Blur

Blur (ブラー) プロフィール

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ブラーは1988年ロンドンで結成された(もともとはサリンジャーの小説に出てくる有名な主人公の名からとったシーモアというバンド名だった)。メンバーは、デーモン・アルバーン(ヴォーカル/キーボード:1968年3月23日生)、グレアム・コクソン(ギター:1969年3月12日生)、アレックス・ジェイムス(ベース:1968年11月21日生)、デイヴ・ロワントゥリー(ドラムス:1963年4月8日生)というラインナップ。デーモンとグレアムは幼馴染み。またアレックスとグレアムは、セックス・ピストルズのマネージャーで有名なマルコム・マクラレンが通ったこともあるという名門のゴールドスミス・カレッジで出会っており、そこにデイヴを加えて、ブラーの歴史が始まった。

彼らはギグを行ったり、デモ・テープを録音するうちに、1989年早くもフード・レーベルとの契約に漕ぎつけた。その後フード・レーベルの上役からのアドヴァイスもあり、バンド名をブラーに改めている。1990年10月にシングル“シーズ・ソー・ハイ”でデビュー。前年の1989年頃から表面化していたマンチェスター・ブームの名残も強い楽曲だった。その後1991年4月に2ndシングル“ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ“、7月に“バング”を発表した彼らは、デビュー・アルバム レジャー を1991年8月にリリースした。最近では、後に大ヒットしたイギリス映画 トレンスポッティング に使用されることになる“シング”が収録されていることでも知られるアルバムだ。ただし、このアルバム、今聴いても良い楽曲はあるものの、当時今ひとつ強い個性が無いように感じられたのも確かだった。ともあれアルバムはリリースされ、ブラーはライヴ・ツアーやプロモーション目的でアメリカを廻ることになったのだが、これが彼らに大きなダメージを与えた。イギリスでは女の娘の嬌声に包まれながらのライヴをし、メディアにもよく取り上げられていたブラーは、アメリカの広大さ、メディアの在り方などイギリス音楽シーンとの違いに面を食らい、そこで心身ともに疲れきってしまうのだった。また当時来日公演も行っているが、ライヴ評はさんざんで、セットに登ってみたり、悪ふざけをするほうに忙しかった彼らはちゃんと演奏を見せろ!といったような酷評を受けている(後にメンバー自身が語ったところによると、あの時は空港からライヴ会場へ直行というようなムチャなスケジュールが組まれていてまともに演奏できる状態ではなかった、とか)。

アメリカへのプロモーション・ツアーで心身ともにダウンした彼らは、やや沈黙した。そして1992年3月のシングル“ポップ・シーン”発表(これはオリジナル・アルバム未収。日本盤にのみ収録された)を経て、遂にブラーが真価を見せつける作品をリリースする時がきた。1993年4月、2ndアルバムからの先行シングル“フォー・トゥモロー”をリリース。そして名作 モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ を5月に発表。ちなみにその直前にスウェードデビュー・アルバムを発表しており、奇しくも英国式ポップの伝統というものが、この時期改めて見直される時期となった。ブラーの場合には1stアルバムのツアーで伴った苦痛から生まれた反動的な作品ともいえたが、内容は有無を言わせぬ出来となっていた。この作風はマンチェスター・ムーヴメント衰退後に、唯一全国的な動きとなった 「ブリット・ポップ」なる英国産ムーヴメントに繋がっていく(これ以外には米国勢と共振したグラスゴー勢などにしか見るべきものはなかった)。2ndアルバムからは“ケミカル・ワールド” 、 “サンデイ・サンデイ”の2枚のシングル・カットがあった。

一躍英国を代表するバンドに近づいたブラーのダメ押しともいえる作品が、1994年3月にリリースされた先行シングル“ガールズ&ボーイズ” と3rdアルバム パーク・ライフ 。このアルバムは当然の如く全英チャート一位を記録、ここで確かにブラーは英国ポップ・バンドの頂点に立った。世紀末の狂騒を描いたエレ・ポップ・ディスコといった感じの作品は、1994年時点のイギリスの気分を最も反映していたのかもしれない。5月に“トゥ・ジ・エンド” 、8月に“パーク・ライフ” 、11月に“エンド・オブ・ア・センチュリー”をシングル・カット。またこの年、ヴィデオ“スターシェイプド”やシングルB面曲を中心に集めたコンピレーション ブラー・プレゼンツ・ザ・スペシャル・コレクターズ・エディション のリリースもあった。

