ヘンツェ、ハンス・ヴェルナー(1926-2012)

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CD

交響曲全集 マレク・ヤノフスキ&ベルリン放送交響楽団(5CD)(日本語解説付)

ヘンツェ、ハンス・ヴェルナー(1926-2012)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
KKC5779
組み枚数
:
5
レーベル
:
:
日本
フォーマット
:
CD
その他
:
限定盤

商品説明


ヘンツェ:交響曲全集
ヤノフスキ&ベルリン放送響
詳細な日本語解説付きの国内盤で登場!


この交響曲全集は、ヘンツェが54年間に渡って契約していたドイツの楽譜出版社ショット社のグループ企業であるヴェルゴ・レーベルが制作したもので、ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団のクオリティの高い録音により全10曲をまとめて聴くことができます。
 今回、ヘンツェ没後5周年企画として登場する国内盤は、輸入盤ボックスに、44ページの日本語ブックレットを添付したもので、35,000字を超えるその内容は、トマス・シュルツによる詳細な楽曲解説の日本語訳と交響曲第9番の歌詞の日本語訳となっており、鑑賞時に非常に役に立つ内容となっています。

人気と需要のあったヘンツェの音楽
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェは、20世紀中盤以降の現代に活動した作曲家の中では多作でした。現代作曲家の場合、委嘱を受けて作曲することが多いため、その作品数は人気や需要にある程度比例しているとも考えられ、ヘンツェの場合には商業録音の多さからもその人気ぶりがうかがえます。
 理由としては、カバーする作品の範囲が、交響曲、管弦楽曲、バレエ音楽、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、歌曲、合唱曲、宗教音楽、オペラ、劇音楽、映画音楽、自由な曲、そして編曲と非常に幅広く、投入される技法も、バロック、古典派、ロマン派、後期ロマン派、近代、無調、12音、ライヴ・エレクトロニクス、ジャズ、ロック、民俗音楽など多岐に渡り、しかもひんやりクールな音楽だったり、大音量で圧迫感が強烈だったり、明るくポップだったり、晦渋だったり、オスティナートが凄かったり、リズムが激しかったりとその傾向も実にさまざま。
 1973年には、シュレンドルフ監督の反戦映画『テルレスの青春』のために書いた音楽の中の「弦楽のためのファンタジア」が、大ヒット映画『エクソシスト』のエンド・タイトルに転用されて一躍有名になったりもしていました。

R.シュトラウスの再来?
現代のリヒャルト・シュトラウスとも譬えられたヘンツェは、印象に残るオペラやオーケストラ作品を数多く作曲。アイデアの豊富さや構成力、巧みな管弦楽法に魅力的な旋律を駆使して、作品発表時には少なからず話題になり、しかもみずから指揮もおこない、文学の天才たちとも親密な関係にあったというあたりもどこかリヒャルト・シュトラウスを思わせます。

ヘンツェと交響曲
20世紀中盤以降の作曲家たちが敢えて遠ざかった「交響曲」という形式も、旺盛な好奇心で様々な題材にチャレンジし、楽想を熟達した技術でスコアにまとめていったヘンツェにとっては、十分に存在意義のあるものだったと思われ、1947年に書かれた交響曲第1番から、2000年に完成した交響曲第10番まで、半世紀以上に渡って取り組んでいました。10曲の概要は以下の通りです。

交響曲第1番 [約21分/3楽章構成/室内オーケストラ/1947]
20歳の時に完成した作品。ヘンツェはのちにこの初期の版を「完全に間違っている」とし、1964年にベルリン・フィルを指揮して自作交響曲5曲をまとめて指揮・録音する際に前年に改訂、さらに1991年に再度ベルリン・フィルを指揮して交響曲第1番を演奏する機会があったため、そこでも若干の改訂を施しており、ヤノフスキの録音ではそのヴァージョンが用いられています。
 ヘンツェ自身は改訂について「リズム、和声、メロディといった要素はオリジナルのままで、緩徐楽章にはほとんど手を加えていない。それでも全てが新しく、違っており、そしてずっと良い」と述べていますが、実際には、第1楽章と第3楽章は単なる改訂にとどまっておらず、実質的に新しい作品になっているということです。もともと小編成の作品でしたが、この改訂版ではファゴット、トロンボーン、チューバと、ティンパニ以外の打楽器が除かれ、かわりにハープ、ピアノ、チェレスタが加えられています。
 作風はストラヴィンスキーやヒンデミットの影響を感じさせながらもヘンツェらしい透明感のある響きが印象的なもので、特に第2楽章の美しさは格別です。

交響曲第2番 [約18分/3楽章構成/3管編成オーケストラ/1949]
23歳の時に完成した作品。前年にレイボヴィッツとルーファーに師事して12音技法を習得したヘンツェは、この作品で12音技法を使用。前衛作曲家たちが通常の「交響曲」を書かなかったため、こうした伝統的な様式感のある作品の中に12音技法が効果的に使用されるのはなかなかの聴きものとも言えます。メロディ的な部分など随所に調性音楽的な部分も見られ、終楽章のクライマックスではバッハのカンタータ第1番『輝く暁の明星のいと美わしきかな』のコラール引用もあります。ストラヴィンスキーやバルトーク、新ウィーン楽派的な雰囲気も楽しめるコンパクトな傑作。ヘルマン・シェルヘンに献呈。

交響曲第3番 [約24分/3楽章構成/3管編成オーケストラ/1950]
24歳の時に完成した作品。第1楽章「アポロの召喚」、第2楽章「酒神礼賛」、第3楽章「魔法の踊り」から成り、ストラヴィンスキーや新ウィーン楽派的な雰囲気も楽しめる内容となっています。

交響曲第4番 [約22分/1楽章構成/3管編成オーケストラ/1955]
29歳の時に完成した作品。大作オペラ『鹿の王』の初演に際しては、指揮者のシェルヘンが暴君化し、実に半分ほどの部分をカットしてしまいますが、その中に含まれていたのがこの交響曲に使われた第2幕のフィナーレです。オペラの幕切れといっても伝統的な交響曲形式に近い様式で書かれており、1楽章形式の作品の中に季節感まで盛り込んだ展開となっているのもユニーク。序奏〜ソナタ形式の部分が「夏」で第1楽章的な音楽、アダージョが「秋」で第2楽章的な音楽、スケルツォが「冬」で第3楽章的、フィナーレが「春」で第4楽章的な音楽となっています。完成から8年後の1963年に作曲者指揮ベルリン・フィルにより初演。オペラと同じくベルリン芸術週間での上演でした。

