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yk さんのレビュー一覧 

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     2022/08/03

    ロシアのウクライナ侵攻に伴って読み始めた本だったが、読後には(決してネガティブな意味ではなく)興味深い混乱and/or矛盾の余韻が残る。
    ロシアと言う広大な国家(の文化)を分析・記述するにあたって、本書ではあらゆる領域において訳者も後書きで指摘するように二項対立の図式が用いられている・・・「西欧・ロシア」「貴族・農民」「知識人・民衆」「世俗・宗教」「文明・自然」「都市・農村」「サンクトペテルブルグ・モスクワ」「近代・前近代」「男性性・女性性」「知性・魂」「革命・帝政」「西洋・東洋」「前衛・ノスタルジア」「コスモポリタニズム・ローカリズム」、etc. etc.・・・本書では、これらあらゆる二項対立の構図がロシアと言う一つの国家の中に並立して複雑な様相を呈する文化が丁寧に説明される。ソレがこのロシアと言う国を理解する上で貴重な情報を読者に与えてくれる点で本書は極めて精緻で優れた本だと思う。
    そのうえで、本書の更にユニークな点は、読後に残るある種の”掴み処が無い”・・・とでも言う感覚である。各二項対立の分析は十分に妥当で説得力がある(部分的にはややステレオタイプ的な場合もあるが・・・)が、分析の結果として残るのが”ロシアを形作る本体としての第三項”の存在の感覚である。本書で語られるロシア文化の表面に浮かび上がってくる各種二項対立の構図の下には実は隠された第三項があって、その形を成さぬ第三項こそがロシアの本体ではなかろうか?・・・・と言う、奇妙な実感が本書のあらゆる議論に付きまとう。しかしロシアと言う国家を考えるうえで、この捉えどころのない”第三項”の存在の実感こそが、ロシア理解の出発点として相応しい・・・とも考えられるのであって、ソノ意味でも本書はユニークな読書体験を読者に与えてくれる貴重なものだと思う。

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     2021/11/30

    一つの演奏についてEMI、ORFEO,そしてBIS・・・と3種の”正規録音”というのは、“ヤレヤレ”と言う気もするが、フルトヴェングラー・ファンとしては黙って観ていると言う訳にもいかずやはり早速入手。聴いてみたが、録音クオリティと言う点では演奏音の周波数レンジは8kHz位までしか伸びていないし(AMラジオの録音?)、100Hzあたりにハム音が入り所々録音レベルの変動、音割れプチ・パチ・ノイズなどもあり、4楽章では短い音飛びもある・・・と色々欠点はあるが、その範囲での音としては意外なほど綺麗な音が録れていて鑑賞には差し支えない範囲にある。肝心の演奏だが主な会場ノイズなど基本的にはORFEOが出したバイエルン放送のものと同じものの様である。コレが”放送用テープ”ではなく”実況放送の録音テープ”と言うことであれば、この演奏が1951年7月29日祝祭劇場再会当日の演奏と言うことになる(様である)・・・が、不思議なことに私はこの録音を聴いて何故かEMI盤の演奏を思い出す・・・やはり、刷り込みと言うのはなかなか消し難い。いずれにしても記録としての価値は十分あり、BISのデジタル・トランスファーも良質・良心的で、私個人としては結構満足の出来るSACD/CDではあった。

