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農夫 さんのレビュー一覧 

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     2022/12/05

    ロンとラッセル、メイル兄弟の半世紀以上に及ぶ音楽活動が、全58曲およそ3時間50分に集約されたベスト・アルバムである。最初期のアメリカ時代の曲から、イギリスに渡って世界デビューして以降のオリジナル・アルバムやシングルのみの楽曲全てから満遍なく選曲され、それが時系列に従って3枚のCDに収録されている。通して聴くと彼等の自叙伝と感じられる側面を持つと同時に、聴き手にとっても個人史をたどる一面を有する。初回は、それぞれの曲をよく聴いていた部屋の情景が次々に去来し、切ない気分に支配されてしまった。
    彼等の表現の根幹はデビュー時から首尾一貫していて、揺るがない。それは、「笑い」を中心に据えたヒューマニズムである。特に「キモノ・マイ・ハウス KIMONO MY HOUSE」(’74)や「恋の自己顕示(プロパガンダ) PROPAGANDA」(’74)は、歌詞も曲調も何から何まで全てが笑いと涙を誘う、愛すべきコメディの集合体であった。1930〜40年代、大恐慌から第二次世界大戦の頃にアメリカで人気を博したコメディ映画の影響を、アメリカの良き伝統として二人はずっと大切にしているように思われる。井上篤夫著『素晴らしき哉、フランク・キャプラ』(集英社新書)に拠ると、フランク・キャプラが監督した作品のような喜劇を「スクリューボール・コメディ」と言うそうである。「スクリューボール」には「奇人・変人」との意味合いがあるらしい。弟のラッセルはコスチュームを含めてキャプラの映画が似合いそうである。一方、兄のロンは外見にチャールズ・チャップリンの「スラップスティック・コメディ」(ドタバタ喜劇)での容姿を、聴き手にそれと判る程度に初期から採り入れている。先にも書いたように、彼等は作詞作曲もコメディとしての枠内という制約を自らに課していると思われる。キャリアを重ねるにつれ、単純を装う楽曲が、内側では逆に歌唱や編曲で複雑さや繊細さを増していき、歌詞の内容を更に深める。聴き手にはそれを読み解く愉しさがある(残念ながら本アルバムに歌詞の記載はない)。ラッセルのヴォーカルはずっと変幻自在な表現力を示し、声や歌い方を変えて多重録音することで表現の幅を拡げている。ロンはアレンジ面で冒険し続けている。そのように制限内での創意工夫が創造性の維持・発展に繋がっていると推量する。そこに、時を超え古き良きアメリカへの郷愁を誘うメロディーが混じる。
    長年にわたり彼等の活動の拠点はヨーロッパであった。半世紀の間には折悪しく人気が低迷して不遇な時期もあっただろうが、彼等を支え続けたのはヨーロッパであろう。思えばスパークスの根底にあるアメリカ伝統のコメディ精神は、イタリアからの移民の倅(キャプラ)やイギリスからの出稼ぎコメディアン(チャップリン)等によって培われた貴重な文化遺産である。その遺産を創作の原点に据えたスパークスが、ヨーロッパで共感を得続けるというのは面白い巡り合わせである。映像で見る限り、ロンは直立不動、無表情でキーボードを演奏する。それはまるで「ここに居るけど、ここに居ない」人のごとくである。集団心理に巻き込まれない、超然としたトリックスター的スタンスを象徴している。それに続く硬直したダンスは「でも、ここに居る」人の姿である。そうやって作品世界と現実世界を橋渡しし、スパークスの世界が現実に入り込んでくる。更に言えば、ロンの書く歌詞には実在・架空を問わず、これまでに多くの人物が登場してきたが、それが彼等の創造する世界を多様に彩り、より豊かなものにしていると言えるだろう。欲を言えば、深い味わいを有し渾身の作である「赤道 EQUATOR」、「ボン・ボヤージ BON VOYAGE」、「ノートルダム大聖堂でオルガンを弾く AS I SIT DOWN TO PLAY THE ORGAN AT THE NOTRE DAME CATHEDRAL」も収録して欲しかった。
    先程の井上氏の著書には次のようなエピソードが紹介されている。第二次大戦中、ナチスによって占領されたパリでイギリス・アメリカ映画の上映禁止令が発布される直前、最後の上映作品としてフランク・キャプラの『スミス都へ行く』が選ばれ、パリ市民は映画館に詰めかけ『スミス都へ行く』を観たという。スパークスの音楽も正にそうした音楽である。

