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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/01/09

    映像は特に工夫もなく、本拠地テル・アヴィヴでのイスラエル・フィルの演奏会をごく素直に撮ったもの。ドルビー・アトモスという新サラウンドシステムへの対応が売りらしいが、5.1チャンネルですらない、わが家の環境では有難みなし。言うまでもなく、これが映像ディスクになるのはブニアティシヴィリが弾いているからだ。リストのピアノ協奏曲第2番が期待通り圧巻。少し地味な曲だが、リスト得意の主題変容技法を駆使した作品で、人気の第1番にも少しも劣らないと思うが、彼女の演奏は繊細なデリカシーから猛烈な技巧の冴えまで申し分ない。もう一つのベートーヴェン第1番はもちろん名曲だが、現在のカティアの魅力を聴くには少々、役不足な曲。日本で弾いたシューマンなどの方がずっと彼女向きだが、そうしなかったのは共演者を考えて、デリケートな配慮を要するシューマンの管弦楽パートはこの人には無理と考えたせいかもしれない。なぜなら、今のメータはただの優しそうなおじいさんで、音楽的にはそれなりに恰幅が良いが、それ以上の魅力もカリスマ性も感じられないから。でも、協奏曲の伴奏指揮だから、これでも特に不満はない。

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     2017/01/08

    ダ・ポンテ・オペラ三部作の締めくくりにふさわしく、指揮は雄弁きわまりない。早くも開幕冒頭の決闘シーンから、思いがけぬ騎士長の出現によって意に反して犯してしまった殺人が生き残った者(ドン・ジョヴァンニとレポレッロ)にどんなトラウマを残したのかを、余すところなく分からせてくれる。毎度ながら感嘆させられるのは、各ナンバーとそれをつなぐレチタティーヴォとの有機的な絡み合いの見事さ。第2幕「墓場の場」と続く「ドンナ・アンナの家」の間をつなぐフォルテピアノのパッセージなど、まるでモーツァルト自身が書いたかのように天才的だ。今作で特に目立つのは通奏低音楽器(フォルテピアノとリュートを使い分け、色彩の多様さを狙っている)が歌のナンバーにも積極的に加わってくること。ドン・ジョヴァンニの「カンツォネッタ」ではそのためにマンドリンが二つに分身してカノンを演じるかのように聴こえる。
    この記念碑的な録音を彩る歌手陣はティリアコス、パパタナシウ(ギリシア)、プリアンテ、ロコンソロ(イタリア)、ゴーヴァン(カナダ)、ターヴァー(アメリカ)、ガンシュ(オーストリア)、カレス(フィンランド)という国際色豊かな面々。前作までのケルメスの姿は見られないが、『フィガロ』にも『コジ』にもいた場違いな人、つまりミスキャストが誰もいないという点では最高の出来ばえ。どこから見ても星5つ間違いなしの録音なのだが、一つだけ疑念を述べたい。
    この録音にはメイキングの映像があって、クラシカ・ジャパンで見ることができたが、そこから見えてきたのは1)予想通りの指揮者の奇人変人ぶり、すなわち細部に対する異常なまでのこだわりと、2)一見「民主的」に見える指揮者と歌手たちとの関係が、実は勝手な解釈を許さぬ指揮者独裁制であること。カラヤンのオペラ録音だって指揮者独裁制であり、2)は特に非難すべきこととも思わないが、おそらくそのために、この録音には強烈アクセントとささやき声(ソット・ヴォーチェ)の二項対立で音楽を作っていく方法論がワンパターン化しかけている箇所がある。例を挙げれば、第1幕のドンナ・アンナのレチタティーヴォからアリアまでの展開。ここで彼女がオッターヴィオに真実を語っているかどうか、要するにオペラの開幕前に彼女とドン・ジョヴァンニとの間に性行為があったかどうかについては、E.T.A.ホフマン以来、様々な議論がある。それは音だけでは表現しようのないことなのではあるが、聴き手にそういう想像の余地を残すようなデリケートな演奏であれば、なお良かったと思う。結果として、ほぼ同じアプローチで臨んでいるヤーコプスの録音に比べて、本作は「先の読めない意外性」と「指揮者と歌手の解釈がズレつつ重なり合う重層的な面白さ」の二点において、ほんの少し劣るところがあると感じる。もちろん、ごく僅かな不満に過ぎないのだが。レポレッロとツェルリーナの二重唱に至るまで、ウィーン版追加曲のすべてを含む録音。

