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Bee Gees (ビージーズ) プロフィール

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60年代後半から、美しいハーモニーを特徴としながら、メランコリックなメロディを聴かせるポップス・グループとして人気を獲得し、その後70年代後半には“ステイン・アライヴ”などに代表されるディスコ・サウンドで一世を風靡した人気グループ、ビー・ジーズ。彼らが過去に作り上げた親しみ易いサウンド、名曲はことあるごとに再評価を受け、また同時に90年代以降も幾つかの印象深いヒット曲を放つなど、現役のグループとしても大きな存在感を示している。

ビー・ジーズのギブ兄弟は、英マン島のダグラスで生まれた。長男のバリーは1947年9月1日生まれ、そして双子の兄弟であるロビンとモーリスは、1949年12月22日生まれ。彼らはその後マンチェスターに移り、少年時代を過ごしている。バリー9歳、ロビンらが7歳の頃、彼らはいわゆるタレント・コンテストに出場する一方で、アマチュア・ロック・バンド、ザ・ブルー・キャッツを結成したりして早くも初舞台を踏むなど、当時からショウビズ世界の一端に触れていたようだ。

その後、1958年に年に末っ子のアンディが生まれると、直後にギブ家族はオーストラリアに移住する。そしてギブ兄弟はここでデビューのチャンスに早くも恵まれる。カー・レース場のステージに立った彼らは、レースの合間に歌を歌う仕事をしていたが、レース場のオーナー、ビル・グッドがデモ・テープを友人のDJビル・ゲイツに渡したことで、彼らの歌がラジオで流れたのだった。これを機に彼らのラジオ番組への出演や、テレビのレギュラー出演が決まった。因みにビー・ジーズのグループ名の由来は、グループの恩人であるビル・グッド、ビル・ゲイツ、そして長男のバリー・ギブのイニシャルにひっかけてつけられたという逸話がある。

1963年ごろ、テレビのレギュラーで人気の高まっていた彼らは、フェスティヴァル・レコードよりデビュー・シングル“3つのキス”を発表。これはオーストラリア国内でトップ20内に入るヒットとなっている。その後、“スペックス&スペックス”、“アイ・ワズ・ア・ラヴァー・アンド・ア・リーダー・オブ・メン”などのヒットを放った彼らは、1966年にはオーストラリアで最優秀グループに選ばれるなど、地元オーストラリアでは押しも押されぬナンバーワン・グループとなっていった。

しかし1967年、オーストラリアで10枚ものシングルをリリースし成功を収めていた彼らは、突如イギリスに戻ることを希望。結局両親を説得した彼らは再びイギリスへ戻って暮らすこととなった。やがてロンドンでオーディションを受けた彼らは、当時としては破格の25万ドルという高額で契約をものにし、デビュー・アルバム ザ・ビージーズ・ファースト を同1967年に発表。当初のメンバーは、ギブ三兄弟に、ドラムのコリン・ピーターセン、ギターのヴィンス・メロニー(両者ともオーストラリア人)という五人組だった。このデビュー作からは“ニュー・ヨーク炭坑の悲劇”、“ラヴ・サムバディ”、“ホリデイ”がヒット。この時点でティーン・ポップ・アイドル的な人気を得たのだった。1968年にはセカンド・アルバム ホリゾンタル(Horizontal)を発表。初期の代表曲として知られる“マサチューセッツ”などがここからはヒットし、またその後、“獄中の手紙”や、“ジョーク”といったトップ10ヒットも生まれた。ワールド・ツアーに出るようなスーパー・スター・グループとしての足がかりをここで早くも掴んだビー・ジーズ。しかし1968年12月コリン・ピーターセンの脱退、翌1969年にロビンがソロ・シンガーを志望し脱退、と裏ではかなりメンバー間の諍いも絶えなかったようだ(この間にサード アイディア(Idea) (1968年)、 オデッサ(Odessa)(1969年)の二枚のアルバムが発表されている)。結局、ビー・ジーズはバリーとモーリスの二人で活動していかざるを得なくなったのだった。

1970年に発表された キューカンバー・キャッスル(Cucumber Castle) はバリー&モーリスの二人だけで作られたが、セールス的には不発に終わる。そうしたこともあってこの直後、二人はソロ活動への準備にとりかかったと言われている。しかし結果的にはソロ・アルバムを発表していたロビンが、二人の和解に応じ、ビー・ジーズは新ためてギブ三兄弟による三人組として活動していくことになる。1971年に新生ビー・ジーズとしての再スタート作 ロンリー・デイ(2 Years On)を発表。彼ら独自のヴォーカル・ハーモニーとメロディ・ラインの美しさが出た同作からは表題曲“ロンリー・デイ”がヒット、また次作の トラファルガー(Trafalgar) (同1971年発表)からは“傷心の日々”が全米ナンバーワンに輝くなど、ビー・ジーズ復活を印象付けた。

1973年、ビー・ジーズはアトコ・レーベルから、彼らの英国デビュー時の恩人であり、プロデューサーだったロバート・スティグウッドが設立したRSOレコードに移籍。その第一弾となるアルバム ライフ・イン・ア・ティン・カン(Life In A Tin Can)を1973年に発表。これは初の米国録音で、ジム・ケルトナー、スヌーキー・ピートらが参加している。

