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マーラー(1860-1911)

SACD 【中古:盤質A】 交響曲第7番『夜の歌』 インバル&チェコ・フィル(2SACD)

【中古:盤質A】 交響曲第7番『夜の歌』 インバル&チェコ・フィル(2SACD)

商品ユーザレビュー

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検索結果:7件中1件から7件まで表示

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    エーテルの風  |  長野県  |  不明  |  2014年06月13日

    非の付け所のない名演とはこのような演奏を言うのだろう。とにかく安心して聴けるのだ。ただ、この演奏の後、アバド/ベルリンpoのCDを続けて聴いたら「やぱ自分はアバド盤のほうが好き」という感想を持った。インバル盤に難癖つけるとすれば、”水清ければ魚住まず”的な面白さには欠けることだと思う。この場合、水の「濁り」とは個性であり、例え曲がつまらなくても、その「濁り」を鑑賞することで満足が得られるという 唯一無比のクセである。個人的にはこの曲=夜の歌 は、やはり終楽章があまり好きになれないのだが、そのような場合でもアバドの「個性」には耳が惹きつけられ、退屈はしなかった。その点 インバル盤では、終楽章になると急に(=曲がつまらなくなると急に)演奏自身も吸引力がなくなってしまった。

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  • ★★★★☆ 

    ほんず内閣総理大臣  |  北海道  |  不明  |  2013年12月13日

    これはまことに充実した立派な演奏。「名演」とかいうような一語で表現しうるものではないですな。ミクロからマクロまで、とにかく指揮者の意思が行きわたっていて、表情に「意味」が感じられる。テンポの緩急も音量の増減も、一切の踏み外しや思いつきはなく、確固たる姿勢。かつてはとっつきにくかったこの交響曲(演奏者も聴き手も)、いまやこうした見事な演奏を存分に味わえる時代となりました。この演奏の成功には、やはりチェコフィルの力が大きな意味を持っております。しっかりと練り上げられたアンサンブルと、特に木管に顕著な音色の魅力など、このオーケストラの良さが活かされております。聴き終えて大いに満足。但し、たとえばさらなる耽美やラストの豪快な開放を求めることもできましょうが、これはこれ、インバルさんの現在の高い境地をわれわれ聴き手もきちんと受け止めることとしましょう。録音は超優秀。弱音も強音もしっかり捉えられていることはもちろん、奥行きのある立体感が感じられるところが実に見事。すばらしいお仕事です。

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  • ★★★★★ 

    norry  |  東京都  |  不明  |  2012年02月11日

    「マーラー指揮者」とは、どんな指揮者のことをいうのだろうか。いろいろな考え方があるだろうが、私は、中期の5,6,7番を完全に自家薬籠中のものとして演奏できるか否かが最も重要な基準と考えている。というのも、この中期の3曲こそ、マーラーをマーラーたらしめているものだからである。言い換えれば、中期の3曲こそ、マーラーを他の作曲家と画然と異なる唯一無二の作曲家たらしめているということである。そのことを本当に理解できているかどうかこそ、マーラー指揮者がどうかの基準である。そして特に中期の3曲に対する理解の深さにおいて、インバルはまさに他の追随を許さない。それでは中期の3曲の特徴とは何か。4番までのマーラーにおいては、音楽(交響曲)は、自己の人生経験に基づいて認識した世界観や思想を表現する手段という位置づけであったが(ヘーゲル流に言えば即自的存在)、マーラーが作曲家、音楽家としての地位を確立した中期以降、マーラーにとって音楽(交響曲)は、人生や世界を記述する手段としてそれらと別のものではなく、人生と世界そのものとなった(ヘーゲル流にいえば対自的存在)。敢えて大胆に言い換えれば、マーラーという人間の人格とそれが認識する世界そのものが交響曲になったと言ってもいいだろう。従って中期の3曲は、それぞれに完結した、マーラーの人格と世界との関わりであるということができるだろう。それでは7番はどのようなマーラーの人格と世界との関りに対応するのであろうか。以前そのようなことを論じた人がいるかどうか分からないし、それが正しいかどうかも分からないが、私はその昔インバル・FRSOの録音でこの曲を初めて聴いて以来、聴くたびに、消費文明の象徴としての都市が持つ闇の深さや夢やギラギラとした輝きといったものを思い起こさずにはいられないのである。あるいは、都市に生きる近代人(としてのマーラー)の人格が有する反自然性がテーマなのではないだろうか。特に議論の多い終楽章は、音楽をはじめとするあらゆる芸術さえも消費の対象になってしまう都市の文明が放つあだ花のような輝きと言えないだろうか。マーラーはそれを予見していたかのようである。さて、今回のチェコフィルとの新録であるが、5番と同様に、FRSOとの録音にあった狂おしいまでの完璧さの追求は、ここでは見られない。むしろ、より自由になった表現と、多彩な音色が支配的である。それによって都市(にこだわる必要もないのだが)の夜のナマナマしい不気味さが、よりストレートに伝わってくる。本当は、この演奏のどこがどういう風にいいのか、説明するのがこういうレビューの役割なのだと思うが、そもそもインバルのマーラーは、そういった枝葉末節をアピールするのではなくて、上記のような曲や作曲家の本質にストレートに向き合わせてくれるところが何よりも素晴らしいのだ。だから敢えてここのテンポがどう、あそこの表現がどう、ということを論ずる気は起こらない。特にこの7番の場合、FRSOとの録音も、その昔聞いたベルリン放送響との実演も、この演奏も、説得力において本当に他の追随を許さない。

