Doors
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Doors (ドアーズ) プロフィール

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‘60年代を彩ったアメリカのロック・バンドの中でも一際、際立った存在感と、そのユニークなサウンドで人々を魅了したドアーズ。その奇跡的ともいえるバンドのアンサンブルの妙と、ヴォーカリスト、ジム・モリスンのカリスマティックなヴォーカル/パフォーマンスはもはや神話化されたともいえる。ただ見過せないのは彼らが当時、所謂ショービズ的な場面で闘ったバンドである、ということであり、ある種アイドル的な存在としてヒット曲を望まれたロック・バンドだった、ということだろう。現在の視点から見ると、彼らのアンダーグラウンドでシリアスな音楽性への評価を軸にするあまり、見落としがちなところではあるが、ショービズの世界の厳しさの真ん中でアーティスティックな表現をモノにしていたということはもっと評価されるべきだと思う(特に初期の活動/作品において。例えば現在のビートルズの評価と同等くらいに)。ただそうしたことが原因となって悲劇を生んでしまったというのも事実だった。ショービズを志向するという方向性とアーティスティックな表現との矛盾点が裏目に出、ドラッグ絡みの問題点が噴出し、ひいてはジム・モリスンは死に至る。ジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスと並び、’60年代を象徴する夭折した天才アーティストというジム・モリスンの顔。そうした伝説もドアーズを語るときに切り離せないが、一方でそれとは無関係に音楽的な普遍性を持って、そのドアーズの音楽は今も生み出された当初の輝きを保ちつづけながら、生き続けているようにも感じる。

ジム・モリスン(本名:ジェイムス・ダグラス・モリスン。vo/1943年12月8日、フロリダ州生まれ)は厳格な軍人の家庭に生まれた(ドアーズのデビュー当時は両親と死別したと公言しており、ミステリアスなイメージを演出していたと言われている)。

1961年にジョージ・ワシントン・ハイスクールを卒業した彼は、フロリダのピーターズバーグ・ジュニア・カレッジ、フロリダ州立大学を経て1964年ロス・アンゼルスのUCLA演劇学科に入学。後にドアーズ”ジ・エンド”を自らの映画 地獄の黙示録 に使用するフランシス・コッポラも彼の学友だった。

モリスンはルームメイトのデニス・ジェイコブスとドアーズ・オープン&クローズドというグループを結成する(後にドアーズと縮められる)。このグループ名はウィリアム・ブレイクの詩と、オルダウス・ハクスリーのメスカリン服用の体験記『知覚の扉』から付けられたものだった。

モリスンはやがて同じ学科に所属していたレイ・マンザレク(key/1935年2月12日、シカゴ生まれ)と知り合う。マンザレクは10歳の頃からピアノを学び、この時点で兄弟とともにリック&レイヴンズというブルース・バンドをやりレコードもリリースしていた。そのように少なからぬ音楽経験を持っていたマンザレク兄弟だったが、モリスンの詩“月光のドライヴ”にインスピレーションを受けた彼らは、モリスンとバンドを組むことに決めた。バンドはメディテーション・センターで知り合ったジョン・デンズモア(ds/1945年12月1日、ロス・アンゼルス生まれ)を加え、デモ・テープを制作。これはコロンビア・レコードの興味を惹くが、デビューには至らなかった。そしてまもなく兄のリック・マンザレクに替わり、クラシック、フォーク、フラメンコといった幅広い音楽性を持ったギタリスト、ロビー・クリーガー(g/1941年1月8日、ロス・アンゼルス生まれ)が加入し、ドアーズのラインナップは固まった。

彼らは4〜5ヶ月をリハーサルに費やし、ロス・アンゼルスの有名クラブ、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーの専属バンドになった。そしてその頃にはオリジナル曲を加え、モリスンのセクシャルと評されるステージング、即興的なサウンドで人気を集めていった。1966年末、エレクトラ・レコードのプロモーター、ビリー・ジェイムスに認められた彼らは、新興のエレクトラ社ではラヴに続く二組目のロック・バンドとして契約する。

1967年1月、ドアーズは1stアルバム ハートに火をつけて/Doors とシングル“ブレイク・オン・スルー/Break On Through”でデビュー。そして間もなくリリースされた第二弾シングル、 “ハートに火をつけて/Light My Fire”が、彼らの人気を一気に高めた。7分にわたるオリジナル・ヴァージョンをシングル向きに編集した同曲はチャートを急上昇し、7月27日付から3週連続、全米チャートのナンバー・ワンを記録するヒットとなった。

