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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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     2017/12/26

    CDの時代になってから、歌手たちはいわゆる『白鳥の歌』14曲に何を加えて一枚のCDを作るかに頭を悩ませてきた。通常、行われてきたのは、ザイドルとレルシュタープの詩による歌曲を増補することだったが、この盤はユニークな方法をとっている。もはや定番とも言えるレルシュタープ歌曲「秋」D.945は入れているが、それ以外の増補はなし。ただ一つのザイドル歌曲である「鳩の便り」は「別れ」で終わるレルシュタープ歌曲群の後ろに、いわばアンコールのように置かれ、その代わりゼンの詩による「白鳥の歌」D.744以下、『白鳥の歌』冒頭に置かれたハイネ歌曲群につながるような水と死に関わる歌曲5曲を冒頭にセレクトしている。「海の静寂」D.216からハイネ歌曲の一曲目「漁師の娘」へのつながりはお見事。その後のハイネ歌曲の並びは「海辺にて/都会/影法師/彼女の肖像/アトラス」だが、これも実に良くできた配列で、もちろんそれぞれは別個の詩だが、ひとつながりのストーリーになっている。「苦痛の全世界を背負わねばならない」とアトラスの歌う「苦痛」には失恋の痛みも含まれているわけだ。特に「影法師(ドッペルゲンガー)」において、従来の恐怖・戦慄よりは自嘲のニュアンスをはっきりと打ち出しているのは、詩の解釈としてはまさしく正解。レルシュタープ歌曲の冒頭にある「愛の便り」をやや遅いテンポで、すこぶるソフトに歌っているのも、「アトラス」の次という曲順を考えた結果だろう。ほんの少し前に出たスコウフスの再録音では、声も重くなって、やりすぎと言えるほど(F=ディースカウ以上)朗誦に近づいているのが衝撃的だったが、トレーケルも歳をとって枯れてはきたが、まだ端正な柔らかい歌い口を保っている。ピアノ伴奏はスコウフス盤でのヴラダーの積極的な切り込みが忘れがたいが。

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     2017/12/26

    修正版CDが届きました。なるほどコントラバス伴奏の入りが0.5秒ほど欠けていましたね。しかし、ファゴットの主旋律が欠けているわけではないので、このミスに気づくのはなかなか至難かと。さて、肝心の演奏だが、やはり大した業師との印象を再確認した。HIP(ピリオド)様式による『悲愴』の録音は既にあったが、これはもはやHIPでは全くないでしょう。弦はノン・ヴィブラートからヴィブラートたっぷりまで自由自在、編成も16/14/12/14/9と非常に大きい(低弦が厚いのはロシアの伝統でもあるようだ)。対向配置も、終楽章第1楽章など両ヴァイオリンが合わさって一つの旋律を作るという作曲者の凝った書法を生かすために(常にではないが)既に行われてきている。管楽器も「増管」して3管編成。第1楽章展開部直前のppppppもバス・クラリネットだし、モーツァルトでも必要とあらば譜面に手を入れていたクルレンツィス、オーセンティックでなければならぬというこだわりは皆無だ。
    しかし極端な強弱の対比を軸にした細部への徹底的なこだわり、第1楽章展開部などでのめざましい弦楽器群の表出力は、いつもながらお見事。オケをベルリンまで連れてきて、この一曲のために一週間、スタジオに缶詰めにするなんて、毎週の定期演奏会演目を2〜3日のリハーサルで仕上げねばならぬメジャー・オーケストラには出来るはずもない芸当だ。第3楽章では金管を抑え、すなわち華やかさを抑えて(録音の方でもそのようにバランス調整しているようだが)、終楽章とのコントラストよりは同質性を狙うなど、方法論が徹底している。終楽章最後の第2主題再現、普通は「鎮静・浄化」を感じさせるところで、こんなに痛烈な表現を持ち込むなんて、やはり聴かせどころを外さないな。

