20世紀初め、北海道の奥地への入殖・開拓を行うにあたり、当初、交通手段は馬のみという状況であったが、のちに軌間762mmの軽便鉄道(殖民軌道と称される)が各地に敷設されることなる。1925年5月の厚床-中標津58kmの開通を皮切りに、1946年には総延長が600kmを越え、各地の開発に貢献した。1960年代後半に入り、これらの軌道は廃止され、最後に残った茶内線が1972年5月1日に廃止された。本書は、首都圏に住み、会社務めしながら、何度も北海道を訪問しては自転車で殖民軌道の廃線跡を辿る著者による旅行記。文章は、とてもテンポが良く心地よい。説明的なものは、極力量を抑え、その一方で著者の見ているものや感じていることは簡潔によく伝わる。主体的なテイストを与えるレトリックも巧い。もちろん、文章を書く能力というのは、私もそうだけれど、ある程度社会組織に身を置く機会があれば、否が応にも身につけなくてはならないものだ。プレゼンテーションなど人にアピールすることも求められるから、大抵の人にとって「表現する」ことは、それなりに習得する能力ではある。しかし、それに加えて、味わいやユーモアを交え、読み手に悦楽を感じさせるとなると、これは作家としての能力があるということになる。著者は、本書が初めての著作ということだが、それを感じさせぬこなれた自己流の表現を使う。著者の経歴、余技には収まらぬ文章の能力、そして根底にある鉄道への愛といったものは、宮脇俊三氏を彷彿とさせる。著者が若いころから、殖民軌道に特別な気持ちを寄せていたことは、本書の全体からじわじわと伝わるのだけれど、彼はそれをくどくどと説明することはしない。登山家ジョージ・マロリーの「そこに山があるから」の言葉の通り、「趣味世界における説明することの無意味さ」を文学的に体現する。私はそれが良いと思う。人によっては、なぜそれほど惹かれるのか教えてほしい、と感じるかもしれない。けれども、説明することが、無理解と誤解を増長させるだけになることはよくある。「理解しがたいもの(人)」の場合、特にそうだ。しかし、本書を読めば、理由は分からなくとも、そこに喜びを感じるという氏の気持ちは、よく伝わる。そういう風になっている。さらに面白いのは、ときどき天気だとか、その他の理由で何かうまく進まない事態に直面したとき、ふと「自分は何をやっているんだか」といった我に返る俯瞰視点がしばしば顔をのぞかせるところである。これも、私たちのような趣味の人間には、ときどき心に舞来るもので、その正体が自分の本心なのか、それとも社会への従属のため教育とかによって埋め込まれたものなのか、よくわからない。けれど、そんな瞬間が過ぎたら、私たちは、すぐ趣味の世界に戻る。なぜか?・・「わかりません」。わからないから素晴らしい、と思いましょう。私は、ヘンリー・ソローのことばを思い出す。「人は自分自身の幸せの考案者である」。ところで、最初にちょっと紹介したけれど、殖民軌道の歴史などについてまとめた資料はきわめて乏しい。運よく町史などに編算されるものもあるが、その記述内容はごく一面的なものに限られている。旧地形図を見ることで、せめてその線形を知ることはできるが、地形図にさえ記載されなかったものもある。その姿をそれと分かる形で伝えるものは極めて限られている。しかし、著者は現地での人との触れあいから、様々な貴重な情報を引き出していく。例えば日高地方にあった貫気別の殖民軌道、これは他のどの鉄道線とも接続していないという点で、きわめてユニークな存在なのであるが、現在まで、その軌道がどこを通っていたのか、明確に示す資料は存在しない。しかし著者は様々な情報を交え、廃線跡を見出し、本書では地勢図に書き込む形でその線形を甦らせてくれている。これ自体が貴重なものに違いない。著者の淡々とした文章は、時として北海道の厳しい現状をも示す。あとがきに以下のことが記されている。「(本書執筆の過程で)弟子屈で泊まったホテル慶楽荘や養老牛温泉の花山荘は、もう旅館は閉鎖されていることも知り、北海道の厳しさをあらためて知らされることにもなりました。今日や昨日の経済混乱にかかわらない、北海道であるがゆえの特別な厳しさをつくづく思います。実際に北海道の山間や海辺の、あるいは平原のなかの集落を回っていると、明治以来の、その時々の生産力強化政策のもとに、多くのお金と多くのひとびとの労苦・犠牲を注ぎこんできり拓いてきた北の大地が、いまはもう見切りをつけられて、ひょっとすると蝦夷地だった昔に戻ってゆくのか、との恐怖感にとらわれそうになったりすらします。これは私もよく思うこと。北海道はかつて「国外地」であった。少なくとも江戸幕府のころは、現在の八雲町の山越に関所を設け、「ここより北は幕府の管轄外地」としていたのである。その後、明治期の入植から、先人たちの想像を絶する苦労の末に切り開かれた土地が、わずか百数十年を経て、各地で荒廃し、次々と元の山野に戻ろうとしている。何年かぶりで同じ場所を訪問すると、宿がなくなっている、駅がなくなっている、店がなくなっている。それだけでなく、集落がなくなり、生活基盤そのものが根こそぎ失われている。北海道という土地自体が、ごく一部の例外を除いて、見捨てられ打ち捨てられていく。莫大な労苦により、その地を切り拓いた人たち、その土地を守ってきた人たちが、時代の変遷と統治者の都合で、あっさりと捨てられようとしている。その残酷な現場の数々を目にする。本書を読んで、自分が愛する北海道が、それでもぎりぎりその姿を保つのは、あと何年のことだろうと、ふと思う。まるで、廃線跡や廃墟を探訪していて、急に「我に返る」みたいに。しかし、そうは言っても、その残り香を可能な限り楽しみたいと思う。それと、著者には、ぜひとも続編の執筆をお願いしたい。