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     2017/01/05

    演出は1920年代のイギリス貴族の屋敷に舞台を移した以外、大きな読み替えはなし。第4幕以外は二階建ての館の断面になっていて、メイン・ストーリー以外に別の部屋でアクションが進行しているのを同時進行で見せるというのが今回の目玉。別の部屋で何をやっているかはディスクの特殊機能であるデジタル・オペラ・ガイドで知ることができる。『ドン・ジョヴァンニ』の時は役に立たないオマケだったが、今回はじめて有効活用された。第2幕での伯爵夫人とケルビーノの怪しい仲の描き方も的確だし、第4幕冒頭のバルバリーナは「ピン」以外にも大事なものを失った直後のようだ(この描き方には先例があるが、庭師の娘が野性味満点のキャラになっているのはこの演出オリジナル)。バジーリオが同性愛者でケルビーノを追い回しているというのも笑える(どこかの演出家がやるだろうと思っていたけど、ついに)。観客としては歌っている人物に集中できないのが難点だが、非常に綿密に計算された秀逸な演出。
    歌手陣は今回も水準が高い。ヤンコヴァは期待通り。ヴェルザー=メスト指揮のチューリッヒ版の方がさらに良かったが(ちなみに、こちらの演出もベヒトルフだが、今回とは全く別のもの)、少し老けてもまだ第一級のスザンナ。彼女の魅力で舞台が回っていると言っても過言ではない。プラチェツカは立派な声だが、鈍重で頭の切れそうなキャラに見えないのは残念。でも、かつてのヴァルター・ベリーもこんな感じだったし、この役の一般的イメージとは違うとしても、こういうフィガロもありだと思う。このオペラでは女性陣の方が彼よりも一枚上手なわけだし。ピサローニの伯爵は懸念されたが、もはや絶対権力者ではなく、かなり気弱な領主サマという演出コンセプトに見事にはまっている。フリッチュはアリアでは細身な印象を否めないが、演技もうまく、大変好ましい伯爵夫人。グリシュコヴァも2006年のシェーファーほどのハマリ役ではないとしても、歌・演技ともに魅力十分なケルビーノ。
    問題はまたしても指揮。過去ニ作のエッシェンバッハを降ろしたのは正解だったと思うが、エッティンガーが東フィルを振っていた頃の暴れっぷりとは全く別人、完全に「借りてきた猫」だったのは大笑い。この世代なのにピリオド・スタイルなど一顧だにせず、というのもまずかろう。シュターツオーパーでは既に何回か振っているとはいえ、これが夏のザルツブルク・デビューというわけだから、まあ仕方ないか。今回も指揮さえ良ければ満点なのだが。なお、日本語字幕、デジタル・オペラ・ガイドの訳ともに今回は変な箇所が山盛り。実例は一ヶ所にとどめるが、たとえば伯爵夫人最後の台詞、「勘違いの恨みだった」はいくらなんでも目茶苦茶だ。直訳すれば「私は(あなたより)素直なので」のはずなのだが。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2017/01/04

