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つよしくん さんのレビュー一覧 

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     2013/03/03

    本盤は、ラトルとベルリン・フィルの一流奏者、そしてベルリン・フィルと因縁のあるザビーネ・マイヤーが成し遂げた傑作であると言えるだろう。ニールセンは、グリーグやシベリウスなどと並んで北欧を代表する大作曲家の一人であるが、グリーグやシベリウスなどと比較すると録音点数や人気度において、かなり遅れをとっていると言える。近年では、交響曲全集の録音点数が急速に増えつつあるのは好ましい傾向にあると言えるが、それでも、本盤におさめられたフルート協奏曲やクラリネット協奏曲、そして管楽五重奏曲の録音など、国内盤はおろか、輸入盤さえ殆ど存在しないという嘆かわしい状況にあると言えるところだ。このような中で、ラトル&ベルリン・フィル、そしてその超一流の首席奏者、ザビーネ・マイヤーが終結した本盤の演奏は、おそらくはこれら3曲の演奏史上でも最も豪華な布陣による演奏であり、それによって生み出された演奏も、おそらくはそれぞれの楽曲の演奏史上最高の名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。このような超豪華な布陣による演奏は、ジャンルは全く異なるが、カラヤンがロストロポーヴィチ、オイストラフ、リヒテルとともにベートーヴェンの三重協奏曲をスタジオ録音した時と印象が重なると言えるところであり、ラトルが現代最高の指揮者であるということを名実ともに知らしめた演奏ということもできるであろう。フルート協奏曲にしても、クラリネット協奏曲にしても、ニールセンならではの華麗なオーケストレーションが施された交響曲第1番〜第5番までの諸曲とは異なり、むしろ、シンプルシンフォニーとの愛称が付けられた交響曲第6番の世界にも繋がる慎ましやかな作品であると言えるが、ラトルは、ベルリン・フィルを巧みに統率して、清澄さの中にも実にコクのある音楽の醸成に成功しているのが素晴らしい。エマニュエル・パユのフルート演奏は、もはや表現する言葉が追い付かないほどの美しさを誇っており、これほどの名演奏を聴くと、他のフルート奏者が同曲を演奏することさえ断念せざるを得ないのではないかとさえ思われるほどである。ザビーネ・マイヤーのクラリネットソロも、女流奏者でありながら線の細さがなく、骨太の音楽が構築されているのが素晴らしい。カラヤン時代の末期には、失意のうちにベルリン・フィルと物別れしたマイヤーであったが、本演奏を持って名誉の帰還(実際に帰還したわけではない。)を果たしたと言っても過言ではあるまい。管楽五重奏曲に至っては、凄いの一言。現代を代表する超一流奏者による演奏が悪いはずがなく、正に非の打ちどころのない圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。音質は、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が図られることになった。音質の鮮明さ、音場の拡がりなど、どれをとっても既発の従来CD盤とは比較にならないほどの極上の高音質であり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ラトル&ベルリン・フィル、そして超一流管楽器奏者たちの至高の超名演を高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたいと考える。

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     2013/03/03

    このような演奏こそは、正に英国の詩情極まれりと言ったところであろう。バルビローリは、シベリウスやグリーグなどの北欧音楽とともにイギリス音楽を得意中の得意としていた。とりわけ、本盤におさめられたディーリアスの管弦楽曲集(「アパラチア」(古い黒人奴隷の歌による変奏曲)及び「ブリッグの定期市」(イギリス狂詩曲))は、バルビローリが指揮したイギリス音楽の様々な録音の中でも最良の遺産の一つと言っても過言ではあるまい。ディーリアスの管弦楽曲は、いずれもいかにもイギリスの詩情溢れる親しみやすいものであるが、これをバルビローリ以上に情感豊かに美しく演奏したことがこれまでにあったのであろうか。ディーリアスと親交の深かったビーチャムが、手兵ロイヤル・フィルとともに管弦楽曲集の録音(1958、1960、1963年)を遺しており、それは現在においてもディーリアスの管弦楽曲演奏の規範となるべき至高の超名演であると言えるが、各演奏における情感の豊かさ、心を込めた歌い方においては、本盤のバルビローリの演奏の方に軍配があがると言える。また、バルビローリの演奏が素晴らしいのは、これらの各楽曲のスコアに記された音符のうわべだけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていないということであろう。ディーリアスの管弦楽曲の演奏に際しては、その旋律の美しさに気をとられて、音楽に込められた内容への追及をどこかに置き忘れた薄味の演奏も散見されるところである。しかしながら、バルビローリによる本演奏は、もちろん前述のように美しさにおいても他の演奏の追随を許さないものがあると言えるが、どこをとっても奥深い情感と独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした内容の濃い、そして味わう深い演奏を展開していると言える。そして、本盤の演奏は、いずれもバルビローリの死の数か月前の録音であり、これらの楽曲の演奏に漂う清澄な美しさは、バルビローリが死の直前になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。いずれにしても、バルビローリによる本演奏は、その美しさにおいても、内容の濃さにおいても、味わい深さにおいても、正にディーリアスの管弦楽曲演奏の理想像の具現化と言えるところであり、ディーリアスと親交があったビーチャム盤を除けば、ディーリアスの管弦楽曲集の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。音質は、1970年のスタジオ録音ではあるが、数年前にリマスタリングされたこともあって比較的良好な音質であると言えたところだ。このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる最大の遺産の一つでもある至高の超名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2013/03/03