交響曲第5番 [約20分/3楽章構成/変則4管編成オーケストラ/1962]
36歳の時に完成した作品。クラリネットとファゴットを欠きながらも、アルトフルートにコーラングレ2本を含むという変則的な大編成オーケストラ。ピアノも2台登場。強烈な終楽章エンディングが印象的なダイナミックな作品で、人気作『若い恋人たちへのエレジー』からの引用も含みながら、都会生活の官能や喧噪を、激しいリズムや熱いクレッシェンドの連続などで描いています。ニューヨーク・フィルの委嘱作。

交響曲第6番 [約40分/3楽章構成/2つの室内オーケストラ/1969]
43歳の時に完成した作品。1968年にチェ・ゲバラ追悼オラトリオを発表して物議をかもしたヘンツェは、翌1969年、ゲバラを失ったキューバの文化評議会から招かれます。現地の文化や自然に親しんだヘンツェは、文化評議会の依頼を受けて交響曲第6番を書き上げ、ハバナの国立交響楽団を自身で指揮して初演します。
 作品はそれまでのクラシカルなスタイルと一線を画すものとなり、規模も2倍、民俗音楽やクラスター、微分音などアヴァンギャルドの要素も取り込み、ベトナム解放民族戦線の歌『夜の星』も使用され、オーケストラも2群で構成、楽器もエレクトリック・ヴァイオリンやエレクトリック・ギター、ハモンド・オルガン、バンジョーまで使用する幅広さとなっています。
 なお、この作品は1994年に改訂されて偶然性なども取り込まれており、ヤノフスキは新しいヴァージョンの方で演奏しています。

交響曲第7番 [約35分/4楽章構成/4管編成オーケストラ/1984]
58歳の時に完成した作品。ヘンツェ15年ぶりの交響曲作曲はベルリン・フィルからの委嘱によるもので、ヘルダーリンの詩作にインスパイアされた純器楽作品。ベートーヴェンの交響曲の伝統を意識しながら書かれたという作品で強烈なオースティナートやダイナミズムは迫力があります。楽器も、アルトフルート、ヘッケルフォン、コントラバス・クラリネット、コントラファゴット、バス・トロンボーン、コントラバス・トロンボーン、チューバなど低音楽器が大充実。

交響曲第8番 [約26分/3楽章構成/2管編成オーケストラ/1993]
67歳の時に完成した作品。第7番から9年を経て書かれた第8番はボストン交響楽団からの委嘱作。ヘンツェは1988年にタングルウッド・ミュージック・センターのコンポーザー・イン・レジデンスに任命されていますが、その翌年、ロンドン・シンフォニエッタの指揮者、マイケル・ヴァイナーが若くして亡くなったため、室内オーケストラのための『レクィエム』に取り組み始め、1992年の夏に完成すると、この交響曲第8番にとりかかります。その間、ソ連共産党解散、ベルリンの壁崩壊と大きな出来事が続きましたが、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』にインスパイアされたこの作品は、軽やかな拍子と豊かな旋律が特徴となっています。

交響曲第9番 [約53分/7楽章構成/混声合唱と3管編成オーケストラ/1997]
70歳の時に完成した作品。アンナ・ゼーガースの小説『七番目の十字架』にもとづくテキストに作曲された合唱を伴う交響曲。7人の男が強制収容所から逃げ出そうとして失敗。士官たちは他の収容者たちへの見せしめとして、強制収容所の7本の木を切り倒し、十字架を作り、7人をはりつけにしようとします。しかし、7本目の十字架にはりつけるはずの男は脱走に成功。誰もいない7本目の十字架が、ファシズムへの抵抗・勝利の象徴として描かれるという内容です。ベルリン・フィルの委嘱作。

交響曲第10番 [約39分/4楽章構成/4管編成オーケストラ/2000]
73歳の時に完成した作品。第1楽章「嵐」、第2楽章「賞賛」、第3楽章「舞踏」、第4楽章「夢」から成り、バーミンガム市響を念頭に書かれたということで、近現代音楽に強いオーケストラの多彩な響きが生かされた大編成オーケストレーションが聴きものとなっています。

ヘンツェと政治信条
ヘンツェは、対象国民加入率91%だったファシズム団体「ヒトラーユーゲント」に、大多数のドイツ人と同じく参加して少年時代を過ごし、大戦末期にはドイツ国防軍通信兵として戦車部隊と共にデンマークに出征、イギリス軍の捕虜となって北海近くの捕虜収容所で終戦を迎えています。戦後、ドイツ時代の活動地域は、イギリス、アメリカ、フランスの占領統治地域で、特に政治的なポリシーは無かったようです。
 また、1952年のオペラ『孤独大通り』の成功をきっかけに収入が大幅に増加し、翌年にはイタリアに移住、若い頃には嫌悪していたという裕福な暮らしを手に入れますが、豪邸「レプララ荘」を建設した1960年代なかばからは、当時、文化・芸術の分野でも一大ムーヴメントになっていた反戦や左翼的な価値観に「思想的」に共鳴、メッセージ性を持った文学作品にインスパイアされた音楽も書くようになり、70年代にかけて一時はイタリア共産党に所属するなどしていました。
 1965年に書かれた初期の反戦作品、『イン・メモリアム:白いバラ』は、12人編成の器楽作品。戦時中にミュンヘン大学の学生5人と教授1人によっておこなわれた反ナチ抵抗運動の6人の犠牲者に捧げられています。
 1968年に書かれたオラトリオ『メデューズ号の筏』は、反戦作家エルンスト・シュナーベル[1913-1986]のテキストに付曲したもので、ボリビア大統領に処刑された革命家チェ・ゲバラ[1928-1967]の思い出に捧げられた作品ということもあり、ハンブルクでの初演の際には警察沙汰の騒動となり、RIAS合唱団などがボイコットして演奏が取りやめになるなど話題にもなりました。
 同じ1968年に書かれた『豚のエッセイ』は、チリ生まれの詩人ガストン・サルヴァトーレ[1941-2015]の詩を用いた声楽曲。
 1969年から1970年にかけてヘンツェはカストロ政権化のキューバのハバナに滞在して研究・創作や教育活動を展開。文化評議会からの委嘱作、交響曲第6番にはベトナム解放民族戦線の歌『夜の星』の断片を織り込み、ツトム・ヤマシタのパーカッションを念頭に書いた『エル・シマロン』にはキューバ人奴隷の一生が描かれ、同じくパーカッションを重視した『刑務所の歌』では、ホー・チ・ミンの日記を使用、ガストン・サルヴァトーレの詩を用いた『ナターシャ・ウンゲホイエル家への険しい道のり』ではパーカッションや金管とのやりとりで、みずからが属するブルジョワジーの一般的な価値観を皮肉るなどしていました。
 その後、左翼的な活動は沈静化して行きますが、反戦的な創作姿勢は継続、シュレンドルフ監督の反戦映画『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』(1975)の音楽や、イギリスの反戦作家エドワード・ボンド[1934- ]のテキストに付曲したオペラ『われわれは川に来た』(1976)、合唱曲『鉄条網の向こうのオルフェウス』(1983)、そしてドイツのアンナ・ゼーガース[1900-1983]の小説『七番目の十字架』をもとにハンス=ウルリッヒ・トライヒェルが作詞したテキストを用いた交響曲第9番(1997)などを書いています。


