Billy Joel | プロフィール | CD、DVD、ブルーレイ(BD)、ゲーム、グッズなどを取り扱う【HMV&BOOKS online】では、コンビニ受け取り送料無料!国内最大級のECサイトです!いずれも、Pontaポイント利用可能!お得なキャンペーンや限定特典アイテムも多数!支払い方法、配送方法もいろいろ選べ、非常に便利です!
Billy Joelが批評家のお気に入りだったことはまず無いが、ピアニストとして出発した後、70年代後半には稀代のシンガー・ソングライターとして頭角を現している。Billy Joelの音楽はBeatlesへの思慕が常に感じられるようなノリとTin Pan Alleyやブロードウェイの影響が色濃いメロディが核になっている。Joel は70年代・80年代に黄金期を迎えており、この2つの時代に相当数のプラチナディスクやヒットシングルを獲得してスーパースターとしての地位を築いた。
Joelは1965年、まだ16歳でThe Echoesのメンバーだった頃にレコーディングセッションに参加するようになる。JoelはGeorge Shadow Mortonがプロデュースしたレコーディング何件かでピアノを弾いており、往年のヒット曲Shangri-LasのLeader Of The Packや、Kama Sutra Productionsから出ているレコードでも彼の演奏が聴ける。この頃The Echoesは既に数え切れないほどのレイトナイトショーで演奏するようになり、1965年後半には1度The Emeraldsに、そして2度目はthe Lost Soulsに名前を変更している。
1971年には音楽に立ち戻り、Family Productionという会社と「一生涯」の契約を結ぶ。この時契約についてはまるで何もわからなかったJoelだがこの「生涯契約」が後に打撃を与えるようになる − 同プロダクションはJoel がこの時から1980年代後半まで出したアルバム1枚1枚の印税を全て得ているのだ。とにかくJoelは心機一転、センシティブなシンガー・ソングライターとしてデビューアルバム「Cold Spring Harbor」を1971年11月にリリースする。しかしマスタリングの失敗でテープが2回転ほど速いスピードで録音されてしまっており、アルバムはこの状態で1984までリリースされていた。このアルバムリリース後Joelは小規模なツアーに出たが、ライブはたいていスタンドアップコメディ的な展開に陥ってしまうことが多く、Joelは自身のパフォーマンスにもアルバムの出来にも不満を覚えていた。しかしFamily Productionが法的・財務的に厳しい状況にある中、次のアルバムを製作することもままならなかった。
Joelは1972年にガールフレンドのエリザベスとともにLAへ渡り、Bill Martinという芸名を使ってThe Exective Roomでラウンジピアニストを半年ほど務めた。年末頃になると全国ツアーを開始し各地のナイトクラブなどで演奏した。1973年初めにエリザベスと結婚、またラジオ局ではJoelがかつてフィラデルフィアのラジオ局でライブ録音したCaptain Jack をプレイし始めるようになった。この音を聞きつけたレコード会社各社はこぞってJoelに契約を打診、最終的にColumbia がJoelを獲得した。しかしColumbiaは契約する際Family Productionsに対しアルバム1枚ごとに25セント支払い必ずthe Family and Remusのロゴをジャケットに印刷することを合意させられるハメになった。
1973年末、Billy JoelのColumbiaからのファーストアルバム「Piano Man」がリリースされじわじわチャートを上昇し、1974年の春には27位を記録した。タイトル曲はJoel自身がExecutive Roomで演奏していた時の様子を綴ったものだが、これがTop40シングルになった。同年夏の終わりにはツアーバンドを組んで全国ツアーを展開、J.Geils BandやDoobie Brothersの前座を務めた。同年末には2枚目のアルバム「Streetlife Serenade」を発表、1975年にチャートの35位を記録した。このアルバムの成功後JoelはJames William GuercioとLarry FitzgeraldのマネジメントCaribou社と契約を締結、LAからニューヨークに戻った。
1976年リリースのアルバム「Turnstiles」でJoelはこの時戻ったことを「Say Goodbye to Hollywood」や「New York State of Mind」で歌っている。しかし同アルバムの製作は長期間に及び、膨大なストレスの中JoelはプロデューサーのGuercioを解雇、途中から自らアルバムをプロデュースした。Guercio解雇と同時にCaribouを辞めたJoelは妻のエリザベスを新マネージャーとして起用した。こうやってリリースされた「Turnstiles」は結局チャートの122位程度でストップし、失敗に終わる。
次のアルバムがいよいよ正念場となったJoelは「The Stranger」を製作、このアルバムで真のスーパースターにのし上がった。「The Stranger」は1977年秋に発表され年末までにはチャートの2位まで上昇しプラチナディスクを獲得。そしてリリース1年の間にTop40ヒットシングルをいくつも産み出した。「Just the Way You Are」はグラミー賞を獲得、「Movin' Out (Anthony's Song)」、「She's Always a Woman」、「Only the Good Die Young」といった曲も次々ヒットに。これ以降20年間も同アルバムは売れ続け、合計7百万枚ものセールスを記録するに至った。
1980年春、Joelは新アルバム「Glass Houses」をリリース。内容的にハードエッジなこのアルバムはその頃全盛期を迎えていたパンクやニューウェーブに対するJoelなりの回答という作りになっている。アメリカでは6週連続でチャートNo.1を記録、またもや次々とTop40ヒットを放つ:「You May Be Right」(7位)、「It's Still Rock'n'Roll to Me」(1位)、「Don't Ask Me Why」(19位)、「Sometimes a Fantasy」(36位)。そして再度グラミー賞に輝き、今度はベストロック男性ボーカル賞を受賞している。
翌年にはライブアルバム「Songs in the Attic」を発表、1977年にスターになる以前の曲を中心とした構成で、このアルバムバージョンの「Say Goodbye to Hollywood」と「She's Got a Way」がTop 40ヒットになっている。ライブアルバムを出すことで、本格的なシンガー・ソングライターとしての評価を得たがっていたJoelは渾身の作品を制作する時間を得る。がしかし製作中にバイク事故で手首を骨折、大手術を受けなければならなかった。
1982年7月に妻のエリザベスと離婚、秋にはニューアルバム「The Nylon Curtain」がついにリリースされた。団塊の世代と彼らの経験についてのコンセプトアルバムとなった本作品は商業的には百万枚のみのセールスで失敗に終わったが、これまで散々だった批評家のレビューが随分ましになっていた。それと同時に「Pressure」と「Allentown」というTop20ヒット2曲を産出している。その後Joelは1983年にオールディーズの影響濃いアルバム「An Innocent Man」を発表、遂にマルチプラチナを獲得する。アルバムは合計で7百万枚以上のセールスを記録し、「Uptown Girl 」(3位)、「Tell Her About It」(1位)、「An Innocent Man」(10位)、「Keeping the Faith」(18位)といったスマッシュヒットを次々と出した。このアルバムがリリースされる頃にはアルバム中数曲の題材になっていた当時のトップモデル、Christie Brinkleyと婚約。
1983年・84年には70年代のスターとしては初めてMTVやミュージックビデオをまともに扱うアーティストとなり、アルバムから出たシングルのビデオはMTVで頻繁にかけられることとなった。1985年にはBrinkleyと結婚、同年夏にGreatest Hits Vol.1 & 2という2枚組ベストアルバムをリリースした。ベストアルバムには「You’re Only Human」と「The Night Is Still Young」という新曲を追加して出されたがどちらもTop10ヒットに、更にアルバム自体も1,000万枚を超える売上を記録した。