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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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     2019/01/25

    典型的な現代化演出で、第1幕第1場の音楽が始まるまでの黙劇の場面がかなり長い(第2幕第4場の伏線になっているけど)、第1幕と第2幕の間にマリーの子供役が第3幕第1場でマリーが途中まで語る悲惨なメールヒェンの全文を朗読する(したがって子供役は幼児ではなく、十歳ぐらいの眼鏡の少年)など、同じワルリコフスキ演出の『ルル』ほどではないが、情報量豊富な上演。舞台はだだっ広いダンスホールのような所で、小道具の出し入れはあるものの基本的に場面転換なし、第2幕第1場と第3幕第1場は閉まった幕の前で演じられる。マリーが鼓手長の誘惑に屈する第1幕第5場では、本来ここにいないはずのヴォツェックが前の場の終わりの姿勢のまま舞台上にいるなど、なかなか面白い工夫もあるが、問題は演出の様々な仕掛けがドラマの集中力を高める方向に働かず、かえって散漫にしてしまっていること。
    マルトマンの題名役は歌・演技ともに巧み。極貧の兵士というよりは気弱なインテリに見えるが、映像があって、それがすべて演出家の意図であることが分かるので、かつてのF=ディースカウのような違和感は逆に少ない。ウェストブレークのマリーもなかなかのハマリ役。こちらは最初から豊満な毒婦風だが、これも演出意図通りだろう。脇役陣ではウィラード・ホワイトの医者がさすがの貫祿。一方の大尉(ベークマン)はもっと性格的であって欲しい。マルク・アルブレヒトの指揮は手堅いが、欲を言えばもう少し表現主義的なシャープさが望まれる。 

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     2019/01/20

    指揮者王国フィンランドからまた新たな逸材登場。協奏曲の伴奏指揮を除けば、これが事実上のデビュー録音だが、日本のファンには東響への二度の客演、タンペレ・フィルとの来日公演などで既におなじみの指揮者だ。緩急、強弱の起伏とも、きわめて大きく、全曲の隅々まで濃密なニュアンスをテンコ盛りにしているのがこの指揮者の特徴。早くも第1楽章第1主題の提示から、弦楽群に考えられないような濃厚な表情をつけている。再現部冒頭の大クライマックスへの盛り上げでは「しゃくる」ような独特なリズムを強調していて、指揮台上で踊るような彼の指揮が目に浮かぶ。一方、その後の第2主題では音楽が止まってしまいそうなほど遅くなる。その後、楽章終結に向けて、再度アッチェレランド。あまりにカロリー満載なので、少し解釈を整理した方がいいと思うところもあるが、若いんだから今は暴れまくっていいじゃないか。もちろん終楽章は彼のために書かれたかのような濃厚、強烈な音楽。『エン・サガ』も北欧的な清澄さとは無縁の、きわめてダイナミックで熱い音楽になっているが、それでも弦楽器の扱いが多彩なので、飽きさせない。彼の手にかかると、どのオケも実に朗々と、力いっぱい鳴るが、これはまぎれもない指揮者としての人徳。かのクルレンツィスを売り出したアルファ・レーベルがさっそく目をつけている。

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     2019/01/19

    第一次大戦に散ったバターワースとルディ・シュテファンの歌曲集、アメリカ亡命後のヴァイルが第二次大戦中に作ったホイットマンの詩による歌曲(最後のマーラーに通じる鼓手の歌や戦死者への哀悼歌が含まれている)、そして最後にマーラー『少年の魔法の角笛』からの戦争の歌三曲。英語の歌とドイツ語の歌を交互に配して、触れれば壊れてしまいそうに繊細な『シュロプシャーの若者』から激烈なマーラー歌曲へと、徐々に表現がエスカレートしてゆくようにプログラムが組まれている。『シュロプシャーの若者』はバリトンも好んで歌う曲集だが、私はやはりテノールが好き。ブリン・ターフェルのような悪達者な歌では、この曲集の素朴さを裏切ってしまうと思うからだ。ボストリッジももちろん達者な歌手で、キーワードの表情づけなどさすがだが、ターフェルのような野暮はやらない。第6曲「うちの馬は耕しているか」は死者と生者の対話で、死者は自分の愛した娘の行く末を尋ねているが、ボストリッジのセンシティヴな歌からは、彼が最も愛したのは対話相手の青年であることが痛いほど伝わってくる(詩人ハウスマンが同性愛者であったことは今では広く知られている)。この盤の白眉はもちろんマーラーの三曲で、両端の『死んだ鼓手』と『少年鼓手』では凄まじい表現主義を見せる。ボストリッジの歌では、表情の強さのあまり、歌が語りに近づいてしまうことがあるが、両曲のクライマックスではもはや歌ではなく、ナマな叫び声になってしまっている。当然、これでは「やり過ぎ」という非難も起こるだろう。オケ伴の生演奏(1月15日、大野和士/都響)では全く違う歌い方をしたので、この録音(パッパーノのピアノの表現力も絶大)に限っての表現と言えるが、彼がここまでやらざるをえない気持ちも良く了解できる。

