David Gilmour
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David Gilmour (デヴィッド ギルモア) プロフィール

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1970年代から1980年代初頭までロック界の革新であり続けたプログレッシヴ・ロックの雄、ピンク・フロイド。そしてシド・バレットに続く第二のバンド牽引者だったロジャー・ウォータースが脱退し、1987年にウォータース抜きで再結成を遂げ、大規模なツアーで広く音楽ファンのニーズに確実に応える中で、より大衆的、商業的な成功を収め続けたピンク・フロイド。どちらもフロイドの歴史にとっては外せない部分だが、本稿の主役デイヴ・ギルモアが主導権を握り再結成をした後者のフロイドは、コアなロック・ファンにひどく評判が悪いことも事実である。そしてギタリストとしてのデイヴ・ギルモアもとうに全盛期を過ぎてしまっていることも、また認めざるを得ない事実なのである。だが彼の全盛期におけるロック、プログレッシヴ・ロックといったカテゴリーを問わない不思議なエモーションを持ったギターは今でも賞賛に値すべきものであるし、近年のUKギター・バンドの音に、どこかしらピンク・フロイド特有の、曖昧で独特の雰囲気を持ったサウンドともに鳴る叙情的なギター、といったものを見出せることも彼のギター・サウンドの評価を裏付けているのではないだろうか。

ここでデイヴ・ギルモアの簡単な経歴と彼の在籍するピンク・フロイドの歴史をご紹介しよう。デイヴ・ギルモアは1946年5月6日、イギリスのケンブリッジに生まれた。ギルモアがギターを弾き始めたのは14歳の頃で、ティーンエイジャーだった当時の彼はあちこちのロック系、フォーク系グループに参加してはギターを弾いていた。そんなギルモアがハイスクール時代に出会ったのが、あのシド・バレットだった(その後にバレットギルモアはフォーク・デュオを組んだことがあるという)。

1964年の暮れピンク・フロイドの母体であるシグマ6が結成される。メンバーはロジャー・ウォータース(g後にb)、ニック・メイソン(ds)、リック・ライト(key)の3人にクライヴ・メトカーフ(b)、キース・ノーブル(vo)、そして後にリック・ライト夫人となるジュリエット・ゲイル(vo)の6人である。何とかバンド名を変えながら活動を続けてはいたが、当時まだロンドンのリージェント・ストリート建築工芸学校の学生だったこともありまだまだ趣味の域を越えていなかった。しかし1965年の秋ロジャー・ウォータースの友人でキャンバーウェル・アートスクールに通っていたシド・バレット(g,vo)とボブ・クローズ(g)が参加し、5人編成でピンク・フロイド・サウンドと名乗るようになってから、ようやくクラブやパブに出演するようになる。当初はブルースやR&Bのカヴァーが主体だったが、やがてコード進行のみ決めて即興演奏を始めるようになり、新しいサウンドを模索し始める。こうした方向性に合わなかったボブ・クローズが脱退、4人編成となった彼らはバンド名を短くピンク・フロイドと改めた。

ピンク・フロイドシド・バレットが書く曲に比重を置くようになり、やがてUFOクラブでのライトショーやフィルムを使ったサイケデリックなステージが話題となり、1967年2月にEMIと契約、3月にはデビュー・シングル”アーノルド・レイン”をリリースした。この曲は歌詞が猥褻であることからBBCで放送禁止となるが、全英チャートで20位とまずまずのヒットを記録、6月リリースの2枚目のシングル”シー・エミリー・プレイ”は全英6位のヒットとなり、8月にはデビュー・アルバム 夜明けの口笛吹き がリリースされた。全英6位まで上がるヒット作となったこのアルバムは、ほぼシド・バレットの曲でかためられ、後にロジャー・ウォータースが語った「シド以外のメンバーは誰でもよかった」というようにこの頃のピンク・フロイドは完全にシド・バレットのワンマン・バンドだった。

しかしながらこうしたチャートでの成功でポップ・スターとして注目を浴びることにより、バレットは精神のバランスを崩してしまう。ドラッグに深入りし、奇行が目立つようになったバレットの当てにならないギター・パートを補うために、バレットの旧友であるデイヴ・ギルモア(g)が加入するのだった。そして5人編成となったピンク・フロイドでのライヴも数回行われたが、結局バレットの状態は悪化する一方で、それから僅か2ヶ月ほどしか経たない1968年3月、正式にバレットの脱退が発表された。この脱退は正式にシド・バレットがバンドをクビになったというものではなかった。単にバレットがバンド活動に顔を見せなくなってしまったのだった。そんな中、バンド加入以前、一時期は男性モデルとして生計を立てていたというデイヴ・ギルモアは、シドがいつ戻ってくるかもしれない、という状況ながら、この時点でピンク・フロイドの唯一のギタリストの座についたのだった。