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     2020/04/27

    バーンスタインの最初の全集である。録音順で1960年の4番から67年の6番まで、マーラーの初の交響曲全集でもあった。久しぶりに順に聴いてみると、改めてマーラー・ルネッサンスにおいてこの全集が果した役割の大きさを考えさせられる。
    私が初めてマーラーに接したのもバーンスタインの第4番だった。現在ならもっと手の込んだ精緻な演奏も可能だと思うが、バーンスタインの演奏はマーラーへの外連味の無い率直な共感に満ちていて、ソレは今聴いても極めて新鮮である。当時、クラシック音楽は曰く言い難いものを”感じる”モノ・・・とでもいう風潮が強く、バーンスタインの演奏は説明的で”感じる”と言う精妙な精神作用から見ると浅薄なものではないか?・・・といった批判的な見方もあった。指揮台で飛び上がることも厭わなかったバーンスタインの指揮は確かに”説明的”な要素があるが、それは音楽の捉え方の問題であって指揮者の(優れた)個性の発露と言うべきもので、決して表現の浅薄・深淵の問題では無いことは明らかである。
    この録音が行われたのが初期STEREO録音の定着期であったこともとても興味深い。特に米国での当時のSTEREO録音は、マルチマイク、マルチトラック録音、テープ編集の手法が追求された時代であった。マルチチャンネル録音のミキシング、テープ編集は当然の技術的挑戦(利点)として行われたが、ソレはマーラーの音楽的特徴とも関連して極めて興味深い時代でもあった。
    マーラーの伝記に
     「マーラー 未来の同時代者」 (K. ブラウコプフ著、酒田健一訳、白水社 1974)
    という本がある。ドイツ語原書は1969年の刊行なので、年代的にはちょうどバーンスタインが最初のマーラー全集(10番を除く)を完成させた時期であり、続々とマーラー全集が企画・録音されるようになった時期の本である。そういうこともあってか、本書には補遺として「エレクトロニクス時代の音響監督」という一文が添えられている。
    その中で、著者はマーラーが如何に演奏会場の空間的・音響的特長にこだわり、明瞭さを求め各演奏会場の特性に合わせて自作の楽譜を煩雑に書き換えていたか・・・について述べた後に、次のように記している。

    <スタジオでのレコーディングは、マーラーの音楽をコンサートホールの特殊な音響条件のもたらすさまざまな危険から大幅に開放した。・・・・・・滅亡の危機に瀕する弦と支配権を独占する金管とのあいだのまさに崩れようとするかに見えるバランスは、綿密に計算されたマイクロフォンの配置とミキサーの鋭敏な操作によって支えなおすことができる・・・・・反響する遠い音と明確な近い音とのコントラストをはばむいかなる障害もここにはない・・・・・マーラーの原典版演奏の時代は到来した・・・・・マーラーの音楽が必要とするあの操作された音響空間、すなわちコンサートホールではつねにただ部分的に、しかも多大の犠牲を払ってからくも達成されるあの人工的な明確さを、難なく作り出すからである・・・>

    この見解は、マーラーのワンポイント・マイク録音が現れ、録音自体がlive録音にシフトしてきた現代から見れば少々楽観的に過ぎる嫌いはあるが、最初の”マーラー全集”の録音が1960年代のSTEREO録音によって行われたことは、マーラーの啓蒙にとっては非常な幸運(且つ必然)であったように私には思われる。バーンスタインのこの”説明的”な録音にはマーラーが苦心惨憺して追求した音響と音楽の心理作用の間にある相互作用が確かに聞き取れるのであって、それは寧ろ現代のコンサートlive一発録音(の安易さ?)では失われ勝ちなものでもある。勿論live録音の利点は認められてしかるべきものだが、そこにある<あるがまま>・<自然さ>を無条件で最善とし、手を加えないことを良しとする方法論が”人工的”で”作為的”なマーラーの近代的意識に対しても最適なものなのかどうかはなお考える余地が大いにある。
    その意味でも、このバーンスタインによる最初のマーラー全集は、当時の「マーラー・・・そは何者ぞ?」と言った問いが熱く語られた時代の最も雄弁な証言であり、その意味・意義は今なお全く色あせていないと思う。

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     2019/12/04

    ベートーヴェンの協奏曲ともなると、すでに演奏は星の数ほどある。実際そのなかに”いい”演奏も数えきれないほどある。所謂”巨匠”の演奏から、身の丈に合った親しみ易い演奏に至る幅広い選択が可能になった今日、我々はソウいった多様な録音の中からそれぞれ聴く者の好みに従って選んで聴くことが出来る、という贅沢を享受する時代になっている。しかし、そういった時代は、ともすれば演奏家にとって”クラシック”という制約の中にあって、独自の個性を発揮し表現する幅が狭まることを意味しかねない時代…とも言えるかもしれない。
    そう言った時代に有って、”いい”演奏と言うものの個性が、精密ミニチュア・モデルのような精度の追求であったり、ピリオド演奏等にありがちな道具立てへの依存であったり、奇矯さと区別の付きがたい”新しさ”の試みであったり、あるいはクラシックと雖も消費音楽と割り切る一種の思い切りの良さであったり、・・・・と言った危険を避けて、なお独自の存在感を示すことはとても難しい。
    この内田光子氏による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、そういった意味から見ても近年まれにみる充実の演奏記録だと思う(2010年2月に行われた一連のコンサート録音)。第1番から第5番の全ての演奏において、内田氏は”個性的”であることを目的とせずとも自然・自発的に個性的であり、なお且つ恣意性や不自然さを感じさせることなく”現代”のベートーヴェンを聴く者に納得させてくれる点で、クラシックという古典が21世紀の現代においてなお存在する意味を十分に示した演奏ともいえる。
    ラトル/ベルリン・フィルのバックも内田氏をバックアップして充実の音楽で応えているのも素晴らしい。私にとっては、バックハウス以来ついに現れた”次の”ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集だった。