    近年のモーツァルト・ピアノソナタ全集ではメジューエワの手堅いなかに細やかな気配りを盛り込んだ演奏、アムランの洒脱で明晰な演奏などが印象的だったが(後者はまだ未完結)、これは独創的な創意、周到さの両面で断然光る素晴らしい全集。政権そのものは世俗主義をとるものの民衆レベルではイスラム原理主義の圧力が強いトルコでクラシック音楽の作曲家・演奏家として暮らしてゆくのはなかなか大変なようだが、サイ自身にとってもこれまでの活動の集大成となるような録音だろう。1997年に世に出た彼の事実上のデビュー録音で弾かれていた3曲を比べてみると、前のように無闇に装飾音を入れることはなくなり、旋律装飾も穏健でセンスのよいものになったが、解釈の骨格は全く変わっていないとも言える。たとえばイ長調K.331の第1楽章では短調変奏(第3変奏)で突然速い、アクセントの強い演奏になると次の第4変奏では遅くなるという独特の譜読みを見せるが(譜面上ではテンポ変化の指示なし)、前回録音と同じだ。彼自身の代名詞とも言える「トルコ行進曲」も前回同様、打楽器的な表情を持つ快速演奏。
    調別に6枚のCDに分け、すべての曲に演奏者自身がコメントとニックネームを付けているのもユニーク。安易なニックネーム付けは御免被りたいところだが、サイの場合は演奏もコメントも面白いので、許せてしまう。イ短調K.310はかなりテンポが速いが(終楽章はさほどでもない)、激烈というよりは静かな悲しみをたたえた音楽になっていて、サイのつけたニックネームは「シューベルト」。冒頭のアポジャトゥーラを重く扱わないのは近年の解釈通り。もちろんピリオド・スタイルは十分に参照されていて、各曲とも緩徐楽章はテンポ速めだが、ハ短調K.457は速めの緩徐楽章の両端が遅いアレグロで、すこぶる濃密な表情を見せる。ニックネームは「魔王」。ゲーテの詩の三人の登場人物、子供、父親、魔王がこのソナタの楽想で表現されているのだという。なお、このセットでは演奏者の鼻唄、あるいは唸り声がそれなりの音量で(グレン・グールド程度)録音されている。演奏雑音を気にされる方は注意されたい。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/01/04

    前の『後宮』に比べると少しおとなしいかなとも思うが、ピリオド様式を十分に踏まえた、ネゼ=セガンのみずみずしい指揮はここでも健在。クルレンツィスは過激すぎるが、古いスタイルにはもう戻れないと思っている人には絶好の演奏。もちろん決して無個性な指揮ではなく、「もう飛ぶまいぞ」の後半、軍隊行進曲になってからの思い切った加速など痛快だ。
    歌手陣はクルレンツィス盤より遥かに強力。特に誉めたいのは、二人の若い女声歌手。クリスティアーネ・カルクのスザンナは類型的なスーブレットではなく、細やかな気遣いのできる頭のよい女性として演じられている。第3幕冒頭の伯爵との二重唱におけるカマトトぶりは絶妙だし、第4幕のアリアでもデリケートな表情が美しい。これを聴いて彼女の歌うR.シュトラウス歌曲集のCDを衝動買いしたほど。ケルビーノは女声歌手にとって、ある程度若い一時期しか魅力的に演じられないと思うが、アンジェラ・ブラウアーはまさにその時期。とても魅力的なケルビーノだし、ほとんど旋律装飾をしないこの演奏だが、「恋とはどんなものかしら」ではセンスのよい装飾をみせる。ハンプソンの伯爵も相変わらず良い。彼の歌では悪達者な饒舌さにうんざりすることもあるが、この役ではほぼ皆無。男性としての「賞味期限」切れが近く、焦っているオジサンというキャラクターも今の彼に合っている。ピサローニはフィガロも器用に演じていて、致命的な不満はないが、私の好みとしては主役だけにもっと柄の大きな歌、近年で言えばアーウィン・シュロットのような存在感が望まれる。ヨンチェヴァは噂通りの美声の持ち主。ただし、芝居は何とも古風で、近頃流行の若作りな伯爵夫人ではなく「ろうたけた貴婦人」風。したがって、アリアは文句ないが、アンサンブルになると彼女の鷹揚さ、もっとはっきり言えば「鈍さ」に終始いらいらさせられる。この役にはミスキャストだったと思う。脇役にも大物歌手を揃えているこの録音。特にめざましいのはビリャソンのドン・バジーリオで、陰湿なイメージを持たれがちな役だったが、彼の陽性なキャラがこの人物自体をリフレッシュしている。第3幕の曲順変更はなし(昔のまま)、第4幕のマルツェリーナとバジーリオのアリアも歌われている。

