたカーソン・ヴァン・オステン、エドワード・ハントン、トム・ムーニーらと一緒に、新たにナッズというバンドを結成した。ナッズは1969年の解散までに3枚のアルバムを発表。彼らは当初ビートルズモンキーズの路線を狙ったアイドル・バンドとして売り出されたが、トッドの名曲のひとつである“ハロー・イッツ・ミー”の小ヒットのみの成功に終わった。しかし有名なB級ガレージ・サイケ・オムニバスの ナゲッツ に収録されたという評価や、米ライノ・レーベルによるCD再発などで、現在ではこのナッズも若いロック・ファンにパワー・ポップの元祖的バンドとして認知されるようになっている。トッドはそのナッズ在籍時から(おそらく二・三作目の頃。因みに両者はもともと2枚組としてリリースされる予定だったがバラ売りされたもので録音は同時期)アレンジ用のスコアなどを書き、ひとりで作・編曲していたと言われているが、そんなトッドはマルチ・プレイヤーをも発揮しバンド存続時からソロ・アルバムの制作も開始。一方で1969年頃にはバターフィールド・ブルース・バンドグレイト・スペックル・バード、アメリカン・ドリームなどのプロデュース、そしてジェシ・ウィンチェスターのエンジニアリングも担当するようになった。

1970年9月、以前から制作していたファースト・ソロ・アルバム ラント を、(後にユートピア、パリス、イギー・ポップ・バンドデヴィッド・ボウイティン・マシーンなどに在籍する)トニー&ハントのセイルズ兄弟というリズム・セクションのプレイを加えた作品として仕上げ、ラント名義でリリース(ラントとはパティ・スミスがトッドに名付けた愛称で、この時のバンド名でもある)。この中からシングルとなった“ウィ・ガッタ・ゲット・ユー・ウーマン”が全米トップ20入りするヒットになる。1971年6月にセカンド・アルバム ザ・バラッド・オブ・トッド・ラングレン を発表。この時期一方でトッドはスパークスの前身であるハーフ・ネルソン、ジェリコジェイムス・コットン・バンドなどのアルバム・プロデュースを手掛けたりしている。1972年3月、殆どが独りマルチ・プレイの多重録音による2枚組大作 サムシング/エニシング を発表。 “ハロー・イッツ・ミー”のニュー・ヴァージョンやシングル“瞳の中の愛 (I Saw The Light)” (全米16位)といった名曲を収録したこのアルバムは、全米20位を記録しトッド・ラングレンを初めて名乗った作品として、また彼の存在を一躍重要なものとした初期の傑作として認知されるようになった。なお余談ながらこのアルバムは日本では一枚分のLPに纏められ、グラム・ロック風のジャケットに変更されて ハロー・イッツ・ミー というタイトルでリリースされた。

1973年3月、魔法使いは真実のスター (A Wizard A True Star) を、同年12月には2枚組の トッド を発表。ポップ感覚溢れる音楽と並行して、前者のアルバムに顕著な実験的なアプローチによる音楽への嗜好性も見せ始める。この後者の部分をもとにライヴ用のバンドとしてユートピアを結成(のちにこのポップとアヴァンギャルドとの区分け=ソロとユートピアという区分けは、かなりいい加減な形で崩れていくが)。そして1974年半ばには、トッドは自身のソロ活動を休止させ、ユートピアの本格的な活動に踏み切ることになった。またプロデュース活動はこの時期にも盛んに行われ、数多くのアーティストを手掛けているが、その中でもグランド・ファンク・レイルロードの アメリカン・バンド(We're An American Band)や輝くグランド・ファンク(Shine On) 、フィラデルフィア出身のR&B好きというトッドとの共通項を持つホール&オーツウォー・ベイビーズ 辺りはセールス的にも成功を収めた。1975年に入り、ユートピアの活動とともに、自身のソロ活動も再開。5月に 未来神 (Initiation)を、また翌1976年にはアルバムの半分をビートルズビーチ・ボーイズボブ・ディランヤードバーズジミ・ヘンドリックスらのカヴァー(というより一部は完コピ状態)が占める異色作 誓いの明日 (Faithfull) を発表している。また同年12月にはユートピアを率いて初来日も果たした。