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     2019/02/01

    RRGによるフルトヴェングラーの戦時録音について、現時点のドイツにおいて入手可能な録音の全てを網羅的に比較勘案したうえで、最も状態の良いものを選んで統一した規格・フォーマットでデジタル化復刻した・・・と言うだけのことはあるセットになっている。
    音質そのものに関しては、ロシアからの返還テープの状態によって優劣を一概には言えないが、本セットの復刻はテープ再生・デジタル化共に丁寧な配慮・調整が行われたことが窺われ、一部は旧メロディア盤のほうが勝れているものもあるが、総じて現状この種の復刻としては最上の結果が得られている。初出と言うラベルおよびシューベルトについても、万全とは言えないまでもフルトヴェングラーの録音をを聞いてきた者としては十分に観賞に耐えるレベルにはあり、とくにシューベルトに関しては大戦末期の未完成を1−2楽章通して聴くことが出来るのは貴重だと思う。
    もう一つ、このセットの特徴として解説書が充実していることも挙げておきたい。エリック・シュルツによるRRG録音の歴史的背景について、リチャード・タラスキンによるフルトヴェングラーの指揮芸術について、フリードリヒ・K・エンゲルによる録音アーカイブの意味について・・・の各論考は、いずれもこれらの録音から70年以上が経った現時点で初めて為し得る・・・とも言える優れて妥当なもので一読の価値がある。

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     2018/10/01

    「椿姫」・・・”ラ・トラヴィアータ”と正しく言いなさい・・・と言う”原題”主義の人もいるが、私はこの(日本的?)新派劇みたいな”椿姫”の通俗名も嫌いでもない。そして、この1955年スカラ座の開幕を飾ったヴィスコンティ演出の「椿姫」ほど、この通俗名に相応しいラ・トラヴィアータも無い。日本の某評論家がこの録音評で「序曲冒頭の第一音から”これはずるい”と思った・・・」と言うようなことを書いていた記憶がある。確かに、後のジュリーニからは考えられないほど思い入れタップリ、いかにも世の女性の感涙をしぼる予感に満ちた出だしからして独特の雰囲気が在る。言わば扇情的とも言えるこの序曲に始まり、カラスの乾坤一擲の歌にステファーノの激情型のアルフレート・・・・と、冷静沈着、理性的・分析的で”正しさ・正確さ”を追い求める現代オペラ上演の対極にある”椿姫”の記録は、恐らく今後もありえない演奏様式の記録でもある。しかし、だからと言ってこの演奏が一方的に観客を煽ることを狙ったものではない、ヴィスコンティの周到な演出・意図に支えられた”人間劇”としての土台に支えられていることは少し演奏を聴いていけば明らかだとも言える。この舞台を伝説のダイエットを果たしてスリムになったカラスがベルエポック時代のドレスに身を包んで演じたのだから、それは観客も興奮せざるを得ないし、それが後々長くスカラ座のトラウマにまでなったと言うのも理解できる。
    この、録音は残念ながら正規の録音は残っていない。残されたのは、貧弱なプライベート録音だけでそのLPも長く所謂”海賊盤”でしか聴くことができなかった。1990年代頃になってEMIが録音を買い取り一応正規盤としてCD化したが音はさほどではなく、現在までで最も音の良い(・・・と私が思う)市販ソースは’79年にチェトラが出したLPだったと思う。このCDは、そのチェトラのLP作成の為に作られたテープから新たにリマスターしたCD・・・・ということで、早速聴いてみたのだけれど、もともと頼りない録音なので”音の良さ”は微妙・・・ではあるけれど、少なくともEMIのCDよりは明らかに生き生きした音を聴くことができる。元LPとの比較と言う点では一長一短というところだが、確かに音場の自然なところなど”長”もあり、このカラスの数ある「椿姫」の録音の中でも特別の歴史的記録を聴くのに、現在市販されているソースのなかでは最善のCDだと思う。