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     2017/01/04

    トーマス・ファイは2014年秋、自宅での転倒事故で脳に重傷を負い、いまだ指揮台への復帰ができていない(このほどハイドン交響曲全集の新譜が出ることになったが、2016年6月収録分では彼は指揮していない)。アーノンクール亡き後、ホルン、トランペット、ティンパニなど以外は現代楽器を持つオケでピリオド・スタイルを実践するハイブリッド演奏の第一人者だけに復帰が待たれるが、これは事故前の録音。近年の彼の進化(深化)がよく分かる演奏だ。K.466の冒頭主題はしばしば「引きずるように」奏されるが、ファイはインテンポで突進。しかし、ピアノが入ってくる直前のところでリタルダンドする(もちろん楽譜には書いてないが、K.467の第1楽章でも同じ)。両曲の中間楽章もさほど速くないし、K.467ではかの名旋律をノン・ヴィブラートながら、とても美しく歌う。もはや杓子定規に古楽スタイルに従うだけではない。K.466の激烈な終楽章では最後にニ長調に転じてからさらに加速するなど、昔ながらのアンファン・テリブルぶりも健在だ。
    ハイオウ・チャンは粒立ちの良い美音が印象的なピアニスト。弾いているのはピリオド楽器ではない。欲を言えば、より明確な個性の発揮が望まれるが、カデンツァでのセンシティヴな演奏にはその個性の片鱗が見える。ちなみに、弾かれているカデンツァ自体はごくオーソドックスなもので、K.466はベートーヴェン、K.467はエドウィン・フィッシャー作。少なくともラン・ランとアーノンクールの共演よりはうまくいっていると思う。

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     2016/12/30

    ティーレマンの次はバレンボイムとの共演。普通なら豪華共演者と喜ぶべきなのだろうが、共演者、曲目の選定ともにレコード会社は彼女の美質を分かっていないな。演奏は再録音となるシベリウスの方がベターで、彼女の世界最高と言っても良い美音と美しい歌い回しが味わえる。シベリウスの交響曲をレパートリーとしないバレンボイムだが、ヴァイオリン協奏曲の伴奏録音はこれが三回目。過去二回いずれも悪くないし、今回は特に緻密かつ周到で、この曲をドイツ・ロマン派の音楽と考えるならば申し分ない。けれども、シベリウスに関しては門外漢の私でも(3番以降の交響曲は私にとって「取りつく島のない」ゲンダイオンガクだ)、前回のオラモ指揮フィンランド放送交響楽団と比べると、響きの作り方が間違っていると感ぜざるをえない。チャイコフスキーの方はやはり曲自体が彼女に合っていない。この曲に関しては、私は完全にコパチンスカヤ/クルレンツィスの録音に「毒されて」しまっているのだが、この種のHIPスタイルに対するアンチを標榜した反動的な演奏。過度に感傷的になることは避けつつも、明らかに抒情的な歌に傾斜した解釈で、コパチンスカヤ、いやムターにすらあった俊敏な運動性は失われてしまっている。指揮者のバレンボイムはライナーノートの中で、ないがしろにされがちなこの曲の「構造」を大事にしたと語っているのだが、その構造をぶち壊しにしかねないアウアー版に準拠したカットを第3楽章で採用しているのは、どうしたわけか。それに、かつてなら私自身もそういう印象は持たなかっただろうが、今となっては両曲とも、特にホルン4以外は標準的な二管編成の(トロンボーンもテューバも含まない)チャイコフスキーに関しては弦楽器の人数が多すぎて鈍重かつ明晰さを欠くと感じる。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/12/16

    ティーレマンが振っているだけあって、音楽的にはとても充実。ほとんどワーグナーのような彫りの深い音楽だ。他にはシュースターの魔女が好演で、怖いと同時に愛嬌も感じさせるキャラクターになっている。でも良かったのはそれだけ。ジャケットを見た時から悪い予感がしていたが、こんなに主役二人に魅力がない『ヘンゼルとグレーテル』は初めてだ。この二人には大人のオペラ歌手が演じながらも子供のように見せなければならない、特にヘンゼルはズボン役なので女性歌手が演じつつ男の子のように見える必要があるという難しい課題がある。ショルティ指揮のオペラ映画で演じていたファスベンダー、グルベローヴァですらこの点では万全ではなかったが、歌・演技の両面で圧巻だったのはチューリッヒ歌劇場のニキテアヌ、ハルテリウス。この盤は指揮、演出、美術すべて満点の素晴らしい出来だった。これに次ぐのがロイヤル・オペラのキルヒシュラーガー、ダムラウ。ここでの演出もオペラでは十分に語られない物語の「暗黒」面を暗示させる秀逸なものだった。これらに比べるとシンドラム、トンカはそもそも子供に見えないし、歌にもさっぱり魅力がない。ノーブルの演出は冒頭(序曲の間)に世紀末(ちょうどオペラ初演の時代)ロンドンでクリスマスを祝うヴィクトリア朝中産階級の子供たち(男の子と女の子)が魔法の扉を通って、グリム童話の世界に入って行くという『ナルニア国物語』みたいな「枠」を付けたのが新機軸。でも、このロンドンの子供たちの物語へのからみ方が中途半端で、せっかくの枠が機能していない。