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     2017/12/17

    実はエラス=カサドの指揮に最も期待していたのだが、『椿姫』のようにピリオド楽器オケではなく、一般の歌劇場オケだったのが災いしたか。悪くはないが、ごく普通の『オランダ人』だった。ゲルネとの『ワーグナー・プロジェクト』でスウェーデン放送響を振っているハーディングの方が遥かにピリオド・スタイルらしさを出している(序曲とオランダ人のアリアだけだけど)。ティーレマン指揮のバイロイト版に続いて主役を張るサミュエル・ユンは堂々たる演唱。ドイツ語も彼が一番しっかりしている。クワンチュル・ユンのダーラントは小物、好々爺というイメージだが、役作りとしてはこれも悪くない。ヒロインのブリンベルイは歌はちゃんと歌えているが、映像ソフトでこの老け顔はつらい。
    演出は残念ながら凡庸。三幕とも海辺の砂地が舞台になっていて、第2幕冒頭の娘たちは糸紡ぎではなく修理中の船の部品磨きをしている。演出家はチッタゴン港(バングラデシュ)のイメージだと語っているが、舞台機構の制約からそうなっただけで、積極的に読み替えをやろうという意図も意欲もなさそうに見える。序曲や幽霊船の船員たちの合唱、第3幕終盤では盛大にプロジェクション・マッピングを投入するが、こういう舞台はもう見慣れてしまったので、さほどの驚きもない。それどころか、海や水のイメージは映像でしか表現されないので、『スターウォーズ』でおなじみの砂漠の惑星みたいに見えてくる。特にエンディングが意味不明なのには参った。ゼンタの献身によってオランダ人は呪われた運命から解き放たれたようだが、彼女の方はどうなったのか? 死んだわけでもなく、昇天もしない。ひょっとして彼女の方がゾンビ化して死ねない体になったのか? 何度見てもよく分からない。

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     2017/11/18

    今のラトルに最もふさわしいオペラとして、『ペレアスとメリザンド』を挙げる人は少なくないだろう。もっともラトルのドビュッシー演奏のスタンスは昔から変わっておらず、印象派風の曖昧な雰囲気を排して、響きそのものをきっちりと磨き上げて行こうというやり方だ。ただ、その精緻な音の積み重ねが官能的な湿りけを帯び、雄弁にドラマを語り始めるあたりが(『トリスタンとイゾルデ』でも大いに驚かされたが)近年のラトルの素晴らしさ。基本テンポはやや遅めだが、緩急の起伏は大きく、弱音の扱いはすこぶるデリケートだ。ラトルは全く同じ歌手陣でこの録音の直前、2015年暮れにベルリンでセミ・ステージ形式の演奏をやっている。ソリストのうまさと自発性、尖鋭さではBPOの方が上だが、シンフォニックで腰の重いBPOの響きに対して、LSOの「軽み」もまた悪くない。
    フランス人の誰もいない歌手陣もなかなか強力。コジェナーのメリザンドはやや作り物めいた印象だが、人工的であることが特にマイナスになっていない。彼女の歌で聴くと、メリザンドは無垢な少女ではなく、最初から悪意をもって男をたらしこみ、破滅させる魔女のようにも聴こえるが、それも悪くない解釈。ともかく、これで彼女はカルメンとメリザンドを両方録音するという珍しい記録を作ったわけだ(ユーイングやフォン・オッターも両方をレパートリーにしていたけれど)。ゲルハーエルのペレアスはフランス語もうまく、模範的な出来。ただ一人、疑問を感じるのはフィンリーのゴローの役作り。熱演ではあるし、ラトルの音作りの方向とも一致しているのではあるが、いささか生々し過ぎ、いわばヴェリズモであり過ぎるように感じられる。特に第5幕での過剰な「泣き落とし」は終幕の静謐な雰囲気を損なっているように思うのだが。