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     2018/01/22

    私は1992年の発売当時から老人になった今も好きな演奏でしたが、評価が分かれる演奏ですね。日本ではかなり有名な録音ですが、メーカーがDENONと言う事もあるのか海外では今もって余り知られていないようでもあり、たまに見る海外評でも極端なテンポの遅さを評価しないものが多いように思います。実際他の演奏家の演奏を聴いても、コノ演奏が”標準的”な演奏ではないことは誰の耳にも明らかでしょう。これを演奏家の奇を衒っただけの根拠の無い恣意性だと感じる場合には受け入れられないのも当然かも知れません。
    しかし、これらの作品に色濃く刻印されているブラームスの”晩年”(これらの作品を書いたときブラームスはまだ60歳になる直前でもあり、現代の基準に照らして常識的な意味での”晩年”であったと考えるのかどうかは興味深い問題でありえますが・・・・)という要素をどの様に考える(感じる)かによって、また別の評価がありえる演奏でもあるとも考えられます。また、浅田氏の文章(私も余り好きなものではありません)の評価の如何はともかく、日本贔屓で実際日本のお寺で演奏するなど一種の日本”マニア”でもあるアファナシエフの”文学”は実際この演奏に何らかの影をおとしていることも十分にありえるようにも思われ、それが日本人の”晩年”に対する観念と呼応して我が国での評価が高くなっている・・・・と言った要因もある様にも思われる。ブラームスの音楽にジャポニズムなど異質の要素を持ち込むのはルール違反だという向きには、その”異様さ”だけが際立ってしまうのも止むを得ないのかも知れません。
    しかし、ブラームスの書いた色彩に満ちて微妙この上ないピアノの音のニュアンスをこの遅いテンポによってアファナシエフの(日本人向け?)文学に沿った表現となし得た・・・・と言う事は、ピア二ストとしてのアファナシエフの力量によるものであり、何より時代・国境を越えたブラームスの”晩年”の音楽の力を示すものではないかと私は(今も)思います。その意味で、日本人の琴線に触れるだけのある種ローカルなブラームスであるのかもしれませんが、仮にそうであっても私はこの演奏を良しとして受け入れたいと思います。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/09/22

    タイトルに”全史”とあるように、人類−サピエンス族−の発生から現代(及び将来見通し)に至る繁栄・・・あるいは”のさばり”(著者はサピエンス族の繁栄は常に他生物の殺戮・搾取を伴っている可能性があることを示唆している)・・・の経緯について語る本である。人類の発展を特徴付ける要因として、認知革命、農業革命、科学革命の三つを挙げて、その分析から人類が辿った”歴史”の意味を考えようというもので、”史”とあるが必ずしも全巻時系列に従って物語が語られている訳ではないので、内容的には副題にある”文明の構造と人類の幸福”のほうがシックリ来るところもあって、”歴史”を期待して読むとちょっと肩透かしを食らうような所もあるけれど、二百数十万年に渡る長いスパンの出来事を思い起こしながらサピエンス族の越し方行く末を考えさせられるのはなかなか面白い読書経験ではある。
    著者の語り口は巧みで能弁ではあるけれど、少し独善的なところや、論理の組み立てに御都合主義的なところが感じられたり・・・・と(若さの特権?・・・本書出版時(2005)著者29歳!!!)、分析のやり方には必ずしも全面的に同意できるという訳ではないけれど、人間の世界を理解したいという著者の熱意が感じられて記述には読者の注意を逸らさない力がある。

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  • 9人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/03/01

    昨年に発売されていたものだが、ラトルへの興味が薄れつつあったこともあって私は迂闊にも(聴きもしないで)端から無視していたセットだった。今年の初めに偶々ネット上で4 &7番の演奏を聴いて自らの不明を恥じました(https://www.digitalconcerthall.com/ja/home)。