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  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/12/09

    2016年バイロイトのラウフェンベルク演出は舞台を現代の中東に移しただけで、エンディング以外はストーリーの根幹にかかわる読み替えがないが、こちらはかなり重大な読み替えを含んだ演出。時代はもちろん現代で、聖杯騎士団の面々はタルコフスキー映画に出てきそうな寒い国の衣装を身につけているが、キリスト教的なシンボルは特になく、もっと普遍的なカルト宗教の話にされている。とはいえ、グルネマンツが過去の経緯を語る部分でスライドが投影されるといった工夫があるぐらいで、第1幕はおおむね定式通り進行。ただし、聖餐式は近年の演出ではかなり血なまぐさい儀式にされることが多く、その点ではこの演出も同じだ。やはり面白いのは第2幕以降。クリングゾールは従来のイメージと全く違って小心翼々とした好々爺。花の乙女たちもごく庶民的な服を着た娘たちだ。クンドリーがパルジファルの生い立ちを語る部分では分身が登場して説明的な演技をするが、彼女の例の接吻は完全に性行為と解され、その後の展開はなかなか迫真的。幕切れでは聖槍を奪ったパルジファルが怯えるクリングゾールを槍で刺し殺してしまい、血糊が派手に彼の顔にかかる。第3幕の終わりについては伏せるが、うん、なるほどという納得のエンディング。
    シャーガーの題名役はいかにも若々しい。貫祿不足とも言えるが、この演出では「覚醒」後もかなり精神的に不安定な人物なので、これも悪くない。カンペのクンドリーはユニークだが魅力的。全く「魔女」的でなく普通の女性として描かれているのは演出意図通りだが、多重人格の表現は見事。この演出では第3幕のクンドリーが前の幕でのパルジファルの振る舞いを許せるかどうか、つまりクリングゾールの行動も聖杯騎士団に拒まれたことの復讐として始まったわけだから、その「復讐の連鎖」を絶てるかどうかが重要なテーマになっているので、歌わなくなってからの演技も大いに見応えがある。ティーレマン指揮のザルツブルク版に続いて登場のコッホはやはりアムフォルタスには似合わないと思う。けれども、いかにも女好きの堕落した聖杯王というのが演出意図なら、これも仕方ないか。パーペのグルネマンツはいつもながらのハマリ役。この演出では最後の最後で思いがけぬ行動に出るのだが。バレンボイムの指揮が意外にも良い。ベルリン・フィルとの録音、クプファー演出版の録画ともあまり感心せず、彼には合わないオペラと思っていたが、今回は綿密かつ表出力も強く、全然枯れた印象はない。特に和声の変化、音色の明暗を精密に描き出しているのは、さすがに老練だ。

    6人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/11/13

    アルバム・コンセプトは良く了解できたが、結局のところ、楽章間の「つなぎ」の曲を飛ばして『死と乙女』ばかりを聴いてしまっている。『死と乙女』はマーラー編曲版ではなく、コパチンスカヤ自身の編曲だが、特に凝ったところはなく、ごく穏当な仕事。演奏自体もクルレンツィスと共演したときのような極端なことはやらないが(あれはやはり二人の共鳴による特殊ケースのようだ)、やはりこの曲の弦楽合奏版では格段に表出力の強い演奏。劇的な第1楽章から畳みかけるところと少しテンポを抑えて美しく歌うところの配分が良くできている。弦楽合奏にすると第3、第4楽章あたりは弦楽四重奏版のような速いテンポに対応できず、水ぶくれしたような印象になりがちだが、そういう箇所も見違えるほど締まった演奏になっている。この急速なテンポに対応できるということは、20名の奏者たちの技倆もきわめていということだろう。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2016/11/13