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     2021/04/23

    人間は他の生物種と比べて特に優れた知覚認知過程を持っている訳ではない。むしろ、周囲に在る事物の特性や、自分自身の状態についての知覚や認知において、圧倒的に高い頻度で誤りを犯すと著者は言う。技術革新に伴い、更新され続ける人工的環境の中で、十分に適応しきれない課題の解決において、人間は頻繁に間違いを繰り返している。にもかかわらず、益々高い精度が求められるのである。情報伝達と情報処理に関する話題も納得がいく。膨大な情報を得ることが可能になっても、視野に入った刺激ですら何らかの処理を経なければ記憶に残らず判別もされないことが多い。ましてや意味の処理が必要な場合は、注意を向けて深い処理をする必要がある。情報が大量になった場合、それを正確に判断するのは困難である。更に判断に十分な時間が与えられていない場合には、ある程度決まりきった方略で情報を処理、判断する傾向に陥り、同じ判断の誤りを繰り返すことになりがちである。また、自らの身体の状態や感情、印象に関わる内的状態についての知覚の錯誤も切実である。我々は意思決定の局面ですら、自分で思っているほど意識的に行動しているのではないという。高次の処理過程が関わる事象では、我々の情報処理系のバイアス(先入観、偏見、思い込み)によって、おおよそ同じように「規則的」に認知的錯誤が生じるのだ。人間には、自分が信じていることを否定するような出来事や事柄の経験は認知され難く、記憶もされ難いというバイアスがある。特に個人の判断に大きく影響を及ぼす要因が「自尊感情」である。我々は自尊感情を傷付けないように、自分の失敗はあまり認知せず記憶もしない。上手くいったことだけ覚える傾向にあるのだ。また、自分自身の認知的状態についての認知が「メタ認知」であるが、此処にも不幸なバイアスがある。さまざまな認知能力に関して、その能力の低い人は、自分自身の能力についてのメタ認知に失敗し、自分の能力を実際よりも高く評価する傾向があるのだ。個人のであれ集団のであれ、著者が論述する各種認知的バイアスは、自尊感情由来の誤り、或いは認知、メタ認知での誤りを未然に防ぐ為にも一読し、知っておくべきだろう。

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     2021/04/20

    「我々は近代政治哲学が構想した政治体制の中に生きている」と、著者は「はじめに」で記している。現在の政治体制に欠点があるとすれば、その欠点はこの体制を支える概念の中にも見出せるだろうとして、本書では近代政治哲学の代表的著作を批判的に読解していくのである。よく練られた最適の入門書であると言えよう。本書で議論対象となる哲学者を順に列挙すると、ジャン・ボダン、ホッブズ、スピノザ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー、ヒューム、カントの七名である。主に「自然状態」や「社会契約」、「主権」の概念を、各々の思想家がどう捉えていたかが系統的に比較されて中心軸を形成し、筋の通った議論が展開される。近代国家は、ヨーロッパで最大の宗教戦争となった三〇年戦争に終止符を打った、一六四八年のウェストファリア条約をもって始まると言われるのが通例である。そこからホッブズが嚆矢として取り上げられる場合が多いのだが、本書ではフランスの公法学者ジャン・ボダンの『国家六論』に始まる。近代国家の政治体制を論じるにはそれ以前の「封建国家」の社会制度の検討が必要という訳である。サン・バルテルミの虐殺を目撃し、自身も命からがらそこから逃げおおせたボダンは、ユグノーの革命運動を標的として、政治的な統一と平和を回復するには強力な君主制こそが唯一可能な手段とする「絶対主義国家」の擁護者となったそうである。常に廃位の危険に晒されていた君主に安定を保障する為に、ボダンは「主権」の概念を生み出すのである。主権の対外的な主張は戦争を具体的な実現手段とし、対内的な主張は「立法」をもって手段とする。近代政治哲学を決定付ける「主権」や「立法権」の概念を創造したのがボダンだと著者は言う。そして近代国家は絶対主義から多くは民主制へと移行していくが、主権の概念だけは一度も疑われなかったとして、逆にその帰結に眼差しを差し向けるのである。印象深い叙述を一例紹介する。「ホッブズの自然状態論が興味深いのは、平等の事実に争いの根源を見ているところだ。」(p.46)底の浅い一般的政治論を超克する手がかりを本書は提供してくれるだろう。なお、浅学の者には細谷雄一著『国際秩序』(中公新書)を併せ読むことが大いに有効であったことを参考までに記しておきたい。

