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「ベルリン・フィル・ラウンジ」第104号:ベルリンの壁開放が25周年。ラトル指揮で「第9」が記念演奏 ベルリン・フィル・ラウンジへ戻る

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2014年11月7日 (金)

ベルリン・フィル&HMV提携サイト
 ベルリン・フィル関係ニュース

ベルリンの壁開放25周年演奏会が開催。ラトル指揮によるベートーヴェン「第9」を上演
 1989年11月9日、ベルリンの壁が開放されました。今年はその25周年に当たりますが、ベルリンでは、この機会に様々な催しが行われています。ベルリン・フィルでも、11月9日に「壁開放記念演奏会」を開催。サー・サイモン・ラトルがシマノフスキ「スターバト・マーテル」とベートーヴェン「交響曲第9番《合唱付き》」を指揮します。この模様は、デジタル・コンサートホールでも中継される予定です。
 ベルリンの壁は、ベルリン・フィルにとっては、極めて身近なものでした。ベルリン・フィルハーモニーは、壁から数十メートルの場所に立っていたからです。オーケストラは、3日後の12日に、ダニエル・バレンボイムの指揮で東独市民のための演奏会を実施することを決定。バレンボイムはソロと指揮の両方を受け持ち、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第7番」が演奏されています。この模様はテレビ収録され、ライブCDとしてもリリースされました。
 ベルリンの壁開放は、現在では誤解がもとで実現したと言われています。東独政府のスポークスマンが、市民の出国許可緩和を予定よりも早く発表してしまい、それがもとで国境が開放。即座に市民が国境に押し寄せ、壁にさえぎられていたベルリンのブランデンブルク門も、群衆で溢れかえりました。ベルリン・フィルの団員たちも、その模様を体験していますが、彼らのインタビュー(本号下部参照)は、当時の衝撃を伝えています。
 ベルリン・フィルでは、「ベルリンの壁開放25周年記念演奏会」の後、壁開放で重要な役割を演じたハレ、ワルシャワ、ブダペスト、プラハの4都市でツアーを行います。「第9」が中心的なプログラムですが、ハレではラッヘンマン「タブロー」、ワルシャワではシマノフスキ「スターバト・マーテル」、ブダペストではクルターク《シュテファンの墓》、プラハではマルティヌー「ピアノ協奏曲第4番」と、「お国もの」の作品も演奏される予定です。
 上の映像は、89年11月12日の「ベルリンの壁開放記念演奏会」よりアンコールの《コジ・ファン・トゥッテ》序曲。下の写真は、ベルリンの壁を削る小澤征爾と第1コンサートマスターのミッシェル・シュヴァルベです。

ラトル指揮「ベルリンの壁開放25周年記念演奏会」をDCHで観る

 最新のDCHアーカイブ映像

ガッティが17年ぶりにベルリン・フィルに登場!
2014年10月25日

【演奏曲目】
ブラームス:ハイドン変奏曲
ワーグナー:《神々の黄昏》抜粋
ベルク:管弦楽のための3つの小品

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ダニエーレ・ガッティ


 アルノルト・シェーンベルクは、ヨハネス・ブラームスの作曲技法の根本には「発展的変奏の原理」があると考え、その革新性を高く評価しました。ブラームスが1873年に書いた、いわゆる「ハイドンの主題による変奏曲」は、実際は出所不明のコラールに基づいた作品です。その3年後に初演される交響曲第1番の先駆と見なすことができるでしょうし、それは同時にまた、1884年から85年にかけて作曲され、パッサカリアの終楽章を持つ彼の最後の第4交響曲へともつながっていきます。
 ブラームスとは対照的に楽劇の道を切り開いたのがリヒャルト・ワーグナーでした。ダニエーレ・ガッティが久々にベルリン・フィルの指揮台に立つ今回の公演では、1876年の第1回バイロイト音楽祭で初演された《神々のたそがれ》から管弦楽版の抜粋をお届けします。バイロイト音楽祭でも度々指揮をしてきたガッティだけに、ここではオペラ指揮者としての手腕が発揮されています。
 もう1つの演目、アルバン・ベルクの「管弦楽のための3つの小品」は、第一次世界大戦の勃発直前に着手され、1923年にアントン・ヴェーベルン指揮ベルリン・フィルによって初演されたもの。師のシェーンベルクに捧げられたこの作品は、ブラームス的な厳格な作曲技法とワーグナーの精巧な管弦楽法の両方を兼ね備えていますが、同時に音楽史の新しい時代への出発点ともなりました。

