Talking Heads
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Talking Heads (トーキング・ヘッズ) プロフィール

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ニューヨーク・パンク・シーンをきっかけにシーンに登場し、その後音楽的な成熟を遂げ80年代の名作に数え上げられる傑作 リメイン・イン・ライト を発表し重要バンドの地位についたトーキング・ヘッズ(同作についてはいろいろと当時賛否があったがそれについては後述)。彼らの一番の魅力は、やはりインテリジェントな感触を持った、アート・スクール出身者的マナーによる批評的な音楽作り、といったものに集約されるだろう。

ロードアイランド州はプロヴィデンスのアート・スクールに通う三人、デヴィッド・バーン (1952年5月14日生)、クリス・フランツ(1951年5月8日生)、ティナ・ウェイマス(1950年11月22日生)からなるジ・アーティスティックスというカレッジ・バンドがトーキング・ヘッズの母体バンドだった。やがて1974年になるとアート・スクールを卒業したデヴィッド・バーンはニューヨークに移住。その後を追うようにして他二人もニューヨークに移り住むようになり、三人は再び活動をともにするようになった。

1975年に入り、バンドはトーキング・ヘッズを名乗るようになった。そしてリハーサルを幾つか重ねた彼らは、同年5月にCBGB’sのオーディションを受け、翌1976年にCBGB’sサマーフェスティヴァルにてデビューを果たした。ライヴ・デビューを飾った彼らは、まもなくヴィレッジ・ヴォイス紙やニュー・ヨーク・タイムズ紙で絶賛され一躍脚光を浴びる。トーキング・ヘッズはその当時から独得の知性溢れるサウンドを聴かせていたという。

70年代半ばから後半にかけての当時のニューヨーク・シーンの中で、彼らはニューヨーク・パンクの一派に数え上げられていたし、後々日本でシーンが広く紹介されるようになってからも彼らはニューヨーク・パンク特集といった記事に欠かせない存在として扱われていた。後期のトーキング・ヘッズのサウンドから聴いたリスナーにすれば、彼らは一般的にパンクといってイメージされる印象からは遠いかもしれない。ただテレヴィジョンがパンクそのものだというほどに、初期のトーキング・ヘッズもまたパンクだった。そもそもニューヨーク・パンクは画一化されたスタイルを持たないというところ(アート精神に溢れた個性的な集団みたいなもの)が特徴だ。余談ながら個人的に筆者が当時のシーンを垣間見れて面白いな、と思ったのは(孫引きのようになるが)、日本のレコード・コレクターズ誌に載っていた「ロック・シーン誌」に掲載されたボブ・グルーエン撮影の写真で、そこではルー・リードジョン・ケイルパティ・スミスデヴィッド・バーンの4人がNYのどこかのロフト風の所でリハーサルをしているのだった(1976年頃の風景だという)。後追い世代の自分からしてみると、これにはレコードを個別に聴いて得られる知識とは別種の刺激があった。

彼らの経歴に話を戻すと、1976年に彼らはサイアー・レコードと契約。翌2月にシングル“ラヴ・ゴーズ・トゥ・ビルディング・オン・ファイアー”でデビューを飾った。またその直後にモダン・ラヴァーズエリオット・マーフィー・バンドで活躍してきたジェリー・ハリスン(1949年2月21日生)がバンドに加入。以降彼らは4人組として活動を展開していく。

4人編成となったヘッズは1977年にファースト・アルバム サイコ・キラー(Talking Heads ’77) を発表。これはローリング・ストーン誌などで絶賛を浴び、彼らは早くも評論家筋からの評判を決定的にする。またブライアン・イーノが本作に注目したというのは有名な話だ(イーノは後にNYパンクの次世代ムーヴメントといえるノーウェイヴ・シーンの名コンピ ノー・ニュー・ヨーク のプロデュースをしている)。ともあれ、ファーストの出来がきっかけでイーノと親交を深めたバンドは、セカンド・アルバムをイーノのプロデュースで制作。1978年にその作品 モア・ソングス(More Songs) を発表。アル・グリーンの“テイク・ミー・トゥ・ザ・リヴァー”を知性溢れるダンス・ミュージックにしてしまうセンスなどが再び高い評価を生んだ。翌1979年にサード・アルバム フィア・オブ・ミュージック(Fear Of Music) を発表。ここではイーノに加え、ロバート・フリップも演奏で参加。この頃からイノセントなパンクという位置を逸脱したインテリジェントな作風を聴かせ始めた彼らの個性は、次作で大展開されることになる。そのアルバム リメイン・イン・ライト(Remain In Light) は1980年のリリース。だが実際にはこの作品、リリース以前から大きな注目を集めていた。それは本作のリリース前に行われたツアーにおいて、ヘッズは4人のメンバーに加え、バニー・ウォレル、エイドリアン・ブリュー、ノーナ・ヘンドリックスといった確かな力量を持ったメンツを同行させ、大編成のバンドとしてプレイを聴かせていたからだった。その音楽性は新たなヘッズのモードを伝える斬新なダンス/ファンク・ミュージック。ともあれ、リメイン・イン・ライトは80年代有数の名盤として今でも語り継がれる作品となったが、発表当時にはここ日本において大きな論争を生んだことも付け加えておこう。簡単に述べてしまうと、白人ロックにおいてアフリカン・ミュージックの持つダイナミズムの導入をどう位置付けるかという問題だと思うのだが、要は音楽性の高さこそが至上ということを当為として絶賛する方向と、白人ロック・ミュージシャンが自らのぎこちないリズム感と向き合うことから逃れ、批評性なしにアフロ的なサウンドを鳴らしていまうことに対する違和感を表明する方向、という違いだ。