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     2018/12/31

    ラトル最初のアルト版『大地の歌』録音はやはりコジェナーとの共演になりましたね。奥さんがこの曲を歌えるようになるまで待っていて、だからこれまでバリトン版でしか録音しなかったような気もする。そのコジェナーの歌が別格の素晴らしさ。アルトが歌うとこの曲に必須の寂寥感は申し分なく表出されるが、第2、第6楽章(もともと別の詩を接合したものなので前半、後半とも)は明らかに男性視点の詩なので、バリトンが歌えば自ずと現われてくる歌い手の心情も、いわば「ズボン役」的に歌い出してほしいところ。これはアルト歌手には意外に難しく、かつてのルートヴィヒ、現代ならば(ズボン役は得意だったはずの)フォン・オッター、(声としては理想的な)ラーションなどもクールに過ぎるきらいがあった。ところが、コジェナーはこの両面を完璧に満たしている。特に、友と別れて自然のなかに死に場所を求めようとする男が一人称で歌う終楽章終盤は、魂が震えるような絶唱。
    一方のスケルトン、トリスタン役では男臭い不器用さがなかなか魅力的だが、三度目の録音のはずの『大地の歌』でも相変わらず小回りが効かない。カウフマンの超絶的なうまさを知ってしまうと(ただし全6楽章を一人で歌ってしまうのは反対。できるからと言って何でもやって良いものではない)、これでは不満だが、それでもこの曲のテノール・パートとしては上出来の部類か。ラトルの指揮はバーンスタインのように強引に歌手を引き回すものではなく、交響曲と歌曲の中間あたりで、とてもうまくバランスをとっている。金属打楽器やチェレスタを強調して華やかな響きをたてるティルソン・トーマスに対して、むしろ渋めの、枯れた音色で全体をまとめているのはそれなりの見識。

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     2018/12/25

    フルトヴェングラー指揮の「バイロイトの第9」(EMI盤)みたいな共通デザインのジャケットによる、このコンビのマーラー録音二作目。もちろん最初の第9番も買ったけど、慎重すぎる、音楽に対するもう少し果敢な踏み込みが欲しいと思った。第5番は二年前のパリ管との(このコンビによる)初来日公演でも見事な快演を披露したし2011年、例の震災当日に新日フィルを振った曲でもあるので、はるかに振り慣れているはず。それでも、今回も第2楽章まではやはり慎重に過ぎる(第2楽章冒頭に「嵐のように激動して」と書いた作曲者の求めるテンポはこんなものではないはず)。アダージェットも私の好みからすれば淡白に過ぎる。文句なしに良いのは、まず第3楽章。前楽章までの重苦しさから抜け出して、ポリフォニックな声部の見通しの良い晴朗な風景が広がる。全体としてはこの楽章も遅めのテンポだが、最後は譜面の指示通り、思いっきり加速するので、ピツィカートで奏される遅いレントラーとの対比も申し分ない。第5楽章も素晴らしい。この曲を交響曲第5番嬰ハ短調と言うのは建前に過ぎず、実際にはイ短調(第2楽章)→ニ長調(第3、第5楽章)の曲だと思うが、現在のハーディングはニ長調の楽章との相性がすこぶる良い。室内オケを振っているかのようにクリアで見通しの良い演奏で、コラール旋律回帰後の一気呵成な突進も鮮やかだ。

