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遊悠音詩人 さんのレビュー一覧 

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     2007/10/24

    この曲の初演者にしてショスタコーヴィチの最大の理解者を自負していたというムラヴィンスキー。しかし残念ながら、録音には恵まれなかった。同世代のカラヤンのように、もし彼が欧州の著名レーベルと契約していたら、どんなに凄かったかと思うこと頻りだ(逆に、ソ連という場所が彼のような鉄人を生んだとも言える)。演奏は余りに凄まじいのに、録音が余りに貧弱で萎えることがしばしばだ。例外的に、DGが録音したチャイコフスキーの後期交響曲は、初期のステレオながら音質は良好である。さて、当盤はNHKによる最高音質を標榜しているが、それは飽くまで、ムラヴィンスキーの他の来日ライヴの劣悪な音質(本当にヒド過ぎる音質だ)と比較した上での話である。漂白されたような妙な復刻は、レニングラードPO特有の地鳴りのするような音を消し去ってしまっている。演奏は凄まじい。勢いが違うし、終演後のブラボーの嵐にも頷ける。ただし、ソ連の圧政に苦しみながらも表向きには迎合せざるをえなかった作曲家の皮肉(特に終楽章における、いわゆる「強制された歓喜」)を感じるかどうかは、意見が分かれるだろう。

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     2007/10/22

    チャイコフスキーのピアノ協奏曲と言えば、真っ先に“パンパンパンパーン、ジャン”と始まる第一番が思い浮かぶ。いやむしろ、これ以外にピアノ協奏曲などあっただろうかと思われる方も少なくないだろう。実は私もその一人だった。だが「“第一番”と銘打つからには“第二番”もあるだろう」との勘から、この一枚を見つけた。二曲とも素晴らしく、決して第一番に劣るものではない。しかし、ヤブロンスキーのピアノが忙しない。特に第二番第一楽章が顕著で、例えばチェルカスキーのモノラル録音(DG盤)を聴き慣れた耳だと、まるで倍速のように聞こえる。ここはもっと気宇壮大にやってもらいたいものだ。ただし、第二楽章でノーカット版を採用したのは評価出来る。ヴァイオリンとチェロの独奏が加わり、殆ど三重協奏曲のよう

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     2007/10/21

    カラヤンの描くチャイコフスキーは絢爛豪華で流麗だ。しかし、余りに洗練され過ぎていて、チャイコフスキー演奏に欠かせない良い意味での土臭さやセンチメンタリズムを聞き取ることは出来ない。例えば第四番の第二楽章は、もっとゴツゴツとしていても良いはずだ。何故ならこれは民俗舞曲であり、粗野な響きが求められているからだ。有名なムラヴィンスキーのDG盤を聴くとよく分かる。第五番では第一楽章が妙にテヌート気味でベタついているし、クラのピッチも合っていない。第二楽章はポルタメントを駆使した甘ったるく媚びたような弾き方で、感心しない。終楽章の感情の爆発も今一歩である。確かに巧いが、それ以上のものは感じない。《悲愴》も確かに美しい。しかし、中身が伴わない。この曲はチャイコフスキーの辞世の句とも言

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     2007/10/19

    《シェエラザード》の幻想的な物語性とは無縁の、暴発的なだけの演奏だ。ヴァイオリンのソロも、これでは単なるテクニックのお披露目だ。一曲目からして甘ったるく媚びたような弾き方であり、四曲目に至ってはギスギスとまくしたてる有様で、気品がない。この弾き方から、王と姫の心の変化を感じ取ることは出来ない。オケは確かに熱く燃えてはいるが、それは曲想とは関係がない。単に力任せなだけだ。何故三曲目でもっと歌わないのか、何故四曲目で大海原のように雄大にならないのか、忙しなく過ぎるのか理由が分からない。曲の情景を表すために熱くなるのなら良いが、こうも変にエネルギーを使われては、空騒ぎされているようで嫌になる。録音も音響がおかしい。私はステレオ装置には詳しくないが