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     2021/04/17

    どういった方面であれ、掘り下げて考えようとすれば哲学が絡んでくるのは自明の理である。本書も正にそうで、第1章で国際秩序の基層としての「均衡の体系」「協調の体系」「共同体の体系」が思想的に誕生した経緯とその内容が論述される。続く第2章以下では国際秩序を巡る十八世紀から現代までの政治史が叙述される。前以て、「まえがき」と「序章」で三つの体系と現実政治の関係性の概略が示され、読者は見通しを持って本論に臨むことが出来る。そして、政治哲学はその時代背景を反映して誕生するという経緯が改めて理解されると共に、「均衡」無しには「協調」は成立せず、「均衡」「協調」無くして「共同体」は成立し得ないことを、実証的に理解出来よう。哲学や歴史理解を欠いた政策立案は先ず間違いなく空理空論の域を出ないだろうし、理想論の創造についても同様である。「国際秩序」という視点が世界史理解に実に有効だという事実を、著者は証明し得たと言える。英国のホッブズが活躍したのは、宗教対立に端を発する十七世紀前半の三十年戦争の時代であった。後の時代の国際政治学者達がホッブズの思想を、「諸国家の社会」での国際政治に応用したのが国際秩序としての勢力均衡であり、「均衡の体系」なのである。国際政治の基本がパワーであり、そのパワーとパワーを均衡させることは国際秩序の最も基本的な原理である。十八世紀に入り、新たな勢力均衡の秩序観が生まれる。英国のヒュームやスミスは国家と国家を結び付ける、リベラリズムの精神に基づいた「商業的社交性」に着目する。経済的繋がりを持つことで諸国の間に「協調」が実現するとした、「協調の体系」としての国際秩序観が生まれる。同じく英国のバークは「ヨーロッパというコモンウェルス」という概念を用いて、価値や文化を共有する同質的なヨーロッパの国際秩序を描き、「協調の体系」に至るのである。「共同体の体系」は東プロイセンのカントによって打ち立てられる。カントが『永遠平和のために』を執筆したのはフランス革命という巨大な混乱と殺戮の時代であり、諸々の独立した共和的諸国が自発的に「平和連合」をつくることによって、永遠平和の確立が可能と考えたのである。カントは「均衡の体系」や「協調の体系」の危うさ・不安定さを嫌い、敢えて思想的理想を提示したのだった。さて、本書での学びの更なる充実を望むならば、國分功一郎著『近代政治哲学』(ちくま新書)を推薦したい。両書の併読が私ごとき素人の浅薄な理解を多少とも深め、立体化してくれたように感じたからである。

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     2021/03/09

     『リレイヤー』(’74)までのイエスは、5名のプレイヤーが自分達の技量を思う存分発揮して見事に響き合うといった、ある意味人間関係の可能性を示唆するとでも言えそうな楽曲の創作という、「理想主義」を追求した。『海洋地形学の物語』(’73)、『リレイヤー』と、いまでこそ偉大な財産と言えるものの、楽曲が複雑性を増し、難解な傾向を見せて一般的な共感が成り立つ水準を超えていったのは致し方あるまい。それがパンク・ロック全盛という世相に圧されたか、ある種の反省があったのか、バンドの存続に関わる経済的状況に見舞われたのか事情は何も知らないが、次の『究極』(’77)では「現実主義」が表に立つという方針転換を試みる。有り得た筈の新たな大作をそこで我々は失った気がして、何とも残念である。確かに当時のプログレッシヴ・ロックにあって、歌詞では終末観や絶望感を言い立てておきながら、曲調においては音を手段化して単に叙情性を追求するといった、欺瞞的な自家撞着に堕した作品が皆無だったとは言えない。しかしながらジョン・アンダーソンの詩情はそうした観点を許容せず、イエスはそのような矛盾を抱えてはいなかっただろう。歌詞も曲も到達しようのない遥か先の目的としなければ、「表現」のとば口にも立てはしないことをイエスの面々はよく理解していた。本作は本来イエスがCD化を意図したライヴではなく、ラジオ番組のための録音に過ぎなかった。だが『究極』でリック・ウェイクマンがバンドに復帰し、『リレイヤー』の楽曲がライヴで演奏される機会はほぼ無くなったことを考えると、『リレイヤー』の3曲全てが収録された本作は実に貴重な記録と言えよう。何より素晴らしいのは全編に生命衝動とも呼ぶべき躍動感がみなぎっていることである。スタジオ録音の緻密さを再現しつつも、それ以上にスピードアップして悠々と演奏を楽しむという凄さを見せつけるのだ。何曲かについて言及する。
    〇「サウンド・チェイサー」…オープニングの定番である「シベリアン・カートル」を押し退けての選曲。イエスの楽曲の中で最も難解と思われるこの楽曲を持ってくるあたりがイエスの自負心の表れとも言える。だが『リレイヤー』は『危機』(’72)と同じく3曲収録のアルバムであって、それぞれを3楽章構成の交響曲に見立てるならば、共に最終楽章として同等ではある。ベースとギターが同じメロディーを弾くパートが有り、離れてはまたペアに戻ったりを繰り返す。別の曲をコラージュしたかのような場面転換があるかと思えば、頻繁なテンポの移行がある。また、動から静へ、静から動へと揺さぶられる。スタジオ録音以上に曲の魅力が伝わる演奏である。
    〇「危機」…ボーカルパートに入るまでの3分程の演奏の、怒涛のような激しさ。ベースとドラムスが牽引する。ここではギターとキーボードが短いメロディーをたたみかけ、ほぼリズム楽器と化している。曲の輪郭は維持しつつ、内側では『リレイヤー』の色に合わせたアレンジの変更。新加入のパトリック・モラーツへの配慮があるかもしれないが、表現可能性の飽くなき追求の一環と感じられる。
    〇「錯乱の扉」…イエスの音楽のある面での頂点を極めた曲。とりわけボーカルパートを過ぎて「スーン」までの5〜6分のインストゥルメンタルはデモーニッシュと言っても過言ではない迫力がある。名演である。
    〇「儀式」…曲の後半に元々ベースがリードを取る部分に続けてドラムスがリードを取る部分が組み込まれている。ライヴではその部分を拡張してクリス・スクワイアとアラン・ホワイトにスポットライトを当てている。単独での演奏よりもこの方が曲は表情を増して聴き応えがあり、よい工夫だと思われる。
     さて、「儀式」の歌詞の一節に“WE LOVE WHEN WE PLAY”とある。一義的ではないものの単純な言葉である。イエスはこのライヴで、この一節を信念を持って実証している。