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     2018/12/23

    今年はレナード・バーンスタインだけでなく、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの生誕百周年でもあった。生地ケルンではロト指揮、パドリッサ演出による『兵士たち』の新演出上演があり、夏のザルツブルクではネルソンズ/ウィーン・フィルがトランペット協奏曲を演奏したりしたが、日本では特に記念演奏会もなかったような。というわけで、年が明けないうちにCDを一枚紹介しておこう。『一楽章の交響曲』初稿版の初録音というのを売りにしているが、いま聴くといかにも1950年代の前衛音楽で、そんなに面白い曲でもない。『弦楽のための協奏曲』はもっと古風な新古典主義の音楽で、ほとんどバルトーク。やはり面白いのは1960年代の二つの作品。『ジェノヴァの回転木馬』はオーランド・ギボンズ、ウィリアム・バードらルネサンス〜バロック期の作曲家の作品を小管弦楽のために編曲したものだが、ストラヴィンスキー『プルチネッラ』のような素直な編曲ではなく、とても凝った作り。パヴァーヌ(第2曲)とパヴァーヌU(第4曲)は同じギボンズのメロディーの別アレンジ版であり、全5曲がシンメトリックに配置されているのが、おそらく題名(ジェノヴァの渦巻き、とも読める)の由来であろう。そして最も面白いのが『ユビュ王の晩餐のための音楽』。1965年にベルリンの芸術アカデミー会員に推挙された返礼に作曲家が提出したのが、この「すべてが引用でできている」冗談音楽。すべての引用元を聞き取るのはベリオ『シンフォニア』の第三楽章並みに至難だが、幾つかの旋律はすぐに分かる。なかでもシュトックハウゼン『ピアノ曲IX』の冒頭和音がオスティナート風に延々と繰り返される上に、「ワルキューレの騎行」と「断頭台への行進」(『幻想交響曲』)を、ラジオのチャンネルをザッピングするように切り替えながら突進する終曲「授賞式への行進」はド迫力の傑作。ネイティヴ・スピーカーによれば、こういうどぎついブラック・ユーモアは中西部ドイツ人の特色だと言うが、ケルンのカーニヴァルの馬鹿騒ぎなどに一脈通ずるものかな。ケルン放送響は相変わらず上手く、ネット上にある(音だけ)ギーレン/ケルン放送響の迫力には一歩譲るが、音の良さはCDが断然優るし、翌年に出たベルンハルト・コンタルスキー/シュトゥットガルト放送響の録音よりはこちらが上。

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     2018/12/02

    初演時と同じく『イオランタ』と『くるみ割り人形』を続けて上演する。『イオランタ』の舞台は一部屋だけで、そこはバレエのヒロイン(ここではマリーという名前)の家の居間、つまりオペラは彼女の誕生日兼クリスマス・パーティーの余興として演じられた劇中劇という設定はHMVレビューの通りだが、オペラとバレエ、両方の人物が相互乗り入れするのが、この演出の新味。マリーは冒頭と最終場ほか計3回にわたってオペラにも登場するし、イオランタ姫もパーティーのお客として「行進曲」のあたりまでは舞台上にいる。ヴォデモンも両方に登場(もちろん歌手とバレエ・ダンサーは別人だが)。オペラのルネ王(父親)とマルタ(乳母)はそのままバレエではマリーの両親になり、オペラのエブン=ハキアは意図的にヴォデモンとロベルトをこの館に招き入れるなど、オリジナルのト書き以上に活躍するが、バレエではやはり狂言回し役のドロッセルマイヤーになる(この二人は特にそっくり)。このように若干の読み替えはあるものの、オペラ部分の演出はおおむね無難。しかし、バレエの方(こちらのストーリーもチェルニャコフが書いている)はヒロインの見た夢、それを通しての彼女の成長という基本軸は揺るがないものの、くるみ割り人形も鼠の王様も出てこない(代わりにパーティー場面で元の題材にちなむ踊りがある)かなり大胆な『くるみ割り』になっている。「シゴーニュおばさんと子供たち」を省略、その位置にパ・ド・ドゥのコーダを入れ換えた以外は、音楽は元のまま。振付家が三人というのもユニークで、ピタは退屈になりがちな第1幕前半のパーティー場面を面白く見せてくれるし、第1幕最後の「冬の松林」「雪のワルツ」と第2幕「花のワルツ」以降を担当するシェルカウイはクラシックのパを参照しつつ、新味を盛り込んでいるが、第1幕後半と第2幕前半のディヴェルティスマン担当のエドゥアール・ロックは相当に表現主義的な振付(いわばピナ・バウシュ風)で他の二人の振付との切り替え部分はなかなかショッキングだ。
    オペラでは主役ヨンチェヴァが断然素晴らしい。彼女の憂いを含んだ美声がこの役にぴったり。相手役のルトコフスキは線が細いが、見た目は若くてイケメンという条件通り。指揮者アルティノグリュのセンスの良さも光る。劇的な部分のさりげない(どぎつくならない)強調、バレエでの各舞曲への対応も見事だ。

