プライマル・スクリームは、1984年イギリスのグラスゴーで結成された。70年代のパンク・シーンをリアルタイムで経験したボビーは、ピストルズやクラッシュのメンバーのようになりたいと夢見るパンク少年だった。それから後に、轟音フィードバック・ギターでセンセーショナルな存在感を示していたジーザス&メリーチェインの若きドラマーとして活動。ジザメリ脱退後の1986年に旧友のアラン・マッギーが設立したクリエイションと、WEAの共同レーベル・エレヴェイションからシングル盤をリリースする。評論家からは酷評されるが、この曲でストーン・ローゼズが“Made Of Stone”を作る際に触発されることになる。1987年、1stアルバム Sonic Flower Groove をリリース。レッド・クレイヨラのメイヨ・トンプソンをプロデューサーに迎えた今作は、60年代のバーズを思い起こさせるフォーク・ロック調のツイン・ギターとサイケ度満点のコーラスサウンドに、ボビーのあのへなへなボーカルが堪らない。しかし、中心的なソングライターでギタリストのジム・ビーティが脱退(ジムは後にスパイリアXに関わったり、アドヴェンチャーズ・イン・ステレオを結成したりしている)、1989年2nd Primal Scream ではMC5やストゥージズばりのガレージ・サウンドへとシフトチェンジ。イギー・ポップに憧れ、イギーのようにロックンローラーに自らがなり得る事を切実に願った、ロックンロール・アルバムだ。
そして1991年、気鋭のプロデューサー、アンディ・ウェザオールを迎えた3rdアルバム Screamadelica で、当時流行したアシッド・ハウスにロックンロールのダイナミズムを投入した、レイヴ・ロック・サウンドなるものを作り上げ、一気に脚光を浴びることになる。80年代の幕が下ろしたと同時に、新しいハウス・ミュージックとドラッグによって、イギリスは巨大な文化転換を迎えた。そこで奇跡のように生み出されたのが、このScreamadelica だった。 "Movin On Up" 、 "Higher Than The Sun"の高揚感と期待感。またしてもプライマルにヤラれることになる。彼等より先にダンス・カルチャーの中心にいたハッピー・マンデーズとローゼズがいたが、この時点で時代の鼓動を無条件に体現していたのはプライマルだけだった。そして最先端のサウンドを生み出した彼等の4作目は一転して、70年代初期のストーンズを想起させるスワンプ・ロックサウンドと豪華参加ミュージシャンで賛否両論だった Give out But Don’t Give Up (1994年)。「悩みなんか忘れて やろうぜハニー」のリフレインで踊り狂う"Rocks"は、どこへ行ってもヘビープレイされ、比較的若い音楽リスナーにとっては初めてのリアルタイムなロック・アンセムになったのではないでしょうか。そして初期衝動のままに自らのロックを体現するボビーに、リアルタイムのロック像を映していたファンも多いことでしょう。ヤク中でへろへろのボビーの醜態を雑誌ではおもしろおかしく取り上げては、次第にシャレにならない状態になり、バンドは空中分解寸前に。この年には、オアシスが"Supersonic"でクリエイションからデビューしている。
しかし1997年、前年にローゼズ神話に終止符を打った、ストーン・ローゼズのベーシスト・マニをメンバーに迎え、5作目 Vanishing Point で我等のプライマルはみごとに復活を遂げた。同名タイトルのロードムービーからインスパイアされた今作は、ダブとサイケを融合した鳥肌モノの意欲作である。まさに90年代型パンクロック。さらにこのVanishing Point を、エイドリアン・シャーウッドによってまるごとダブ化させた激ヤバのミニ・アルバム Echodek をリリース。プライマル=ボビーの鼻先はクリーンになった途端に、アクセル全開になる。2000年には未だ記憶に新しい、ボビーが長年崇拝しているマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズを迎えた衝撃の6thアルバム Xtrmntr をリリース。このアルバムでプライマルは最強で偉大なロックバンドとなる。先行シングル Swastika Eyes の攻撃性と崇高さを携えたサウンドスケープは、まさにこれから行く末を見据えたプライマルの宣戦布告だった。