【ヘンツェ・プロフィール】
ギュータースロー
1926年
●7月1日、ドイツ北西部、ノルトライン=ヴェストファーレン州のビーレフェルト近郊の小都市ギュータースローに誕生。
●父フランツ・ゲプハルト・ヘンツェ[1898-1945]は、少年時代に第1次世界大戦に出征、70万人が死傷した激戦地ヴェルダンで負傷した人物で、戦後はビーレフェルトの学校を運営するなど教育の仕事に就いていました。

1931年
●5歳でピアノのレッスンを開始。

デュンネ村
1933年
●ドイツ国民の絶大な支持によりヒトラー政権が誕生すると、進歩的な校風が新政権の政策と合わなかったビーレフェルトの学校は閉鎖に追い込まれ、父フランツは失職。
●ヘンツェ家は、ギュータースローの北西約30キロのところにあるデュンネ村に移り住み、職を得るために父フランツは国家社会主義ドイツ労働者党に入党、制服を着用してプロパガンダに携わるなど熱烈なナチ党員に変貌します。

1938年
●1936年12月に成立したヒトラーユーゲント義務化法は、10歳から18歳の健康な「ドイツ人全員」を対象としたもので、違反者には罰金や拘禁処置もあったため、ヘンツェとその兄弟も、父によってヒトラーユーゲントに参加させられます。ちなみに1936年に約440万人だったヒトラーユーゲント構成員は、1937年に約580万人、1938年に約700万人、1939年には約810万人に達するという増え方で、1939年当時の対象者人口は約887万人だったので、その時点での加入率は実に91%と非常に高いものとなっています。ヒトラーユーゲントは健康志向で、ヒトラーが熱中した禁煙運動、アルコールやカフェイン飲料の禁止(節減)、菜食などに関する運動が推進されましたが、ヘンツェは生涯、酒と煙草を好んでいました。
●ヘンツェ12歳、ゲオルク・トラークル[1887-1914]やフランク・ヴェーデキント[1864-1918]、フランツ・ヴェルフェル[1890-1945]、トーマス・マン[1875-1955]、フーゴ・フォン・ホフマンスタール[1847-1929]、シュテファン・ツヴァイク[1881-1942]、ベルトルト・ブレヒト[1898-1956]などの文学作品を読み耽り、また、この頃から作曲も開始しています。

ブラウンシュヴァイク
1942年
●16歳のヘンツェは、デュンネ村の東約120キロのところにある地方都市ブラウンシュヴァイクのニーダーザクセン音楽学校に入学、ピアノをエルンスト・シャハトに、和声をルドルフ・ハーティングに師事したほか、オーケストラのティンパニストとして打楽器を学びます。ヘンツェには早くから同性愛的傾向がみられましたが、当時のドイツ政府は、ドイツ人男性の同性愛者については強制収容所送りとし、多くを虐待、殺害もしていたため、父フランツは、国家社会主義ドイツ労働者党直属の軍隊である「武装親衛隊」が運営するブラウンシュヴァイク軍楽学校に入学させたがっていましたが、ヘンツェはこれに反発、同じブラウンシュヴァイクのニーダーザクセン音楽学校に進んでいます。

1943年
●父フランツが陸軍に志願して再び従軍、1945年、東部戦線(独ソ戦)で落命。

1944年
●ヘンツェ17歳で徴兵。ドイツ国防軍の通信兵としてマクデブルクで数か月間の訓練を受けますが、その間、軍事教練フィルム担当の一員となったため、多くの役務を除外されています。しかしやがて戦車部隊と共にベルリンを経てデンマークに向かうこととなり、塹壕戦などを経て敗北、イギリス軍の捕虜に。北海近くの捕虜収容所で終戦を迎えていますが、この収容所ではBBCの音楽番組を聴くことが許されており、若きヘンツェにとって大きな刺激となりました。

ビーレフェルト
1945年
●終戦後、連合国の軍政による占領統治下、ヘンツェ家はビーレフェルトに転居。長男だったヘンツェは母と兄弟の面倒をみるために運送の仕事などをおこないますが、やがて、ビーレフェルト市立劇場のコレペティートアの職を志願して獲得。イギリス軍統治地域のビーレフェルト市は、ヘンツェの生地ギュータースロー市と、少年期を過ごしたドゥンネ村のちょうど中間にある都市で、終戦後の大規模な人口流入によって人口10万人から一気に数万人も増えたという地方都市。ヘンツェはここで、練習ピアニストとして、歌手やバレエ・ダンサーに音楽面での稽古をつける仕事でプロの音楽家としての活動を開始。のちのヘンツェの作曲にも大きな影響を及ぼすこととなります。


ハイデルベルク
1946年
●ビーレフェルトの南約300キロのところにあるアメリカ軍統治地域の地方都市ハイデルベルクに移り住み、ハイデルベルク教会音楽学校で音楽理論を勉強。その師は、かつてヒトラーユーゲントのオーケストラの指揮者でもあった作曲家のヴォルフガング・フォルトナー[1907-1987]でした。
●フォルトナーのハイデルベルク教会音楽学校での講義は、戦前には「文化ボルシェヴィズム」と攻撃された種類のもので、ハイデルベルク室内管弦楽団を創設して新しい音楽を取り上げたりもしていましたが、やがてヒトラーユーゲントのオーケストラの音楽監督も務めるようになります。戦時中は衛生兵として軍務に就き、国家社会主義ドイツ労働者党にも入党していましたが、戦後は非ナチの分類となって、ハイデルベルク教会音楽学校での活動を再開し、ダルムシュタット夏季講習でも教えていました。フォルトナーは数多くの作曲家に影響を与えており、ヘンツェのほか、ベルント・アロイス・ツィンマーマン[1918-1970]、ハンス・ツェンダー[1936- ]、ヴォルフガング・リーム[1952- ]といった錚々たる面々を育てています。
●技術を習得したヘンツェの作曲活動はこの頃から本格化し、師フォルトナーと共に、アメリカ軍統治地域のダルムシュタットでおこなわれた第1回ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加。ピアノ、フルート、弦楽のための「室内協奏曲」の初演で成功を収めたことにより、楽譜出版のショット社と契約、以後、2000年までの54年間に渡ってその関係は継続することとなります(2001年以降は英チェスター・ミュージックと契約)。
作品 ピアノ、フルート、弦楽のための室内協奏曲、ヴァイオリンソナタ