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     2021/03/05

    ブルクハルトはバーゼル大学でニーチェの親しい同僚であった。バーゼルは十五世紀まではドイツ領であったが、十六世紀初頭に独立してスイス同盟に加入する。またバーゼルは『痴愚神礼讃』を書いたオランダ人思想家エラスムスやドイツ人画家ハンス・ホルバイン所縁の地でもある。ブルクハルトといえば『イタリア・ルネサンスの文化』がよく知られていようが、そちらではルネサンス美術に関しては殆ど触れられていない。その役割は『チチェローネ』が担っている。副題に「イタリア美術作品享受の案内」とある。イタリアにある限りの作品しか扱わないという基本方針にほぼ忠実であるが、作家ごと、傾向ごとにどの都市の何処で観ることが出来るかをブルクハルトの評価込みで紹介もし、大変な労作である。但しヴァザーリ『美術家列伝』と恩師クーグラーの『絵画史提要』を参照せざるを得なかった箇所もある。更に、訳者=瀧内槇雄は『チチェローネ〔建築篇〕』の翻訳に九年、本書の翻訳に五年かかり、その間に「訳註」や原著には無い挿図を充実させる為もあってのことだろう、十二回(一回につき三〜七週間滞在)のイタリア訪問を敢行し、本書に熱意を上乗せしている。第一章「古代絵画」、続く第二章は「古代キリスト教絵画とビザンチン絵画」、第三章「ロマネスクの絵画」と、時代を追って順当に叙述は展開される。独自性が発揮されるのはそれ以降だと思われる。第四章「ゲルマン的絵画」は十四世紀のイタリア絵画が論じられるが、この標題にブルクハルトの思いが感じられる。六世紀に「蛮族」(ゲルマン民族)が北からイタリアに大挙して侵入し、七〜八世紀に定住化する。元から住んでいたラテン民族にすれば面白くないのは当然である。ラテン民族を自負するヴァザーリは十四世紀に始まるイタリアの美術刷新運動をラテン古典文化の復興として「ルネサンス(再生)」と命名した。一方、ゲルマン民族の一員であるであろうブルクハルトは此処で「ルネサンス」とは言わず、同一の絵画を「ゲルマン的絵画」と呼称している訳である。どちらも起点にジョットを置く。第五章「十五世紀の絵画」。十五世紀最初の数十年間に西洋絵画に新しい精神が訪れた、という。フランドル人画家ヤン・ファン・エイクの登場と西欧美術に及ぼした影響、それを受容してのイタリア美術の展開が論じられる。第八章「十六世紀の絵画」。フィレンツェの絵画はレオナルドとミケランジェロによっては未だ完全に開花せず、フラ・バルトロメオとアンドレア・デル・サルトによって完成せしめられたとある。バルトロメオがラファエロに及ぼした影響は決定的であり、彼の画法を最も促進することが出来たと述べられる。日本ではレオナルドとミケランジェロからラファエロへの影響は図像学的な分析を用いた論述を見るものの、バルトロメオに関しては寡聞である。そもそも画像そのものを見る機会が極めて少なく、判断がつきにくくはある。最終の第十章「近代絵画」は前章のマニエリスムからバロックへ移行。ローマ・カトリック側が打ち出した反宗教改革推進の手立てとしてイタリア・バロック美術は始まる。ブルクハルトは地域的に見てカトリックからの攻撃対象であるプロテスタント側に属する。教皇庁はイタリア・バロックの精神として、聖なる対象の刺激的で強烈な処理、大衆的分かり易さ、フォルムの誘惑的魅力を絵画に要求した。それに合致するカラヴァッジョに対してブルクハルトは手厳しい。なお、イタリアに於けるルネサンスからバロックへの変遷、北方のルネサンスとバロックの状況、その両者の比較検討についてはバーゼル大学でのブルクハルトの後継者、ハインリヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』に詳しい。因みにヴェルフリンはルネサンス美術を指して「クラシック」美術と称している。

