カラヤン -人生・音楽・美学- 第XI章
Friday, March 20th 2009
最終章 1986〜89年 巨星落つ
文●阿部十三
「その死まで」カラヤンの健康状態はかんばしくなく、指揮台に立つ回数は極端に減っていた。1986年秋にはウィルス性の病気を患い、サントリー・ホールのこけら落とし公演を含むツアーをキャンセルした。
翌年1月にはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに登場。素晴らしい指揮で健在ぶりをアピールしたが、以後は災難やスキャンダルが続いた。中でも話題になったのは、1988年3月に『デア・シュピーゲル』誌に掲載された「お金の魔術師」という記事。カラヤンとベルリン・フィルが台湾でコンサートを行う条件として、彼らのツアーを仕切っているマネージメント会社“CAMI”が法外なギャラを台湾側に要求した、というものだ(結局、このツアーは流れた)。それでも5月に行われた最後の来日公演は大成功を収め、有終の美を飾った。
9月にはザルツブルク音楽祭理事会からの引退を発表(といっても91年まで指揮することが決まっていた)。同じ頃、ウィーン・フィルは理事会に対して待遇の向上を求めていたが、カラヤンの支持を得たことで、交渉を成功させることが出来た。カラヤンとウィーン・フィルの関係は理想的な状態にあり、それは演奏にも良い影響を与えていた。1989年2月にウィーン・フィルと行ったアメリカ・ツアーでは、それまでカラヤンに批判的だったメディアからも「孫の代にまで伝えたいコンサート」と絶賛された。
一方、ベルリン・フィルとは再び冷ややかな関係に戻っていた。側近のミシェル・グローツには、「この歳になって、自分と合わない人たちと演奏を続ける必要があるだろうか。自分と合う人たちと演奏できる幸せと可能性があるのに」と漏らしていたという。それに対し、グローツはこう提案した。「もう一度だけ彼らにチャンスを与えましょう。もうすぐあなたはザルツブルク復活祭音楽祭で彼らと顔を合わせます。この音楽祭の間に何かが修復できれば、もう一度別の視点から状況を見直して、話し合えるかもしれません」
しかし、4月のザルツブルク復活祭音楽祭で、カラヤンの我慢は限界に達する。彼がリハーサル前に団員たちに挨拶をすると、返事をしたのは15人から20人程度だった。「その瞬間、もう終わりだと悟った」とカラヤンはグローツに語っている。
4月23日、ウィーン・フィルのコンサートで、ブルックナーの交響曲第7番を指揮(これが最後のコンサートとなった)。その翌日、ベルリン市の文化大臣に辞表を提出した。「本日をもって私がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督および常任指揮者を辞任することを、謹んでお知らせいたします」——ベルリン・フィルのシェフに就任して34年、カラヤンは「終身契約」に自ら終止符を打った。
終幕の時はその3ヶ月後にやってきた。
7月、カラヤンはザルツブルク音楽祭で上演する『仮面舞踏会』のリハーサルを行っていたが、そこでかなり無理をしたのだろう、16日にソニーの大賀典雄社長と商談中、突然発作を起こし、そのまま帰らぬ人となった。
葬儀は、生前カラヤンが指示した通り、マスコミが報道する前に極秘裡に行われ、彼の強い希望で人里離れた田舎アニフの墓地に埋葬された。そのお墓は、音楽史上最大のスター指揮者のものとは思えないほど小さく、質素である。
(終わり)
1986年から1989年にかけての代表的録音&映像 ——厳選3タイトル——
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ワルツを得意としたカラヤンとウィーン・フィルの蜜月の結晶。「ワルツってこんなに面白かったの?」と目から鱗が落ちるような名演揃い。バトルが歌う「春の声」は絶品。87年収録。
シェーンベルク 浄夜
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1988年10月5日のロンドン公演。当日、楽器の搬送が遅れたため、1時間押しで開演した。リハーサルも無し。しかし、その緊張感が幸に転じ、予定調和を覆すような大熱演が生まれた。
交響曲第7番
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
50年以上に及ぶ録音活動の最後を飾るに相応しい、雄大な美しさをたたえた名演。とりわけ、澄んだ空気の向こうから眩い光が降り注いでくるような第1楽章コーダは感動的。89年録音。
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