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     2017/11/15

    オペラとバレエの融合はヨーロッパの歌劇場で今や一つの流行だが、パリ・オペラ座はケースマイケルに振付&演出を依頼。六人の登場人物のそれぞれにダンサーの「分身」がつくことになった。このオペラ、二人の士官たちが出征することになったと言って嘘の芝居を始めるあたりから、「理性をもって対すれば・・・」という最後のドン・アルフォンソの啓蒙主義的教説に至るまで、本音と建前の乖離が至る所で顕著だが、歌手が建前の歌詞を歌うのに対し、ダンサーは常に本音を表現するので、「愛の親和力」を表象する床の幾何学模様以外、具象物のほとんど何もない舞台上では、実に面白い重層的パフォーマンスが展開。たとえば、婚約者との別れを悲しむドラベッラの建前の背後で、彼女の本音は早くも少しウキウキといった具合。欲を言えばこの演出、仕掛けが遅く、途中まではやや退屈だが、第1幕フィナーレ、少なくとも第2幕から先は文句なしに面白い。特に新しいカップルによる二つの二重唱がダンサー達のパフォーマンスを伴うと、幸せそうな歌詞とは裏腹に恐るべき空虚さをあらわにするのは衝撃的。このオペラ、二組の恋人たちが試練の末に「真実の愛」を見出すなどという、おめでたい話ではないことを改めて思い知らせてくれる。
    突出したスーパースターはいないが歌手陣は適材適所。プリマドンナらしい大柄な歌を歌うフィオルディリージ、いかにも利発そうなデスピーナ、危険な恋愛実験の仕掛け人たるドン・アルフォンソ、いずれも見事だ。ピリオド・スタイルを十分に踏まえつつ、演出の求める細やかなニュアンスを実現したフィリップ・ジョルダンの指揮も素晴らしい。近年の『コジ』ではヴェルザー=メスト指揮(チューリッヒ)と双璧と言ってよい。余談ながら、指揮者がリーフレットに寄せた「空虚を受け入れること」という文章が大変見事なのに感心(正確にはインタビューを基にインタビュアーが構成したものらしいが)。インテリのケースマイケルがこれぐらいのことを喋れるのは当然だが、演奏は素晴らしくても喋らせるとまるでダメな音楽家が少なくないなかで、これは秀逸。彼なら低迷の極みにあるウィーン国立歌劇場を建て直してくれるかもしれない。

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     2017/11/13

    この「ピッツバーグ・ライヴ」シリーズは毎シーズンの演奏の中から、最も自信のあるものをCD化するというのが趣旨だったはず。前作の『エレクトラ』『ばらの騎士』組曲は2016年5月の録音だった。それが2013年の録音に戻ってしまったのは、なぜだろうか。ひょっとしてグラミー賞連続受賞の某オケに対する対抗心かとも思うが、出てきた演奏は大変素晴らしいので(5番だけなら間違いなくこちらが上)、理由の詮索などはやめておこう。指揮者自身によるライナーノートは今回も詳細だが、音楽内部の解釈の話にとどめていて、「これは強制された歓喜の表現」とか「これはスターリンくたばれ!の意味なのだ」といった音楽が表現しようとするものについて一切語らないのは興味深い。第4交響曲については盛んに言われるが、この曲についてはやや珍しいマーラーからの影響をあれこれ指摘しているのは、オーストリア人のホーネックらしいが、ともかく聴衆には音楽そのものから感じてほしいということだろう。
    さて、そこで肝心の演奏。第1楽章はまず気合十分の開始、中間部分はそれなりに盛り上がるが(ただし対位声部をよく響かせて抑制気味)、両端部分はすこぶる静謐な、デリカシーを重んじた演奏。第2楽章は存分にテンポ・ルバートを効かせた遅めのテンポ。アイロニカルかつ確かにマーラー的だ。指揮者自身「この曲の白眉」と言っている第3楽章は緻密かつ痛切。特に盛り上がる所は「慟哭」より「憤怒」を感じさせるほど激烈な表情で、もともと感動的な音楽だが、近年にないほど心打たれた。終楽章前半は残念ながら常識的(冒頭を四分音符=88という譜面通りのテンポでやろうという指揮者はなかなか現れないな)、しかし後半は終わりに近づくほどテンポが遅くなり、執拗に続く弦楽器の「ラ」音(ロシア語では私、俺の意味になるという話は既にご存じだろう)を強調。これなら指揮者が言葉で語らなくても、音楽の意味するところは明らかだろう。拍手はカット。その後にバーバーの「アダージョ」が続くというカップリングも絶妙だ。もともと録音優秀なこのシリーズだが、今作はとりわけめざましい解像度。