    まず、なんと言ってもベルリンフィルの”音”が素晴らしい。それも、いい楽団がただ良い演奏をしていると言う演奏ではない。明らかにラトルと言う指揮者の下で長年培ってきた経験と技量をフルに駆使して演奏と言う創造を成し遂げた演奏だと思う。比較的小編成の強みを生かした軽快なフットワークを持った演奏だが、決して針で天を突くような音(演奏)ではなくて(敢えて言えば)フルトヴェングラー以来のベルリンフィルらしい足が地に着いた安定感があって聴衆に余計な負担をかけることなく音楽を聴くことに専念させてくれる。新しい時代に即した新しい時代の演奏は、伝統を切り離しても伝統に囚われても可能ではないことをこれらのベートーヴェンは教えてくれる。
    ビデオで見ると少し小太りになったラトルも今年62歳。2015年の録音と言う時点でラトルも齢60歳である。彼も知らぬ間に若手のホープから、還暦を迎える歳になったのだとつくづく思う。そういう年齢からくる”老成”がこの演奏の一部にあるのだろうと思うが、この演奏の魅力は到底そんな在り来たりな説明だけで全て語れるものではないと思う。この演奏を聴いて私は2002年にラトルがベルリンに就任して以来行ってきた(私には不満だった)様々な試みや努力の意味がようやく理解できたような気がする。
    ベートーヴェンの新しい校訂版楽譜を使ったという演奏には、昔のラトルなら一見奇を衒うかにも聴こえかねない新しい響き・新しいリズムがいたるところに聞こえてくるが、それが不思議なくらい自然に聴こえる。ビデオのドキュメンタリーでラトル自身”しばしば間違った解釈に陥ってしまうこともあった”と言っているが、その言葉が決して達観でも老成でもないラトルの今の実感であることを納得させてくれる。
    この録音に聴かれる演奏では一聴ラトルに有る強烈な革新性(或いは攻撃性?)は後退しているようにも聴こえる。ある意味で力みの無い自然体で流麗な演奏は、刺激の無い無難な演奏にも聞こえるかもしれないが、この演奏は”刺激”などと言う瞬間の悦楽ではないベートーヴェンの交響曲にある普遍性に挑戦して21世紀初頭に現れた今世紀の基盤を築く演奏なのだと思う。

    9人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/10/22

    いやでも”ふらんす”を、いやでも”女性”を、いやでも”粋”という言葉を、思い起こさせるが、決して鼻に掛かることも、媚びることも、高慢を感じさせることも無かったヴァイオリニストの記録。”個性的”であることが自然に感じられる演奏家が存在することが出来た、よき時代の記録でもある。

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     2016/04/17

    タイトルは ”From Paris to Vienna” から ”Wiener Leichte Klassik” に変わり、背景のエッフェル塔はウィーンのカールス教会に化けています。恐らく内容は変わっていないと思われますが(一曲一曲確かめていません・・・)、どなたかが書いておられるようにウィーンの方に重きを置いた選曲なのでタイトルも変えたのだと思われます・・・・良心的ですね・・・。
    音は昔の”電蓄”で聞くLPの様におおらかで、演奏も選曲も玉石混合の見本のようです・・・・が、締めるべきところは締まっていて、ただの素人の編集とも思えないところもあって、とても楽しめました。

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  • 13人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/10/17

