91年には2nd、リーン・イントゥ・イット – Lean Into Itを発表。よりソング・オリエンテッド志向を押し進めた本作でその人気を決定付けた。しかし日本での爆発的な人気とは裏腹にアメリカではリリース当初は鳴かず飛ばずの状態が続いていた。しかし時はMTVが仕掛けたアンプラグドやエクストリームの“モア・ザン・ワーズ”がビルボード1位になるアコースティック・ブームの真っ只中。(2匹目の泥鰌を狙ったかどうかは定かではないが)シングル・カットされた“トゥ・ビー・ウィズ・ユー”がチャートを上昇。あれよあれよという間にビルボード1位を記録。念願の本国でのブレイクも果たし、名実共にミスター・ビッグとなった。また余談だがリーン・イントゥ・イット – Lean Into Itの1曲目”ダディ、ブラザー、ラヴァー、リトル・ボーイ”でポールとビリーが電動ドリルを使ってギターを弾くという荒業をやってのけたが、同時期に同じく電動ドリルを使用していたヴァン・ヘイレンのエドワード・ヴァンヘイレンと「どっちが先か?」と揉めるというちょっとしたトラブルもあった。
93年には3rdアルバム、バンプ・アヘッド – Bump Aheadをリリース。路線的にはこれまで同様、ソウルフルなヴォーカルを堪能出来るメロディアスなハード・ロック。楽曲の質やテンションが低いとされ、ファンからはイマイチ人気の低い本作であるが、ポスト・“トゥ・ビー・ウィズ・ユー”を狙ったと思しきキャット・スティーヴンスのカヴァーである“ワイルド・ワールド”など聴き易さ、親しみ易さは相変わらず抜群と言える。同年10月に行われた来日公演は16公演全てをソールド・アウトとしその人気は最高潮に達する。96年には4thアルバム、ヘイ・マン – Hey Manを発表。いいメロディを聴かせるという基本姿勢はそのままに保ちながら、これまでのハード・ロック路線から徐々にルーツ志向へと傾き始めた傾向が顕著に窺える内容ながらも本作はオリコン・チャートで初登場1位を記録する快挙を成し遂げるのである。アルバム製作〜プロモーション〜ツアー〜アルバム製作…とルーティーンを続け、ここまで走りつづけてきただけあり当然ながら、休息を望むようになったバンドは同年ベスト・アルバム、ビッグ・ビガー・ビッゲスト - Big Bigger Biggest - The Best Ofを発表し、無期の活動休止期間へと突入するのであった。
活動休止間それぞれがソロ活動やプロジェクトなどで気ままに時を過ごしていた4人。我々そして彼らもきっといつかは揃って戻ってくるはずだ、と思い込んでいたが独りだけ別の方向を見ていた男がいた ----- ポール・ギルバートである。バンド結成10周年にあたる99年に活動再開を呼びかけたが、彼はバンドに戻る事無く自らの道を歩んでいく事を選んだ。このニュースに驚かないファンはいなかった。ミスター・ビッグはあの4人が揃ってからこそ成り立つものであるというのが大方の意見であり、4人もそう思っていたに違いないから。「解散」この2文字が皆の頭を駆け巡り、もう終わったんだなとあきらめかけたその時新たなニュースが入る。新ギタリストにソロとしてのキャリアも充分にあり、一時期ポイズンにも籍を置いた事のあるリッチー・コッツェンを迎えて活動を再開するというのである!誰もが予想し得なかったこの出会いも、アルバム、ゲット・オーヴァー・イット – Get Over Itの大ヒット、来日公演も追加が出るほどの熱烈な歓迎ぶりを受けたのであった。翌2000年にはメンバー選曲によるバラード・ベスト、ディープ・カッツ - Deep Cuts - Best Of Balladsをリリースした。
エリックのパンドラ(!)とのデュエット、ビリーのソロなどを経て、2001年、6thアルバムとなるアクチュアル・サイズ – Actual Sizeを発表。当然のようにヒットを記録するが突然衝撃的なニュースが飛び込んでくる。「ミスター・ビッグ、ビリー・シーンを解雇!」誰もが自分の耳を疑った。「嘘だろ?」「何かの間違いではないか?」様々な憶測と意見が飛び交うが話は真実であった。バンド内で意見の食い違いがあったとて、バンドの創始者と言っても過言ではないビリーが解雇されるまでにどのような経緯があったかは定かではないが、結局この一件が発端となりバンドは解散にまで発展してしまう事になった。誰もが戸惑いと悲しさを隠し切れないまま、最後の来日となる2002年のフェアウェル・ツアーも幕を閉じ、4人はミスター・ビッグの活動に終止符を打った。なおこの時の模様はミスター・ビッグ・イン・ジャパン – Mr Big In Japanと題され限定10万枚のライヴ盤としてリリースされた。