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     2017/11/13

    ワシリー・ペトレンコとオスロ・フィルによるスクリャービン録音の第二弾。最初の交響曲第3番/第4番はこの指揮者としては普通の出来だと思ったが、今回の第2番は特筆すべき名演。第2番はけっこう稚拙なところもある若書きの曲だけど、作曲家生誕百周年の1972年に最初のLPが入手可能になった時から、不思議に気に入っている。その時聴いたスヴェトラーノフの旧録音は終楽章で鳴り渡る金管のファンファーレ音型があまりにド派手かつ下品で、いま聴くと笑ってしまうけど。マーラーの5番と同じく5楽章だが3部から成る曲で、第1楽章冒頭の主題(ハ短調)がそのまま「変容」して終楽章第1主題(ハ長調)になるという、ロマン派音楽を席巻した主題変容技法の見本のような作品。さて、ペトレンコのこの演奏、直近の競合盤であるゲルギエフ/LSOと比べると全体で10分も演奏時間が違うのに驚くが、これはゲルギエフの方がやりすぎ。退屈なところもある曲だから、速いテンポで締めようと思ったのだろうが、事務的で無味乾燥な演奏になってしまった。演奏時間の大きな違いをもたらしているのは真ん中の楽章(マーラーと違って緩徐楽章)であるアンダンテだが(ゲルギエフ11:55/ペトレンコ18:01)、メシアンを先取りするように鳥の声も響くこの美しい楽章はペトレンコのこの演奏がこれまでで最美と断言してはばからない。「光が欲しいと思ったのだが、軍隊行進になってしまった」と作曲家自身もボヤいている終楽章も、この楽章の陳腐さをうまく抑えたセンシティヴな演奏。全くヴィルトゥオーゾ的でなく、ショパン以上に「触ると壊れてしまいそうな」ピアノ協奏曲も非常にデリケートな出来ばえ。

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     2017/11/06

    2013年12月30日のライヴ、最後は拍手入りで会場ノイズもそれなりにある。物理特性自体はそんなに悪くないが、マルチマイク的な録音でもない。推測するに、放送録音として一発ライヴで録ったものだが、演奏がとても良かったのでCD発売の運びになったのではないか。実際、ユロフスキーのチャイコフスキーとしてはLPOとの最初の録音だった『マンフレッド交響曲』と双璧をなす出来ばえだ。
    チャイコフスキーのバレエ音楽はいずれも劇的あるいは抒情的な、交響曲のような音楽と踊りのためのいわば実用的な音楽のハイブリッドで出来ているが、付属のリーフレット所収のインタビューで指揮者自身が述べている通り、『眠りの森の美女』はその二つがはっきり分かれているのが特色。おとぎ話としてのストーリーは第2幕までで完結しており、第3幕はディヴェルティスマンだけだから。ユロフスキーの演奏はこの二種類の音楽をはっきり描き分けようとするもの。まず前半のシンフォニックな音楽では、序奏冒頭や第1幕終盤など、カラボスの主題が出てくる部分の迫力が半端じゃない。フレーズの終わりを畳みかけるように鋭角的に切り上げるユロフスキー・スタイルが絶大な威力を発揮している。一方、指揮者自身の言う「ドライ」な踊りのための舞曲は、ちょうどストラヴィンスキーがチャイコフスキーの主題に基づいて作った『妖精の口づけ』のような感覚。リズムの切れと、響きをまろやかに溶け合わせるよりはむしろ異質な声部の衝突を面白がるような響きのバランスがとても斬新だ。主旋律をしっかり確保して、しっとり描き上げようという演奏(たとえばプレヴィン)とは対極的なアプローチ。今では「エフゲニー・スヴェトラーノフ記念」と名乗っているロシア国立交響楽団は相変わらずパワフルだ。