デイヴ・ギルモアを正ギタリストに据え4人編成となった新生ピンク・フロイドは同年6月にシド参加曲3曲を含むセカンド・アルバム 神秘 をリリース。シド・バレット在籍時の歌詞中心のものからより空想的なサウンドを中心としたものへと変化しつつあったが、結局神秘 は全英9位まで上昇し、メンバーはバレット抜きでもやっていける自信をつけた。

1969年にはバルベ・シュローダー監督の映画のサウンドトラック モア 、アナログA,B面がライヴでC,D面がスタジオ録音しかも各メンバーがそれぞれリーダーシップをとった楽曲を入れた実験色の濃い2枚組大作 ウマグマ 、1970年にはミケランジェロ・アントニオーニ監督の 砂丘 のサウンドトラックを担当するなど、他のバンドとは一線を画すような作品のリリースが続いたが、1970年10月ロックとシンフォニーを融合させた歴史的な名盤として評価の高い 原子心母 をリリース。全英1位、全米55位のヒット作となりピンク・フロイドの名は一気に世界へと広まった。

1971年23分半の大作”エコーズ”を含む おせっかい 、1972年『モア のバルベ・ジュローダー監督の新作 「ラ・ヴァレ」のサウンドトラック 雲の影 と順調にリリースを続ける中、1973年3月ピンク・フロイド初のトータル・アルバム 狂気 をリリース。全英2位、全米1位となった本作は全米では以降1988年までの15年間(724週)アルバム・トップ200にランクインされるという驚異的なセールスを記録。リリースに合わせて行われた英米での機材総重量12トンというツアーも絶賛を浴び、ピンク・フロイドはスタジアム・バンドへの道を歩み始めた。

1975年狂気 の次回作ということで期待の高まる中リリースされた は、ロジャー・ウォータースシド・バレットに自分の姿を重ね合わせたスピリチュアルな内容だったが、それでも英米でNo.1を獲得し、フロイド神話は健在だった。1977年の アニマルズ 、1979年 ザ・ウォール はかつてのスケール感あるサウンドは陰をひそめ、より社会批判、文明批判的な要素が強まり、ピンク・フロイドはメッセージ性を重視したロジャー・ウォータース主導のバンドへと変化していく。こうした方向性から1982年リック・ライトが脱退、1983年メンバーが後に実質的にロジャー・ウォータースのソロ・アルバムだったと認める ファイナル・カット をリリースし、ピンク・フロイドは一時的に解散する。

各メンバーはソロ・アルバムをリリースするなどの活動を続けていたが、1985年デイヴ・ギルモアが再結成を呼びかける。脱退したリック・ライトは復帰するものの、ロジャー・ウォータースは参加を拒否、ギルモアメイスンライトの3人編成によるピンク・フロイドは1987年に 、1994年に をリリース。それぞれのリリースに合わせたライヴ・ツアーはよりスケール・アップされた内容で話題となるが、そこにはかつてのマジックはなく、2000年に1980〜1981年の録音による ザ・ウォール・ライヴ がリリースされたものの、新作リリースの噂は残念ながら聞こえてこない。

冒頭でも触れたが、デイヴ・ギルモアの、ある意味ソウルを感じさせるという表現を使ってもおかしくないブルース・ベースのウェットかつ英国人らしい叙情性に富んだギター・ソロは、ピンク・フロイドの実験性やロジャー・ウォータースによる文学性、神秘性を感じさせる歌詞とともにバンドのサウンドを決定付ける重要な要素だった。愛用のフェンダー・ストラトキャスターから繰り出される、テンション・コードやブルース・スケールを巧みに活用した独特のエモーショナルなプレイは、ピンク・フロイドの音楽に耳を傾けるリスナーの心の奥深い部分に入り込む。言うまでもなくピンク・フロイドは70年代を代表するロック・バンドであり、デイヴ・ギルモアは紛れもなく70年代ロックを代表するギタリストの一人なのである。

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