    2年ほど前に彼女が行ったバッハによる日本ツアーのドキュメントの強い印象から、発売されたら必ず聞きたいと思っていた演奏だった。
    2番のパルティ―タから聴き始めたが、最初のAllemandaの第一音から私が想像した音とは全く異なって衝撃的。彼女はピリオド演奏家ではないが、ビブラートを抑えてヴァイオリンの生の音だけで表現しようとしている点は、ピリオド演奏の洗礼を受けているとも言える。その点では例えばムローヴァなどとも共通しているようにも思える。しかし、そのアプローチは決してモダンとピリオドの折衷と言う印象ではなく、徹頭徹尾考え抜かれた(…上で、自然で必然性を感じさせる)表現となっている点で断然”彼女自身”の演奏になっていて、誰かと比較されるような演奏ではない。まず、その”自身”であることへの集中を通して、”自己主張”・・・と言う形を取った音楽(バッハ)への信仰が聞こえてくる。 最近のバッハ演奏では珍しい装飾音を入れた奏法、激しいテンポの緩急、癖のあるフレージング、etc. etc., 個性的である点で抜きんでているが、恣意的とか自己顕示とか・・・そう言ったものとは無縁の演奏。そう言った姿勢が生む静謐な音楽の根底に、ある種の東洋的(日本的?)な自己への沈潜と言うようなものを感じるのは、”日本人”五嶋みどり・・・と言う先入観故なのだろうか?CDの解説書は彼女自身のノートだけで、恐らく外野の野次馬を排除して全て彼女自身の責任でこの録音を完結させたかったのだろう。
    私個人にとっても、ティーンエイジャーのデビュー当初から特別の存在として観てきた日本の”神童”が、どのように成長していくか、疑問と不安をもちながら注目し続けた30年に、一つの(もちろん肯定的な)結論を得た思いで聴いた演奏でした。

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     2014/03/24

    今若い人でロランを読む人はどれほどいるのだろうか?もう50年ほども前、我国でロランの名声は高かった。理想主義、平和主義の理念的支柱として、そしてその”理念”的支柱の土台の健全さを保証する彼のベートーヴェンへの帰依。あの時代、そういった”理想”、”平和”は政治的には”左翼”の看板でもあった(・・・かのような様相を呈していた)。それは、ロランがソヴィエトを熱烈に支持したことと相似形でもあった。
    第一次大戦中、「ジャン・クリストフ」によってノーベル賞を受賞し、「戦いを超えて」と題された一連の社会評論によって国家の枠組みを超えた人道的平和主義を呼びかけたロランの言説は、情熱と理性というともすれば相反することも多い人間の両面を統合できるヒューマニストとして説得力を持っていた。当然、独仏両国で”国境を越える”ことを良しとしない”愛国的”勢力の反発にも侮辱にも晒されるけれど、「ジャン・クリストフ」の著者の政治的発言は”理想”の現実的な実践としてその(将来に向けた)倫理的優位性は(今も?)誰も否定はできないものだった。
    しかし、彼の”理想”は戦後寧ろ戦前よりも露骨になったかのような戦勝国のブルジョワ帝国主義的行動の前では無力であったためか、彼はプロレタリア”革命”を実現したソヴィエトに共感を寄せていく。特に1930年以降イタリア、ドイツでファシズムが勃興するに及んで、その暴力的・強圧的ナショナリズムに対抗しえる勢力としてソヴィエトを積極的に支持するようになる。特に、ドイツにおいてヒトラーが政権を奪取した後は、唯一ヒトラーを阻止できる国としてソヴィエトおよび共産党(運動)を擁護してゆくようになる・・・・・既に、スターリンによるソヴィエト国内での弾圧・粛清が行われるようになっていたにも係わらず・・・・・そして、周囲からもヒトラーの暴力を非難しながらスターリンの暴力を擁護する矛盾を指摘されていたにも係わらず・・・・・。ロランは安易でお手軽な社会主義・共産主義イデオローグとは異なり、自身は決して共産党には入党しないし、日記においてはソヴィエトの弾圧に激しい失望を書き付けている・・・・にも係わらず、公にそのことを公言するのはヒトラーを利することになるとして拒否し、あからさまなソヴィエトの西欧に対するプロパガンダに乗ることも厭わない・・・・いずれ、ソヴィエトは独裁を脱して真のプロレタリア革命を達成するだろう、と言う期待をかけて、自分が擁護しているのはスターリンではなく”ソヴィエト”なのだとしながら・・・・。
    そして、それは最終的に1939年の独ソ不可侵条約によってヒトラーとスターリンが手を結ぶという形で決定的に裏切られる。それ以降1944年の死に至るまで、ロランは政治的には沈黙する。苦く、苦しい悔恨の中で彼は宗教にも近づくが彼はカトリックの伽藍の壮麗さを賞賛しながらもその敷居の前で立ち止まり、過ちを犯すことが自分に課せられた役割だったのだろうかとも思いながら、結局彼が慰めと救いを求めるのはベートーヴェンへの回帰だったという。
    戦後、我国における左翼運動の過ちはロランの過ちと相似形をなしているようにも見える。そして、そう言ったイデオロギー論争の根の深さは本書に見られるようなロランの評価が、ソヴィエトが崩壊しロランの名が殆ど忘れられかけられている”今”と言う時代を待って漸く可能になったことにも表れている。