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     2017/11/06

    近年の読み替え演出の様々な問題点を集約したような舞台。まず第一に舞台を現代の中東(第1幕間奏曲の間に投影されるグーグルアース風映像によれば、シリアとイラクの国境あたり、当時のIS支配地域とのこと)に移したこと。これについて私は、説得力があれば何でも認めようという立場。キリストに擬せられたアムフォルタスを使って血糊たっぷりの血なまぐさい聖餐式が演じられる第1幕終わりまでは、おおむね肯定的に見た。しかし第2幕、クリングゾールのアラブ風の館になると、そこには(本来いないはずの)アムフォルタスが囚われている。歌のパートがない人物を登場させるのも昨今の演出ではおなじみの手法だが、このアムフォルタス、「アムフォルタス!」と自分の名前が絶叫されているにも関わらず、ただ見ているだけで何も反応しないのだ。この黙役の扱いがいかにもまずい。第3幕、聖金曜日の奇蹟の場面では舞台奥にオアシスが出現し、そこで女性の全裸を見せたりするが、ここで最も肝心なパルジファルとクンドリーの心の交流についてはさっぱり描かれない。最大の問題はエンディング。この演出では第2幕終わりでパルジファルが聖槍を折ってしまっているのだが、彼がその折れた槍(ドイツの批評家の解説によれば、槍にはイスラエルとシリアの国旗をはじめ、様々なものが巻き付けられているとのこと)をティトゥレルの棺桶に投げ入れると、まわりの人々も七枝の燭台(ユダヤ教のシンポル)や十字架、数珠(仏教?)などの宗教的象徴をそこに投げ入れてしまう。素直に理解すれば、宗教を捨てよということらしいが、そんなことで二千年来のパレスチナ問題が解決するわけないでしょうが。最終場面にクンドリーは現れないので、ワーグナーのト書き通り、彼女が死んだのかどうかも分からない。オペラ演出に政治的メッセージを持ち込むなとは言わない。しかし一番いけないのは、作品そのものの解釈とちゃんと向き合わずに(シリア難民の大量流入に苦悩していた2016年のドイツでは特に受けたであろう)口当たりのいい政治的メッセージにオペラの結末を丸投げしてしまったことだ。
    ヘンヒェンの指揮は中庸かやや速めのテンポで手堅いが、ただそれだけ。近年、バイロイトで『パルジファル』を振ったガッティやフィリップ・ジョルダンですら聴かせてくれた「形而上的な」次元に欠ける。歌手陣の中で文句なしなのはツェッペンフェルトのグルネマンツだけ。フォークトはいつも通りの輝かしい声だが、全曲の真ん中での主役の「覚醒」が的確に描かれないので(もちろん演出の責任だが)説得力に乏しい。パンクラトーヴァも声は立派だが、演技の方は全く生彩なく(これも演出の責任)、存在感が薄い。マッキニーは(この演出ではキリストそっくりに見える必要があるので)見た目重視の起用と言えるが、歌の方はイマイチ。

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     2017/11/02

    2016年9月18日、つまり一連の首席指揮者就任披露演奏会のライヴ。近年のガッティは遅いテンポによる細部拡大趣味という「巨匠的」なスタイルを見せることがある。それはこの半年ほど前、すなわち首席指揮者就任前に収録された『幻想交響曲』のように「面白いけど、こねくり回しすぎ」という印象を招くこともあったが、ここでは彼の解釈が見事にツボにはまっている。終楽章の行進曲風な展開部における、まるでクレンペラーのような遅いテンポ、明確なフレージングはガッティの面目躍如。ただし、続く第2主題の展開において、(先のヤンソンス指揮の録画ほど露骨ではないが)舞台裏で演奏するバンダの姿を見せてしまうのは映像演出として好みを分けるかもしれない。また特筆すべきはオランダ放送合唱団の好演。この曲の合唱パートに数百名の大合唱は不要。それよりもピアニッシモかつ正しい音程で歌える確かな技術が必要だが、至難な無伴奏・最弱音による歌い出し部分は「まさにこうでなくては」という理想的な出来。この演奏では合唱は座ったまま歌い始める。それ自体は決して珍しいことではないが、立ち上がるタイミングが実に心憎い。これまた極度に遅いテンポをとった曲尾の極大スケールも圧巻だ。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2017/10/08