1977年ニューヨーク郊外のウッドストックに自らのスタジオ、ユートピア・サウンズを設立。翌1978年には ミンク・ホロウの世捨て人 (Hermit Of Mink Hollow) と第二期ユートピアと行った米ツアーの模様を収めた2枚組ライヴ作 未来への回帰 (Back To The Bars) を発表。またこの時期トッドがプロデュースしたミートローフ地獄のロック・ライダー (Bat Out Of Hell) が大ヒットしたり、という出来事もあった。1979年、ユートピアとともにトッド再来日。その後しばらくトッドはユートピアでの活動に専念した。ややあって1981年2月になると久しぶりとなるソロ名義オリジナル作 ヒーリング を発表。この時点で古巣ベアズヴィル・レコードを離れ、自身のユートピア・レーベルを設立。しかしこのレーベルは翌1983年のユートピア オブリヴィオン を発表したところで消滅。更に1985年にはアルバム Pov を最後にユートピアは休止という形となってしまった。

1985年9月、ソロだけに専念したトッドはワーナー・ブラザーズに移籍し、アルバム アカペラ を発表。またその後しばらくしてXTC スカイラーキングのプロデュースなどで評判を呼ぶ一方、1987年からはデジタル楽器のMIDI機能を駆使した単独演奏によるコンサートを開催し始め、そちらでも話題を呼んだ(翌1988年にはそうしたシステムによるワンマン公演を日本でも行った)。1989年6月に前作から4年ぶりとなるアルバム ニアリー・ヒューマンを発表(日本では6本指の手が映るアートワークが問題となり発売延期になるという事態が起こった)。1990年1月、4度目の来日公演。この公演は前回の手法とはうってかわって12人編成のビッグ・バンドによるライヴで、これはユートピアの面々ほか多彩なゲスト陣を配した ニアリー・ヒューマンのコンセプトに準じたものだった。またこの時期のトッドもいつにも増して積極的なプロデュース活動を行った。その代表的なものにはジル・ソビュールパーシュート・オブ・ハピネス高野寛レピッシュなどがある。また自身の活動としては、1990年10月6日にミルヴァレイ・フィルム・フェスティヴァルで上映されたコンピューター・グラフィック作品の制作(自らが主宰する制作プロダクション N Utopiaの制作)や、1990年7月サンフランシスコ公演の模様を収録しながら歓声などは殆ど聞かれないという異色のライヴ作 セカンド・ウィンド を発表したりしている。

90年代に入ると、他のアーティストにはない、トッド独自の音楽/メディアに対する異色のアプローチはどんどんとエスカレートしていくことになった。いち早くマッキントッシュのコンピューターを使ったアプローチを見せていたトッドは、コモドール社とCD-Iプレイヤーを開発。その後リンゴ・スターのアルバムに参加したり、1992年にはユートピアを率いての来日公演を行ってはいるが、基本的にこの時期以降、トッド・ラングレンは通常の音楽業界的風習に囚われない活動や気まぐれとも見られかねないアイディアを実行していっている。その最たるものがインタラクティヴ・ミュージックの提唱だった。1993年1月 アルバム ノー・ワールド・オーダー 発表。アーティスト側からの音楽の一方的な提示に終わらない、リスナーがそれをもって遊べるという次元にまで踏み込んだ、インタラクティヴ・ミュージックのアプローチがこの作品で明らかになった。が、実際にはCD-Iプレイヤーというハードが殆ど普及しなかったこともあって、通常のCD仕様による簡易版でリリースするなどといった事態もおき、当時そのインパクトは日本に住む一般のリスナーには殆ど理解されなかった(CD-I版では曲の頭から自分の好きなように組み替えて楽曲を聴くことができる、というものだったが、体験できない、よくわからないというリスナーが大半だったように思う)。しかし未来の音楽に魅せられ続けるトッドはそうした冷ややかな反応にも屈せず、インタラクティヴ・ミュージック・ツアーをも敢行。そのツアー中の1994年10月ロンドン公演は後に TR-I 〜ライヴ・イン・サイベリア として映像ソフト化された。

1995年3月、凝った仕掛けはエンハンスト仕様辺りにとどめ、久々に純ポップ・ミュージックを追求したともいえる インディヴィジュアリスト を発表。しかしその後の来日公演含むツアーでは、演奏曲目を全く考えずその場の気分で何を演るか、ということを決めていく即興性を重視したジャズ的ともとれるアプローチで、インタラクティヴ・ライヴを展開。そうした拘りを見せつつ活動を展開し、結果的には自らの基本路線に忠実な活動を見せつけた。またインタネート上にホームページをいち早く開設し、米CATVで「トッド・ラングレン・チャンネル」を実験的に開局するなど、その後もトッドによるテクノロジー関連の話はそれ以降も尽きない。