1947年
●第2回ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加。ヒンデミットの『教育用音楽』を指揮。フォルトナーのほか、ヘルマン・シェルヘン[1891-1966]、カール・アマデウス・ハルトマン[1905-1963]らに師事。
●交響曲第1番をシェルヘンがダルムシュタットで指揮する予定でしたが、楽譜準備のトラブルにより第2楽章のみ演奏。
作品 交響曲第1番、ヴァイオリン協奏曲第1番、弦楽四重奏曲第1番、ピアノと弦楽、金管、打楽器のためのコンチェルティーノ、ソナチネ1947、5つのマドリガル

ゲッティンゲン
1948年
●ドイツ中部、イギリス軍統治地域のゲッティンゲンに転居。
●イギリス軍文化担当将校から招かれてイギリス軍統治地域のハンブルクでおこなわれたサドラーズ・ウェルズ・バレエ団の公演を鑑賞。演目はフレデリック・アシュトン振付によるストラヴィンスキー作品で、ヘンツェは大いに感銘を受け、『バレエ変奏曲』を書いてアシュトンに手紙を書きます。
●十二音技法を習得して作曲技法の選択肢を拡大。最初ミュンヘンでヨーゼフ・ルーファー[1893-1985]に師事し、のちにダルムシュタットとパリでルネ・レイボヴィッツ[1913-1972]の教えを受けています。
●交響曲第1番をフォルトナーが指揮して初演。ダルムシュタットで前年に初演予定でしたが準備が間に合わずイギリス軍統治地域のバート・ピルモントでの初演となりました。
作品 混声合唱と管弦楽のための『囚われたトロイ人』、オペラ『不思議な劇場』、ピアノのための変奏曲、ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための室内ソナタ、カンタータ『天上の死のささやき』、子守歌

1949年
●連合国によるドイツ占領統治が軍政から民政に移行。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生。
●ドイツ南部、フランス統治地域のコンスタンツの演劇拠点「ドイツ劇場」で、俳優で監督のハインツ・ヒルパート[1890-1967]にヘンツェが音楽面で協力。
●交響曲第2番がハンス・ミュラー=クライ[1908-1969]指揮南ドイツ放送響によりアメリカ統治地域のシュトゥットガルトで初演。もともとはダルムシュタットでの演奏を念頭に書かれたものでしたが、運良く南ドイツ放送から作曲委嘱があったため、この作品を委嘱作とします。
作品 交響曲第2番、バレエ『ジャック・プディング』、カンタータ『アポロとヒュアキントス』、オペラ『不思議な劇場』、バレエ変奏曲、ピアノのための変奏曲、無伴奏チェロのためのセレナーデ、舞踊音楽『プルチネッラ氏の絶望』


ヴィースバーデン
1950年
●アメリカ統治地域の西ベルリンに転居。
●ドイツ中西部、アメリカ統治地域の地方都市ヴィースバーデンのヘッセン州立劇場バレー団の指揮者兼音楽監督に就任し、同地に転居。
●作曲の勉強も継続し、ボリス・ブラッハー[1903-1975]、ゴットフリート・フォン・アイネム[1918-1996]らに師事。
●作曲家ルイージ・ノーノ[1924-1990]と交流。
●戦後のドイツでは、人口約6500万人に対し、処罰を免れた約800万人以上の元ナチ党員と党友が普通に生活、占領統治下ながら行政システムも戦時中からほぼそのまま継続していたため、社会には同性愛者に対する排他的な志向も根強く残っており、ヘンツェも自殺未遂寸前まで追い込まれています。
作品 交響曲第3番、ピアノ協奏曲第1番、バレエ『ローザ・シルバー』、『オルフェウスの墓』

1951年
●ドイツ南部、フランス統治地域でおこなわれたドナウエッシンゲン音楽祭でハンス・ロスバウト[1895-1962]指揮南西ドイツ放送響により交響曲第3番初演。
●イギリス統治地域のデュッセルドルフでロベルト・シューマン賞受賞。
●初のイタリア旅行。さまざまな感銘を受けます。
作品 オペラ『孤独大通り』、バレエ『ラビリンス』、『孤独大通り』交響的間奏曲

ミュンヘン
1952年
●ドイツ南部、アメリカ統治地域のミュンヘンに転居。
●現代版『マノン・レスコー』ともいわれるオペラ『孤独大通り』がイギリス統治地域のハノーファーで初演され大成功。
●バレエ『ラビリンス』初演。
●楽譜出版のショット社がヘンツェに対して、指揮の定職から離れ、作曲に専念することを条件に、ロイヤリティの大幅増額を打診。
●オペラ『鹿の王』に着手。
●イギリス統治地域のケルン音楽大学で音楽劇を教育指導。
●1950年のノーノとの出会いやイタリア旅行で左翼思想の影響を受け、実際に政治的な作品も手がけた結果、西側連合国の支配下にあった西ドイツでは活動がしにくくなったため、イタリアへの移住を決意(イタリアの連合国占領統治は1947年にほぼ終了)。
●バレエ・パントマイム『愚か者』の共同作業で、オーストリアの女性作家で詩人のインゲボルク・バッハマン[1926-1973]と親しくなります。
作品 放送オペラ『村の医者』、弦楽四重奏曲第2番、管楽五重奏曲、バレエ・パントマイム『愚か者』、『タンクレーディ』組曲