このヒットもありアルバムの方もチャートを上昇。最高位2位を記録するまでになった。アルバム中でも特に11分半にもわたるハイライト・ナンバー、 “ジ・エンド/The End“は、父親を殺し母親を姦すというショッキングな内容を持ち、大変な話題となった。モリスンのニーチェに影響を受けたと言われる歌詞、愛やセックス、死といったものに傾倒する哲学に裏打ちされたドアーズの音世界は、当時を代表するヒッピー思想とは異質なものだった。

同年10月にはシングル“まぼろしの世界/People Are Strange”がリリースされ、また邦題では同名となるアルバム まぼろしの世界/Strange Days が11月にリリースされた。アルバムは全米最高位3位を記録。その作中には、前作の“ジ・エンド”と対を為すともいえる“音楽が終わったら/When The Music's Over”が収録されており、そこでは、モリスンの力強さも備えたアジテーター的な要素も垣間見える。また初期の段階でモリスンが披露し、マンザレクをバンド結成に思い立たせたという、前述の“月光のドライヴ/Moonlight Drive”もこの作品に収録されている。

ステージでのモリスンはよりカリスマ性を帯びていき、1967年12月9日のニュー・ヘヴンでのコンサートでは警官を侮辱したという理由で、ステージ上で逮捕されもした。このことをはじめドアーズは世の中にショッキングな話題をいくつか提供した。当時のベトナム戦争に抗議する内容の“名もなき兵士/Unknown Soldiers”のプロモーション・フィルム中で、モリスンが銃殺刑になる、というシーンが論議の的となったり…といったことだ。

二曲目のナンバーワンとなったポップなシングル“ハロー、アイ・ラヴ・ユー/Hello, I Love You” 。これはキンクスのヒット曲“オールデイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト”に酷似しているという理由で盗作問題を捲き起こした。また彼らはベースレスの4人組バンドという珍しい編成だったが、この曲はベース奏者が唯一参加した曲とも言われている。同曲を収めた3rdアルバム 太陽を待ちながら/Waiting For The Sun は1968年9月にリリースされ、彼らにとって唯一の全米ナンバーワン・アルバムとなった。このアルバムは彼らのポップ色が濃く出たアルバムということも出来るが、そのジャケットには詩人としてのジム・モリスンの代表作『蜥蜴の祝祭』が掲載されたり、といったこともあり、その点も見逃せない点だ。この頃までにモリスンはアルコール、ドラッグに溺れていくが、その原因としては彼やバンドのアーティスティックな姿勢、意図とポップ・スターとして扱われることとの間にあるギャップに悩んでいた、ということが一般的に挙げられている。

1969年2月、R&B風のポップなナンバー“タッチ・ミー/Touch Me”がチャートのベスト3に入るが、間もなくモリスンはステージ上で事件を起こした。これは前述したような内面的なフラストレーションが臨界点を迎えたという事実を象徴するかのような出来事と言えたし、ドアーズの人気にとって致命的となるマイナス・イメージが広がってしまう原因ともなった。3月1日マイアミのコンサートで、酔っ払っていたモリスンは公衆の面前でズボンを降し自慰行為を行ったというものだが、ことの真相は今だ謎のまま。単にズボンを降しただけ、という話や、意図的な当局の摘発に乗ってしまったのだという話もある。ともあれ、このことが原因でドアーズのコンサートの多くはキャンセルされ、裁判の連続でバンドとしての活動は制限されることになった。シングルも“ウィッシュフル・シンフル/Wishful Sinful”が全米44位、“テル・オール・ザ・ピープル/Tell All the People”が57位、 “ラニン・ブルー/Runnin’ Blue”が64位止まりと不振に終わり、1967年7月にリリースされた4thアルバム ソフト・パレード/Soft Parade は全米6位には入ったものの散漫ともいえる出来となっていた。