ガッティ指揮の演奏会をDCHで聴く

アイムがヘンデルのオラトリオ《復活》を指揮
2014年10月31日

【演奏曲目】
ヘンデル:オラトリオ《復活》

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:エマニュエル・アイム

 2008年3月5日、記憶に残る公演がフィルハーモニーで行われました。2人の女性指揮者が一夜の公演でベルリン・フィルへのデビューを果たしたのです。スザンナ・マルッキがヴェーベルンとストラヴィンスキーの作品を、エマニュエル・アイムがヘンデルの《聖セシリアの日のためのオード》を指揮したのでした。もっとも、フランス人指揮者のアイムがベルリン・フィルと共演したのはこの時が初めてではなく、2002年にラトル指揮のバッハのヨハネ受難曲で通奏低音を担当しています。2011年の客演の際、アイムはラモーとヘンデルのプログラムで指揮とチェンバロの二役をこなし、バロック音楽のスペシャリストとしての確かな力量を披露しました。「チェンバロを弾きながら指揮するのは、私にとってごく自然なことで、演奏者たちとより強くつながっているような感覚を持てます」と、アイムはデジタル・コンサートホールのインタビューで語っています。
 今回アイムが指揮するオラトリオ《復活》は、ヘンデルが23歳の時にローマで書いた作品。キリストの復活の意味をめぐって天使と悪魔が争い、思索をします。その宗教的な内容にも関わらず、ソプラノ役を女性に歌わせたことで、ヘンデルは教皇クレメンス11世の怒りを買うことになりました。今回の公演では天使役にカミッラ・ティリング、悪魔役にクリストファー・パーヴェスを配し、脇を固めるクリスティアーネ・カルク、トピ・レティプーなど旬の歌手も大きな聴きものです。

アイム指揮の演奏会をDCHで聴く

 これからのDCH演奏会

壁開放25周年記念コンサートは、ラトル指揮の「第9」
2014年11月10日日本時間午前4時

【演奏曲目】
シマノフスキ:スターバト・マーテル
ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱付き》

ソプラノ:サリー・マシューズ
アルト:ベルナルダ・フィンク
テノール:クリスティアン・エルスナー
バス:ハンノ・ミューラー=ブラッハマン
ベルリン放送合唱団(合唱指揮:サイモン・ハルシー)

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:サー・サイモン・ラトル


 1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊してから今年で丸25年。サー・サイモン・ラトルとベルリン・フィルは、今回の記念公演で歴史的な日に思いを馳せます。自由と兄弟愛へのメッセージを放つベートーヴェンの交響曲第9番ほど、このような場にふさわしい作品はないでしょう。サリー・マシューズ(ソプラノ)、ベルナルダ・フィンク(アルト)、ハンノ・ミューラー=ブラッハマン(バス)に加え、2012年5月に行われたワーグナーの《ワルキューレ》の演奏会形式上演でジークムント役を歌い絶賛されたクリスティアン・エルスナー(テノール)が、ソリストとして出演します。
 前半の演目、ポーランドの作曲家カロル・シマノフスキの「スターバト・マーテル」では、ベルリンと世界の分断による犠牲者を追悼します。イエス・キリストが磔刑となった際に母マリアが受けた悲しみを描いたこの作品では、「テキストの理解のために」という作曲家の意図により、ラテン語のテキストのポーランド語訳が使われているのが特徴です。作品は4つの曲から成り、ポーランド語に馴染みのない聴衆をも引き込む感情的な力を内包しています。1990年代初頭、ラトルはこの「スターバト・マーテル」をバーミンガム市交響楽団と録音しており、彼にとって思い入れの強い作品。ソプラノ独唱を務めるサリー・マシューズは、すでに音大在学中、栄誉あるキャスリーン・フェリアー賞を受賞しています。