イタリア/イスキア島
1953年
●温暖なナポリ湾のイスキア島に移住。以後亡くなるまでの59年間、イタリアを拠点として生活。
●最初のパートナーとなったのは、前年に意気投合した女性作家で詩人のインゲボルク・バッハマン。ヘンツェと同じく父親がナチ党員というトラウマを抱え、同じく詩人ゲオルク・トラークル[1887-1914]の賛美者でもあったバッハマンは、高名なユダヤ系ドイツ人詩人パウル・ツェラン[1920-1970]や、スイスの作家マックス・フリッシュ[1911-1991]と恋愛関係もあった人物ですが、同性愛者だったヘンツェとはプラトニックな友人関係でした。ヘンツェは知人に彼女を紹介するとき、冗談めかして自分の娘とか、自分の妹だと嬉しそうに語っていたと言います。
●バッハマンはイスキア島で精力的に執筆、自分の作品のほかに、ヘンツェのためにも書き、オペラ『ホンブルク公子』、オペラ『若き貴族』、『ある島の歌』、『ドストエフスキーのためのパラフレーズ』、『夜曲とアリア』などが生み出されます。
●イスキア島にはイギリスの作曲家ウィリアム・ウォルトン[1902-1983]が1948年から1983年まで暮らしており、ヘンツェとも交流。ウォルトンはヘンツェを高く評価し「10年後には世界で最も有名な作曲家になるだろう」と語ってもいました。
●前年に書いたカフカ原作の放送オペラ『村の医者』でイタリア放送協会のイタリア賞を獲得。
作品 放送オペラ『世界の終わり』、チェロと管弦楽のための『西風への頌歌』

1954年
●作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー[1882-1971]、振付師フレデリック・アシュトン[1904-1988]と交流。
作品 フィナーレ:ヴィヴァーチェ・アッサイ(モーツァルトのディヴェルティメント第12番のための)

ナポリ
1955年
●ナポリのロトンダ荘にバッハマンと共に転居。
●ダルムシュタット夏季講習に講師として参加。作曲家カールハインツ・シュトックハウゼン[1928-2007]と交流
作品 交響曲第4番、管弦楽のための4つの詩

1956年
●ロンドンでシベリウス・メダル授与。
●オペラ『鹿の王』がベルリン芸術祭で初演。指揮のヘルマン・シェルヘンが反動的と判断した部分を強引にカットした短縮版での上演となったため、ヘンツェはやむなく1962年にオペラ『鹿の王、または真実の放浪』という短縮版を書き上げ、各国での上演に漕ぎつけますが、1985年には『鹿の王』の本来の姿である完全版をドホナーニがシュトゥットガルトで初演しています。ちなみに前年に完成した交響曲第4番は、もともと『鹿の王』の第2幕フィナーレとして書いていた音楽をもとに作られたものということなので、ヘンツェ」の『鹿の王』へのこだわりが感じられます。また、カルロ・ゴッツィ[1720-1806]の原作を台本化したのは、ヘンツェと同じく1953年にドイツからイタリアに移住したドイツの放送作家で脚本家のハインツ・フォン・クレーマー[1924-2009]でした。
●映画監督・演出家のルキノ・ヴィスコンティ演出によるバレエ『マラトンの踊り』の音楽を作曲。
作品 3つの交響的練習曲、5つのナポリ民謡、バレエ『マラトンの踊り』、オペラ『鹿の王』

1957年
●ノルトライン=ヴェストファリア芸術賞受賞。
作品 バレエ『ウンディーネ』、ソプラノと管弦楽のための『夜曲とアリア』


1958年
●コヴェントガーデンでバレエ『ウンディーネ』上演。
●社会派詩人ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー[1929- ]と交流。
作品 『3つのヘルダーリン断章』、室内オーケストラのための『3つのディオニュソス賛歌』、テノール、ギター、8つのソロ楽器のため室内音楽、室内音楽1958、弦楽ソナタ

1959年
●ベルリン芸術賞受賞。
作品 オペラ『公子ホムブルク』、バレエ『皇帝のナイチンゲール』、ピアノ・ソナタ

1960年
●ローマに転居。
●西ベルリン芸術アカデミー会員に選出(1968年まで)。
●作曲家パウル・デッサウ[1894-1979]、演出家ルート・ベルクハウス[1927-1996]、音楽学者・作曲家のテオドール・アドルノ[1903-1969]と交流。
作品 『アンティフォネ』

ローマ近郊、カステル・ガンドルフォ
1961年
●ローマ近郊、アルバーノ湖ほとりの避暑地カステル・ガンドルフォに転居。
●新古典的で自由な作風の『若い恋人たちへのエレジー』がシュヴェツィンゲン音楽祭で初演され成功。
●ハノーファー・ニーダーザクセン芸術賞受賞。
作品 オペラ『若い恋人たちへのエレジー』、『シックス・アブセンス』

1962年
●ザルツブルク・モーツァルテウムで作曲のマスタークラス開講(1967年まで)。
作品 交響曲第5番、カンタータ『新たな限りなき称賛』、オペラ『鹿の王、または真実の放浪』(『鹿の王』の短縮版)

1963年
●アラン・レネ[1922-2014]監督のフランス映画『ミュリエル(または再会の時)』のための音楽を作曲。第2次世界大戦とアルジェリア戦争に翻弄された人々の戦後、過去へのこだわりと複雑な人間関係を描いた作品で、クールな器楽部分とリタ・シュトライヒの歌う歌曲の交錯するヘンツェの音楽の筆致は冴え渡っています。ちなみに「ミュリエル」は、主人公の息子がアルジェリア戦争で仲間と共に拷問で殺害してしまった現地の少女の名前。
●バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルが交響曲第5番を初演(5月)。 ●オペラ『鹿の王』の素材による交響曲第4番をベルリン・フィルを指揮して初演(10月)。
●初のアメリカ旅行でアーロン・コープランド[1900-1990]とニューヨークで交流。
●パリでフランシス・プーランク[1899-1963]、ジャン・コクトー[1889-1963]らと交流。
●ベルリン大学で音楽と政治の関係について講演。
●イタリアの小説家エルサ・モランテ[1912-1985]と交流。『終末の寓話のカンタータ』が誕生。
作品 アリオーソ集、カンタータ『美しくあること』、『終末の寓話のカンタータ』、『ルーシー・エスコット・ヴァリエーション』、管弦楽のための幻想曲『ロス・カプリチョス』、八重奏のための4つの幻想曲

1964年
●ヘンツェ38歳、ローマのアンティーク・ショップで働いていた20歳のファウスト・ウバルド・モローニ[1944-2007]と出会って親しくなり、以後、2007年にモローニが癌で亡くなるまで生涯のパートナーとして43年に渡って共同生活。
作品 オペラ『若き貴族』、バレエ『タンクレーディ』、オペラ・ブッファ『世界の終わり』、『不思議な劇場』新ヴァージョン、放送オペラ『村の医者』、『ある島の歌』


