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ポール・コゾフ。言うまでもなく60〜70年代の英国を代表するロック・バンド、フリーのギタリストだった男。ポール・コゾフがこの世を去ってから既に四半世紀以上の時が経つが、かのEC氏も唸ったという、その「泣き」のヴィブラートは今も美しく響いている……
ポール・コゾフは1950年9月14日、イギリスはロンドンに生まれた。同世代の音楽に興味を持つ少年の例外にもれず、シャドウズの影響でギターを始めるようになる。また同時期に両親の方針でクラッシックのレッスンを受けさせられるが形式ばった堅苦しいレッスンを6年もの間受けつづけたポールはその雰囲気に嫌気が指し、レッスンを止めるのと同時にギターすらも止めてしまった。
そんなポールに再びギターをプレイさせる切っ掛けを与えたのはエリック・クラプトンだった。当時ブールス・ブレイカーズで活動していたクラプトンのギター・プレイに感銘を受けたポールはジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリックスetc…新たに見つけたヒーローたちの音楽にのめり込み、それらのプレイをなぞるうちに自らの肥やしとしていった。レコード・ショップの店員をする傍らブラック・キャット・ボーンズというバンドでギターを弾いていたポールは、ロンドン北部のとあるクラブに遊びに行ったときブラウン・シュガーというバンドで唄っていたポール・ロジャースと出会う。これがフリー結成の切っ掛けとなる。
ここでポール・コゾフの短い人生の中で最もウェイトを占めていたフリーの歴史にざっくりと触れてみよう。
1968年春頃、ポール・コゾフ(g)はブラウン・シュガーのポール・ロジャース(vo,g)と出あったのを切っ掛けにサイモン・カーク(ds)を加え、フリーの原型となるバンドを結成した3人は、元ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズのアンディ・フレイザー(b)を加え、活動を開始する。活動開始当初はまだブラック・キャット・ボーンズを名乗っていたが、1968年秋頃からはフリーという名前で活動するようになった。この名はアレクシス・コーナーのバンド、フリー・アット・ラストからとられたもので、またアレクシスが彼らに譲った名前だとも言われている。そしてフリーはアレクシス・コーナーの協力もあって、ロンドンで人気を高めていった。また有名なDJ兼音楽評論家のジョン・ピールの協力も受けた彼らは、アイランド・レコードと契約。1968年11月アルバム トンズ・オブ・ソブズ でデビューした。 しかしこの作品は高い評価を受けたもののセールス的には決して成功したとはいえなかった。1969年に入ると、フリーはエリック・クラプトンやスティーヴ・ウィンウッドらを擁するスーパー・グループ、 ブラインド・フェイスのサポートとして全米をツアー。名前をある程度売った帰国後に制作されたセカンド・アルバム フリー を同年10に発表している。これは全米トップ30入りするヒットとなり、フリーの存在は以前に比べて大きくクローズ・アップされるようになった。
しかし何と言ってもフリーの人気は、翌1970年6月に発表された3rdアルバム ファイア&ウォーター で決定づけられた。この中からシングル・カットされた“オール・ライト・ナウ”が全英ナンバー・ワンを獲得。また同年12月には早くも4thアルバム ハイウェイを発表。この当時メンバーらはまだ20歳そこそこであったが、彼らの人気はここで絶頂を迎えた。1971年に入るとフリーは全米ツアーを行い、これも大成功のうちに終える。またこの後同年5月には初の来日公演を敢行。しかし驚いたことにこの直後のオーストラリア公演終了後にフリーはあっけなく解散してしまうのだった。好調な活動のさなか解散を表明したフリーは、その後ライヴ作 フリー・ライヴ をリリース。またバンド解散後、メンバーはそれぞれユニットを組んだが(ポール・コゾフははサイモンと共にコゾフ・カーク・テツ&ラビットを結成)、結局どれも長続きはせず、成功を収めるには至らなかった。
そして1972年になるとフリーは何と解散から一年もしないうちにオリジナル・メンバーで再結成する。新生フリーは同年5月に フリー・アット・ラスト を発表。その後ツアーも開始し再び順調な活動を続けていくように見受けられた彼らだったが、そのツアー中にポール・コゾフの病気が悪化し、彼がツアーをリタイア。またこれをきっかけにポール・コゾフとアンディ・フレイザーの脱退という事態も招いてしまう。その直後、1972年8月に再来日を果たしたフリーのメンバーはこのとき、ポール・ロジャース 、サイモン・カーク、日本人の山内テツ(b)とアメリカ人、ラビット(key)という4人編成となっていた。1973年1月、その4人となった新生フリーは ハートブレイカー を発表。 “ウィッシング・ウェル”のヒットも生まれ、高い評価を得たがその後予定されていたツアーを前に、ロジャースとラビットの権力争いなどがもとで、結局この年を最後にフリーは本当に解散してしまった...と、ここまでがフリーでの活動である。
そして同73年には初のソロ・アルバム、バック・ストリート・クロウラーを発表。1年間の療養の後、その作品目と同じバンド、バック・ストリート・クロウラーを結成。75年に『バンド・プレイ・オン』、76年に『セカンド・ストリート』を発表するがポールの容体は悪くなる一方で、心臓の一部の機能が停止してしまう事もあったという。神様は才能ある若いアーティストを好かないのだろうか、ポールは1976年3月19日、ツアー移動中の飛行機の中で、眠るように息を引き取ったという...死因はオーヴァードーズ(ドラッグの過剰摂取)による心臓麻痺とされている。
ポール・コゾフが使用するギターはギブソンのレスポール・スタンダード。フリー解散後のバック・ストリート・クロウラーではフェンダーのストラトも使用してはいるが。ポールのトレード・マークはやはりレスポール。ポールのギター・ワークはとてもユニークでアコースティツク・ギターに張るようなミディアム・ゲージを使用し、マーシャルのシターでなくベース・アンプで音を鳴らしていた。そのこだわりがあの唯一無二の音色を生んだのであろう。
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