ドアーズは1969年7月、シアトル・ポップ・フェスティヴァルに、また9月にはトロント・ロックンロール・リヴァイヴァル・ショーに出演。1970年4月にモリスン・ホテル/Morrison Hotel (全米最高位4位)をリリース。ミュージシャンとしても活動したフォトグラファー、ヘンリー・ディルツの撮った美しいジャケットとともに、内容の方も海外での評価が異常に高いアルバムであるが、日本でのそれはそれほどでもないという不思議な作品で、前作よりも硬質/暗めな印象を与える点やR&B/ブルース的なアプローチも垣間見られる点が特徴的な作品だ。シングルの“ユー・メイク・ミー・リアル/ロードハウス・ブルース You Make Me Real/Roadhouse Blues” 、モリスンの妻パメラに捧げられたとされる“ハイウェイの女王/Queen Of The Highway”などが収録されている。

この頃のステージの模様は、ジム・モリスン存命中唯一リリースされたライヴ盤 アブソルートリー・ライヴ Absolutely Live (1970年7月リリース、全米最高位8位)で聴くことができる。内容は1969年8月から翌1970年6月にかけてアメリカ各地のステージから収録されたもの。

1970年後半、結果的にオリジナル・ドアーズのラスト・アルバムとなってしまう作品を録り終えたバンドは、ニュー・オリンズでコンサートを行う。これがモリスンにとってのラスト・ステージとなった。

ポップ・スターとしての将来に疑念を抱いていたモリスンは詩作に専念するため、パリに渡った。1970年5月にシングル ”あの娘に狂って/ Love Her Madly”が全米最高位11位と久々のヒットを記録し、6月にはアルバム LAウーマン/L.A. Woman(1971年4月リリース)も全米9位を記録した矢先の死だった。7月3日、モリスンはパリのアパートのバスルームで心臓発作を起こし、27年間の短い生涯を終えた。彼はパリの墓地に埋葬されたが、当初秘密裡に埋葬されたこともあって(混乱を恐れての配慮だったという)、本当に死んだのかどうかということが疑われ、さまざまな憶測が飛び交った。このため今でも彼は生きている、と信じる狂信的なファンも居るという。その憶測を煽った要因のひとつには、発見者の妻パメラも1974年にヘロイン中毒で死亡したため、謎は一層深まった、ということもあった。

モリスンを失ったドアーズは新ヴォーカリストにストゥージズイギー・ポップを迎えようとしたが、うまくいかず断念。トリオ編成として活動を再開する。1971年11月アザー・ヴォイセズ/Other Voices、1972年7月、フル・サークル/Full Circle (ジャズ・サックス奏者、チャールズ・ロイドが参加)とアルバムを発表するも、後者の作品を最後に1972年正式に解散する。

解散後、クリーガーとデンズモアはバッツ・バンドButts Bandを結成するが、2枚のアルバムを残して解散。その後クリーガーはソロ・アルバムを数枚リリースした。マンザレクはソロ・アルバム Golden Scrab 驚愕のロックンロール空間 Whole Thing Started With Rock'n'Roll をリリースした後、第二のドアーズを狙ったナイト・シティを結成。70年代後期に2枚のアルバムをリリースしたが間もなく解散した。

1979年にはモリスンの詩の朗読やドアーズの未発表テイクに元メンバー達がバッキングを新たに付けた曲を収録したアメリカン・プレイヤー An American Prayer が話題を呼び、翌1980年にはモリスンの伝記『ジム・モリスン 知覚の扉の彼方に/ No One Here Gets Out Alive』 がベストセラーを記録。また同時期にリリースされた グレイテスト・ヒッツ Greatest Hits がプラチナ・ディスクを獲得するなど、この頃は再びドアーズが大きな話題となった時期だった。またこの頃、パンク以降のミュージシャン達、特にネオ・サイケなどと呼ばれた一連のバンド達によって、ドアーズ初期の鋭利で異色なサイケデリック・サウンドが再評価されたことも付け加えたい。

その後もアライヴ・シー・クライド Alive, She Cried (1983年10月リリース)、ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル Live At The Hollywood Bowl (1987年夏リリース)など過去の未発表ライヴ音源が陽の目を見たり、1991年にオリヴァー・ストーン監督の伝記映画 ドアーズ The Doors が公開されたり、といった話題があったほか、1991年にはアブソルートリー・ライヴ Absolutely Liveなど計3枚のライヴ・アルバムを再編集したイン・コンサート In Concertが発売されたり、 ドアーズ・ボックス・セット Doors Box Set(1997年)がリリースされるなど、ここ最近でもリリースのたびごとにジム・モリスン、そしてドアーズの再評価は繰り返されている。

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