    バルビローリは、シベリウスやグリーグなどの北欧音楽とともにイギリス音楽を得意中の得意としていた。とりわけ、本盤におさめられたディーリアスの管弦楽曲集(狂詩曲「夏の庭園にて」、歌劇「ハッサン」第1幕より間奏曲及びセレナード、夜明け前の歌、歌劇「コアンガ」より「ラ・カリンダ」、春初めてのカッコウを聞いて、川の上の夏の夜、去りゆくつばめ)は、バルビローリが指揮したイギリス音楽の様々な録音の中でも最良の遺産の一つと言っても過言ではあるまい。ディーリアスの管弦楽曲は、いずれもいかにもイギリスの詩情溢れる親しみやすいものであるが、これをバルビローリ以上に情感豊かに美しく演奏したことがこれまでにあったのであろうか。ディーリアスと親交の深かったビーチャムが、手兵ロイヤル・フィルとともに管弦楽曲集の録音(1958、1960、1963年)を遺しており、それは現在においてもディーリアスの管弦楽曲演奏の規範となるべき至高の超名演であると言えるが、各演奏における情感の豊かさ、心を込めた歌い方においては、本盤のバルビローリの演奏の方に軍配があがると言える。また、バルビローリの演奏が素晴らしいのは、これらの各楽曲のスコアに記された音符のうわべだけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていないということであろう。ディーリアスの管弦楽曲の演奏に際しては、その旋律の美しさに気をとられて、音楽に込められた内容への追及をどこかに置き忘れた薄味の演奏も散見されるところである。しかしながら、バルビローリによる本演奏は、もちろん前述のように美しさにおいても他の演奏の追随を許さないものがあると言えるが、どこをとっても奥深い情感と独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした内容の濃い、そして味わう深い演奏を展開していると言える。いずれにしても、バルビローリによる本演奏は、その美しさにおいても、内容の濃さにおいても、味わい深さにおいても、正にディーリアスの管弦楽曲演奏の理想像の具現化と言えるところであり、ディーリアスと親交があったビーチャム盤を除けば、ディーリアスの管弦楽曲集の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。音質は、1968年のスタジオ録音ではあるが、数年前にリマスタリングされたこともあって比較的良好な音質であると言えたところだ。このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる最大の遺産の一つでもある至高の超名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2013/03/02

