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モデラート宮内 さんのレビュー一覧 

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     2015/11/03

    このバッハは、「音を奏でる」ことの意味を改めて考えさせてくれるような
    深みのある演奏である。五嶋みどりは、天才少女として超絶なテクニックを
    もてはやされた時代を経過して、確実に新たな崇高な境地へ向かっているように見える。
    このCDの中で特筆したいのは、「無伴奏ソナタ第2番」のアンダンテの楽章である。
    絶対音楽として成立しているバッハのこの楽章が、あたかも、生きとし生けるものの魂と
    会話しているかのような、暖かな優しさと冷徹な厳しさとを感じさせてくれるような
    演奏として迫ってくる。実に心震える演奏である。
    もしかして、五嶋みどりはこの時涙を流しているのではないだろうか....。
    これまで私が愛聴していたシェリング、ミルシテイン、グリュミオー、スーク、
    パールマンなどの名演とも一線を画するような次元を、五嶋みどりの無伴奏ソナタの
    演奏の中に垣間見ることができたような気さえしている。
    私は、彼女の音楽に対する姿勢に、いつもストイックで献身的なものを感じるのであるが、
    彼女の演奏は、バッハ無伴奏曲において、もっとも素晴らしい形で
    結実するのではないだろうか。
    今後の録音を期待して止まない。

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     2015/11/02

    五嶋みどりによるこの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタおよびパルティータ」全曲録音を、
    どれほど待ち続けたことだろう。
    五嶋のバッハ無伴奏の演奏CDは、2005年の34歳のときに録音した「ソナタ第2番」が
    リリースされたもののみだが、演奏会では度々取り上げられており、その都度大変に話題になってきた。
    だから、この全曲リリースは五嶋ファンとしては喜びに堪えない大きな出来事である。
    この録音は、1982年のデビュ―から30周年目の企画として行われたようであるが、
    その企画当初は、日本各地の教会や寺、神社で行われたコンサートツアーから始められた。
    このバッハ無伴奏のツアーの模様はBS放送でも流されたので、ご覧になった方も多いだろう。
    彼女のパフォーマンスのすばらしさだけではなく、人柄までも理解できた貴重な映像であった。
    ひたすらストイックにバッハ演奏に取り組む彼女は、商業主義的な時代にあってもなお、
    音楽芸術家としての自らの立ち位置をしっかりとわきまえて、何の虚飾もなく、
    音楽そのものだけに献身する真のアーティストであることを再認識させてくれた。
    本CDはライブではなく、このツアーとは別録りで、2013年にケルンで行われたものである。

    さて、このCD演奏を初めて耳にして、率直な戸惑いを感じた。
    私の勝手な予想では、彼女はこのバッハの難曲を最高のテクニックと美音を駆使して、
    堅牢な造形の中で、力のある厳粛なバッハ演奏を展開してくれるのではないかと思ったからである。
    しかし、その予想は部分的には的中し、また部分的に外れたのである。
    ここでの演奏は、ハイフェッツやミルシテインに代表される、求心的に自分の内面へと向けられた
    求道者のような完全無欠の孤独なバッハではなかった。
    しかし、今回の五嶋の演奏は、予想が外れたところにこそ貴重な意味があったようである。
    それは自己の外へと向かう、対話の音楽である。

    五嶋みどりは次のように語っている。
    「何年にもわたって、私はバロックスタイルの奏法に惹かれてきました。
    バッハの本来的な演奏における壮麗さの中にも、音楽の柔軟性、冒険性、奔放さを取入れて,
    そのリズムの変化のポジショニングにおいて、いわば ”jazzy” な予期せぬ体験に遭遇したのです。
    そして、バッハの音楽の希望と信頼と謙虚さを備えた完璧なハーモニーの中で、
    あらゆるものが相互関係性で結ばれているような美の世界に入り込み、天啓ともいえるような日常性を
    超越した信仰のようなものを感じとることができたのです」(輸入盤ライナーノーツからの抜粋)。

    この言葉の意味は、たしかに、「バロック奏法」の多用においてみごとに表現されている。
    これまで、同じバロック奏法を演じた他の名ヴァイオリニストたちの演奏では、
    不自然なあざとさを感じなくもなかったのだが、五嶋みどりにはそれが微塵もない。
    ただ、他人(ひと)の心に染み入ってゆく自然さがあるだけだ。
    そしてそれは、「何か(誰か)との対話」であるかのような、奏者と聴き手とが心の底で触れ合わなければ
    成立し得ないような、深くて強い優しさに満ちたバッハ演奏として示されているのである。
    いうなれば、「祈り」のような演奏とでもいうべきだろうか…。