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     2018/11/24

    これまでほとんど純粋器楽曲の録音がなかったヤーコプス(ハイドンの交響曲第91番/第92番ほかとモーツァルト最後の交響曲4曲しかないはず)。それゆえ、もしこれが交響曲全集に発展するとしたら、画期的なことだ。交響曲第1番は私にとって、どうしても関心が持てない曲だが、第6番ハ長調は大好き。なかなか凝った転調をみせる第1楽章の序奏から早くも指揮は非常にセンシティヴ。指揮者自身による詳しい楽曲解説をライナーノートで読むことができるが、そこでヤーコプスは『皇帝ティトゥスの慈悲』の名高いセストのアリアの一節を引き合いに出していて、こういう曲でも指揮者の発想は声楽的であることが分かる。素朴で爽やかな主部も快調に進むが、最後のストレッタは猛烈に加速する。シューベルトがはじめてスケルツォと名付けた第3楽章主部も前代未聞の速さ。でも確かにプレストとされている楽章だから、これでいいのだと納得できるし、トリオもさほど遅くならない。終楽章は実にユニークな音楽。遅めのテンポ(アレグロ・モデラート)でお気に入りの主題をほとんど展開もせずに延々と繰り返す。シューベルトのピアノ・ソナタにはこういう終楽章があるけど(たとえばニ長調D850のアレグロ・モデラート、ト長調『幻想』D894のアレグレット)、交響曲ではこの一曲だけだ。ただし、最後はアッチェレランドが指示されていて、テンポを上げて終わる。アーノンクールの二種類の録音と比べると、ヤーコプスは最初の基本テンポがずいぶん速く、せわしないが、加速のエキセントリックな効果は良くでている。ヤーコプスとの共演で既にヘンデル『オルランド』の録音があるビー・ロック・オーケストラも実にうまい。ロックンロール的なノリの良さは名前の通り。

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     2018/11/23

    もちろん主役級歌手は第一線の人たちだが、そんなに強烈なカリスマ的輝きを放つ人はいない。それでもしっかりした主張のある演出と見事な指揮でここまで観せてしまえるという現代のオペラ上演の一つのあり方を示した映像。演出は舞台を白く冷たい閉鎖空間の中に閉じ込めていて、ポーダ演出ではおなじみの半裸のダンサー達も第1幕序盤の群衆場面から大活躍するが、この演出のミソはトゥーランドット姫が30人ほどいること。実際に歌っているのは当然一人だけで、中央にいる本物の歌手はすぐに分かるが、同じ白の制服で同じ銀髪のカツラ、顔の真ん中に赤の縦線が入った30人の姫たちが口パクしながら一斉に動くのは、なかなかの迫力。したがってカラフやリューは一人の姫様のわがままに対峙するのではなく、国ぐるみの非人間的なシステムと戦い、勝利するという構図になる。プッチーニは作品を完成させる時間は十分にあったのに、どうしても最後の部分を作曲するのが嫌で結局、作曲できなかったと私は考えるので、「リューの死」で打ち切ってしまうこのやり方も大いに説得力があると思う。特にこの演出では、ここまでではっきり勝負がつき、トゥーランドットは負けているので、過剰にマッチョイズムを誇示するようなこの先の部分は不要な蛇足だと納得できる。
    ノセダの指揮は緩急の起伏が大きく、シャイー以上にこのオペラのモダンな特質をはっきり聴かせてくれる。チューリッヒへの転出は前から決まっていたことだが、オペラハウス定番のお家騒動で辞任が早まり、これがこのコンビ最後の映像ソフトになりそうなのは残念。スロヴェニア出身の題名役ロカールにとっては、ちょっとかわいそうな演出だが、ドラマティック・ソプラノらしい大柄な人で声の力は十分に感じ取れる。カラフのデ・レオンもパワフルで、この役は力押しだけでいける人物だから、これで文句なし。リューのグリマルディは欲を言えば弱音での繊細さが欲しいが、ひたすら一途な歌でトゥーランドット姫の対抗軸になりえている。