    この演奏ははっきり言って良くない。ラトルは、2008年のマーラーの交響曲第9番の録音あたりから、猛者揃いのベルリン・フィルを漸く掌握して、自らの個性を発揮した素晴らしい名演の数々を成し遂げるようになったが、2002年の芸術監督就任後の数年間は、それこそ鳴かず飛ばずの状態が続いていたと言える。世界最高峰のオーケストラを手中におさめ、それだけに多くのクラシック音楽ファンの視線は厳しいものとならざるを得ないが、そうしたことを過剰に意識したせいか、気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していたと言えるところだ。個性を発揮しようと躍起になるのは結構なことであるが、自らの指揮芸術の軸足がふらついているようでは、それによって醸成される演奏は、聴き手に対して、あざとさ、わざとらしさしか感じさせないということに繋がりかねない。ラトルは、ヴァントが、その最晩年にベルリン・フィルとともに行ったブルックナーの交響曲のコンサートを聴き、実際に楽屋を訪ねたこともあったようである(ヴァントの自伝にその旨が記述されている。)。しかしながら、本演奏を聴くかぎりにおいては、ヴァントから学んだものなど微塵もないと言わざるを得ない。いや、むしろ、ヴァントの神々しいまでの崇高な名演を過剰に意識するあまり、しゃかりきになって、独自のスタイルを打ち出そうともがいているような印象さえ受ける。これは、ブルックナーの交響曲を演奏するに際しては、危険信号であると言えるだろう。ベルリン・フィルも、そうしたラトルの指揮に戸惑いを見せているような雰囲気も感じられるところであり、もちろん重量感溢れる演奏は行っているものの、今一つ音楽に根源的な迫力が感じられない。ラトルも、無用なテンポの振幅は最小限に抑えているようではあるが、独自のスタイルを打ち出そうと言うあせりのせいか、時として無用な表情づけがなされているのが問題だ。ラトルは、昨年、ブルックナーの交響曲第9番(終楽章の補筆版付き)の名演を成し遂げたが、かかる演奏との格差は歴然としており、現代のラトルがブルックナーの交響曲第4番の録音を行えば、より優れた演奏を行うことができたのではないかと容易に想定できるだけに、ラトルは、同曲の録音を行うのがいささか早過ぎたと言えるのかもしれない。音質は、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が図られることになった。音質の鮮明さ、音場の拡がりなど、どれをとっても既発の従来CD盤とは比較にならないほどの極上の高音質であり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。もっとも、高音質化がなされても本演奏自体のグレードが上がるというものでもなく、ラトルには、今後、ブルックナーの交響曲第4番の再録音を大いに望んでおきたいと考える。演奏内容の評価は★2つであるが、SACDによる高音質化を加味して、★3つの評価とさせていただきたい。

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     2013/03/02

    管弦楽法の大家として知られるレスピーギの楽曲としては、ローマ三部作があまりにも名高い存在であるが、それに次いで有名な曲と言えば、リュートのための古風な舞曲とアリアであると思われるところだ。愛国心旺盛で、ローマ時代の文化にも造詣深かったと思われるレスピーギならではの作品であり、近現代音楽とは思えないような親しみやすくも優美な音楽に、レスピーギ一流の華麗なオーケストレーションが施された実に魅力的な名作であると言える。ローマ三部作と比較すると、録音の点数は相当に少ないと言えるが、録音を行った指揮者は、同曲の真価を理解するとともに、覚悟を持って演奏に臨んでいることが想定されることから、どの指揮者による演奏もある程度の水準の高さを有していると言える。そうした様々な優れた演奏の中でも、マリナー&ロサンジェルス室内管弦楽団による本盤の演奏は、最右翼に掲げられる名演の一つと言えるのではないだろうか。マリナーは、手兵であるアカデミー室内管弦楽団とともに、こうした室内オーケストラ用の楽曲の様々な名演を成し遂げているだけに、レスピーギによるリュートのための古風な舞曲とアリアも、マリナーの指揮芸術の真価を発揮する上で最適の楽曲と言えるのではないかと考えられるところである。マリナーの本演奏におけるアプローチは、特別な個性で聴き手を驚かすような気を衒ったところがいささかもなく、曲想を精緻に、そして丁寧に描き出すという直球勝負の正攻法によるものだ。そして、英国出身の指揮者であるだけに、どこをとっても格調の高さが支配しており、いかなるロマンティシズム溢れる旋律にさしかかっても、センチメンタルに陥ることはいささかもなく、常に高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。このような演奏こそは、まさしく英国紳士の矜持とも言うべきものであり、演奏全体に漂う高貴にして優美、そして典雅さは、同曲演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。いずれにしても、本演奏は、同曲演奏史上でもトップクラスの演奏であるとともに、室内オーケストラのための楽曲を数多く演奏・録音してきたマリナーの演奏の中でも最高峰の名演の一つと高く評価したいと考える。音質は、1975年のスタジオ録音であるが、リマスタリングがなされたことによって、従来CD盤でも比較的満足できる音質であった。しかしながら、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、このような素晴らしい名演を、現在望み得る超高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/03/02

