ジョーゼフ・クラーク・グルー

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滞日十年 下

ジョーゼフ・クラーク・グルー

Product Details

ISBN/Catalogue Number
ISBN 13 : 9784480094025
ISBN 10 : 4480094024
Format
Books
Publisher
Release Date
October/2011
Japan
Co-Writer, Translator, Featured Individuals/organizations
:

Product Description

かくして日米は戦端を開

知日派の駐日大使グルーは日米開戦の回避に奔走。下巻は、ついに日米に戦端が開かれ、1942年、戦時交換船で帰国するまでの記録。

Content Description

1932(昭和7)年、グルーはアメリカの駐日特命全権大使として赴任する。このころの日本は、世相は暗く、満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と、ひたすら戦争への道を歩んでいるかのようであった。知日派として知られたグルーは、日本の多くの人々と交わり、日米関係の悪化を食い止めるべく奔走する。しかしその甲斐なく、1941(昭和16)年12月、日米はついに開戦へと至ってしまう。本書は、その間の経緯を、当事者のみが語りえる迫真の描写によって、克明に記録した昭和史の一級史料。下巻は、日米交渉行き詰まり、ついに日本の真珠湾奇襲の日をむかえ、翌年帰国するまでを収録。

目次 : 第5章 一つの世界と二つの戦争(一九三九年十月十日‐一九四一年十二月七日)/ 第6章 一つの世界と一つの戦争(一九四一年十二月八日‐一九四二年五月三十一日)

【著者紹介】
ジョセフ・C・グルー : 1880‐1965年。ハーバード大学卒業。アメリカの外交官。夫人アリスはペリー提督の兄の曾孫。ロシア、ドイツ、デンマーク、スイス、トルコなどに駐在。1924‐27年国務次官。32年6月、特命全権大使として日本に着任。以後10年にわたり日米の緊張緩和に努めるもかなわず、42年戦時交換船で帰国。帰国後国務長官代理などを務め、日本の戦後処理構想を立案、天皇制の存続や原爆投下反対を進言。戦後も日米親善に尽力

石川欣一 : 1895‐1959年。東京帝国大学英文科中退、プリンストン大学卒業。ジャーナリスト、翻訳家、随筆家。訳書にブルックス『アメリカ文学史』(日本芸術院賞受賞)ほか(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(「BOOK」データベースより)

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Book Meter Reviews

こちらは読書メーターで書かれたレビューとなります。

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  • り こ む ん

    アメリカ人特有の比喩と文学的表現が読みにくいものの、太平洋戦争へと突入する前の日本とのやり取りは(抜粋)貴重な資料だと思う。読んでいて思ったのは、日本の気分は戦国時代へ戻ってしまったのではないか?そんな感想をもつ。特に戦争勃発後の日本の大使館の扱いは、稚拙すぎる。明治で近代化、近代戦争を乗り越え…その時は外国に憧れ追い付け追い越せで国を作っていたけれど、ある時、前進が後退に変わっていた。日本の価値観に世界が合わせる事が当然的な態度。

  • てれまこし

    やはり開戦前夜これをなんとか回避しようとギリギリのところで折衝をするのが本書の山場。だが日米双方からの努力にも拘らず溝は埋まらなかった。興味深いのは、そうした親米勢力は西園寺とか牧野のような「年寄り」ばかりで(天皇も新英米だと思ってる)、「若手」の台頭によってこうした自由主義勢力は無力になってると分析してる。というか日本人からそう聞かされてる。国家の家父長たちの権威が失墜してた。国際協定や慣行をまったく考慮しない警察や軍の蛮行も、どうやらそうした下剋上の反映だ。どうやら戦争には祝祭的雰囲気が伴ったらしい。

  • フンフン

    グルー大使の度重なる進言にもかかわらず、国務省は日米首脳会談を拒否した。日米親善に尽力したグルー大使の滞日十年の苦闘むなしく、日米戦争は始まってしまった。

  • Hotspur

    下巻。やはり必読文献。「東京では、日本が米国と断交する場合、大挙して真珠湾を奇襲攻撃する計画を立てているという意味の噂が、さかんに行われている。」これは1941年1月27日の記述。「米国の国家的正気さはかかる行為(対日戦争)を禁止するが、日本側の正気さは米国の論理的標準でははかることが出来ない」これは1941年11月3日付の記述である。

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