    もはやピリオド楽器であることのデメリットを全く感じさせない、メリットばかりが目立つような演奏。この2曲は単に歌にあふれた美しい音楽というにとどまらなず、特に第2番は死と孤独の影を強く感じさせるような名作だが、そういう陰影の表出も申し分ない。第1番第1楽章では小結尾主題に入るときのリタルダンドと間が絶妙。全体としては晴朗なこの楽章に孤独の気配を導き入れる。第2楽章は意外に遅めのテンポで、音量を抑えたひそやかな歌が紡がれる。一方、第2番の第2楽章は予想通りの速めのテンポだが、中間部の修羅場の表出は迫真的だ。第3楽章のトリオではフォルテピアノの特殊ペダル(打楽器効果)を使用。前のレビュアーが書かれた通り、「天国的に長い」第4楽章の提示部反復はなし。
    この時代の音楽におけるリピートは難しい問題だが、ピリオド楽器によるものであれ、現代の聴衆のための演奏であり、二百年前の人々と飛行機や高速鉄道で移動する現代人の時間感覚がもはや全く違う以上、楽譜通りにすべてのリピートを実行すべきとは私は考えない。たとえば『未完成』交響曲や変ロ長調ソナタの第一楽章提示部反復はぜひしてほしいと思うが、「大ハ長調」交響曲、特に終楽章のリピートには反対だ。作曲者自身がリピートのための経過句を作り付けているにもかかわらず、後者の場合などリピートは音楽の自然な流れを破壊しているとしか思えない。

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     2016/11/13

    2011年、マーラー没後百周年の年のライヴではあるが、世に出て本当に良かった。第10番補筆版の中でも、これまでにない大胆かつ尖鋭な感覚を持った補作かつ指揮。第1楽章やプルガトリオ序盤のように作曲者の遺した書きかけフルスコアがある場合はそれに従うのがこれまでの補作の定番だったが、そこすらも思い切って変えている。もちろん最初から最後までつながっている小譜表(パルティチェル)の枠内での補作ではあるが、「やり過ぎ」という批判は当然、巻き起こるだろう。しかしカーペンター版のように単に厚塗りしただけではないし、響きの感覚はほぼシェーンベルク、ベルクのそれではあるが、バルシャイ版のような場違い感は意外にも少ない。
    第1楽章冒頭の序奏旋律は何とヴィオラ・ソロ。アダージョ主題も故意にたっぷりと歌わない。面白いとは思うがどうしても好きになれないダウスゴー盤のような即物的な感覚とも違って、テンポは十分に遅いが、すでに「彼岸の音楽」という感じだ。それに対し第2主題はきわめて奔放で対比が強い。第2楽章はこの補作のハイライト。変拍子のスケルツォ主題と第1楽章アダージョ主題の変形であるレントラーとの間にテンポと表情の両面で最大限のコントラストをつける。スケルツォ主題のポリフォニックな展開も、まさにこうでなくては。第3楽章はずいぶん遅い。焦燥感がなくなったのは惜しいが、オーケストレーションは独創的。逆に第4楽章はきわめて速く、トリオでの減速はあるものの一気呵成に行く。終楽章冒頭は非常に遅く、やはり闘争的なアレグロ部は速い。(かつてないほど凄まじい)カタストローフ後のフルート主題の最終発展部はすこぶる輝かしく、まさに凱歌のようだ。まだ20台の補作者=指揮者の率直な感覚は大いに買いたい。HPで見る限り、国際マーラー管弦楽団はまだ室内オケ規模の団体なので、4管編成の総譜に合わせて大量にエキストラを入れていると思われるが、大健闘だ。

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     2016/10/27

    ゲルギエフ就任とともに発足したミュンヘン・フィル自主制作レーベルの第一回発売。豪華独唱者を擁した注目のライヴだったのだが、非常に残念な出来ばえ。まことにテキパキと、破綻なく進められてはいるのだが、あまりにも事なかれ主義的。確かに2番の交響曲には必要以上にくどい所があって、あっさり味は歓迎すべきなのだが、これはひどすぎる。とりあえず名刺代わりに出しておきましょうかという感じの録音で、すでに百種近いこの曲の音盤に新たに何を付け加えたいのか、さっぱり分からない。ゲルギエフの近年の仕事ではLSOとのスクリャービン第3番/第4番は素晴らしいと思ったが、同じスクリャービンの第1番/第2番は凡庸。相変わらずのワーカホリック状態なので、もう少し仕事を絞ってもらわないと、録音に関しても玉石混淆を避けられないだろう。