    本盤には、今や伝説的ともなったチェリビダッケの1986年の来日公演の中から、ブラームスの交響曲第4番、R・シュトラウスの交響詩「死と変容」、そして、ロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲、ブラームスのハンガリー舞曲第1番ト短調、ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス:ピツィカート・ポルカと言った小品がおさめられている。特に、ブラームスの交響曲第4番については、チェリビダッケ自身がその演奏の出来に大変満足していただけに、今般のSACD化は、チェリビダッケのファンのみならず、多くのクラシック音楽ファンにとっても誠に慶賀に堪えないことであると言えるだろう。それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であると言える。楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追及しようというものではない。むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、正に音のドラマ。これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤におさめられたブラームスの交響曲第4番やR・シュトラウスの交響詩「死と変容」については、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。確かに、テンポは遅い。しかしながら、両曲をチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。いずれにしても、これら両曲の演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去の両曲のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。その他の小品も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、正に完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。音質は、今般のシングルレイヤーSACD化によって、圧倒的な超高音質に生まれ変わった。チェリビダッケが構築した圧倒的な音のドラマが、鮮明かつ高音質なSACD盤で再現される意義は極めて大きいものと言えるところだ。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2013/02/24

    ドヴォルザークの4つの交響詩集は、HMVのサイトの解説にもあるように、その題材の残忍さ、異常さから俗に殺人交響詩集とも称されている。同交響詩集は、交響曲第9番「新世界より」やチェロ協奏曲ロ短調、そして弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」などの、ドヴォルザークのあらゆる作品の中でも最高峰の傑作が生みだされた後に作曲された晩年の作品であるだけに、更に優れた作品であるかのように思いきや、なかなかそうはいっていないと言わざるを得ない。音楽評論家や学者の意見も、創作力が、交響曲第9番やチェロ協奏曲ロ短調などにおいてピークに達した後、減退しているというのが太宗を占めていると言える。交響詩集の各楽曲のオーケストレーションについては、ドヴォルザークが恩師であるブラームスを尊敬し、その作品から深い影響を受けているものの、自らがワグネリアンであることを公言していたとも伝えられているところであり、これらの各楽曲には、そうしたドヴォルザークのワグネリアン的な資質が見事に反映されていると言っても過言ではあるまい。ただ、題材も含めた楽曲の芸術性と言った点に鑑みれば、ドヴォルザークの晩年の傑作と評価するには躊躇せざるを得ないところであり、そのせいか、4つの交響詩すべての録音も、チェコの指揮者による演奏にほぼ限定されていたとも言えるところだ。このような中で、ラトル&ベルリン・フィルによる本盤が登場したというのは、これらの楽曲の魅力を世に知らしめるという意味において、極めて画期的なことであると考えられるところである。演奏自体は、チェコの指揮者のように、ボヘミアの民族色など薬にしたくもない演奏と言える。同曲のオーケストレーションの面白さ、巧みさを、ベルリン・フィルという世界最高峰のオーケストラを用いて見事に紐解くことに成功した演奏と言えるのではないだろうか。当時のラトルの欠点でもある表現意欲の空回りを感じさせないわけではないが、それでも一般的にはあまり知られていないドヴォルザークの交響詩集のいわゆるオーケストラ曲としての魅力をこれほどまでに堪能させてくれれば文句は言えまい。いずれにしても、本盤の演奏は、ドヴォルザークの交響詩集のオーケストラ曲としての魅力を多くのクラシックファンに認知させるのに成功した素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質は、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が図られることになった。音質の鮮明さ、音場の拡がりなど、どれをとっても既発の従来CD盤とは比較にならないほどの極上の素晴らしい高音質であり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ラトル&ベルリン・フィルによる素晴らしい名演を、高音質のSACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたいと考える。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/02/24