    ロランの生涯を顧みることは、理想主義・・・と言う理想が抱える矛盾を考えることでもある。その矛盾は現代においても身近に至る所にある・・・憲法改正、震災復興、原発問題、歴史認識、領土問題、etc. etc.。 ロランの過ちから学ぶことの出来る教訓は多くあるのだろうけれど、それらの全てを学んだからと言って、それで全ての誤謬から逃れることが出来るわけでもなかろうとも思う。真実を見抜きそれに殉じる試みは必ず失敗に終わるのかも知れない。その、一方で第2次大戦後のEU結成の長く粘り強い道のりにロランの理想主義の木霊のようなものを聴くような気もするのも事実である。

    そう言ったロランの理想に共感するにせよ、しないにせよ、”理想”のもつ(社会的)意味を再考させてくれるロランの歴史を記述して本書は秀逸である。

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     2014/03/24

    チューリングは数理論理学の英才であり、その研究の一環として彼が考えた所謂チューリング・マシンはコンピュータの出発点でもあり”人工知能”へ向かう道でもあったし、第2次大戦中はドイツの暗号解読の理論面での中心人物でもあったうえに、若い頃は英国の大会で優勝するほど力のある長距離ランナーでもあった・・・・この興味深い人物の伝記をいつか読んでみたいと思っていたが我国にはなかなか良い伝記がない状態が続いている。
    彼の研究者としての功績は早くから知られていたが、戦争の行方に大きな影響を与えた暗号解読の功績は長く”軍事機密”として秘せられその一端が公開されたのが1974年、ほぼ全容が公開されるのは2000年だった。彼は1952年当時英国では違法であった同性愛容疑で有罪を宣告されて”化学的去勢”を強制され、2年後42歳で青酸カリ中毒によって死去している。この国家的英雄への不当な仕打ちに対して英国政府が正式に謝罪したのが2009年だった。こうして1912年生まれの数理論理学者はほぼ百年に渡って”現在”と直接的に係わりを持っていたことになるし、”人工知能”の分野では今も所謂”チューリング・テスト”と言った概念で現役の理論的作業仮説を提供し続けているともいえる。
    この、コープランドの本はそういうチューリングの伝記として期待して読んだが、期待は一部は満たされたが一部は満たされなかった。満たされたのは、何しろ我国では殆ど系統的な伝記が皆無だったチューリングの具体的な生涯について兎にも角にも(その一部を)知ることが出来た点。満たされなかったところは、チューリングについて”その一部”しか知れなかった・・・と言う点だった。それは必ずしもこの本の責任と言うわけでもない。本書は、チューリングの生涯に絡ませてコンピュータの(概念と具体的なマシンの)発生・発達史を概観し、その現代への影響についても考察する・・・と言う欲張った目標で書かれている(らしい)。それだけの内容を四六判400頁弱の本に収めるのは少し無理がある・・・とも言える。どの記述も少し中途半端の観が否めなく、その代わり”詳しく知りたい方は元資料をお読みください”・・・と言わんばかりに大量の参考資料がついている・・・・資料リストだけで60頁!。その意味で良心的に書かれた本とは言えるのだろうけれど、この本だけを読んでいる読者としては少々物足りなく思うところもある。