    五嶋みどりのこれまでの30年余りの演奏活動の素晴らしさは言うまでもない。
    進化し続ける現在進行形の彼女の音楽において、本CD演奏は一つの到達点を明確に示している
    ことはまちがいない。まだまだ長い未来を生きる彼女の音楽人生なのだから、
    聴き手に新たな多くの驚きが待っているのかと思うと、それはこの上ない楽しみというものだ。
    五嶋みどりという希有なヴァイオリニストによって演じられる極めて優れた音楽を、
    今後もひたすら味わい続けたいと思うのは、私だけではないであろう。

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     2015/10/28

    このCDの中の「謝肉祭」に関してのみのレビューである。
    「謝肉祭」というシューマンの初期のこの曲は、ピアニストにとっては、
    まとまりのない、散漫ともいえる21曲(Sphinxes. スフィンクスを含む)の曲群のように
    感じらているかもしれない。おそらく、あまり弾きたくない作品ではないだろうか。
    A - Es - C - H という4つの音を中心に据えて作曲されており、
    若きシューマンが作曲技術を遊び心で示しながらも、それを芸術的に表現させようとした
    野心的試みの作品ともいえる。個々の曲はタイトルがついたせいぜい2分前後のものであり、
    またそのタイトルの意味するところは理解しにくいものがあり、この曲を全体として
    どうとらえるべきなのかはなおさら難しい。
    そのため、大抵は凡庸でつまらない演奏に聴こえる結果となってしまうのである。

    しかし、この内田光子の演奏は、私にとって驚きのものであった。
    一曲一曲に演奏の意味が込められており、それが全体としてみごとなまとまりをもって
    仕上げられている。時には優雅でゆるやかに、時には奔流のようなほとばしる情念を
    荒々しいテクニックを駆使して表現し、川の流れのように自然に最終曲へと導いてゆく。
    シューマンというロマン派の代表的な作曲家には、つねに「情念」の流れがつきまとっており、
    この情念をどう解釈して表現するかが問われるのである。
    このような演奏を聴いてしまうと、内田のピアニストの真価は疑いもなく、
    傑出したものであると確信できる。
    この演奏では評価の高いミケランジェリのものでさえ、希薄な情念表現として
    遠くにかすんでしまうほどである。
    「謝肉祭」がこれほど感動的な作品であったのかということを、思い知らされるのである。
    お聴きになれば、それがはっきりとお分かりになる筈である。
    ここでは、シューマンの指定では演奏不要となっている「Sphinxes. スフィンクス」という
    タイトルがついた曲も演奏されており、珍しいものとなっている。
    1994年5月のグラモフォンの録音もすばらしい。

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     2013/04/19

    現代の優れたピアニストの中には、自身の演奏哲学を明確にすることで、
    独自の音楽的個性を提示することに重きを置く奏者がいる。
    たとえば、その代表格はグレン・グールドである。
    カツァリスやアファナシエフもそれに属するピアニストといえるかもしれない。
    そして、このポゴレリチもその一派に属しているといえよう。
    彼らの演奏の特徴は、極めて知的であるということ。
    しかし、創出する音の重なりや響きの演出、テンポの設定に重点を置くために、
    他の演奏者と著しく異なる音楽作りを示す結果となる。
    そのため、その音楽作りの全体像の中では、明らかに欠落した要素があるように
    みうけられることもある(もちろん本人たちはそうは思っていないのであるが…)。
    グールドの場合では、「ポリフォニー的造形」を常に考え抜いているために、
    ノンペダル奏法に徹するあまり、現代におけるピアノという楽器の幅広い可能性を
    あえて犠牲にしてしまう。ただこれは、グールドがバッハ演奏するときのように、
    バッハ時代のチェンバロを意識したことであれば、そこに大きな意味も生まれてくる。
    だから、なぜグールドがショパンを弾かないのかという理由は、
    あえて言わずともご理解いただけるであろう。
    そのため、この一派のピアニストは、その欠落していると見られる要素があるために、
    常に酷評と隣り合わせの危険性を抱えているのである。