1965年
●1943年にミュンヘン大学の学生5人と教授1人によっておこなわれた反ナチ抵抗運動『白いバラ』の6人の犠牲者に捧げられた作品「イン・メモリアム」がマデルナによってボローニャで初演(3月)。
●ベルリン・フィルをみずから指揮して交響曲第1番から第6番をドイツ・グラモフォンでセッション録音(6月)。
●ザルツブルク音楽祭でオペラ『バッカスの巫女』がドホナーニの指揮で初演(6月)。
●インゲボルク・バッハマン、ギュンター・グラス[1927-2015]と共に、ドイツ社会民主党党首ヴィリー・ブラント[1913-1992]の選挙応援。
作品 イン・メモリアム『白いバラ』(12の楽器のための2重フーガ)、オペラ『バッカスの巫女』

ローマ近郊のマリノ
1966年
●ローマ近郊、アルバーノ湖ほとりの避暑地マリノにレプララ荘を建設。家屋は建築面積510uでテニス・コートとプールも併設。1ヘクタールの菜園からは野菜や果物のほか、毎年200リットルのオリーヴ・オイルも収穫。以後、このレプララ荘を拠点に亡くなるまでの半世紀近くを過ごします。
●『若い恋人たちへのエレジー』日本初演のため初来日。
作品 コントラバス協奏曲、『タンクレーディ』、オーボエとハープ、弦楽のための二重協奏曲、弦楽のためのファンタジア(映画『テルレスの青春』の音楽から)、『シチリアのミューズたち』

1967年
●ゲーリー・カーがマルティノン&シカゴ響とコントラバス協奏曲を初演。
●アメリカ、ニュー・ハンプシャー州のダートマス大学客員教授に就任。
●西ドイツの社会学者で政治運動家のルディ・ドゥチュケ[1940-1979]と、ドゥチュケの友人で、チリ生まれの詩人ガストン・サルヴァトーレ[1941-2015]と交流。
作品 ピアノ協奏曲第2番、3つの劇的カンタータ『道徳』、『テレマニアーナ』

1968年
●西ベルリンで国際ベトナム会議に出席、ルディ・ドゥチュケとも旧交を温めます。
●チェ・ゲバラに捧げるオラトリオ『メデューズ号の筏』のハンブルクでの初演でトラブル発生。半年前に社会学者で政治運動家のルディ・ドゥチュケが頭に銃弾を3発撃ち込まれて殺されかけたことに怒った学生運動家たちが赤旗や黒旗を掲出するなどして警察も出動したため、RIAS合唱団などが反発してボイコットした結果(RIASはアメリカ軍占領地区放送局の略)、初演は取りやめに。しかしドイツ・グラモフォンによるセッション録音は本番前におこなわれていたため無事にリリース。
●東ベルリンの芸術アカデミー会員に選出。
●ドゥチュケの友人で、チリ生まれの詩人ガストン・サルヴァトーレの『豚のエッセイ』による作品をロンドンで初演。サルヴァトーレの詩は、3年後の『ナターシャ・ウンゲホイエル家への険しい道のり』でも使用。
作品 オラトリオ『メデューズ号の筏』、『豚のエッセイ』

1969年
●キューバのハバナに翌年まで滞在して研究・創作と教育面で活動。
●ベトナム解放民族戦線の歌『夜の星』などを用いた交響曲第6番をキューバで初演(10月)。
作品 交響曲第6番


1970年
●キューバで、4人の音楽家のための朗読劇『エル・シマロン』を作曲。エステバン・モンテホの自叙伝による逃亡奴隷を主人公にした物語で、イギリスのオールドバラ・フェスティヴァルで初演。翌年の『刑務所の歌』と『ナターシャ・ウンゲホイエル家への険しい道のり』と共に、ツトム・ヤマシタのパーカッションを念頭に書かれた音楽。
作品 『エル・シマロン』、ヴィオラと22人の奏者のための音楽『内なる問いのための羅針盤』

1971年
●イギリスの劇作家エドワード・ボンド[1934- ]と交流。のちにオペラ『われわれは川に来た』(1976)、『鉄条網の向こうのオルフェウス』(1983)が誕生。
●深井碩章らがヴィオラと22人の奏者のための音楽『内なる問いのための羅針盤』を初演。
●ホー・チ・ミンの日記を用いた『刑務所の歌』、みずからが属するブルジョワジーの一般的な価値観を面白い手法で皮肉った『ナターシャ・ウンゲホイエル家への険しい道のり』という左翼的音楽を作曲。
●ライヴ・エレクトロニクスの手法に関心を持ったヘンツェはヴァイオリン協奏曲第2番を作曲。
作品 『刑務所の歌』、『ナターシャ・ウンゲホイエル家への険しい道のり』、ヴァイオリン協奏曲第2番


1972年
●独奏ヴァイオリン、テープ、声と33人の器楽奏者のためのヴァイオリン協奏曲第2番初演。
●古代ローマ史上、最悪の皇帝と言われたヘリオガバルス(マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスの通称)についての管弦楽作品をショルティ指揮シカゴ交響楽団が初演。
作品 『ヘリオガバルス皇帝』

1973年
●『トリスタン』作曲。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』へのオマージュとして書かれたピアノ協奏曲的な音楽で、ワーグナーの対立要素としてブラームスの交響曲第1番冒頭も効果的に使用するなど面白い内容。
●カンタータ『マンネスマン社のストライキ』作曲。ドイツの大手鉄鋼メーカーの労働争議についての作品。
●フォルカー・シュレンドルフ監督の反戦映画『テルレスの青春』(1966)のために書いた音楽の中の「弦楽のためのファンタジア」が、大ヒット映画『エクソシスト』のエンド・タイトルに転用されて一躍有名に。
●かつてのパートナーで親友のインゲボルク・バッハマンがローマの自宅の火災により死去。47歳。
作品 ピアノとテープと管弦楽のための『トリスタン』、『キューバ人、あるいは芸術にささげた一生』、『声』、13人の俳優と器楽アンサンブルのためのカンタータ『マンネスマン社のストライキ』

1974年
作品 『カリヨン、レシタティーフ、マスク』、ソナチネ

1975年
●フォルカー・シュレンドルフ監督の反戦映画『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』の音楽を作曲。
●英国ロイヤル音楽アカデミー名誉会員に選出。
作品 金管アンサンブルのにための『ラグタイムとハバネラ』、小管弦楽のための協奏曲『カタリーナ・ブルーム』