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     2018/11/23

    ご存じアリーナ・イブラギモヴァ(ロシア)以下、エミリー・ヘルンルンド(スウェーデン)、クレア・ティリオン(フランス)という女性三人の中に「縁の下の力持ち」的なクワルテットでは最も難しい第2ヴァイオリンを受け持つただ一人の男性、パブロ・エルナン・ベネディ(スペイン)が加わって全体を引き締めている四重奏団。レコーディング・レパートリーの選択については慎重なキアロスクーロSQだったが、ついにこのジャンル史上最高の名曲の一つに挑戦してきた。ピリオド奏法を売りにする団体だから、これ以上新しいものはやらないだろうが、結果は何ともお見事。『死と乙女』で競演となった3クワルテットの中でもさすがキャリアの長さとオリジナリティで頭一つ抜け出ている。第1楽章冒頭は予想通り強烈だが、直ちにppになる部分のデリカシーがむしろ聴きもの。第2、第3主題の美しい歌と叩きつけるような激しいアタックのコントラストも鮮やかだ。第2楽章はやや速めのテンポながらすこぶる繊細。第3変奏のかつてない荒れ狂い方と長調に転ずる第4変奏に射してくる光のコントラストがまたしても鮮烈だ。疾風怒濤の終楽章ではノン・ヴィブラート奏法がきしむような響きをたてるが、これも何ともなまめかしい。
    シューベルトの弦楽四重奏曲は最後の2曲が飛び抜けた名曲なので、『死と乙女』のカップリング曲は難題。シューベルトだけでまとめようとすると、たとえイ短調『ロザムンデ』でも物足りないからだ。その『ロザムンデ』をデビュー録音で入れていたキアロスクーロSQは18歳の時の作品ながら、なかなか劇的なト短調D173を選んでいる。こちらは圧倒的に第1ヴァイオリン主導の曲想なので、イブラギモヴァの美しい節回しを堪能できる。

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     2018/11/11

    アリス四重奏団は2009年、フランクフルト音大の学生だったドイツ人四人によって結成。ハイドン/レーガー/ヒンデミット、ついでツェムリンスキー第2番/バルトーク第5番という渋い選曲のCDを二枚出した後、GENUINに移籍してベートーヴェン第9番「ラズモフスキー第3」/第14番と一気に超名曲路線に転換。これが通算四枚目の録音だ。最年長のチェロ、ルーカス・ジーバーですら1989年生まれだから、全員まだ二十台! 名前のアリス(Aris)はルイス・キャロルのファンタジーのヒロイン(Alice)とは違った綴りで、第1ヴァイオリン、アンナ・カタリーナ・ヴィルダームートのファースト・ネーム冒頭の一文字(A)から始まって、ジーバーのファミリー・ネーム冒頭のSまで、四人の名前からアルファベット一文字ずつを取ったもの。アルカント、アルテミス、ベルチャ、キアロスクーロなど今をときめくクワルテットは軒並み第1ヴァイオリンが女性だが、アリスはアルテミス(プリシェペンコ時代)やベルチャのように第1ヴァイオリンが全体を引っ張ってゆくタイプではなく、すこぶる稠密な響きを誇る四楽器均等な四重奏団。もちろん技術的には非常に達者だが、シャープさを売りにする音楽作りではなく、「ラズモフスキー第3」の終楽章でもスピード競争に参戦する気はないようだ。さて、このCDだが、『死と乙女』の前に単一楽章、20分ちょっとだが、内容的にはきわめて重いショスタコーヴィチ第8番を置く充実したプログラム。どこをとっても表情の作り方が丁寧で、若さに似合わぬ老成した印象すらある。第2楽章の変奏曲なども基本テンポ遅めで、全く「大家」然としている。若いんだからもう少し暴れてもいいと思うし、彼らならではの個性はまだあまり明確に打ち出せていない感じだが、いかにもドイツ的な隙のないクワルテットだ。