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     2020/10/03

    ハルカトミユキの音楽を牽引しているのは、ハルカさんの物する歌詞であろう。だから聴き方として通常は「シニフィエ(意味)」重視の聴き方になるはずである。その一方で例えば眠れない夜に、部屋を暗くして横になって目をつむり、ヘッドフォンで睡眠への導入を期待してこのミニアルバムを聴くような場合はどうだろう。そこでは1回目、2回目…と、回を重ねるごとに「シニフィエ」から「シニフィアン(表象)」へと、聴こえ方が変質していくのである。音楽は時間の進行とともに脳の内部に音空間として現出する。そして記憶の助力を得てヒトは音階の変化やリズム等を含めた音楽の総体を認識する。それが、徐々に眠りに向かうにつれ、音楽は一体的に届くというよりは解体され、分析的もしくは部分抽出的に聴こえてくるようになる。歌声も言葉の意味を離れて一つの楽音となる。そして脳内の、更に言えば自我の内部の音空間内に、消えては現れる音の立体画像が描かれることになる。その観点から言えば、このミニアルバム中では特に03「マゼンタ」に顕著だが、音楽の合間にさまざまな質感の音が彩りを豊かにするように挿入され、「シニフィアン」の充実を感じ取ることができる。その繊細な表現によって何故か安心が生じ、聴き手としてはケアを享受している思いにすらなる。その一環として、拡がりのある音が一点に収束してフツッと消える「逆再生エコー」を彼女たちは好んで使用する。音の選択や組み立ては音楽家の腕の見せどころの一つであろう。ただし、01「世界」だけは趣が違って、ギターとピアノを除いて無彩色で平面的な音の壁であり、音の分析的な聴き方を許さない。この曲のみは「シニフィエ(意味)」専用の楽曲のようである。さて、次にその「シニフィエ」にも少しだけ触れてみたい。このミニアルバムの歌詞では視覚的な描写が目立ち、03「マゼンタ」はその意味でも美しい。空を駆けていく「最終列車」を地上で見送り、「マゼンタ(赤)」は「願い」と「後悔」の色、と歌われる。私には「最終列車」とは地球脱出の最終列車であり、「マゼンタ」とは地球を焼き尽くす大火の色、という情景が思い浮かぶ。更に05「バッドエンドの続きを」を03「マゼンタ」の続編と位置づけるならば「世界の終わりの続き」となる。歌詞の「二度と降りない駅の改札」とは「最終列車」が出た駅の改札口と見立てることができ、サイエンス・フィクションとしての具体性を獲得して取りあえず意味が安定する。だがしかし、そうであってさえ最後のフレーズは難解である。「いつか後悔が答えになると信じて、バッドエンドの続きを生きる」とはどういうことか。いま文節の順を通常文となるようにわざと入れ換えてみたが、これだけでも文意を損なう危険性はある。ここでの「後悔」を03「マゼンタ」の「後悔」と同一の後悔だと限定してさえ解釈は難しい(地球を脱出しなかったことへの後悔、若しくは地球環境を破壊した人類史への後悔)。この「後悔」とは、「後悔によって生じた新たな決意」に類似する内容を含意しているとしなければ、「信じる」と関係づけられないのではないか。何にしても普通に想像し得る心理作用ではないだろうからである。或いはある人々にとっては「バッドエンド」だとしても、その状況で生き続ける者にすればエンドでありはしないのであって、そこに逆説や矛盾が前提されることにもなり得る。ともあれ、世界とどう対峙し、その内側でそこからどうはみ出して観察者また当事者として生きていくかの模索が想起される。と、個人的な感受性の一局面を例に挙げたが、「マゼンタ」が夕焼けの色だとするとまた別な世界像が形成されよう。この二曲に限らず、曲ごとに省略や飛躍、象徴化や諧謔(06「ヨーグルト・ホリック」)等が方法として自在に用いられ、メビウスの輪のように捩じれていたりもする歌詞が聴き手に深読みを促す。猶予を許さぬ緊張感を孕む世界観が各曲の基底を成しているのは確かである。【「シニフィエ」「シニフィアン」は、ソシュールの記号論の浅薄な理解に基づく借用かつ恣意的な転用。「脳内の音空間」に関してはハンナ・アレント著『暗い時代の人々』(阿部齊=訳/ちくま学芸文庫)におけるブロッホに関する叙述に依拠していることをお断りしておきます。】