その後ビー・ジーズのサウンドに変化が見られるとうになったのは1974年発表の ミスター・ナチュラル(Mr. Natural)の頃のこと。これはロバート・スティグウッドが、アトランティックの大物プロデューサー、アリフ・マーディンにプロデュースを依頼して制作された作品だが、アリフ・マーディンは次作の メインコース(Main Couse)もプロデュース。これまでのビー・ジーズ・サウンドの特徴だったハーモニーの美しいメロディ主体の音楽性を損なうことなく、リズムをより前面に出した作風を打ち出したのだった。“ジャイヴ・トーキン”、“ブロードウェイの夜”といったシングル・ヒットを放った彼らは、かつてとは異なる音楽性で成功をものにすることに成功した。

メインコースで成功した彼らは、次作もアリフ・マーディンに依頼しようとしたが、RSOレーベルがアトランティックからポリドールの配給へ変更された関係で、アリフ起用は叶わなかった。しかし代わりにメインコースの制作スタッフ、アルビー・ガルテン、カール・リチャードソンを起用し、1976年に チルドレン・オブ・ザ・ワールド(Children Of The World)を発表。この作品は前作メインコースのディスコ・サウンドを更に推し進めた作風で、彼らの大きな転機となる作品となった。シングル“ユー・シュッド・ビー・ダンシング”、“偽りの愛”が大ヒットを記録。そして前作からの成功を駄目押ししたともいえるのが、ご存知、1977年発表の サタデイ・ナイト・フィーヴァー のサウンドトラック(Saturday Night Fever Soundtrack)だ。ロバート・スティグウッドがプロデュースした同作品にビー・ジーズは4曲で参加。イヴォンヌ・エリマンが歌ってヒットとなった“アイ・キャント・ハヴ・ユー”に、“愛はきらめきの中に”が当初から収録予定となっていた楽曲だったというが、ロバートに映画の内容を聞いたビー・ジーズは、よりダンサブルな曲が必要だと感じ曲作りに向かったといわれている。

ジョン・トラボルタ主演の サタデイ・ナイト・フィーヴァー が空前の大ヒットとなったこと、またそのサントラ盤も大きなヒットとなったことはここで改めて説明するまでもないだろう。“愛はきらめきの中に”のナンバーワン・ヒットに続き、あの“ステイン・アライヴ”、“恋のナイト・フィーヴァー”が連続してナンバーワンに輝いたのだった。

1979年サタデイ・ナイト・フィーヴァー の大ヒットによるプレッシャー下で発表されたアルバム 失われた愛の世界(Spirits Having Flown) を発表。しかしビー・ジーズはここでも“失われた愛の世界”、“哀愁のトラジェディ”、“ラヴ・ユー・インサイド・アウト”などをヒットさせ、前作の“愛はきらめき〜”からシングル6曲が連続して全米ナンバーワンという金字塔を打ちたてたのだった。またアルバムとして同作品は、彼らにとって初の全米ナンバーワン・アルバムとなった。

だが彼らの全盛期はやはりここで一旦終わった。1981年発表のリヴィング・アイズ(Living Eyes) 、1987年発表のE.S.P.(E.S.P.) 、といったところは、彼らの意欲的な面を見せた作品ではあったが、ヒットには縁遠い存在だった。あまりにも強烈なヒットを放ってしまったグループにつきものの後遺症というべきかもしれない。ただ内容的には彼らギブ三兄弟の持ち味であるハーモニーとメロディ・ラインの美しさは不変だったのだから。

しかしそうした状況の80年代が終わろうとしていた頃、ビー・ジーズは再び音楽シーンにヒットを送り込む存在として復活してきた。シングル曲“ユー・ウィン・アゲイン”が10年ぶりとなる全英ナンバーワン。また同曲を収録した ONE(One) (1989年発表)は全米でもトップ10入り。またその後のアルバム、1991年発表 ハイ・シヴィラゼイション(High Civilization)からも“シークレット・ライフ”が全英トップ5に入るヒットを記録。久しぶりに健在ぶりをアピールした。

この後ビー・ジーズは古巣ポリドールへ移籍。1993年には通算30作目となる サイズ・イズント・エヴリシング(Size Isn't Everything)を発表。その後1997年に スティル・ウォーターズ(Still Waters) 、翌1998年に ワン・ナイト・オンリー(ライヴ)(One Night Only - Live) 、そして2001年に ディス・イズ・ホエア・アイ・ケイム・イン(This Is Where I Came In)を発表したのはまだ記憶に新しいところだ。

ここ日本でも、冒頭に触れたようにビー・ジーズ再評価の波が90年代にあった。その主なものは初期の“メロディ・フェア”や“若葉の頃”などがTVCFやドラマ主題歌に使用されたことに端を発していた。普段洋楽を聴きなれない不特定多数のリスナーに、ラジオ、TVなどの媒体でアピールできたということは、彼らの楽曲が普遍的なポップスの魅力を持っているという証拠。また海外ではN-トランスが“ステイン・アライヴ”を、ほとんど原曲の形を損なわない形で、現代風のアレンジにしてヒットを放ち、ビー・ジーズのディスコ・サウンドの魅力が普遍であることを伝えていたことも付け加えておこう。

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