壁開放25周年記念演奏会をDCHで観る

ギルバートがメンデルスゾーンとニールセンで登場
2014年11月23日日本時間午前3時

【演奏曲目】
バッハ:カンタータ第58番〈ああ神よ、心の痛手いと多く〉
メンデルスゾーン:交響曲第3番《スコットランド》
ニールセン:交響曲第3番《広がりの交響曲》

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:アラン・ギルバート

 1829年初頭、フェリックス・メンデルスゾーンはロンドンでの公演を終えた後、スコットランドに旅立ちました。彼は、そこで見た荒々しい、手つかずの自然を日記やスケッチに書き記しました。同時にまた、スコットランドの歴史に直に触れたことが、若き作曲家に2つの作品の啓示をもたらすことになります。1つは、ヘブリディーズ諸島のスタファ島の訪問がきっかけで生まれた演奏会用序曲の《フィンガルの洞窟》。そして、エディンバラのメアリ・ステュアートゆかりのホーリールード宮殿を訪れたとき、彼の脳裏には後の交響曲第3番《スコットランド》の着想が生まれたのでした。同年7月30日、彼は両親への手紙でこう記しています。「宮殿の隣にある礼拝堂には屋根がなく、草とツタが生い茂っています。壊れた祭壇の前で、かつてメアリーが戴冠したのです。今日私はここでスコットランド交響曲の冒頭を見出しました」。
 今回客演するアラン・ギルバートは、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務め、近年はベルリン・フィルにも定期的に登場しています。メインの演目は、1912年に初演されたデンマークの作曲家カール・ニールセンの交響曲第3番。謎めいたタイトルを持つこの作品は声楽ソリストを伴い、壮大で牧歌的な曲想がデンマークの自然を連想させます。この選曲は、前半の《スコットランド》と好対照を成すことでしょう。

ギルバート指揮の演奏会をDCHで聴く

 アーティスト・インタビュー

ベルリンの壁開放を、ベルリン・フィル団員が回顧(前半)
「“私、じっとしていられない”そして私たちは、壁が解放された街に向かいました」
2014年11月10日日本時間午前4時

【演奏曲目】
シマノフスキ:スターバト・マーテル
ベートーヴェン:交響曲第9番《合唱付き》

ソプラノ:サリー・マシューズ
アルト:ベルナルダ・フィンク
テノール:クリスティアン・エルスナー
バス:ハンノ・ミューラー=ブラッハマン
ベルリン放送合唱団(合唱指揮:サイモン・ハルシー)

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:サー・サイモン・ラトル


 1989年11月9日、ベルリンの壁は開放されました。このインタビューでは、当時を自ら体験したベルリン・フィル団員が、壁解放と、その直後に行われた「ベルリンの壁開放記念演奏会(ダニエル・バレンボイム指揮)」の様子を語っています。前半では、開放以前の西ベルリンの状況、カラヤン時代とアバド時代の「境目」のベルリン・フィルについて、生々しい言葉が語られます。

マドレーヌ・カルッゾ(第1ヴァイオリン) 「私が初めてベルリンに来たのは、ベルリン・フィルのオーディションでしたが、ホールに着いて驚いたのを覚えています。というのは、街の外れに立っていて、ちょっと行ったら、もう壁だったからです。当時は、近くにロシアの戦車が記念碑として置かれていました。その時は、すごいな、と感心したものです。私は(自由と独立を愛する)スイス人ですので、こうした状況は、82年の入団から89年の壁開放まで、とても気になりました。壁の向こう側に人々が住んでいて、外に出る自由を奪われていると感じたからです」

アンドレアス・ヴィットマン(オーボエ) 「私が初めてベルリンに来たのは、81年でした。ベルリンはとても特別な状況で、一種の怖さがありました。もちろん学生として、東ベルリンにも行きましたが、国境を渡る時はいつも変な気持ちでした」