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     2020/09/16

    私見では、この『ラダー』がイエスの数ある作品の中で最も「アポロ的」なアルバムだと思う。イエスの表現の基準とすべきアルバムは、妥協を許さぬ的確なメンバー交代後、短期間に立て続けに発表された『こわれもの』(’72)と『危機』(’72)であろう。メンバーそれぞれが志を高く持ち、たゆまぬ向上心で多彩な音楽性と独創性を磨き、演奏や歌唱の申し分のない技量を獲得した、その意味で対等で共通性のある5人が揃った時期を指す。彼等は決して個人技をひけらかすことなく、オーケストラの一員のように抑制し、協調して目標とする音楽の達成に尽力した。その後の頻繁なメンバー交代の影響でもあろうが、彼等の創造する音楽はマンネリズムとはさほど縁がなく、多様な表現を求めて変化を続けたと言えよう。ニーチェは芸術を分類するに当たって「アポロ的」と「ディオニュソス的」の対立項を用いた。古代ギリシア時代、本来は造形芸術作品をアポロ的芸術、非造形芸術作品をディオニュソス的芸術としていたのが、両者の反目や反発が刺激となって混淆し、特にアッティカ悲劇ではより充実した作品を生むに至るのだ。上記の名残から「アポロ的」とは表象、現象、仮象等を含意し、「ディオニュソス的」とは意志、苦悩、恐怖、陶酔等を含意する。少々乱暴だが「アポロ的」を昼の芸術、「ディオニュソス的」を夜の芸術としてもあながち間違いではないであろう。そして『ラダー』(’99)をイエスの作品中で最たる「アポロ的」なものと見なす訳である。因みに最も「ディオニュソス的」な作品とは『リレイヤー』(’74)であり、二番手に『ドラマ』(’80)を置きたい。どちらもキーボーディスト不在か、技量を伴わないキーボーディストの時期に、スティーヴ・ハウのギターとクリス・スクワイアのベースが意識的に主役を務めた作品である。『リレイヤー』は他のパートのレコーディング終了後に、新たなキーボーディストであるパトリック・モラーツがディオニュソス的な演奏を加えて見事に仕上げたのは、さすがである。ところでニーチェの用いた分類項はワーグナーに由来し、ワーグナーはベートーヴェンから受け継いだらしいのだ。確かにベートーヴェンの交響曲第4番はディオニュソス的に始まり、葛藤を経てアポロ的展開に移行する様が感動を呼ぶと言えるだろう。従って、クラシックにも造詣の深いイエスの面々は当然この二分類は意識しているに違いない。かつまた、本作『ラダー』はイエスにとって原点回帰を意図した作品でもあろう。01「ホームワールド(ラダー)」の終盤、スティーヴ・ハウの弾くアコースティックギターの背後で、「南の空」(『こわれもの』)以来となる風の自然音(を模した人工音)が聞こえる。更に04「キャン・アイ」は「天国への架け橋」(『こわれもの』)の変奏であり、11「ナイン・ヴォイセズ(ロングウォーカー)」のラストでは「アイヴ・シーン・オール・グッド・ピープル」(『サード・アルバム』)と同じコーラスが歌われることからも明らかである。だが何故アポロ的でなければならなかったのか。ここからは確証はなく、想像を交えて記すことになる。本作はデヴィッド・ボウイの『ステーション・トゥ・ステーション』がヨーロッパ回帰を宣言したのと同様、イエスのヨーロッパ回帰のアルバムと位置付けたい。但し、ボウイがアメリカからドイツに移ったのと違い、イエスは古代ギリシア・古代ローマ、ヘレニズム文化の地中海世界へと回帰したのではないか。その鍵は曲名や歌詞にある。曲名に括弧書きの付された3曲に着目する。01「ホームワールド(ラダー)」、02「イット・ウィル・ビー・ア・グッド・デイ(リバー)」、11「ナイン・ヴォイセズ(ロングウォーカー)」であり、ラダーとリバーには定冠詞THEが付いている。ラダー(梯子)」からは上昇や下降、そして螺旋状の遺伝子モデル等がイメージされる。また歌詞の内容を吟味すると「光」が重視され、アウグスティヌスが『告白』で描いた人間の視力では到底見ることの出来ない「光」や、前ルネサンス期のダンテ『神曲』天国篇での同様の「光」を想起させる。その「光」の下に住み処としての故郷が在る。リバー(河)からは人や物の移動のみならず、悠久の時の流れやキリストの洗礼等が連想されよう。歌詞では海へと至る河が歌われもする。ロングウォーカーとはアウグスティヌスであり、ダンテであり、イエスの各メンバーでもあろう。歌詞は北アフリカを舞台にしている。アウグスティヌスが生きた古代ローマ時代末期には北アフリカはヨーロッパの一部であって、アウグスティヌス自身北アフリカで生まれローマやミラノでの生活を経て北アフリカで司教として死んだ。曲のなかにはラテン調のものもあるが、それだけを頼りにイエスと古代地中海世界をつなぐ根拠にすることにはいささか無理がある。だが「光」、「上昇」、「フェイス・トゥ・フェイス」等の歌詞はアウグスティヌスの使用頻度の高い言葉でもあり、ジョン・アンダーソンは少なくともアウグスティヌスのことは意識して作詞しているとしか思えないのだ。アウグスティヌスはカトリック、プロテスタントを問わず「西欧の父」と称される人物であるし、シェイクスピアは小アジアや北アフリカを含めて地中海世界を舞台にした作品を多く残していて、その点で英国人にとって地中海世界が疎遠でないことの証明になろうかと思う。ボウイがディオニュソス的ヨーロッパへ回帰し、イエスはアポロ的ヨーロッパに回帰した。アポロ的芸術の要素には「ギリシア的晴朗さ」も含まれる。イエスのメンバーは、その共通理解のもとに本作を制作したのではないか。目的は表現を支え、主題は表現を方向付け洗練する。『ラダー』の確信に満ちた歌詞や声、演奏からは、ギリシアやローマの造形芸術の美的均衡やアウグスティヌスの求道的ひたむきさにつながるものが感じられるのだ。