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     2007/10/18

    素晴らしい《シェエラザード》だ。滋味深く、雄弁で、色彩に溢れている。まるで懐かしい映画のような写実性がある。奇を衒うこともないので、安心して音楽世界に浸っていられる。ゲルギエフのように暴発的にならず、さりとてカラヤンのように洗練され過ぎてはいない。適度な渋みや落ち着きを伴いながらも、轟くようなエネルギーを秘めた演奏だ。クレバースのソロは素晴らしく、第一曲の悲痛な響きから第四曲の語り掛けるような演奏まで、表現が多彩である。物語の語り手として、聞き手を引き込む魅力を持っている。カラヤン盤でソロを務めたシュヴァルベだと、どの部分も一様に綺麗でつまらないし、ゲルギエフ盤でのレヴィーチンだと単なるテクニックのお披露目にしか聞こえない。この差は大きい。同じ曲でも、弾き

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     2007/10/18

    今年(2007年)没後50周年を迎えたにも拘らず、シベリウスなどの影に隠れて余り取り上げられないコルンゴルト。天才少年から映画音楽家としてのキャリアを築いた彼の作品は、遅れ馳せのロマン派とも言うべき甘美な響きに溢れている。まるで一編の懐かしい映画を観るような、ノスタルジックな雰囲気がある。調性もしっかりしている為、非常に聴きやすい。コルンゴルトの名盤としてはハイフェッツ盤が挙げられるが、古いモノラル録音の為当然ながら音質は悪い。しかも、甘い曲想に対してハイフェッツのヴァイオリンは辛口でぶっきら棒な音色であり、相容れない感じを否めない。近年ではシュミット/小澤&VPOのライヴ盤があるが、録音がOFF気味であり、更に第一楽章終了時に観客がフライングで拍手をしてしまっているので、鑑賞に差し支

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     2007/10/16

    さすがVPOの名手達で聴くモーツァルトは違う。まろやかさと渋みが調和して、素朴ながら奥深い。フルート協奏曲は、特に第一楽章のカデンツァが素晴らしく、ある意味神妙さをも感じる程の美しさだ。滋味深く、程よく渋く、何より温かい。クラリネット協奏曲は、モーツァルト晩年特有の、微笑みの影に滲む寂寥の表出が比類なく、限りない透明感を宿している。ファゴット協奏曲は軽快かつ上品な響きを堪能出来る。三曲のベスト盤である。

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     2007/10/14

    確かに、練りに練られた音響効果や楽譜の分析成果は十分聞き取れる。今まで聴けなかった音が次々と鳴るため、始めこそハラハラしたものだ。しかし、何度も聴くうちに、単なるレクチャー程度にしか聞こえなくなるのは何故だろうか。それは楽譜の忠実な再現に傾き過ぎた挙げ句、音符の裏に隠された作曲者の狂おしいまでの感情に肉薄することが二の次になったからだ。最近はマーラーの音楽を、まるで精密なモザイク画のように丁寧に弾かせる人が増えた。インバルやブーレーズはその典型だろう。確かにマーラーの管弦楽法は精緻そのものだ。だが、世紀末の混沌と人間の苦悩を一身に背負い、死の恐怖から一生逃れられなかったマーラーの音楽が、単に理路整然としているはずがない。精密な響きの中に宿された、皮肉や死の香りや狂気、内面の葛藤や諦めなどを如何に表出するか。ここに終着点を置かなければ、ただの研究成果のお披露目だ。行き着く先は通り一辺の機械的で無個性な演奏だろう。楽譜的には正しくても、音楽的には誤りである。もしワルターやメンゲルベルクのような人が生きていたら、この手の演奏にどのような評価をするだろうか。そして、彼ら自身はどのような演奏をするだろうか。今となっては、無いものねだりである。

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     2007/10/13

    ルイサダの演奏法は可否を分けるだろう。ルバートといい間合いの取り方といい打鍵といい、何もかもがルイサダ風である。ある意味、ホロヴィッツが何を弾いてもホロヴィッツ風になってしまうのと似ている。それを、一流の“個性”と評価するか、それとも単なる“誇張”と見倣すか――ここに評価の別れ道がある。例えば、淡々としながらも曲のロマンティシズムを開陳してみせるルービンシュタインのような演奏を好む向きには、余りお薦め出来ない。しかし、ショパン演奏に対する表現の幅広さを実感するには、ルイサダ盤は格好の一枚になる。…さて、皆さんの意見はどうなるでしょうか。侃々諤々の投稿が楽しみです。私は中立派(日和見主義?)ということで、OKの評価に留めておきます。