    さてそこで、ポゴレリチはショパン弾きなのだろうか…?
    彼がグールドとは異なり、ショパンを弾く理由はただ一つ、
    彼の音楽は知的であると同時に、並外れたエモーショナルな音楽を
    志向しているからだ。
    先ず言うべきことは、ショパンの音楽が支配しているものは「センチメント」である。
    「センチメント」を表現するために、あらゆるピアノテクニックを駆使して
    彼は作曲したのである。
    その意味から、ショパンはピアノによる絶対音楽を追求したロマン派の作曲家と言える。
    だから、彼自身は絶対音楽者であるバッハを敬愛していた。
    そこが、ショパンが同時代の他の作曲家と決定的に違うところである。
    その意味から言えば、ポゴレリチのショパンは、見事にショパンの
    センチメンタルな情念をピアノ音楽として徹底的に生み出すことに成功している。
    それは、彼の激しいエモーションが原動力となって可能となっているのである。
    このショパンの「前奏曲」は、24のポエトリーを遺憾なく紡ぎ出していて秀逸である。
    表出された一曲一曲が明確なセンチメントを表現していて美しい。
    15番の「雨だれ」だけをとっても、これまでの他のピアニストの演奏を圧倒している。
    ここでは、甘い恋話などは関係ないのだ。
    まるで十字架に磔になるキリストの物語のように、世界の苦しみを
    独りで背負っているような恐ろしい孤独の世界を出現させている。
    一度お聴きになれば、それがはっきりと解るはずである。
    そして、ポゴレリチはショパンを弾くためのピアニストであると確信できる。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/01/30

    ティル・フェルナーというピアニストは、あまり日本で知られていないように思われる。
    1972年ウィーン生まれのブレンデルの高弟と言われ、
    93年クララ・ハスキル国際ピアノコンクールに
    オーストリア人として初めて優勝した人物である。
    評者はこのピアニストを並々ならぬ逸材として評価する。
    特筆すべきは、音楽作りのバランスの良さである。
    けっして失われることのないメロディ創出方法の自覚や
    タッチの変幻自在な使い分けによる音作りへの配慮はこの上ない。
    でき上がる音楽に奇抜なものはまったくなく、すべてに美しい調和を導き出す。
    ピアノ音楽の「闇」を表現する意志など感じられない。
    音楽に対する自分の哲学がはっきりと見て取れる。
    ことさらにテクニックを見せつけることもなく、
    音楽全体の中でのテクニックの役割を熟知している。
    このようなピアニストは最近の個性派ぞろいのクラシック界には珍しい。
    バッハ「平均律の第1巻」は、おそらくこの曲でのベスト盤と言ってもよい。
    この「インヴェンションとシンフォニア」「フランス組曲第5番」も同様であろう。
    是非お聴きいただきたい。

    かつてブレンデルから学び取ったフェルナーの音楽作りの姿勢を示す次の発言には、
    なるほどと頷けた。
    「要するに音楽に没入しすぎてはならないということです。
    ブレンデルは、曲全体を見渡しているような冷静さが必要であることを指摘してから
    細部に関して丁寧に指導します。和音、音色、アーティキュレーション、
    フレージングの全体把握とそれらの細部とのコンビネーション、バランスが大切であることを
    彼から学びました。」
    この発言にはブレンデルの偉大さを感じるが、この同じ言葉で語られた指導でも、
    誰しもがそれを的確に継承し、それをさらに自分のものとして完成しゆくことが
    できるわけではなかろう。
    それを可能にしているフェルナーの今後は、末恐ろしいものさえ感じる。
    異なる逸材であるキーシンと同世代のピアニストとして、
    今後のピアノ界をリードして行くことは間違いないであろう。
    それが大いに楽しみである。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/07/20