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     2019/04/10

    彫刻家ミケランジェロはフィレンツェからローマに招聘される。そして、当初の依頼は変更され、教皇ユリウス2世にシスティナ礼拝堂の天井画を描くことを命じられる。感情移入できず職務放棄して逃亡し、採石場で働いたりするが、自らの構想を得て赦され、現場に復帰する。下地づくりの助手はいるものの、その後ただ独りで四年間制作に従事する…。史実が尊重されていて、天井画を描くための足場の組み方やフレスコ画の描き方さえ興味深い。少し離れた場所ではラファエロが、これも歴史的名画であるところの『アテナイの学堂』を制作している。映画は旧約聖書に材をとった天井画の完成をもって大団円を迎える。その翌年にユリウス2世は死去し、ミケランジェロによって正面の祭壇上部壁面に『最後の審判』が描かれるのは、ほぼ四半世紀後のことである。従って致し方ないのだが、ユリウス2世の冗談めいた発言以外に『最後の審判』制作の、その経緯が映画に出てこないのはとても残念である。ルネサンス期を背景とする本作の見処は多いが、ミケランジェロの作品を媒介にしてのユリウス2世とミケランジェロの対話が見せ場を形成する。反発と同調を繰り返しながら深いところで通じ合う二人に、いつしか共感しないではいられないだろう。映画の中では、異教徒である古代ギリシア人の芸術に対抗し超克しようとするミケランジェロに対する反感や非難が見られもする。しかし、教皇を中心にしてローマ・カトリック教がルネサンスを受け容れるという図式が窺い知れる。実際、ラファエロの作品は題材が古代ギリシアそのものではないか。プラトンとアリストテレスの立像を中心に配して描かれた『アテナイの学堂』は、教皇の書斎を飾るために描かれたのである。ミケランジェロをチャールトン・ヘストンが演じ、ユリウス2世を『マイ・フェア・レディ』でヒギンズ教授を演じたレックス・ハリスンが演じている。二人ともはまり役である。監督は『第三の男』のキャロル・リードで、つまらない作品になりようがない。原作となったアーヴィング・ストーンの伝記小説を知らないので何とも言えないが、ミケランジェロの画業の前段のみに触れ、『最後の審判』に至らずに映画を終えるというのは、監督キャロル・リードの意図した結末なのかもしれない。その方が、ラストシーンで自己完結してしまうカタルシスを観客に与えず、その後を想像させる『第三の男』の監督に相応しいように感じられる。ところで、システィナ礼拝堂は国内で疑似体験が可能である。そのこともあって、もっと知られ語られるべき映画だと思う。