90年代半ば以降01年初頭の現在までの新作アルバム(店頭に並ぶもの)には、1997年5月に日本のみでリリースされた アップ・アゲインスト・イット、自身の名曲をラウンジ風にカヴァーした1997年9月の ウィズ・ア・トゥイスト 、90年代を通じてインターネットで音楽配信を続けてきたトッドの音源からピックアップされたアルバム ワン・ロング・イヤー(2000年5月日本先行発売)などがある。またそうした少ない新作の一方で、ファンの要望も高い過去の秘蔵音源が90年代後半から01年2月現在までの間、幾つかリリースされ好評を得たことはまだ記憶に新しい。まず日本のみの限定盤として トッド/ユートピアでのライヴ・イン・トーキョー’79、ライヴ・イン・NYCがリリース。またこれも日本のみの ライヴ・イン・シカゴ91や、最近リリースされたばかりのデモ集、デモズ・アンド・ロスト・アルバムズ も熱心なファン向けとはいえ歓迎された。

Utopia
ユートピアは当初トッド・ラングレンがライヴ・パフォーマンス用に(レコードの音をライヴでも再現したいという欲求があったのかもしれない)、と1973年に結成したグループだった。1974年10月にユートピア名義の第一作 トッド・ラングレンズ・ユートピアを発表。この作品で演奏する第一期ユートピアのメンバーは、マーク・クリングマン(key)、ラルフ・シュケット(key)、M・フロッグ・ラバート(Synth)、ジョン・シグラー(b)、ケルヴィン・エルマン(perc, ds)、そしてギターにトッドというもので、音楽性は当時のアメリカでは特異な個性ともいえたインストゥルメンタル中心のプログレッシヴ・ロック風サウンド。1975年10月にはライヴ・アルバム アナザー・ライヴ 発表。この前にメンバーはケヴィン、M・フロッグ・ラバートに替わり、ロジャー・パウエル(Synth, trumpet, vo)、ジョン・ウィルコックス(ds)が加入している。

バンドとしての知名度も上がり、 アナザー・ライヴ の片面でロック・クラシックを披露しファンを喜ばせたユートピアは、1976年に入りいよいよ大幅なメンバー交代を敢行。トッド、ロジャー、ジョンにカシム・サルトン(b, vo)を加え4人編成となった彼らは以降不動のラインナップとして定着する。同年12月に初来日を果たしたユートピアは、このラインナップでの初作品 太陽神(Ra) を翌1977年2月に発表。これは、それ以前の作品中でも最もトータルなコンセプト、テーマを持ちプログレッシヴなサウンド・アプローチが結実した作品といえた。同年9月には早くも 悪夢の惑星(Oops! Wrong Planet) を発表。その後1979年には二度目の来日を果たしてもいる。1980年1月、 アドヴェンチャーズ・イン・ユートピア を発表。これは前ニ作に比べヴォーカル・パートの充実が光り、ユートピア独自のポップ路線ともいえる作品に仕上がっていた。また同時にこの頃からトッド以外のメンバーの活動が活発化。ロジャー・パウエルがソロ作 Air Pocket を、また1982年にはカシム・サルトンが Kasim を発表するなどといった出来事があった。

1980年10月、ミート・ザ・ユートピア(Deface The Music) 発表。これはビートルズ・ネタを連発するオリジナル楽曲とその遊び心が、トッドのポップス的側面を愛するファンには好評を得る作品に仕上がっており、もはやユートピア・イコール・独自のプログレッシヴ・サウンドという図式は完全に成り立たなくなった。ジョン・レノンの、僕達はキリストより有名うんぬん発言に端を発した、全米でのキリス教徒達によるビートルズのレコード焼き事件をジャケットに使った スウィング・トゥ・ザ・ライトは1982年3月発表。この直後トッドとともにベアズヴィル・レコードを離れたユートピアは、同年12月にネットワーク・レコードから Utopia(T.R.K.W.)を発表。後者は3分間ポップスのユートピアというべき路線の最たるものだった。更に1984年3月、トッドが設立したユートピア・レコードから オブリヴィオン発表。この作品は比較的良く出来た作品との評もあったが、しかしこの頃を契機に、ユートピアはトッドと他の3人との意見が食い違うといった内部関係の悪化に陥っていったとも言われている。結局1985年にパスポート・レコードから Povを発表したところで一旦活動休止。それで、というわけなのか翌1986年にベスト盤 Trivia がリリースされている。しかしPovとトッドの「ア・カペラ・ツアー」以降全く動きのなかったユートピアに対してトッドは解散を否定していた。その証なのか1992年5月には来日公演が実現している。これは翌1993年に ‘92ライヴ・イン・ジャパンとして映像ソフト化された。

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