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     2007/10/12

    アンチ・カラヤンならずとも大いに異論を唱えたい一枚だ。《悲愴》は、チャイコフスキーの辞世の句とも言える最後の作品であり、それはまさに人生の縮図である。最も感傷的で、厭世的で、悲劇的な作品である。だからこそ、単なるロマンティックな表現に終始するのではなく、痛切な想いをぶつけるような情熱と、むせび泣くような静謐が必要不可欠であるはずだ。しかし、カラヤンの演奏は余りに小綺麗で、美に媚びている。この演奏を「カラヤン美学の昇華したもの」と評するのならば、その美学とは、曲のネガティブな感情を人工的な美しさで誤魔化すオブラートの追求だったのではなかろうか。アンサンブルもVPOにしては不出来で、特に第三楽章では木管楽器の指が回っておらず、もたついた雰囲気が拭いきれない。録音も薄っぺらで、本来地鳴りのするような第一楽章冒頭のコントラバスも腰抜けだ。音響も乾き切っていて、VPOの柔らかな響きが少しも伝わってこない。この演奏は評論家達がこぞって名盤に推しているが、一体何がそんなに評価に値するのか甚だ疑問だ。まさか、カラヤンというネーム・バリューに寄り掛かっているだけなのではないか、とさえ思える程だ。見せ掛けの華麗さなどいらないし、それで人を盲目にさせようものなら強い憤りを感じざるを得ない。もっと作曲家の想いに肉薄するような演奏を聴きたいものだ。

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     2007/10/11

    チャイコフスキーの超有名曲2曲を1枚で聴けるお得感もさることながら、それをアグレッシブなライヴ演奏で収めるという、堪らなくゴージャスな一枚。内容も素晴らしく、特に交響曲におけるエネルギーは比類ない出来だ。テンポや強弱のメリハリが見事で、繊細なピアニシモから豪快なフォルテシモまで実に鮮やかだ。第二楽章の甘さを排した粗野な響きは、この音楽が他でもない民俗舞曲であることを裏付ける。カラヤンの宮廷舞踏的な華麗さとは好対照だ。終楽章のテンションの高さは並みではなく、終演間際にはフルヴェンの第九を思わせるような超高速テンポが炸裂する。一方の協奏曲は、いわゆるロマンティックな陶酔を排除したクールな演奏だ。第一楽章など、もっとゆったりとしていても良いと思うし、いささか弾き急いでいる雰囲気も否めない。しかし全体的には高水準である。ライヴならではの臨場感や緊迫感があり、聴き手を飽きさせない。

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     2007/10/10

    耽美的な中にも一抹の不安を滲ませる名演だ。マーラーの交響曲は、人間の苦悩を一身に引き受けたかのような複雑難解さをもって知られている。例外的に明るいように見える第4交響曲でさえそうで、美しさの影に隠れて死への恐怖が垣間見える。若き日からのコンプレックスをずっと引きずっていたのだ。第四楽章は“天上の生活”との副題がついているが、それは決して理想郷や彼岸の世界ではない。むしろ、世紀末の混沌の中にある束の間の幻影なのである。酒を酌み交わし、踊り歌い明かす世界は、現世の快楽の一片である。そこには生への執着と諦めを感じる。ハイティンクの表現は素晴らしく、夢想的かつ危うい響きを現出してくれる。コンセルトヘボウ管といえば、マーラーの愛弟子メンゲルベルクの存在が