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     2019/03/02

    本作を、物語性のあるトータル・アルバムとして聴いてみてはどうだろう。そうすることによって、心の揺らぎや紆余曲折を経ながらも大切な思いや信念を放棄することなく生きていく時間の移ろいを、より多面的・重層的に解釈する可能性が期待できます。トータル・アルバムとして各曲間の関連性を意識することによって、歌詞の意味の深まりを感受することも可能になるでしょう。では、曲順に従って関連性を持たせた曲紹介を試みてみます。その際、各曲で軸足の置かれた人称を併せて記します。…01「光れ」【一人称】逃避的な孤独を脱け出し、よくいえば社会との共生を、意地悪くいえば世間への迎合を歌った曲。02「DRAG & HUG」【一人称】他律的に流され、漂うように過ぎ行く日常が描き出される。ただし、曲のアレンジは曖昧さを否定する高速ドラムのパンクロック風で、歌詞の逆をいくもの。それは苛立ちを意図した表現とも解釈できよう。03「奇跡を祈ることはもうしない」【一人称】再びの誕生を意志する、ドラマティックな曲。04「Pain」【一人称】「君」との間で生じた痛み。信念が生きる指針ではなく、建前にすぎなかった「君」への失望感。05「Are you ready?」【二人称】決然とした生き方への呼びかけが英語と日本語で交互に歌われる。06のイントロダクションとしての短い曲。06「見る前に踊れ」【二人称】05から切れ目なく続く、ディスコサウンド風の曲。歌詞では「迷う前に踊っちゃえよ」と繰り返されるが、タイトルは違う。大江健三郎の初期の中編『見る前に跳べ』を意識してのタイトルだろう。状況を突き抜けるべく為される働きかけが力強くて魅力的。07「トーキョー・ユートピア」【三人称】現代社会をTVゲームの弱肉強食の世界に模して、戯画化して表現。キーボードの弾くオリエンタル調のメロディーがシニカル。08「永遠の手前」【一人称】09「you」【一人称】10「夜明けの月」【二人称】この3曲は関連性が強く、どれも「永遠」と「貴方」についての曲。生を実感する充実した時間は、信頼すべき「貴方」との共生の中に存在する。そして、「君の足元を照らす月になろう」という歌詞から、01「光れ」へと戻っていく円環が完成する。そして二度目の01「光れ」は、意味の上で既にして奥行きを獲得して始まることとなる。だから正確には、円環というより螺旋を描くとすべきかもしれない。また人称は二人称への接近を見せるはずである。…こうして見てくると、二人称の曲が重要な位置を占めていることが判ります。ただし、05/06は「貴方」に対して能動的働きかけが、10は受動的働きかけが描かれていて、持ち前の性質は違うことに気づきます。ヒトの主体性には両方あります。そして、より強さが求められるのは、受動的主体性のように思われるのです。日常にあっては私たちは右往左往を繰り返し、感情の乱高下に翻弄される存在にすぎないにしても、信じるべきを手放すことなく、信じるべきものの為に生きていきたいと願わないではいられない。また、あちらこちらに散見される精神のしなやかさとしてのユーモアが、アルバム全体を包み込むことを意識して聴くならば、もしもの絶望感にすら距離を置いて客観視する視座を獲得することができるでしょう。さてトータル・アルバムという前提で聴くと、一例として以上のような深まりへと導かれることになります。もちろん各曲を独立した単体として聴いてさえ、どの曲も聴く側の状況次第で印象が変わり、違う表情を見せるはずですが。本作はかように、聴く側の肯定的想像力を喚起する、完成度の高い作品だと言えるのではないでしょうか。

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     2019/01/18

    喜ばしいことに、マンサン解散後もポール・ドレイパーは健在である。ブリティッシュ・ロックの分厚い伝統の地層の上で、伝統を感じさせつつも変わらず変幻自在で闊達な創作ぶりを示していることに拍手を送りたい。アイディア満載の構成力を発揮するアレンジャーとしての力量込みで、ポール・ドレイパーは群を抜いて優れたメロディーメイカーである。また、固定観念の打破や価値の転倒を図るシニカルな詩人でもある。マンサンはほんの数枚アルバムを制作しただけで解散した。だが、少なくともその内2枚は才能の浪費を思わせるほどの「奇妙に」美しい無二の作品であり、本作「SPOOKY ACTION」はその延長線上に存在していよう。一方のライヴ盤は自己演出や意図的な編集すら認められない飾り気のないものであるが、内容は充実している。特にマンサン時代の楽曲での、オーディエンスの大合唱には気分が釣られてしまう。

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     2019/01/11

    ハルカトミユキの音楽は、コミュニケーションの不可能性に苦しむ者たちに、自らを生き長らえさせる呼吸空間を提供します。ここに自分と同質の痛みを持つ表現者がいる、との共感によって。
    無理解、誤解、感情の行き違い、侮り等々の、他者との間で生じる軋轢。そこで見えてくる自己の弱さや覚悟の無さ、孤独感、辛さ、悲しさ、そしてやり場のない怒り。ハルカトミユキの楽曲のテーマは真っ正直に首尾一貫しています。同時にそれは客観化された、わたしたち自身の生の実相でもあります。そう感じさせるのは楽曲が自家撞着を避け、感情が昇華され、吟味された言葉が普遍性を獲得しているからこそでしょう。そう思います。
    1曲目の「17才」は絶望の内にあってもコミュニケーションの回路を開いておくことの決意とその促しの歌と言えるでしょう。彼女たちの新たな領域を拓いたのかもしれません。4曲目に配されたそのピアノバージョンは、内省編に思われます。2曲目の「朝焼けはエンドロールのように」は彼女たちの本領です。歌詞、曲調、編曲、歌唱が在るべき形に絶妙に一体化して、心に突き刺さります。3曲目の「そんな海はどこにもない」には意表を衝かれます。編曲者名がクレジットされているところから、音を徐々に削っていったことが推察されます。この楽曲は初期の「未成年」と同様に、わたしたちの幼時の原体験を描いたわらべ歌といった位置づけが可能です。
    アルバムであれシングルであれ関係なく、本作も繰り返し聴かずにはいられない珠玉の1枚なのです。

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