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     2016/10/27

    現在のマクヴィカーにかつての才気走った「読み替え演出家」の面影はもはやない。これも非常にリアルな、いやスーパー・リアルな舞台。歌や台詞のない默役を舞台に出して物語の背景を膨らまそうという彼のやり口はここでも健在で太守まわりの人々、謁見に来たヨーロッパ人たちや黒人の侍従長、複数の妻、子供たちが登場しており、一夫多妻の国だったんだと改めて思い至る。ただし、この18世紀のおとぎ話に徹底したリアリズムを持ち込むことの難しさを随所で感ぜざるをえないのも事実。台詞は要所要所でかなり書き足されており(台詞は台本通りという演出家の発言は嘘)、コンスタンツェはかなり太守に心惹かれているようだが、ベルモンテより太守が好きという読み替えには至らない。そうなると太守の苦悩を克明に描きたいのは分かるが、最後のいかにも啓蒙専制君主の時代らしい寛大さがどうしても嘘っぽい。オスミンをめぐって「文明の衝突」を描きたいのだとしても、そのためにこの人物に欠かせぬ愛嬌が失われ、特に終盤、相互理解不能な「ただの怖い人」になってしまったのは明らかにモーツァルトの意図に反するだろう。
    マシューズは、寝室に舞台を移した例の大アリアではメトでのどんぶり勘定気味の演技とは別人のような迫力ある演唱を見せるが、その魅力はイマイチ。モントヴィダスは長身のイケメンで、貴族のお坊ちゃんらしさは良く出ている。この人物の「上から目線」ぶりを少し風刺的に描こうというのも、演出意図だろう。それでもヤーコプスの録音でも歌っていたエリクスメンのブロンデと中年の庭師オジサンになったガンネルのペドリッロ(演出家は歌手を見てからこのキャラを考えたのではないか)の方が魅力的。ケーラーのオスミンは立派な声だが、(ほぼ演出の責任とはいえ)前述の通り、役作りに関しては大いに疑問。ティチアーティのみずみずしい指揮は素晴らしい。第2幕フィナーレの陰影と躍動感など出色だ。

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     2016/09/12

    同じスタイルの演奏は上岡の振るモーツァルトやマーラー4番などで既に聴いたことがある。この演奏会の前プロだったシューベルトの第1交響曲(同じニ長調)も同じ。このスタイルのルーツの一つはHIP(ピリオド)様式だろうが、もはや上岡スタイルと言うべき彼独自の様式になっている。悪く言えば「小手先の芸」とか「何でも同じ手口で振る」とか言われかねないが、これだけ個性のはっきりした音楽を聴かせてくれる指揮者は貴重だ。その個性は第1楽章第1主題から早くも鮮明。弓に圧力をあまりかけないで、弦楽器に主題を軽く歌わせる。葬送行進曲がやや遅い以外、テンポは概して速め。特にスケルツォのトリオ、終楽章第2主題など普通は遅めのテンポがとられる部分がかなり速く、たっぷり歌うことを避けている。読響とのマーラー4番でも盛んに聴かれたように第1楽章展開部やスケルツォのトリオでのグリッサンドの処理はちょっと異様なほどリアル。終楽章冒頭から第1主題にかけての激しく上下動するヴァイオリンの克明な弾かせ方、ダブル・ティンパニの強烈な打ち込み、最後の行進曲へ入る所での木管の耳をつんざくようなトリルの強調など、様々な点で指揮者の明確な意思を感じることができる。結果として、マーラーのこの「青春」交響曲の意欲的な前衛性をうまくクローズアップする演奏になった。今や日本のオケはどこもマーラーには馴染んでいるが、読響ほど上岡との共演経験がないはずの新日フィルも、とても柔軟に上岡スタイルに適合している。拍手入りライヴ。

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