    ドビュッシーとは不思議な作曲家である。
    彼の作風の特徴は、何と言ってもその和声の響である。
    そのため、彼の音楽はその独特のロマンティックな側面に目を向けられてしまいがちとなる。つまりそれは、それまでの作曲家が想像もしなかったような極めて色彩感の強い、独特の音楽世界の表出により、後期ロマン派の標題音楽家としての地位を築いたという事実からも言える。しかし、それとは裏腹に、彼の作曲技法は究極的に考え抜かれた理論性に裏付けられており、音の紡ぎやリズムを徹底的に合理的に考え抜いていることに注意を向けるべきでもある。その実証的な証明がこのCD演奏に大変良く表れている。
    ワイセンベルクというピアニストは、ピアノの音を即物的に表現する天才であった。けっしてロマンティックなピアニストとは呼ばれないであろう。彼の生み出すピアノ音楽は、音符に示されているものを実にクールに完璧にピアノの音として表出させることに徹したスタイルをもっているからである。音に情感を込めようとか、意図的にけれん味たっぷりと演奏する気などまったくない。しかし、どうだろうか、それにより素晴らしいロマン性溢れる音楽を奏でてみせたのが、このCDでの彼の演奏なのである。その意味から、このCDはドビュッシーの作曲家としての偉大さと、ワイセンベルクのピアニストとしての見事な音作りの意味とを同時に感じさせてくれる名盤と言える。特に「組み合わされたアルペジオ(練習曲集 第2巻から)」 のみを聴くだけでも、このCDを買い求めた意味があるというものである。もちろん、他の演奏も十分すばらしい。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/07/01

    バッハのすべての作品に共通することは「神との対峙」である。
    したがって、すべてのバッハ演奏には、厳粛な「孤独」が表現されていなければならない。
    特に、無伴奏の単独楽器の曲となれば、それがもっとも如実に示されるべき条件となる。
    名手と言われるバイオリン奏者の中において、バッハの無伴奏曲を美音とテクニックのみで
    弾いている演奏によく遭遇するが、それはいただけない。
    バッハの演奏は、徹頭徹尾、神と対峙する孤独な自己存在を掛けた演奏舞台上での孤高表現にある。
    したがって、聴く側も、そこに生温い感情移入や癒しなどを求めるべきものではないのである。
    そこで示されるべきものは、実存的な生の峻厳さであり、どこにも曖昧さがない緊密で正確な表現力である。
    日常的なつかの間の意味のない感情などを置き去りにして、ただひたすら自身の魂を神(バッハ的音楽)へ
    傾けてゆくこと、そのような音楽スタイルを所有する音楽家に時折出会えることは喜びである。
    この庄司紗矢香の演奏は、その意味で、見事な演奏となっている。
    ソナタ一番の冒頭の「アダージョ」と「フーガ」の意味を、聴き手はどうか汲み取ってほしい。
    今年29歳(2012年現在)という若さでありながら、ここまでのレベルにこの難曲を仕上げてゆくとは、
    恐るべき才能というしかない。
    最後になるが、バッハの影響が随所に感じられるレーガーのop.117「無伴奏ヴァイオリンのための前奏曲とフーガ」および
    「シャコンヌ」も、大変に素晴らしい仕上りとなっている。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/13

     文学、音楽、絵画など芸術を鑑賞する意味は、それにより、自分の人生のあり方を問い掛けられるということである。時には、自らの生死の問題にまで及ぶことさえあろう。人生が変わる場合もあるかもしれない。それがなくては、芸術の意味はない。単に楽しみのためだけの芸術と呼ばれるものは、畢竟、芸術足り得ないのである。
     ピアノ芸術に限っても、同様のことであろう。現在のピアノ演奏の技巧は、もはや来るべきところまで来てしまった感があり、超絶技巧的な技量の持ち主は数多く存在するのであるが、彼らの中で、聴き手に対して、人生について問いかけて来るようなピアニストは稀である。われわれは、結局なぜ、芸術音楽を聴いているのであろうか。そして、ピアニストはいったい、何のために演奏しているのだろうか。もちろんBGMでありはしない…。これは聴き手の勝手な聴き方の問題ではない筈である。演奏者が演奏する「意味」を持ち、聴き手がその意味をどう受け取るかの問題である。
     内田光子の音楽には、常に緊張感がまとわりついている。一世を風靡した彼女のモーツァルト・ソナタの演奏においてさえ、お気楽に楽しむことができないものがある。だがしかし、どの演奏にもわれわれに迫り来る「問いかけ」がある。このようなピアニストは、現代においては、希有で貴重な存在といえる。
     しかしこのシューベルトの演奏は、数ある内田の演奏の中でも出色のものと言える。死を意識し続けたシューベルトの薄幸の人生が、内田の音楽性とぴったり符合することがはっきり見てとれる。これは、D.784やD.845の冒頭の楽章を聴いただけでも感じられる。そこには「意味」がある。
     それにしても、これらの演奏を聴いていると、内田光子の日常とはどのようなものなのか、つくづく考えさせられてしまう。このような演奏を可能にしてしまう彼女の日常生活は、特別な何かの意識に支配されているはずのものであるからだ。自身の俗な日常性とは無関係に、崇高な芸術性を生み出すことができるのは、モーツァルトのような天才だけである。モーツァルト的音楽家は、もはや出現することがない現代において、内田のこのシューベルト演奏の記録は、現代のピアノ芸術の特別な意義を示していると同時に、芸術性と俗性の関係性の問題を呼び起こしてくる。だから、この録音が、極めて優れた歴史的名演の記録となることは疑いがないであろう。それほどの演奏であるのだから、お気楽には聴けない。しかし、お気楽に鑑賞できないものこそが芸術なのである。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/05/13

