Lenny Kravitz
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Lenny Kravitz (レニー・クラヴィッツ) プロフィール

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レニー・クラヴィッツ(本名:レナード・アルバート・クラヴィッツ)は1964年5月26日、ニュー・ヨークに生まれた。父親はユダヤ系でNBCテレビのプロデューサー、母親はバハマ出身で後に女優として活躍するロキシー・ローカー。幼いレニーは両親の住むマンハッタンのアッパー・イーストサイド(高級住宅街)と、母方の祖母の住むブルックリンのベッドフォード・スタイブサント(いわゆる低所得者層の住むゲットー)という両極な環境を目にしながら育ったと言われている。また小学校にあがる年齢になると、子供ながらに両親の人種が異なることが意味するものを理解していたという。またベビーシッターにどうしてもなつかなかったレニーは、両親がどこへ行くにも連れて廻ったといわれ、幼い頃から芸能関係者の集まるパーティなどにも出入りすることがあったといわれる。音楽好きの子供だった当時のレニーが好きだったアーティストはジャクソン5カーティス・メイフィールドジェイムス・ブラウンジョン・レノンエルトン・ジョンサラ・ヴォーンなど。中でも特に好きだったのがジャクソン5で、中でもマイケル・ジャクソンに夢中になったそうだ。

1974年、女優となった母親の都合で、クラヴィッツ家は西海岸のロサンゼルスに移住する。ハリウッドに代表される土地柄で、レニーも芸能関係者の子弟が多く通う、ビヴァリーヒルズ・ハイスクールに入学。同級生には後にガンズ&ローゼズのギタリストとして名を為すことになるスラッシュや、後にローン・ジャスティスで活躍するマリア・マッキーが居た。音楽的な才能をみせたレニーはこの時期、名門の少年合唱団カリフォルニア・ボーイズ・クワイアなどに参加。また既にこの頃にはギター、ベース、ドラムス、オルガンなどの楽器をかなりのところまでマスターしていたという。そしてミュージシャンを志すようになったレニーは、高校中退後、マルチ・プレイヤーまたはプロデューサーとして数々のセッションに参加していくようになった(当時のアーティスト名はロメオ・ブルーといった)。

1985年、レニーは両親の離婚を経験したの後、1987年にはニュー・エディションのバックステージで出会った女優のリサ・ボネットと結婚(余談ながら二人の間には1991年に愛娘ゾウイーが誕生しているが、その二年後にレニーとリサは正式に離婚している)。

レニーがソロ・アーティストとしてデビューを飾るのは1989年のこと。それまで自身の音楽を空いた時間のスタジオなどで、ちょこちょこと制作していた彼は、レコード会社各社へその音源を持って売り込みにいっていたが、マイケル・ジャクソンボビー・ブラウン的なブラック・ミュージックが求められていた80年代当時には、レニーの音楽に理解を示してくれるレコード会社はほとんどなかった。ただ唯一興味を示し、デビューに結び付けてくれたレコード会社があった。まだ当時設立されたばかりのヴァージン・アメリカというレーベルだ。会社とアーティスト契約を結んだレニーの作品は、1989年9月に 『レット・ラヴ・ルール』 として発表された(日本では12月リリース)。このサウンドは当時、日本の音楽メディアに大きな反響を呼んだ(アメリカでは反響を呼んだものの、セールスはそれほどでもなかったようだ)。デジタル録音全盛の時代に、後期ビートルズから70年代初期ロック辺りまでのサウンドと繋がるかのようなアナクロともいえる音像の上に乗っかるのは、ペシミスティックでシニカルな80年代のロックが避けてきたような「ラヴ」といったメッセージ/思想。それらは当時のシーンから全く浮いたもので、加えてそれがレニー・クラヴィッツという当時全く無名のひとりの男がほとんどの楽器を独りでこなして作られた、という事実にも相当のインパクトがあった。当時の『レット・ラヴ・ルール』 が呼んだ反響をもう少し詳しく述べると、創作スタンスなどの点でテレンス・トレント・ダービーなどが引き合いに出されると同時に、まるでビートルズの再現とかパクリであるとかいった「黒いジョン・レノン」といった風評や、大真面目に「ラヴ」だってよ!というようなレニーのメッセージを一歩引いて見つつ、彼をレトロ・ロッカーとみなすような風潮(これは主にアメリカの音楽紙などでの反応)が多かったように思う。ただその中でも日本での評価は当初からかなり高かったように記憶している(時代錯誤と言って、笑ってすませられるレベルのサウンドではない、ということが比較的すんなり受け入れられてわりにストレートにカッコいい!と受け止めるリスナーが多かったようだ)。

翌1990年6月、予定されていた来日公演がレニーの体調不良のため中止。12月20にはジョン・レノン没後10年を機に東京ドームで行われたトリビュート・コンサート「グリーティング・オブ・ザ・ワールド」に参加。レニーはここで“コールド・ターキー”と“アイ・ファウンド・アウト”を演奏。またこの機会にオノ・ヨーコショーン・レノンと共演している。