ダニエル・スタブラバ(第1コンサートマスター) 「私は、84年にベルリンに来ました。ベルリンが分断された街であり、機能していない東西の関係を象徴している、と認識していました。そしてここに来た時、フィルハーモニーが意識的にベルリンの真ん中に立っていることに、強い印象を受けました。つまり、西ベルリンの真ん中ではなく、東西ベルリン全体の真ん中に建てられたのです。そして、ここがいつか本当の中心になるだろう、という気がしました。私はリヒテンラーデ(西ベルリンの南部)から電車でフィルハーモニーに通ったのですが、ホールまでは壁沿いに10分くらい歩きました。そこには、本当に何にもありませんでした。壁と私だけです。そして壁の向こうは東だった。ずんずんと歩き進むと、突然フィルハーモニーが現れるのです」

ペーター・ブレム(第1ヴァイオリン) 「私は現実的な発想の持ち主だったので、“これはこういうものだ”と思っていました。私は70年にベルリンに来ましたが、それ以前の“壁がないベルリン”は知りませんでした。当然のように朝起きて、ポツダム通りかティアガルテン通りを通って、フィルハーモニーに通勤したのです。日常においては、壁の存在は意識していませんでした。でも現実には、壁は歴然と存在したのです。ベルリンから西独に行く場合は、数少ない移動経路を利用する以外ありませんでした。長い間ベルリンに住んでいた人にとっては、当たり前だったと思います。我々は、東独のなかにぽつりと置かれた、人工的な西の島でした。そして西ベルリン人にとっては、フィルハーモニーで街は終わりだったのです」

ファーガス・マクウィリアム(ホルン) 「私の頭のなかでは、壁時代のフィルハーモニーについては、冬景色というか、寒々とした光景の記憶しかありません。当時昼休みになると、壁までよく歩いて行きました。回りには何にもなくて、ただただ壁があるだけです。そして壁に描かれたグラフィティを眺めていました。少なくとも2回、イギリス軍の警官に呼び止められたことがあります。彼らは、私が東独の圏内に居ると警告したのです。実際、壁の西側3メートルまでは、東独の圏内でした。警官たちの職務は、人々が壁に近寄り過ぎないように、警告することだったのです」

スタブラバ 「当時、私はベルリン・フィルでは、今とは違う感覚で仕事していました。同僚とも、ほとんど話さなかったのです。それは当時の同僚たちが、私よりはるかに年上だったからです。私の世代と同僚の世代は、まったく離れていて、その間の世代はほとんどいなかった。彼らと話すことは、易しくなかった。当時は私も、ドイツに来たばかりでしたし、ドイツ語も、細かいことを議論するほどうまくありませんでした。私はオーケストラを、傍から口数少なく観察していました」

マクウィリアム 「壁が崩れた時、カラヤンはすでに亡くなっていました。首席指揮者の選出が必要となったのです。オケのメンバーは、首席指揮者の選挙など、体験したことがありませんでした。カラヤンは、34年間首席指揮者だったわけで、それ以来の状況だったわけです。ですから、オケのなかでは、緊張が支配していました。そうした雰囲気は、当時の社会状況とも、何らかのかたちで関係していたかもしれません」

スタブラバ 「当時のベルリン・フィルは、本当に強かった。一種のオルガニズムであり、文字通り一体化した“楽器”でした。皆が、どのように演奏するべきか、フレージングや響きをどのように作るべきかを、確信的に知っていた。ひとつの大きなストラディヴァリのように、本当に完璧な楽器だったのです。誰が指揮しても、素晴しい音がしました。それが、カラヤンの死と後継者が来るまでの次期を乗り越える“強さ”を与えてくれたのだと思います。我々は、本当に強かったのです…。壁開放コンサートでは、リハーサルはなかったと思います。私は少なくとも思い出せません。演奏は完璧でした。我々のレパートリーであり、すぐにでも完璧に弾けたのです」

カルッゾ 「私が82年に入団した時、オーケストラは非常に高齢化していました。平均年齢は、57歳でした。当時は、首席指揮者が変わったというだけでなく、突然、世代交代が起こったのです。ベルリン・フィルは、非常に完成されたオケでしたが、それが新しいオケへと変化していったのであり、それを体験するのは、とても興味深かった」