    チャルニャコフ演出は半年後に同じペーターゼン主演でメトで収録されたケントリッジ演出とは対照的な舞台。プロジェクション・マッピングを全く用いず(第2幕の間奏曲もパントマイムのみ)、具象物のほとんどない舞台上で人物達の絡みを的確に見せる。普段は見られない自殺した画家の遺体を見せるほか、舞台上でのルルの失神、シェーン博士の婚約者、第2幕ではシェーンがアルヴァを殴りつけるなど、舞台裏の出来事をはっきり見せるのはなかなかの工夫。最後のルル刺殺シーンも舞台前面で演じられるが、ちょっと違った味付けになっている(見てのお楽しみ)。主役ペーターゼンはメト版よりも遥かに生彩ある演唱。ただし、彼女もこの役はこれで歌い納めとあって、アップになると老けて見えるのは残念だが。シンドラムのゲシュヴィッツがやや魅力薄なのを除けば、スコウフスの素晴らしいシェーン博士以下、テノール三人(クリンク/トロスト/アプリンガー=シュペルハッケ)も申し分ない。
    さて、これが初映像ディスクとなる話題のキリル・ペトレンコ。私の聴いた限りでは、緩急の幅を広くとり、ここがクライマックスと見定めれば(たとえば『タンホイザー』第2幕終わりのコンチェルタート)、多少粗いところがあっても一気呵成に行く天性のオペラ指揮者。現役指揮者中ではやはりティーレマンに似ていると思うが、当然ながらティーレマンより世代が若い。3月のベルリン・フィル定期ではモーツァルト『ハフナー』交響曲で、ピリオド・スタイルを自家薬籠中のものとしていることを実証してみせたし、レパートリーも広い(『ルル』から『兵士たち』まで振る)。交響曲レパートリーではマーラー、ショスタコーヴィチを問題なく振れるあたりが、ベルリン・フィルのシェフ選びで、ティーレマン派を取り込みつつ、反ティーレマン派をも黙らせた要因だろう。

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     2017/09/21

    近年、ピリオド系アンサンブルを中心にメンデルスゾーンの交響曲が盛んに演奏・録音されているのは、ナチス時代の遅れがようやく取り戻され、新しい校訂による楽譜がたてつづけに出版されているからだ。特に『宗教改革』は2017年が宗教改革五百周年ということもあって、(私の知る限りで)早くも今年登場する三つ目の録音だ。これはブライトコップ&ヘルテルの新校訂版譜面による初録音という触れ込みだが、ネゼ=セガンが録音していたホグウッド校訂、ベーレンライター版に含まれていた終楽章冒頭のフルートのカデンツァ風導入部は含まれていない。初稿に由来するあれはとても美しい部分で、慣れてしまうと従来版での第3楽章から第4楽章への接合は不自然に感じるほどなのだが。とはいえ、今年出た三つの録音の中ではこのエラス=カサド指揮が最も攻撃的で、トーマス・ファイの録音と双璧をなす出来だ。前の『スコットランド』『イタリア』では意外におとなしいなと思ったエラス=カサドだが、今回はすこぶるアグレッシヴ。特に終楽章のリズムの弾みはめざましい。『フィンガルの洞窟』も非常に敏感、鋭利な切れ味満点な演奏。ただし、ヴァイオリン協奏曲だけは御免なさい。ファウストはまことに現代らしい、知的なヴァイオリニストだと思うが、私はこの人の乾いた(私にはとても美しいと思えない)音色と、私にとっては「神経を逆撫でされるような」フレージングがほとんど生理的に苦手。イブラギモヴァ/ユロフスキは実に素敵な、清楚で美しい演奏だと思うし、過激なコパチンスカヤ/クルレンツィス(録音はまだないが、2015年ブレーメンでの録画がある)も大好きだが、このディスクでの演奏は最後まで聴き通すのに忍耐を要した。出と引っ込みのタイミングを心得つつも独奏者に必要以上に遠慮しないエラス=カサドの指揮は、HIPスタイルによるこの曲の伴奏指揮でベストだと思うのだが。というわけで、『宗教改革』『フィンガルの洞窟』は星5つ、ヴァイオリン協奏曲はあくまで相性の問題なので、評価放棄。