    本盤には、稀代のショパン弾きでもあったルービンシュタインによるショパンのワルツ集がおさめられているが、素晴らしい名演と高く評価したいと考える。古今東西の数多くのピアニストの中でも、ショパン弾きとして名を馳せた者は数多く存在しているが、その中でも最も安心してその演奏を味わうことができるのは、ルービンシュタインを置いて他にはいないのではないだろうか。というのも、他のピアニストだと、古くはコルトーにしても、ホロヴィッツにしても、フランソワにしても、演奏自体は素晴らしい名演ではあるが、ショパンの楽曲の魅力よりもピアニストの個性を感じてしまうからである。もちろん、そのように断言したからと言って、ルービンシュタインが没個性的などと言うつもりは毛頭ない。ルービンシュタインにも、卓越したテクニックをベースとしつつ、豊かな音楽性や大家としての風格などが備わっており、そのスケールの雄渾さにおいては、他のピアニストの追随を許さないものがあると言えるだろう。そして、ルービンシュタインのショパンが素晴らしいのは、ショパンと同じポーランド人であるということやショパンへの深い愛着に起因すると考えられるが、ルービンシュタイン自身がショパンと同化していると言えるのではないだろうか。ショパンの音楽そのものがルービンシュタインの血となり肉となっているような趣きがあるとさえ言える。何か特別な個性を発揮したり解釈を施さなくても、ごく自然にピアノを弾くだけで立派なショパンの音楽の名演に繋がると言えるところであり、ここにルービンシュタインの演奏の魅力があると言える。本盤におさめられたワルツ集についても、そうしたルービンシュタインならではの情感豊かでスケール雄大な名演だ。ショパンのワルツ集については、古くはコルトーによる超個性的な演奏(1934年スタジオ録音)、薄幸のピアニストであるリパッティの生涯最後の壮絶な演奏(1950年スタジオ録音)、フランス風の瀟洒な味わいに満ち溢れたルイサダによる演奏(1990年スタジオ録音)など、多種多様な名演が目白押しであるが、ショパンのワルツ集という楽曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、本演奏の右に出る演奏は皆無であると言えるのではないだろうか。また、演奏全体を貫いている格調の高さは比類がなく、これぞまさしく大人(たいじん)の至芸と言えるだろう。これだけの名演であるだけに、高音質化への不断の取組が行われてきたところであるが、今般発売されたBlu-spec-CD盤は、これまでで最も良好な音質であると言える。もっとも、ルービンシュタインによる素晴らしい名演でもあり、メーカー側の段階的な高音質化という悪質な金儲け主義を助長するわけではないが、今後は、シングルレイヤーによるSACD盤で発売していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたい。

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     2013/02/24

    史上最高のレコーディング・アーティストと評されているのはかのヘルベルト・フォン・カラヤンであるが、そのカラヤンをもはるかに超える膨大なレコーディングを行っている指揮者が存在する。既に75歳になっているが、今なおレコーディングへの意欲をいささかも失っていないその指揮者こそはネーメ・ヤルヴィである。ネーメ・ヤルヴィに対しては、一部の毒舌の音楽評論家から「なんでも屋」であり、膨大なレコーディングは粗製濫造などと言った罵詈雑言が浴びせられているが、それはいささかいい過ぎであると言えるところであり、確かに、他の指揮者を圧倒するような名演は殆ど皆無ではあるが、いずれの録音も水準以上の演奏に仕上がっているのではないかと考えられるところだ。ネーメ・ヤルヴィの最大の功績は、特に北欧の知られざる作曲家の作品を数多く録音して、広く世に知らしめたということであり、このことだけでも、後世に名を残すだけの名指揮者と言っても過言ではあるまい。そのような膨大なレコーディングを行っているネーメ・ヤルヴィであるが、意外にもチャイコフスキーの三大バレエ音楽の録音は本盤がはじめてとのことである。数年前にBISレーベルに水準の高いチャイコフスキーの交響曲全集を録音しているだけに意外な気もするが、それだけにネーメ・ヤルヴィとしても満を持して取り組む録音であると言うことができるだろう。そして、本盤のバレエ音楽「眠れる森の美女」の録音は、そうした我々の期待をいささかも裏切ることがない素晴らしい名演に仕上がっていると言える。三大バレエ音楽の中でも、「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」と比較すると全曲録音の点数がかなり少ない「眠れる森の美女」であるだけに、本演奏は極めて貴重な存在とも言える。ヤルヴィのアプローチは、例によって聴かせどころのツボを心得たわかりやすさを信条とするもの。交響曲ではなく、バレエ音楽だけに、このようなアプローチは理想的であり、チャイコフスキーならではの親しみやすい旋律に満たされた同曲の魅力を、我々聴き手は安定した気持ちで満喫することができるのが素晴らしい。各場面の描き分けも秀逸であり、これまで数多くのレコーディングを手掛けてきたネーメ・ヤルヴィならではの演出巧者ぶりが十二分に発揮されていると言える。そして、本盤の最大のアドバンテージは、マルチチャンネル付きのSACD盤であるということ。チャイコフスキーの三大バレエ音楽のマルチチャンネル付きのSACD盤の登場は、私が知る限りにおいては本盤がはじめてではないかとも思われるところであり、その意味でも臨場感溢れる鮮明な高音質で同曲を味わうことができるというのは、実に素晴らしいことであると思われるところだ。いずれにしても、本演奏は、演奏内容、そして音質面の両面において、極めて水準の高い素晴らしい名盤であると高く評価したいと考える。ネーメ・ヤルヴィは、本盤を皮切りとして、今後、「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」を録音するとのことであるが、実に楽しみである。