ヴィットマン 「89年の秋にアバドが首席指揮者に選ばれた時、壁はまだ閉ざされていました。カラヤンの死後、最初の首席指揮者選抜は、どの団員にとっても、大事件でした。我々の歴史にとって、非常に重要な時期であると同時に、転換期でした。それゆえ、選挙をしている時期には、壁がなくなる、などということは、まったく考えていませんでした。それが、1ヵ月、あるいはそれより短い時間で、突然なくなってしまったのです」

マクウィリアム 「11月9日は、私は家族と共に自宅にいました。その数日前から、毎日のようにテレビで政治状況を追っていましたが、この晩の有名な記者会見も生中継で観ました(注:壁の開放が、東独政府スポークスマンにより発表された記者会見。無条件の出国許可は、実は政府の意図するところではなく、誤解による時期尚早の発表であった)。東独市民の出国許可が発表された時、私たちはまず、言葉が出てきませんでした。やがて私は、騒ぎだした子供たちに“お前たち、ちょっと静かに!”と言い、妻に“彼は今、何て言った?”と聞きました。それは、この中継を見たすべての人間が、最初に発した問いだったでしょう。そしてスポークスマンは、再度その声明を繰り返しました。それから1時間は、恐ろしいまでの沈黙がベルリンを支配しました。嵐の前の静けさです。やがて東独市民たちが、国境を越えて西ドイツに入国してきたというニュースが流れ出しました。2時間ほど経った後、子供たちはもうベッドに入っていましたが、妻が我慢ができなくなったというように言いました。“ごめん、私、じっとしていられない!”。そして私たちは、皆で町に出かけたのです」

「ベルリンの壁開放25周年記念演奏会」をDCHで観る

 ドイツ発最新音楽ニュース

本コーナーでは、ドイツおよび欧米の音楽シーンから、最新の情報をお届けします。

ルジツカがザルツブルク・イースター音楽祭の取締役に
 ペーター・ルジツカが、ザルツブルク・イースター音楽祭の取締役に就任することが決定した。ルジツカは、作曲家としても知られているが、すでに35年来インテンダントとしても活躍しており、ベルリン放送交響楽団、ハンブルク国立歌劇場、ミュンヘン・ビエンナーレ等のマネージメントを歴任。2001年から06年までは、ザルツブルク音楽祭のインテンダントを務めている。
 ザルツブルク・イースター音楽祭では、今シーズンまでEMIの元プロデューサー、ピーター・オールワードが取締役の任にあった。2013年からは、クリスティアン・ティーレマンが芸術監督を務めている(写真:©Osterfestspiele Salzburg/Neumayr)。 

エベーヌ四重奏団の新ヴィオラ奏者が決定
 エベーヌ四重奏団では、ヴィオラ奏者のマチュー・ヘルツォークが退団し、後任を探していたが、23歳のフランス人アドリエン・ボワソーが就任することになった。 
 ボワソーは、パリ音楽院、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽院、クローンベルク・アカデミーで学び、2009年にベルリンのマックス・ロスタル国際コンクールで優勝。2013年には、ユーリ・バシュメット国際ヴィオラ・コンクールで第2位に輝いている。

インキネンがプラハ交響楽団の首席指揮者に内定
 ピエトリ・インキネンが2015年9月より、プラハ交響楽団の首席指揮者に就任する。契約は3年間で、最低6プログラムの定期演奏会および特別演奏会、ツアーを指揮する。2015年にはイギリス、また2016年には日本ツアーも予定されているという。
 プログラム上は、チェコやドイツのレパートリーのほか、フィンランドの作曲家に重点を置くことが発表されている。インキネンは、ニュージーランド交響楽団首席指揮者、日本フィル首席客演指揮者を務めるほか、2015年からは、ルートヴィヒスブルク城音楽祭の首席指揮者にも就任することになっている。

ラニクルズが、スコットランドBBC響の首席指揮者を退任
 ドナルド・ラニクルズが、2016年9月をもって、スコットランドBBC響の首席指揮者を退任する。当ポストには、2009年に就任しているが、任期終了後は、客演指揮者として引き続き演奏会を指揮する予定だという。
 ラニクルズは、ベルリン・ドイツ・オペラの音楽総監督も務めており、こちらの契約は、2018年まで延長している。

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