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     2017/09/14

    完璧主義のあまり、録音嫌いの変人ピアニストの烙印を押されてしまったツィマーマンだが、彼の音楽作りに奇矯なところは何もなく、玲瓏たる美音と端正で堅固な造型は今も健在だ。ただ、細部の細かな味付けが年々、濃くなっていることは確かで、イ長調冒頭の晴れやかな第1主題とかすかに悲しみをたたえた第2主題のコントラストから早くも味の濃さを聞き取れる。第2楽章中間部の壮絶な修羅場の表現力も申し分ない。変ロ長調ソナタ冒頭の美しい歌と展開部の大きな盛り上がりとの対比も見事だし、提示部リピート経過句ほかでの左手トリルの凄みも期待通り。足を引きずるような第2楽章主部と中間部の明るさのコントラスト、楽章終盤でのごく自然なリタルダンドも近年の彼ならではの解釈だろう。ためらいがちな終楽章序盤から喜びの爆発する終結まで、私の大好きなこの名曲の新たな名盤の誕生を喜びたい。82分に及ぶ長時間収録ながら録音はきわめて優秀。雪深い1月の柏崎(ライナー所収のピアニスト自身のインタビューによれば積雪3メートルであったという)に参集した録音チームの皆さん、本当にグッジョブ! シューベルト最後のソナタと対にしてツィマーマンが近年、好んで弾いているもう一つの変ロ長調ソナタ、ベートーヴェン『ハンマークラヴィーア』の録音もぜひまたここで。

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     2017/08/25

    これもまたナマで聴いて震撼させられたが、恐るべき集中力と苛烈さを感じさせる演奏。8番は演奏時間60数分の曲で、たとえばネルソンス/ボストン響は約66分と、余裕のあるテンポをとって細部まで細密に描く演奏が近年は増えてきているのだが、このディスクの演奏は58分を切っている。もちろんムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの荒涼たる風景をここに求めるわけにはいかず、あれに比べたら都会的な、洗練された演奏なのではあるが、それでもこの緊迫感とオケのヴィルトゥオジティは凄まじい。長大な第1楽章も全く弛緩することなく、強い表出力をもって奏でられているが、第2楽章アレグレットが5:29で片付けられると、ちょっと皮肉っぽい舞曲楽章という従来のイメージは一変。早くもきわめて緊張した音楽になる。そして都響の全楽員がまなじりを決して突進する第3楽章は5:35。ムラヴィンスキーのどの録音よりも速いし、ウィーン交響楽団とのインバル自身の前回録音6:52より遥かに速い。この速いテンポにもかかわらず、細部まできわめて克明に作り込まれており、中間部での高橋 敦以下、トランペット群の妙技もお見事。80歳を超えて、見た目はかなりお腹が出てきたインバルだが、苛烈な音楽作りに弛みは全く感じられない。来年の第7番「レニングラード」、「幻想交響曲」、「悲愴」も楽しみだ。

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     2017/08/21

    初役挑戦の二人のうち、まずベチャワは文句なし。声もかなり重くなってきたし、クールかつ流麗な歌は女心など分かろうともしない、この「人でなし男」にぴったり。ネトレプコも決して悪くない。大変高名な歌手でもドイツ語がおかしい人は少なくなかったので(実名を挙げて恐縮だが、幾多のアメリカ人歌手はもとより、たとえばグルベローヴァなど)、それに比べれば上出来の部類。ただ、キャラクター的にエルザかと言われれば、合っていないのは確か。この古色蒼然の演出では、演技力を発揮する余地もないし。今回、意外にも不満を感じたのはティーレマンの指揮。きれいな歌を歌う歌手たちばかりだからかもしれないが、流麗に進みすぎていて、どろどろした「どす黒い」感じに乏しい。カラヤンのかつての録音のように、徹底したレガート趣味で、流麗さを磨き上げるというわけでもないし。『ローエングリン』はまぎれもない悲劇だし、相当に「どす黒い」オペラだと私は感じているのだが、第2幕のようにヘルリツィウス、コニェチュニの両悪役が前面に出てくると指揮はとたんに生彩を帯びるものの、清澄な美しさの影に隠れた「どす黒さ」が出せていない。それは結局、演出が無策だからとも言えるのだが。

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