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     2007/10/07

    美しく、限りない透明感に溢れた演奏だ。BPOはアバド時代以降、とかくオケの響きの変化を云々されることが多くなった。カラヤンやそれ以前のフルトヴェングラーの時代に比べ、明らかに薄っぺらになってしまった。しかしヴァントの手にかかって、本来の地鳴りのするような重厚かつ華麗な響きが蘇った。更に、カラヤンにはない非人工的で天衣無縫な演奏を聴くことが出来る。ヴァントはハース版にこだわりを見せ、特に第二楽章では一切の打楽器を排除したものを採用している。打楽器が抜けることで、オルガンを思わせるような荘厳な音響になった。ブルックナーが、まごうことなきオルガニストであることを如実に示している。そして、絶対的に神を信じていた、“聖職者”としてのブルックナー像が浮かび上がるのである。ブルックナーの音楽こそ神の啓示であり、仏教的に言えば悟りの境地である(もっとも、仏教的な演奏はチェリビダッケだろう。彼は禅に深い造詣を示していた)。つまり指揮者は、無垢な気持ちで作品に向き合うべきであり、ヴァントこそその境涯に達した人物なのである。“神懸り的”というのは、決して自己の偉大さを知らしめる態度を言うのではない。則天去私の姿勢で臨んでこそ、ブルックナーの世界に到達出来るのだ。とにかく素晴らしい演奏である。

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     2007/10/06

    この演奏には美しい逸話がある。ある年来日した、かつてのVPO首席フルート奏者のトリップと彼の妻が、次のような言葉を残した。「あのコンサート、私達も、一緒に行った友人も、聴きながら泣いたんですよ」(中野雄談)。名匠達との数多くの共演をし、恐らくブルックナーも何度も演奏してきたであろう名人トリップでさえ、心奪われた名演なのである。音楽愛好家の中には、当盤を「華麗過ぎる」とか「ブルックナーらしくない」として敬遠する人がいる。ヴァントや朝比奈、あるいはチェリビダッケのような、朴訥として悟りを開いたかのような神妙さがないと、評価に値しないと考える傾向だ。確かにカラヤンの演奏は、渋みの面では劣るかも知れない。しかし、研ぎ澄まされた美音で雄大なスケールを描く彼の演奏には、限りない透明性がある。宙に浮くような感覚ではなく、明確なドラマがある。それはヴァントらとは別の方向での「悟り」でもある。オーケストラの美の結晶を自らのものにした悟りだ。“神の声”を、無の境地で表現するのではなく、あくまで雄弁さをもって迫ろうとしている。カラヤン最後の遺産として知られるこの演奏は、もしかしたら、指揮者人生の終焉を悟ったカラヤンが、自らに捧げた《レクイエム》だったのかも知れない。ブルックナーがワーグナー追悼に捧げた第二楽章を聴く度に、そのような思いに駆られる。

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     2007/10/06

    迫真のマーラーだ。確かに録音には疑問を差し挟んでもよい。まるで土管の中で聴くような、やや明瞭さに欠ける音質である。だがこの演奏には、そんな疵を忘れさせる程の凄味がある。マーラーの交響曲と言えば、19世紀末の混沌と人生の苦悩を一身に背負った雰囲気がある。厭世的で、アイロニーに満ち、人間の最も脆いところを鋭く叫ぶようである。しかも、マーラーはフロイトも認める複雑な心理の持ち主である。その証拠に、アルマとの間に子供を授かった矢先に書いたのが、何と《亡き子を偲ぶ歌》と当交響曲である。恐らく、若き日に相次いで身内の不幸に見舞われたことが尾を引いていたのであろう。「いつかあの悪夢が再び起こるのではないか」という恐怖におののいていたに違いない。そうした狂気すら感じるマーラーの心情の生き写しが、この曲なのだ。その意味でテンシュテットの演奏はまさに本質を鋭く抉っているといえる。強烈なリズム感、過剰なまでのテンポの揺れに戸惑う人もいるだろう。しかし、マーラー本人が最も信頼していた指揮者がワルターではなくメンゲルベルクだったことを考えると、意味深長である。メンゲルベルクは鮮烈なルバートと濃厚なポルタメントで知られているが、マーラーにとっては、それ位デフォルメしないと気が済まなかったのだろう。勿論テンシュテットの強調法はメンゲルベルクと異なるが、激しく作品と対峙し表現し尽くす姿勢は相通じるものがある。更にライヴならではの迫力や緊迫感が加味され、他に類例のない演奏に仕上がっている。見事という他ない。

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