    それでもこの本からも1930年代―50年代の英国と言う環境の中で主要な活動を行ったチューリングの魅力的な人物像とその時代背景を想像することは出来る。閉鎖的で寡黙・深遠な思索を通して対象の本質を捉え、革命的な目標に果敢に突き進む・・・と言う(ことを許す)ケンブリッジに代表される英国の研究・教育システムに育まれた英才と言う点で、量子力学におけるディラックと共通する雰囲気も感じられる。思索が深いにも係わらず(・・・と言えば、本人達は不満だろうが・・・)、成果が実用的・実利的である点でも両者は如何にも英国的でもあって、そこが米国などにおける学術研究とは一味も二味も違っている。そういう思索と現実の取り合わせの微妙なところが本書からも伝わってくる。
    それはニュートン以来の英国の伝統とも言えるけれど、その同じ英国(社会)がチューリングに同性愛と言う罪を着せて不当な扱いをしたのは皮肉・・・と言のも余りにも厳しい現実でもある。尤も、本書によれば毒入りリンゴをかじって”自殺”した・・・と言うチューリングの死については、必ずしも根拠がある訳でも確定した結論が下されている訳でもなく、チューリング自身は不当な有罪判決後も”毅然として”それを受け入れ、最後まで”一生懸命仕事をし”、人生を”楽しんでいた”・・・そうなので、余りに感傷的にこの稀代の天才の死を語ることも控えるべきなのだろう・・・。
    チューリングについてはA.ホッジスの有名な伝記(1983)があるが、残念ながら未だ翻訳はなされていない。今後、ホッジスの訳はもとより更に新たなチューリングの総括的伝記研究が行われることが表れることを期待している。

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     2014/01/18

    音楽を言葉で語る・・・・と言うのは愚かなことなんだろうとは思う。音楽は音を”聴く”ことによって享受・感受されるものであって、言葉による補助を必要としたり解説され得る音楽はそれだけなにがしかの”不純さ”を含んでいるとも、音楽に余計な装飾を付け加えるものとも、言えるように思う。その意味では、音楽評論といった作業はとても空しい作業だともいえる。あるいは、作曲家・演奏家にも自作あるいは他人の音楽について結構雄弁に語る人がいるが、それは音楽家としての一種のひ弱さの表れではないかと思うこともある。
    そういうことを思いつつも、それでも好奇心をくすぐり知的興味を刺激される・・・と感じる音楽評論や音楽家自身の発言というのもある。サイードの音楽評論集(I & II)はそう言ったものの典型的な読み物の一つだ。サイードはプロ並みのピアノの腕を持っているとも言われるらしいが、彼はプロの音楽家ではなく、(パレスティナ出身で米国で活動する)思索家であり社会評論家である。そう言った(恐らく最上の意味で)音楽ディレッタントとしての彼の立場が彼の発言に音楽の現代的意味を俯瞰する目としての信頼性を与えている。
    彼の音楽評論集は(賢明にも?)音楽そのものについて語ることは少ない。音楽の前後、つまり音楽の背後に隠された(ように見える)意味や、実際に音楽が提供される(社会的)形態と様式が彼の音楽評論の興味の中心にある。彼は、おおむね”進歩派”とか”改革派”とか呼ばれそうなグループに属していて、”保守的”とか”現状維持派”とか言うものは余り好みではないらしい。従って、百年一日のごとく古臭い演出と金権的なスター歌手に頼るメトロポリタン・オペラなどはお気に召さないらしいが(・・・・そのくせ、XXXXはO日、*日、#日の三日上演されたが、私はその内のO日、*日、の二日を観た・・・などと言う記述があったりして・・・思わずそのうち一日分でいいから俺にチケットをよこせ・・・と言いたい気分に襲われたりする)、地方都市の小規模な音楽祭で行われる実験的なオペラなどに対してはおおむね好意的・擁護的である。私は、彼の評価に全面的に同調するわけでもないし、そう言った評論の根拠が彼の属しているグループの”知的鋳型”に嵌った定型から来ているのではないか・・・と疑うところも無い訳ではないが、それでもこの評論は読んでいる此方の知的好奇心を”まっとう”に刺激してくれる点では説得力に富み無類の音楽評論であると思う。こういった”読み物”は、それに同調するとか反発するとか言う以前に、読者に思考を促し日頃見逃しがちな音楽を聴く意識を刺激し常識とか凡庸とか言ったものへの反抗心を呼び起こす点で、すでに優れた”音楽評論”になり得ている・・・と私には思える。

    各章ほとんどすべてが、なにがしか考えさせられるところがあるが、その中の”ヴァグナー問題”を取り扱った章のタイトルは、
       「ヴァーグナーに対しては不忠実であるほうが忠実である」
    ・・・となっている。この著者の宣言に即して言えば、本書も
       「(サイードの)音楽評論に対しては不忠実であるほうが忠実である」
    ・・・と意識して読むのが”正しい”読み方かもしれない・・・などとも思う。いずれにしても久しぶりに読み応えのある音楽評論だった。

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