    カルミナ四重奏団の演奏の特徴として先ず挙げられるのは、
    古びた垢のような不純物の無い都会的なセンスの美音である。
    常に音の響きがクリアで切れがよく、颯爽としている。
    このような美質は、このモーツァルトの演奏に非常に生かされている。
    録音の良さも大きな効果を上げているとはいえ、この演奏の美しさには驚かされる。 演奏解釈はいつもながら現代風の斬新なものでありながら、実に隅々にまで細かな配慮がある。 斬新さがありながら嫌味にはならず、見事な新しさと新鮮さを感じてしまうのは、 演奏者同士が納得のゆくまで発想豊かに議論をし尽くしたプロセスを通じて、それを表現し抜く技量と集中力の高さとにあるのだろう。縦糸の和声効果から横糸的な同調性に至るまで一分の乱れが無いことは、
    もはや改めてコメントする必要はないであろう。
    すでに、カルミナ四重奏団は世界トップクラスのカルテットであることは間違いない。今後、どのような活躍を見せてくれるのか,ますます楽しみの演奏家である。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2009/10/04

    ピリスの演奏を聴く度に感じるのは、「音に血液が流れている」ということである。
    一音一音に意味があり、流れ任せに演奏することが無い。
    音のパッセージに無造作なところがまったく見られない。
    特に、このバッハ演奏にはそのことを強く感じる。
    ここに取り上げられている楽曲は、これまで幾多の演奏家により録音されてきているものであるが、これほど「ピアノの鍵盤から音を発する」ことに対して集中力を注いでいる演奏を聴いたことは無い。それは、単に「音の美しさ」ということではなく、まさに音に生命を吹き込んでいるかのようである。
    彼女からは、ピアノの技巧とは何か、ということを改めて問いかけられており、
    いわゆる技巧派ピアニストの音楽作りを、聞き手として再評価することを余儀なくさせられる。
    このことは、彼女のショパンの「夜想曲」の演奏においても全く同様である。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2009/09/30

    このアルバムは、よくあるようなアダージョ楽曲を集めたヒーリング音楽志向ののものとはニュアンスが違う。
    それは、例えば、エルガーの「弦楽のためのセレナード」全曲やドボルザークの「ノットゥルノ」、それに
    レスピーギ「リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲」全曲をピクアップしているところにうかがえる。
    言ってみれば、ちょっと玄人好みの上品で味わい深い選曲集ともいえる。
    さてその演奏だが、先ずこの種の演奏の場合は、必要条件として良質な録音であることが欠かせないのだが、
    この点でも満足のゆくものになっている(1989年録音と記載)。
    そして、このフィルハーモニック・ヴィルトゥオーゾ・ベルリンは、ベルリンフィルの楽団員から構成
    されているとあって、さすがに質の高い弦楽合奏を演じている。14〜15名程度の楽員数であるが、
    それがまとまりよく、きっちりとふくよかで、上品な旨味を醸し出している。
    取り上げられている曲調においても、この人数構成は最適であるかのように思わせられる。
    もちろん、楽団員の技術の高さがあって実現することだが…。

    私にとっては、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」が特に印象的である。
    この曲は、ある時期から流行のように、数多の演奏でCD化されるようにもなったが、
    意外に良い演奏が少ないのではないだろうか。
    変わらない反復されてゆくテンポが、ともすると退屈な音楽を生んでしまうからだ。
    その意味からも、ここでの演奏はすっきりとした高度なアンサンブル作りに成功しているようだ。

    ハイドンの「セレナード」やボッケリーニの「メヌエット」の選曲が好みではないので、
    ★4つであるが、決して悪い演奏ではない。欲を言えば、ディ−リアスやグリーグの小品を
    選んでほしかった。しかしトータルには、大いにお薦めのアルバムである。

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