1976年
●モンテプルチアーノ国際芸術祭を創設(1994年まで芸術監督在任)。
●ブラウンシュヴァイクでルートヴィヒ・シュポア賞受賞。
●過去の作品のオーケストレーションとして、カリッシミのオラトリオ『イェフタ』と、ワーグナーの『ヴェーゼンドンク歌曲集』に取り組みます。
●オーストリアに旅行。
作品 弦楽四重奏曲第3番、弦楽四重奏曲第4番、弦楽四重奏曲第5番、オペラ『ラ・マンチャのドン・キホーテ』、クラリネット、トロンボーン、チェロ、パーカッション、ピアノのための五重奏曲『友情!』、『王宮の冬の音楽』、オペラ『われわれは川に来た』

1977年
●バロック由来の『スペイン風フォリアのアリア』と『ヴィタリーノ・ラッドッピアート』に、シチリア島のサン・ビアージョ村の名と日時を冠した謎めいた作品『サン・ビアージョ8月9日12時7分』など作曲。
作品 室内オーケストラのための『スペイン風フォリアのアリア』、ヴァイオリンとアンサンブルのためのシャコンヌ『ヴィタリーノ・ラッドッピアート』、管楽五重奏曲『秋』、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、コントラバス独奏のための『サン・ビアージョ8月9日12時7分』

1978年
作品 『オルフェウス』、マリンバのための『雪国からの5つの情景』、演奏会用組曲『ラ・マンチャのドン・キホーテ』

1979年
作品 管弦楽のための『舟歌』〜パウル・デッサウの思い出に、ヴィオラ・ソナタ、ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ〜『おやゆびこぞう』の音楽から、管楽器とパーカッション、ピアノ、チェレスタ、コントラバスのための『アポロの勝利』


1980年
●音楽物語『おやゆびこぞう』を作曲。子供のための音楽祭「モンテプルチアーノ国際芸術祭」のために、親に見捨てられた子供たちが家をぬけだし、人食い鬼や狼など様々な困難に出会いながらも、ついには大人のいない国へと向かうというストーリー。
●ケルン音楽大学作曲科教授就任(1991年まで)。
作品 音楽物語『おやゆびこぞう』、ピアノ、チェンバロ、オルガン、管弦楽のための『バロック協奏曲』、メゾソプラノと器楽アンサンブルのための『ハーレムの王』

1981年
●ローマ・フィラルモニカ・アカデミー芸術監督。
作品 無伴奏チェロのための『カプリッチョ』、ピアノのための3つの細密画『ケルビーノ』、ギター、ハープ、チェンバロ、弦楽のための『オルフェウスのアリア』、チェンバロのための断章『エウリディーチェ』、クラリネットと13楽器のための『バラの奇跡』、モンテヴェルディ『ウリッセの帰還』の再構築

1982年
作品 7つの楽器のための『カンツォーナ』、フルート、ハープと弦楽のための『C.P.E.バッハへの思い』、『若いピアニストのための6つの小品』

1983年
●マルセル・プルースト原作、フォルカー・シュレンドルフ監督の映画『スワンの恋』の音楽を作曲。
●過激な作風で知られるイギリスの劇作家エドワード・ボンドのテキストに付曲したオペラ『イギリスの猫』と、合唱曲『鉄条網の向こうのオルフェウス』が初演。
作品 オペラ『イギリスの猫』、混声合唱のための『鉄条網の向こうのオルフェウス』、8本の金管楽器のためのソナタ、3つのオーデンの歌

1984年
●交響曲第7番がジャンルイージ・ジェルメッティ指揮ベルリン・フィルの演奏により初演。
●オーストリア、シュタイアーマルク州でドイチュランツベルク青少年音楽祭を設立。
作品 交響曲第7番、フルート、ギター、パーカッションと弦楽のための『ドイチュランツベルクのムーア人の踊り』、映画『スワンの恋』からのひとつの小さなフレーズ、6人の演奏家のためのソナタ

1985年
作品 管弦楽のための『ソレールの低音部によるファンダンゴ』、ヴィオラ、ギター、オルガンのための『自己との対話』、

1986年
作品 『小さなエレジー』(『テルレスの青春』の音楽からの素材をパロットが古楽器用に編曲)、ギターとアンサンブルのための『エオリアンハープに寄せて』、無伴奏ヴァイオリンのための『セレナーデ』

1987年
●英国ロイヤル音楽アカデミーの作曲科教授に就任。
作品 5つの小協奏曲


1988年
●タングルウッド・ミュージック・センターのコンポーザー・イン・レジデンスに任命。
●ミュンヘン・ビエンナーレを設立(1994年まで芸術監督)。
●恩師でもあったカール・アマデウス・ハルトマン[1905-1963]のスケッチから2作品を完成。
作品 『死から甦った男』(カール・アマデウス・ハルトマンのスケッチによる)、左手のためのピアノ曲『左手』、『真実のために』(カール・アマデウス・ハルトマンのスケッチによる)

1989年
●ベルリンの壁崩壊。
●ギュータースロー・ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ夏季アカデミー芸術監督就任。
作品 オペラ『裏切られた海』、雪のための3つの歌

1990年
●ジーメンス音楽賞受賞。
●ベルリン・ドイツ・オペラで、三島由紀夫の『午後の曳航』によるオペラ『裏切られた海』初演。左派だったヘンツェが日本の右派、三島由紀夫の作品に取り組んだことが話題になります。
作品 ピアノと弦楽のための『アニュス・デイ』『イントロイトゥス』、ヴァイオリンとピアノのための5つの夜曲、『ドストエフスキーのためのパラフレーズ』

1991年
●ベルリン・フィルハーモニーのコンポーザー・イン・レジデンスに任命。
●ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章受賞。
●ソビエト連邦共産党解散。
作品 ピアノと弦楽のための『アヴェ・ヴェルム・コルプス』『ディエス・イレ』『ルクス・エテルナ』、ピアノ五重奏曲、『ラ・セルヴァ・インカンタータ』、サテュロス劇『カリオペの審判』、2つのコンサート・アリア

1992年
●ピアノ、トランペット、室内管弦楽のための9つの宗教的協奏曲『レクィエム』が完成。70分を超える器楽大作で、若くして亡くなったロンドン・シンフォニエッタの指揮者、マイケル・ヴァイナー[1943-1989]の死を悼んで1990年から作曲していました。
●サントリーホールのサマーフェスティバルでヘンツェ・コンサート。
作品 宗教的協奏曲、チェロ、ハープ、弦楽のための序奏、主題と変奏、パイジェッロ『ヴェネツィアのテオドーロ王』のオーケストレーション、
●ザルツブルク科学芸術アカデミー会員に選出。
作品 宗教的協奏曲、チェロ、ハープ、弦楽のための序奏、主題と変奏、パイジェッロ『ヴェネツィアのテオドーロ王』のオーケストレーション、