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     2018/11/10

    第1ヴァイオリンのニコラ・ヴァン・カイックは1986年生まれのようだが、他の三人もほぼ同世代だろう。つまり三十台前半のフランス人男性四人によるクワルテット。皆なかなかにイケメンだ。2012年に結成、2015年にウィグモア・ホールのコンペティションに優勝してすぐにアルファ・クラシックスからデビューしている。最初の録音はモーツァルト、次がドビュッシー/ラヴェルで、これが三枚目のアルバムだ。今年の秋は三つのクワルテットによる『死と乙女』の新譜が同時に出たが(あと二つはキアロスクーロSQとアリスSQ)、響きの質としては彼らがいちばん細身でシャープに聴こえる。にもかかわらず、タメやテンポの揺らしといった、いわゆるロマンティックな表情付けを最も意識的に取り入れているのは面白い。今のところ少し「わざとらしい」感もつきまとうけれど。激烈な『死と乙女』のカップリング曲に、インティメートでナイーヴな変ホ長調D.87(シューベルト16歳の時の作品)を選んでいるのも興味深いところ。さて、メインの『死と乙女』だが、第1楽章の基本テンポは彼らが最も遅い。彼らだけが提示部の繰り返しを省いているのは遅めのテンポのせいかもしれないが、その中でかなりテンポを揺らして濃厚な表情を作る。ところが、変奏曲ゆえ、ほんらい多彩な表情を持つはずの第2楽章はやや速めで意外におとなしい。第3楽章主部なども、ちょっと四角四面な感じ。終楽章(プレスト−プレスティッシモ)は現代のクワルテットならば一気呵成に突進して、その演奏力を見せつけるところだが、ここはさすがに素晴らしい。しかも一本調子にならない。 

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     2018/11/10

    まもなく2020年、ベートーヴェン生誕250年のメモリアル・イヤーがやってくる。半世紀前、1970年を知る者にとってはこの50年でベートーヴェンの演奏スタイルがどれほど変わってしまったか、驚くほどだが、さて現代のメジャー・オーケストラはベートーヴェンをどう演奏したらいいのか。ここに聴けるのは、その見事な模範解答だ。弦は対向配置ながら16型のフル編成だが、今回はリーフレットにメンバー表があるので、管楽器はホルンを3から4に増強しただけで、それ以上の倍管、増管を行っていないことが確認できた。しかし、聴感上ではホルン、トランペットはきわめて雄弁で、まさしくピリオド・スタイルの響きのバランス。第1楽章では展開部中の不協和音箇所もかつてないほど強烈だが、コーダの名高い「トランペット脱落」部はベーレンライター新版準拠のため、全く脱落がないばかりか、このあたりから楽章末尾にかけてのトランペットとティンパニの強奏はとりわけ凄まじい。相変わらずアレグロ系楽章はテンポが速く、第1楽章は提示部反復込みで16:15だが、逆にピリオド楽器オケでは12〜3分で片付けられることが多かった第2楽章には15:11かけている。ヘ短調の第2副主題部における金管とティンパニの強調も、すこぶる表現主義的。第3楽章トリオではほんの少しテンポを落として朗々たるホルン三重奏を聴かせる。終楽章終盤のポコ・アンダンテもかなり遅く(冒頭の木管の表情が絶妙!)、巨匠指揮者時代のスタイルとHIPとのハイブリッドが実にうまくいっている。音価が中途半端で、普通にやると締まらない終楽章最後の音は強烈アクセントの短い一撃にして鮮やかに解決。
    カップリングが同じ変ホ長調、かつヒロイックなR.シュトラウスのホルン協奏曲第1番というのもグッドアイデア。