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  • ★★★★★ 

    村井 翔  |  愛知県  |  不明  |  2012年01月22日

    インバルとチェコ・フィルの蜜月は比較的短命に終わったようだが、相変わらず曲との相性が非常にいい。7番はフランクフルト放送響との全集中でも屈指の名演でベルリン放送響(現在のベルリン・ドイツ響)との来日公演の映像もあった。交響曲の理念そのものを茶化すようなこの「メタ交響曲」にインバルの細密な指揮は実にふさわしい。ただし、この録音では指揮のシャープさがマーラーを弾き慣れているチェコ・フィルの様式美にうまく補完されて、かつてほど鋭角的な印象はない。シャープな演奏を望むなら、前の全集録音を聴けばいいわけだから、これはこれで良いと思う。第1楽章の再現部に入るところで大きくタメを作るのも、最近のインバルらしい「巨匠風」スタイル。スケルツォではトリオで思いっきりテンポを落として、大きなコントラストを作る(指揮者の鼻唄がちょっとうるさいけど)。近年では「冷感症的」に奏でられることも多い第4楽章は、細かいテンポ・ルバートを使って、意外にロマンティックだ。終楽章はショルティ/シカゴほどではないが速いテンポで一気呵成に行く。ここでも第1楽章第1主題が回想される部分(ここはそもそも、とても不自然な接合のされ方に聴こえるように書かれているのだ)でのテンポの落差の作り方がうまい。

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  • ★★★★★ 

    つよしくん  |  東京都  |  不明  |  2011年12月29日

    インバルは現代最高のマーラー指揮者の一人と言える。インバルの名声を一躍高めることになったのは、フランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音したマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)であるが、その後も東京都交響楽団やチェコ・フィルなどとともに、マーラーの様々な交響曲の再録音に取り組んでいるところだ。本盤におさめられたチェコ・フィルとのマーラーの交響曲第7番の演奏も、そうした一連の再録音の一つであり、インバルとしては、前述の全集中に含まれた演奏(1986年)以来、約25年ぶりのものと言える。当該全集の中で、最も優れた演奏は同曲であった(全集の中で唯一のレコード・アカデミー賞受賞盤)ことから、25年の歳月が経ったとは言え、当該演奏以上の名演を成し遂げることが可能かどうか若干の不安があったところであるが、本盤の演奏を聴いて、そのような不安は一瞬にして吹き飛んでしまった。実に素晴らしい名演であり、正に、近年のインバルの充実ぶりが伺える圧倒的な超名演と言っても過言ではあるまい。かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。全集の中でも特に優れた名演である第7番についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。ところが、本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。オーケストラにチェコ・フィルを起用したのも功を奏しており、金管楽器、特にトランペットやホルンなどのブラスセクションの卓抜した技量は、本超名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。そして、SACDによる極上の高音質録音も、本超名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したいと考える。

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  • ★★★★★ 

    コーキロマンハ  |  兵庫県  |  不明  |  2011年12月23日

    チェコ・フィルのマーラーは安心して聴けます。正に、わが音楽、としている感じです。メンデルスゾーンとゲヴァンドハウス管のような関係でしょうか。金管、弦はどこまでも柔らかく、ドボルザークホールの響きと相俟って、7番がロマンたっぷりに演奏されていました。現代的、世紀末的な要素の濃いバーンスタイン・NYPの演奏と対極にある演奏、自分的にはやはりチェコ・フィルの演奏を採ります。

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  • ★★★★★ 

    コーキロマンハ  |  兵庫県  |  不明  |  2011年12月23日

    チェコ・フィルのマーラーは安心して聴けます。正に、わが音楽、としている感じです。メンデルスゾーンとゲヴァンドハウス管のような関係でしょうか。金管、弦はどこまでも柔らかく、ドボルザークホールの響きと相俟って、7番がロマンたっぷりに演奏されていました。現代的、世紀末的な要素の濃いバーンスタイン・NYPの演奏と対極にある演奏、自分的にはやはりチェコ・フィルの演奏を採ります。

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