1995年、アレキサンドリア・パレスでのライヴを収めたヴィデオ ショウタイム をリリース。またこの頃から英国トップ・バンドとしてのブラーは、ゴシップネタや挑発的な記事を書かれたりといったことにも遭遇するようになっていた。デーモンの、当時の彼女であったエラスティカの女性ヴォーカル/ギター、ジャスティーンとのことが書き立てられたり、ブラーより後にデビューし、飛ぶ鳥を落とす勢いだったオアシスとの確執が煽られたりなど…。遂に8月そうしたメディアによる狂騒劇を象徴する出来事が起こる。ブラーのニュー・アルバムからの先行シングル“カントリー・ハウス”とオアシスのシングル“ロール・ウィズ・イット”の売上対決。イギリスの音楽メディアはこぞってこの対決を煽ったが、結果ブラーが勝利。ただしオアシス陣営はブラーのほうは英国で慣例となっているCDシングル1と2の売上を足したものだからフェアーではない、と反撃した。そして続く両者のニュー・アルバム対決。ブラーは9月に ザ・グレイト・エスケープ を、オアシスは10月に モーニング・グローリー をリリース。ブラーの作品には前二作にあったような驚きの要素は少ないものの、ここで安定したものを作ってきたとも言え、実際に全英チャートの一位を記録してはいるが、それ以上にオアシスのアルバムが前作よりも一段とポップになっていたため、結局オアシスの2ndはロングセラーとなり、結果的にアメリカでも成功したオアシスの勝ち、という情勢で彼らの対決は幕を閉じたのだった。この「ブリット・ポップ騒ぎ」は、今振り返ると茶番だったといっていいだろう。90年代が終わる頃、音楽ファンは皆、あの現象は、ビートルズローリング・ストーンズ、あるいは労働者階級対中産階級といった英国メデイア特有のお遊びに過ぎず、結局オアシスにしてもブラーにしても挫折を味わうことになったんだな、と気付くのだった。ただしプラスの面が全くなかったというわけではなく、よりポップでソングライティングを重視した作風がシーンの主流となり、メロディの復権というべきものが起こったことは特筆してもよいだろう。一方で英ロック界ではベタっとしたドンくさいリズムが支配的となり、テクノやドラムンベースにしかリズムのオモシロさを追求するアーティスト達が集まらなくなったというのは弊害だが。ともあれ話を戻すと1995年11月にブラーはアルバムから“ザ・ユニヴァーサル”をシングル・カット。またこの年のブリット・アウォードでベスト・シングルなど7部門を制覇しており、オアシスのロングセラーによる成功とは無関係に、当時の評価をオアシス以上にモノにしていたことは事実である。

1996年は2月に“ステレオタイプス” 、4月に"チャームレス・マン“というふたつのシングルをカット。また日本限定で95年の来日ライヴを収めた ライヴ・アット・武道館 もリリースしたが、ブラーのバンドとしてのおもてだった動きは少なかった。その裏ではオアシスが英プレスを相手にバカ騒ぎを繰り返していた。

1997年、ブラーはある意味、自らが先導したブリット・ポップの終焉を告げるかのような作風のシングル“ビートルバム” (1月)とアルバム ブラー (2月)を発表。これはグレアム・コクソンの米オルタナ趣味がバンドの方向性を決定づけたともいえるアルバムで、それまでのシニカルではあるもののサウンド的にはごく真っ当なポップ・バンド、というブラーの個性を逸脱した感触すら携えていた。そうした感触を集約したかのようなシングル・カット曲“ソング2”を4月にリリース。6月に“オン・ユア・オウン” 、9月に“M.O.R.”と矢継ぎ早にシングルをリリースしていった。この頃、英メディアの寵児となっていたのはオアシスヴァーヴだが、ブラーはそうしたものと巧く距離をとることで、自らの内に問い掛け、自らの音楽と向き合うような作品を作っていったのだった。

1998年はグレアムとデーモンがお互いにソロ活動を活発化させる。グレアムはこの年デビュー・ソロ・アルバム“スカイ・イズ・トゥー・ハイ”を発表。デーモンはコーネリアスのリミックスなどをはじめ、テクノ〜音響系への興味を示しだしていた。それと繋がってくるのが、当初日本だけでリリースされたリミックス集 バスティン+ドローニン でこれもこの年にリリースされている。

1999年2月にアルバムからの先行シングル“テンダー”を発表。エラスティカのジャスティーンと別れたデーモンの心境が反映されている、とも噂された同曲は、それまでの音響的な試みや、大らかなルーツ音楽へのアプローチ――ゴスペル風コーラスを伴ったスピリチュアルな空気感――などが含まれている作品だった。そして3月に6thアルバム 13 を発表。これは前作からの米オルタナ趣味に加え、音響的なサウンド構築をも見据えた力作に仕上ったが、本国イギリスではいまひとつのセールスに終わったようだった。6月に“コーヒー&TV” を、11月に“ノー・ディスタンス・レフト・トゥ・ラン”をシングル・カット。またこの年デビュー10周年を迎えた彼らは、10周年記念シングル・ボックス・セットをリリースしたり、ロンドンで記念ライヴを行うなど、区切りをつけるような活動も行っている。

2000年になると、“ノー・ディスタンス・レフト・トゥ・ラン”のメイキング・ヴィデオ等を収めたDVDがリリースされ、そしてグレアムがソロ二作目、ゴールデンDをリリース。そして秋にベスト盤と、その中に新曲として収録されるシングル ミュージック・イズ・マイ・レイダーをリリース(グレイテスト・ヒッツ選曲のDVDも先に予定されている)。昨年の活動に続き、改めて自らの活動に区切りをつけた。

そしてデーモンは2001年、ヒップホップ界の奇才ダン・ジ・オートメーターチボマットの羽鳥美保らが参加するソロ・プロジェクト、ゴリラズを結成。二次元から飛び出したアニメ・キャラ達という設定とキッチュな音楽性が受けて、悲願であったアメリカでのブレイクも果たした。またその翌年には以前から温めていたアイデアであるアフリカはマリのミュージシャンとのコラボレイト、Mali Musicをリリースした。そしてそれらの課外活動が今後のブラーの活動に大きく影響を与えたのであった。

そして2003年。以前から伝えられていた通り、グレアム・コクソンがバンドを脱退。幾度となく訪れたバンド崩壊の危機を乗り越えたブラーはアルバム、シンク・タンクを発表した。ここ数作におけるサウンド・メイキングでの中核を担っていたグレアムの離脱はバンドにとって余りにも大きな損失だが、ブラーは新たな一歩を確かな手ごたえで踏みしめている事だろう。シンク・タンクはデーモンの課外活動が大きくフィードバックされた感動的なまでの大傑作だから…。

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