1991年4月、2ndアルバム 『ママ・セッド』 を発表。この中からシングル・カットされた“イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー”が全米2位のヒットを記録。同曲ではカーティス・メイフィールドなどを思わせるファルセット・ヴォイスと、ストリングスに彩られた70年代のニュー・ソウル系サウンドを彷彿とさせる曲調が話題となった。筆者の個人的な思い入れを言わせてもらえば、この楽曲を聴いたときにはじめてレニー・クラヴィッツのスゴさを実感したといのが本音だ。ビートルズ云々というところに惑わされていた自分は、レニーからこうした音が届くとは思っていなかったので、そうした幅の広い音楽性と楽曲の完成度に相当のインパクトを受け取ったのだった。話を戻すと、このアルバムは収録曲の“オール・ウェイズ・オン・ザ・ラン”と“フィールズ・オブ・ジョイ”の2曲に、高校時代の旧友、ガンズ&ローゼズスラッシュが参加、また“オール・アイ・エヴァー・ウォンテッド”にショーン・レノンが参加していることも話題となった。同年7月初の来日公演。翌1992年にはヴァネッサ・パラディのアルバム『ビー・マイ・ベイビー』(Vanessa Paradis) のプロデュースを手掛け、また楽曲提供とそのプロデュースも合わせて行ったマドンナの“ジャスティファイ・マイ・ラヴ”が全米ナンバーワンを記録。ヴァネッサ・パラディの方はかつてのモータウンやスペクター・サウンドのガール・グループ辺りを思わす作風、“ジャスティファイ・マイ・ラヴ”は当時最先端だったハウス系のサウンドという具合で、この辺りでレニー・クラヴィッツは自身のソロ活動のみを行うアーティストというだけではなく、時代の要請に的確に捉えられる多角的な音楽クリエイターと目されるにいたった。

1993年2月(イギリスは3月、アメリカでは11月)、3rdアルバム 『自由への疾走』(Are You Gonna Go May Way)発表。この作品からは“ビリーヴ”、 “哀しみの十字架(Heaven Help)”がシングルとしてヒットし、またアルバム自体も全米最高位12位、全英1位を獲得、全世界で700万枚のセールスを記録する大ヒット作となった。またこの頃のレニーは興味深いコレボレートを連発。ミック・ジャガーの 『ワンダリング・スピリット』 中の”ユーズ・ミー“でジャガーとデュエット、またレニーとスティーヴン・タイラー/ジョー・ペリーとの競作”ライン・アップ“を収録したエアロスミスのアルバム ゲット・ア・グリップ 、そしてレニーがリード・ヴォーカルを務めた”ザ・マジョリティ“を収録した当時ガンズ&ローゼズダフ・マッケイガンのソロ・アルバム『ビリーヴ・イ・ミー』この年発表されている。また同年5月には、世界ツアーとなる「ユニヴァーサル・ラヴ・ツアー」を日本公演を皮切りにスタート。そのツアーが続き1994年に入ると再来日。前年から続いていた同ツアーの終幕を日本で迎えることとなった。2月下旬〜3月上旬にかけて行われたその再来日ツアーでは、3夜連続で日本武道館公演を行い、前年のツアー始めの来日公演における日本武道館を含めると、レニーは同一ツアーで計7回の武道館公演を行い、しかもそれらを全てソールドアウトにするという離れ技をやってのけたことになる。その他1994年の課外活動で目立ったのはキッスのトリビュート盤 『キッス・マイ・アス』中のアルバム冒頭曲、 ”ジュース”のカヴァー。ハーモニカ奏者としてスティーヴィ・ワンダーをゲストに迎え同曲を披露していることだろうか。

1995年9月、4thアルバム 『サーカス』を発表。全米チャートでは10位を記録した。そして同年11月から、このアルバムに伴うツアーを開始。ここでも盛況を博すが、その終了直後の12月2日、娘ゾウイーの誕生日の翌日に、レニーの母ロキシーが癌のため他界するという悲劇にも見舞われている。レニーは翌1996年の夏のほとんどを母の故郷バハマでゾウイーとともに過ごしたといわれ、またこの年のレニーは表立った活動を見せず、デビュー以来走りつづけてきた彼はここでしばし沈黙することとなった。

あけて1997年、レニーは5thアルバムのレコーディングを開始。アナログ感覚の録音を得意としてきたレニーが、はじめてここでデジタル、すなわちプロトゥールズなどコンピューター・ソフト上で音楽を組み立てることに挑戦した。そしてこのレコーディングはそれまでの手法とは全く異なるため、制作終了までにはかなりの時間と労力を費やしたという。一日平均16時間で8ヶ月という長く過酷なレコーディング。そして遂に完成した5thアルバムは 『5』と題され、翌1998年4月(アメリカでは5月)に発表された。当初このアルバムは(特にアメリカでは)いきなり爆発的なセールスをもって迎えられたという感じではなかったが、シングル“フライ・アウェイ”のヒットがきっかけでじわじわと売れ、ロングセラーを記録。結果的に見れば全世界で約600万枚を売り上げる大ヒット作となった。同1998年11月に来日公演を行い、また翌1999年にグラミー賞で“フライ・アウェイ”がベスト・メイル・ヴォーカル・パフォーマンスを獲得。また同年にはレニーがプロデュースを手掛けたクリー・サマーのデビュー作 『ストリート・フェアリー』がリリースされている。またこの年のレニーの話題として大きかったのが、映画オースティン・パワーズ・デラックスのサントラ用に録音された アメリカン・ウーマン 。この曲は70年代に活躍したカナダのロック・バンド、ゲス・フーのカヴァーで、翌2000年にはレニーによるこの アメリカン・ウーマン はグラミー賞でベスト・メイル・ロック・パフォーマンスを受賞した。同年3月には南アフリカなどを訪れるアフリカ・ツアーを敢行。そして10月に初のベスト盤となる グレイテスト・ヒッツをリリース。レニー・クラヴィッツは10年余りの活動に区切りをつけた。そしていよいよ21世紀へ向かったレニーは自らの名前をタイトルに持ってきた自信作『レニー』を発表した。

2004年には『レニー』以来3年ぶりとなる『バプティズム』を発表。2度の来日キャンセルを経て都市型ロックフェス「THE ROCK ODYSSEY 2004」出演を表明した。

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