Paul Simon

Paul Simon (ポール・サイモン) プロフィール

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ポール・サイモンの歌声は、まろやかながら、特に高音を張ったところなどでは、時に壊れそうな線の細さがあり、本当に何ともいえない味わいを持っている。勿論、その小さな体躯から必然的に出てくる声なのだろうけれど、原因―結果という因果関係ではないが、反対にあの声が彼のキャラクターを決定づけているようにも思えてしまう。これは当然のことながら、どっちが先という話ではなくて、あのか細くなったりスウィートでまろやかになったりする歌声で冷静に当世物語を描写していく手法や、ときにその中から何ともいえない情感を滲み出してくるソングライターとしての個性と、彼のキャラクターがいわく言い難く切り離せないものとなっていることの証だろうと思う。そして、その声がポップな語り口で「物語」を紡ぐとき、音楽の魔法が生まれていく。

また別の面でポール・サイモンに関して言われることとして、ポール・サイモンの音楽の根幹に関わる部分で賛否がある(あった)ことにも触れなければならないだろう。サイモン&ガーファンクル時代から、“コンドルは飛んでいく”で、メキシコの歌を取り上げるなどしていたポール・サイモンは、グレイスランドで南アフリカの音楽を取り入れ、ハイクオリティ・サウンドをものにしたりもし、その手法が植民地主義的などと揶揄されたりすることもあった。この種の出来事はボブ・ディランサイモンから英トラッドマーティン・カーシーを盗んだとか、いろいろと聞かれる話ではある(米ポップス界に古くからあるやり口とも言える)。この辺りの話は微妙な話で、倫理的な話、ポール・サイモンがニュー・ヨーク出身のユダヤ系であることも関わってくる話、にならざるを得ないが、ある一面において彼の音楽にそうした面があることは事実だし、ポール・サイモンの音楽に対するアプローチに、対象との距離を絶妙に突き放したニュー・ヨークのインテリ特有の映画的、あるいは文学的な作品に近い「醒めた感覚」があるのも事実だろう。ただそれはイコール、ポール・サイモンの音楽全てが聴くに値いしないものであると言えるはずは絶対に、ない。月並みな言い方になってしまうのが歯がゆいが、彼の歌声が、多くのリスナーに感動を与えてきたのは紛れもない事実なのである。

ともに1941年生まれで、中流のユダヤ人家庭に育ったポール・サイモンアート・ガーファンクルは、ニュー・ヨークのクイーンズにある公立小学校に通う同級生だった。ラジオから流れてくるロックンロールやドゥワップ、コーラス・グループに惹かれた彼らは、13歳の時に中学校のダンス・パーティで初めてのステージを披露したという。二人はペンギンズやオリオールズ、ムーングロウズといったコーラス・グループを噛りつくようにして聴き、レコードそっくりに歌えるように、何度もコピーし練習を重ねた。サイモン&ガーファンクルポール・サイモンにある音楽性で、表だってはいないが、そこはかとないドゥワップ感覚をルーツに感じさせる部分はこの頃に育まれたものだと言われている。

そのうちにサイモンはギターを手に入れ、これまた練習を重ねた結果、その腕前も相当なものになっていた。そこへ二人にとって重要なグループが登場。エヴァリー・ブラザーズだったビートルズのハーモニーにも相当な影響を与えたエヴァリー兄弟のデュオ・ハーモニーは、ビートルズなど以上にデュオとしてのサイモン&ガーファンクルに大きな影響を与えたことは想像に難くない。ヒルビリー・スタイルのデュオ・ハーモニーにロックンロールのビート、そしてポップで洗練された佇まいなどは、サイモンとガーファンクルにとって見本とすべき存在だった。しばらくしてサイモンエヴァリーに倣ったオリジナル曲を書き、二人はデモ録音を行った。そして、そのスタジオにたまたま居合わせたシド・プローゼンが二人の才能を買い、ポール・サイモンアート・ガーファンクルは「トム&ジェリー」という名前でデビューを果たした。1957〜8年のことだ。彼らは「ヘイ・スクールガール」というシングルを小ヒットさせたが、その後はヒットに恵まれなかった。

そしてトム&ジェリーとしてシングルを発表するさなか、サイモンは単独でもソロ・シンガーとしてのキャリアを築こうと、奮闘した。ロックンロールやティーンポップ、ドゥワップ色を出した楽曲などさまざまなタイプの曲を吹き込み、トゥルー・テイラー、ティコ&ザ・トライアンフ、ジェリー・ランディスといった変名でリリースしていったのだった。また一方のアート・ガーファンクルもアーティ・ガー名義でシングルを発表するなどしたが、サイモンにしてもガーファンクルにしてもソロの目論見は全くの不発に終わった。こうした活動は1962年頃まで続いた。そうした奮闘ぶりは特にポール・サイモンの場合に顕著で、プロとしてやっていく決心を固めていたサイモンはスタジオ・ワークのノウハウ、ソングライターとしての技量をどんどん磨いていった。一方のガーファンクルはそうした単独行動をとるようになったサイモンを尻目に、学業と放浪に生活を求めていったのだった。

そうしたことから気まずい感情を残しつつ離れていた二人が再開したのが1963年のこと。ニュー・ヨークはフォーク・ミュージックの発信地として注目を集める時期に差し掛かっていた。二人はともにフォーク音楽に傾倒し、また行動を共にするようになる。またサイモンボブ・ディランに深く傾倒し、プロテスト・ソングを手掛けるようになっていた。そしてサイモン&ガーファンクルは、かつてのロックンロール時代の人脈を辿り、コロンビア(CBS)からデビューを果たしたのだった。

ポール・サイモンはS&Gデビュー・アルバム発表後の渡英でイギリスのミュージシャンから多大な影響を受け、質の高い作品をものにすることに成功した(1965年には初のソロ・アルバム『ポール・サイモン・ソングブック』を発表している)。以降サイモン&ガーファンクルは数々のヒットを生み、60年代のポップ・デュオとしては有数の、数々の音楽的業績をあげる存在となっていった。そして70年明日に架ける橋を最後に活動を停止。ポール・サイモンはその後、本格的なソロ活動に入り、70年代には『時の流れに』でグラミー受賞、80年代の『グレイスランド』で大きな評判を得るなどを経て、90年代になってやや地味な活動を強いられながらも、なおメインストリームで活躍し続けている。なおサイモン&ガーファンクルは1982年に再結成ライヴが行われ、その模様はレコードとしてリリースされる、ということもあった。

ポール・サイモンのソロ活動は90年代、比較的地味なものに終わったが、現時点での最新作ユー・アー・ザ・ワン(2000年11月現在)でも、かつてと変わらない良質の音楽を聴かせてくれている。

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