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     2018/10/14

    いかにも今のバレンボイムらしい泰然自若の印象を与える演奏だが、細部は細かく作り込まれており、全集全体としてすこぶる旗幟鮮明な方向性を感じさせる。ためしに第1番第4楽章の例の「歓喜の主題」を聴いてみてほしい。旋律線を担当するヴァイオリンはかの有名な主題を丁寧なアーティキュレーションで追うのではなく、一定の部分では故意に脱力して、いわば雑に弾いてゆく。これに対し、中低域の伴奏部はきわめて雄弁に動き、声部全体が和声の変化を克明に表出する。テンボはかなり遅く、第1番第1楽章以外、すべての楽章で前回録音より時間がかかっているが、音と音の間にエネルギーが充満している感じだったバーンスタイン/ウィーン・フィル、アポロ的な強固な構築性を感じさせたジュリーニ/ウィーン・フィルとは違って、枯淡の境地を感じさせる、やわらかな当たりの柔構造の構築物といった感じ。こういうアプローチがブラームスに合っていることは間違いないし、HIPなど無縁と思われたバレンボイムが各声部の雄弁な表出の結果、響きに調和がもたらされるというピリオド・スタイルに近いサウンドを志向しているのは興味深い。ここぞという所でのティンパニの強打なども、かつてのバレンボイムには見られなかったものだ。曲ごとに言うと両端の第1番、第4番が断然すばらしい。重苦しく鬱屈した第1番は正直言うと苦手、絶対に好んで聴きたくない曲なのだが、不思議に風通しの良いこの演奏なら繰り返し聴けそうだ。第4番冒頭はシカゴ響との録音と同じくフルトヴェングラーのコピーだが、第1楽章最後のアッチェレランドはずっと控えめで、峻厳さよりは芳醇さを優先させた印象。第3楽章は緩急の幅が大きく、遅いところでの脱力具合など音楽が止まってしまいそうだ。第3番も中間二楽章の嫋々たる美しさは買うが、終楽章はテンポが遅すぎて、音楽が弛緩している。第2番は現在のバレンボイムのアプローチには最も合わず、曲自体が凡庸に聴こえてしまう。ちなみに第1番、第2番では第1楽章の提示部反復なし、第3番のみ第1楽章の提示部反復を実行しているのは楽章相互の長さのバランスを考えたせいだろう。

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     2018/09/25

    序曲や二つの管楽器オブリガート付きアリアなど力作ナンバーもあるが、現代人としてはモーツァルトのこの作曲で数度目のおつとめとなるメタスタージオの大時代的でトロい台本におよそリアリティを感じられないのが、このオペラの難点。昨年夏のザルツブルクのセラーズ演出/クルレンツィス指揮のようにモーツァルトの他作品を大量にぶち込まないと、音楽的にも聴き応えに乏しいのは事実(幾らなんでも、あれはやり過ぎだけど)。人物たちをほぼ現代の衣装にしているグート演出は舞台をはっきりと二層に分けていて、一方はススキの繁る草原、自然あるいは子供時代のイメージであろう。もう一つは現代風の機能的だが冷たい感じのオフィスで、猜疑と欲望にまみれた大人の世界といったところ。リーフレット所収のインタビューでも演出家自身がはっきりそう語っている。この二分法を補強するように、序曲ほか要所要所では少年時代のセストとティートの映像が投影されるし、ついには子供の二人(分身)まで舞台に出てくるのではあるが、映像の中の子供たちはなぜかスリングショット(パチンコ)で鳥を撃って殺しているのだ! 野原もひどく箱庭的で私にはユートピア的な自然の表象には見えない。私の感性がヨーロッパ人のそれとは違うので、演出を深読みし過ぎている可能性もあるが、私には少年時代=単なる無垢ではないよと言っているように感じられる。全体主義国家でおなじみのマスゲームのように画一的な動きをする民衆たち(合唱)に対しても強いアイロニーが向けられているようだ。結果として2006年ザルツブルクのクーシェイ演出ほどには登場人物たちに共感することができなかったが、演出家の狙いはむしろ共感を拒む異化効果か?
    演奏自体の水準はきわめて高い。ティチアーティは現代楽器オケ(スコットランド室内管)でもブラームスに至るまでHIP的センスにあふれた好演を披露しているが、ここではピリオド楽器オケを率いて、尖鋭かつみずみずしいモーツァルトを聴かせてくれる。歌手陣ではセスト役のステファニーが抜群。当分、ズボン役で世界の歌劇場を席巻するのではないか。クート(ヴィテッリア)のドスの効いた悪女ぶりもなかなかだし、渋いおじさんになった(20年前のグラインドボーンでは素敵なペレアスだったけど)クロフトのティートも悪くない。葛藤の末に誰も彼も許してしまうというよりは、最後はヤケになっているようにしか見えないが。

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