さらに話が逸れていきそうなので経歴に戻そう。リメイン・イン・ライト 発表の翌年である1981年からその翌年、1982年の初頭までのヘッズは、それぞれのソロ活動のほうに比重を置いた感がある。具体的にはバーンイーノの共作 ブッシュ・オブ・ゴースツ バーン が前衛バレエ・ダンサーの為に書いた作品 キャサリン・ホイール の二枚、ティナ=クリス夫妻の風変わりなポップ・ダンス・ユニット、トム・トム・クラブの作品、さらにはジェリー・ハリスンのソロ・アルバムも同時期リリースされた。

ヘッズとしての作品活動の再開は1982年の4月だった。彼らの初期ライヴ音源と、多数のゲストが参加したリメイン・イン・ライト 以降のライヴ音源とを各一枚づつに収録した二枚組ライヴ作 トーキング・ヘッズ・ライヴ(The Name Of This Band Is Talking Heads)を発表(表題は、ヘッズがかなり知られるようになってからも、バーン がステージを始める前に必ず入れていた奇妙な紹介MC - このバンドの名前はトーキング・ヘッズといいます - からとられたもの)。そしてスタジオ・アルバムとして通算5作目となる作品は、それからまた約一年半後にやっと出された。1983年に前作リメイン・イン・ライト から2年半ぶりとなる スピーキング・イン・タングス(Speaking In Tongues) を発表。しかしながらこの作品はジャケットの斬新さによる話題を省くと、サウンド的には大きな話題を集めることがなかった。イーノとのコンビを解消したバンドの新たな一歩としては地味なものに終わったといえる。

だがその次に控えていたシロモノが再びヘッズの名を浮上させた。1984年にライヴ・フィルムの ストップ・メイキング・センスが劇場公開。だぶだぶの大きなスーツを着たバーンが奇妙なパフォーマンスを見せたり、計算され尽くされたかのような独自の映像的美意識を展開する同作品は、トーキング・ヘッズの、またデヴィッド・バーン のアート性をオーディエンスに強くアピールするものだった。なお同作品のサントラでもある ストップ・メイキング・センス(Stop Making Sense) も同時期にリリースされている。

翌1985年に通算で8作目となるアルバム リトル・クリーチャーズ(Little Creatures)を発表。これは多数のゲストを迎えつつも、基本的にはメンバー4人でリハーサルを重ねるという比較的オーソドックスな作り方で仕上げられた一枚だった。

この頃にはデヴィッド・バーン はかなりのソロ活動を展開していた。TVドラマに出演したり、ロス五輪のために書かれたオペラの一部の音楽を担当したり…そんなソロ活動の最たるものが、バーン自身が監督、脚本を手掛けた映画 トゥルー・ストーリーズ の公開だった。その後バーンは映画で使用した音楽を、そのサントラとは別にヘッズのアルバムに収録することを決めたが、そこで制作されたのがトーキング・ヘッズ通算9作目となるアルバム トゥルー・ストーリーズ(True Stories) だった。それから二年半経った1988年に発表された通算10作目となる ネイキッド(Naked) 。これはスティーヴ・リリーホワイトをプロデュースに迎え、ゲストにジョニー・マーモリ・カンテなどを参加させてパリでレコーディングされた意欲作だった。

しかしながらライヴをとうの昔に行なわなくなったトーキング・ヘッズはここでもライヴを行なわず、バンドとしてはメンバーの意向もばらばらであったようだ(というより、ややワンマン的になっていたバーン がライヴに興味を示さなかったという話も)。ネイキッド 発表と同時期にはジェリー・ハリスンのソロ作や、トム・トム・クラブの作品もリリースされ、メンバーはそれぞれバラバラな活動を行っていたというのが実情だった。さらに1989年にブラジル音楽に傾倒したバーンが組んだプロジェクト、レイ・モモの作品がリリースされた時期には、音楽シーンの話題がトーキング・ヘッズの方向に行くことはもはや少なくなっていた。

やがて、とうとうトーキング・ヘッズのバンドとしての話題が完全に途切れた。1992年にベスト盤 ベスト・オブ・トーキング・ヘッズ(Sand In The Vaseline) がリリースされると、公式発表はなかったもののヘッズの解散は誰の目にも明らかとなったのだった。

初期トーキング・ヘッズのぎこちないリズムは、その時点で白人によるビートはいかにして可能か、といった批評性を内包していたように思うし、リメイン・イン・ライト はその手法の賛否はどうあれ、結果的に後のワールド・ミュージック的なるものに繋がる大きな示唆をシーンに与えた重要作であることは間違いない。しかし彼ら自体は自身が生み出したリメイン・イン・ライト 以降、という命題に押しつぶされ、活動を停滞〜迷走せざるを得なくなったし、その時期をきっかけにデヴィッド・バーンの活動にしてもポップ・ミュージック・シーンの真ん中とはやや離れた場所で展開されているように思う。シーンの下世話なダイナミズムから離れたところで良質な活動を続けるバーンのインテリちっくな佇まいはヘッズ時代からのファンには物足りなくもあるが、これはある種、意識的なポップ・ミュージックの困難さ、といったものを物語っている気がする。

追記:この原稿を書き終えた後、2001年5月にデヴィッド・バーンはソロ作 ルック・イントゥ・ジ・アイボール(Look Into The Eyeball)を発表。トーキング・ヘッズ時代のようなヒットには勿論ならなかったが、それでも比較的ポップな感触を持った作品をリリースしてファンを喜ばせてくれたことを付け加えたい。

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