1993年
●小澤征爾指揮ボストン交響楽団により交響曲第8番初演。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に基づく、軽やかな拍子と豊かなメロディが特徴の作品。
●メッツマッハー指揮アンサンブル・モデルンによりピアノ、トランペット、室内管弦楽のための9つの宗教的協奏曲『レクィエム』がケルンで初演。
作品 レクィエム、交響曲第8番、ヴァイオリン、チェロとピアノのためのセレナーデ『アダージョ・アダージョ』、『聖なる夜』、『歌曲と舞曲』

1994年
作品 ピアノのための『トッカータ・ミスティカ』、『情熱的に』(『裏切りの海』の幻想曲)

1995年
作品 オペラ『ヴィーナスとアドニス』、3つの管弦楽のための小曲、『羊飼いの歌』、『刑務所の歌』、ノットゥルノ、弦楽のための第2ソナタ、『プルチネッラ物語』、『ダンスのレッスン』、『ツィゴイネルワイゼンとサラバンド』

1996年
●モンテプルチアーノ市の名誉市民。
●ミュンヘン市特別文化賞。
●オスナブリュック大学音楽学名誉博士。
作品 管弦楽のための幻想曲『魔王』(シューベルト作品による)、『大気の息子』、6人のパーカッション奏者のための『ミノタウロス・ブルース』、『新しい民謡と羊飼いの歌』、

1997年
●交響曲第9番がメッツマッハー指揮ベルリン・フィルによるりベルリン芸術週間で初演。
●マリノ市の名誉市民。
●ベルリン・フィルよりハンス・フォン・ビューロー・メダル授与。
作品 交響曲第9番、ヴァイオリン協奏曲第3番、チェロ六重奏のための『マルガレート・ゲッデス哀悼』

1998年
●バイエルン州より科学と芸術のためのマクシミリアン勲章授与。
●マンチェスター王立音楽ノーザン・カレッジより名誉フェロー。
作品 『6つのアラビアの歌』、『7つのボレロ』、弦楽三重奏曲

1999年
●管弦楽のための『博愛』をマズア指揮ニューヨーク・フィルが初演。
作品 管弦楽のためのエア『博愛』


2000年
●ラトルがバーミンガムで交響曲第10番初演。交響曲第10番は、「嵐」「賛歌」「踊り」「夢」という4つの楽章から構成され、それぞれにベルク、シェーンベルクからストラヴィンスキー、さらにはジャズの要素まで盛り込まれています。ここに至るまでのヘンツェは、交響曲第7番では「ドイツ的なもの」を追求、第8番はベートーヴェンのように明るくテンポのよい音楽を書き、そして第9番では、ベートーヴェンと同じく合唱を用いながら、7人のユダヤ人がナチスの強制収容所から逃げ出そうとする物語を描きあげていました。その第9番が完成する前に、交響曲第10番の作曲をヘンツェに委嘱したのはサイモン・ラトルとパウル・ザッハーの二人ですが、ザッハーが1999年に亡くなってしまったため、2000年に完成したこの作品は、ザッハーの「思い出に」捧げられています。
●高松宮殿下記念世界文化賞受賞。
作品 交響曲第10番、『アイン・クライネス・ポプリ』

2001年
●『春の祭典』クラスの大迫力音楽、交響的略奪『マラトンの墓の上で』がハンブルクで初演。1956年にルキノ・ヴィスコンティ演出のバレエのために書いた『マラトンの踊り』をもとにした作品。
●ヴェストファリア音楽賞がハンス・ヴェルナー・ヘンツェ賞と改名。
●ドイツ・ダンス賞受賞。
作品 交響的略奪『マラトンの墓の上で』、16楽器のための『青い時間』、ピアノのための『岸辺のオリー』

2002年
●交響曲第10番がサイモン・ラトル指揮バーミンガム市響によりルツェルン音楽祭で初演。

2003年
●オペラ『ヤツガシラと息子の愛の勝利』がシュテンツ指揮ウィーン・フィルによりザルツブルク音楽祭で初演。
●レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ賞受賞。
●三島由紀夫によるオペラ『午後の曳航』が読響の定期で初演。
作品 オペラ『ヤツガシラと息子の愛の勝利』、『トリスタン』への前奏曲

2004年
●ミュンヘン音楽・演劇大学名誉教授。
作品 管弦楽のための『夢の中のセバスチャン』、管弦楽のための『シバの女王への五人の使節たち』

2005年
●ロンドンで倒れ、2カ月間の昏睡状態に陥ります。
●管弦楽のための『シバの女王への五人の使節たち』をマズアがパリで初演。
●管弦楽のための『夢の中のセバスチャン』をヤンソンス&コンセルトヘボウ管弦楽団が初演。

2006年
●三島由紀夫によるオペラ『午後の曳航』がザルツブルク音楽祭で上演。

2007年
●40年以上に渡るパートナーであったファウスト・モローニが癌のため死去。
●オペラ『フェードラ』がブリュッセルで初演。
●ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字星大綬章受賞。
作品 オペラ『フェードラ』

2008年
●ファウスト・モローニの思い出のためにラテン語テキストの合唱曲『エロギウム・ムジクム』を作曲。シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団&合唱団が初演。
作品 混声合唱と管弦楽のための『エロギウム・ムジクム(今は亡き最愛の人への賛美)』

2010年
●ヨーロッパ文化賞受賞。
●『ギゼラ! または不思議で有意義な幸福への道』、ドルトムントで初演。
作品 『ギゼラ! または不思議で有意義な幸福への道』

2012年
●シュターツカペレ・ドレスデンの常任作曲家就任を記念して開催される自作シリーズ公演立ち会いのための滞在中に倒れ、10月27日、ドレスデンの病院で死去。パーキンソン病の末期でした。
●遺体はヘンツェの自宅、レプララ荘のあるマリノに送られ、市営墓地に埋葬される葬儀の時刻には、マリノの官公庁、学校、企業が喪に服し、商店もシャッターを閉めるという形で弔意を示しました。ヘンツェはマリノの名誉市民で有名人でもあり、ヘンツェの没後は、レプララ荘は「ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ財団」の拠点として使用され、ヘンツェの音楽の普及に務めています。(HMV)


内容詳細

おそらく現時点では唯一のヘンツェ(1926〜2012)の交響曲全集。ほぼ生涯にわたって書き続けられた全10曲の交響曲は、そのままヘンツェの創作活動を俯瞰する。強いメッセージ性と新旧取り混ぜた作曲技法による作品を、ヤノフスキは精密・克明に再現している。オケも盤石だ。(教)(CDジャーナル データベースより)

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