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     2013/02/23

    本盤におさめられたバルトークのピアノ協奏曲第2番とプロコフィエフのピアノ協奏曲第5番という、弾きこなすのに難渋するきわめて難しい協奏曲どうしの組み合わせであるが、これらのスタジオ録音は、当時の鉄のカーテンの向こう側の盟主国であった旧ソヴィエト連邦から忽然とあらわれた偉大なピアニスト、リヒテルが様々な西欧の大手レコード会社に録音を開始した上げ潮の頃の演奏である。指揮者は、当時、鬼才とも称されたマゼール。当時のマゼールは、切れ味鋭いアプローチで現代的とも言うべき数々の演奏を行っており、その強烈な個性が芸術性の範疇にギリギリおさまるという、ある種のスリリングな演奏を展開していたところである。マゼールに対して厳しい批評を行っている音楽評論家も、この時期のマゼールの演奏に対しては高く評価するほどの芸術性に裏打ちされた超個性的な演奏を行っていたとも言えるところだ。そして、こうした上げ潮にのったリヒテルと鬼才マゼールの組み合わせが、両曲の演奏史上、稀に見るような超個性的な名演を成し遂げるのに繋がったと言えるのではないだろうか。バルトーク及びプロコフィエフの両協奏曲ともに前述のように難曲で知られているが、リヒテルは超絶的な技量と持ち味である強靭な打鍵を駆使して、両曲の複雑な曲想を見事に紐解いている。それでいて、力任せの一本調子にはいささかも陥ることなく、両曲に込められた民族色溢れる旋律の数々を、格調の高さを損なうことなく情感豊かに歌い抜いているのも素晴らしい。そして、演奏全体のスケールの雄大さは、ロシアの悠久の大地を思わせるような威容を誇っていると言えるところであり、これぞまさしくリヒテルの本演奏におけるピアニズムの最大の美質と言っても過言ではあるまい。こうした圧倒的なリヒテルのピアノ演奏に対して、鬼才マゼールも決して引けを取っていない。もちろん、協奏曲であることから、同時期の交響曲や管弦楽曲の演奏などと比較すると抑制はされているが、それでもオーケストラ演奏のみの箇所においては、マゼールならではの切れ味鋭い個性的解釈を聴くことが可能であると言える。そして、そうした随所における個性的な演奏が、両曲の演奏において不可欠の前衛性や凄味を付加することに繋がり、両曲演奏史上でも稀にみるような名演奏に寄与することになったものと言えるところだ。いずれにしても、本盤の演奏は、リヒテルとマゼールという個性的な天才どうしが、時には協調し、そして時には火花を散らし合って競奏し合うことによってなし得た圧倒的な名演と高く評価したいと考える。音質は、1969〜1970年のスタジオ録音であるが、リマスタリングがなされたことによって、従来CD盤でも比較的満足できる音質であった。しかしながら、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。とりわけ、リヒテルとマゼール指揮のパリ管弦楽団、ロンドン交響楽団の演奏が明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的ですらある。いずれにしても、このような圧倒的な名演を、現在望み得る超高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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     2013/02/17

    ワルターについては、フルトヴェングラーやトスカニーニ、メンゲルベルクと言った他の4大指揮者と異なり、ステレオ録音が開始された時代まで生きたただ一人の巨匠指揮者である。それ故に、音質が良いということもあって、ワルターによる演奏を聴くに際しては、最晩年の主としてコロンビア交響楽団とのスタジオ録音盤を選択するケースが多いと言える。したがって、最晩年の穏健な芸風のイメージがワルターによる演奏には付きまとっていると言えるが、1950年代前半以前のモノラル録音を聴けば、それが大きな誤解であるということが容易に理解できるはずだ。本盤におさめられたブラームスの交響曲第1番の演奏は、コロンビア交響楽団との最晩年のスタジオ録音ではあるが、1950年代前半以前のワルターを思わせるような、トゥッティに向けてたたみかけていくような気迫や強靭な生命力を有した力感溢れる演奏に仕上がっていると言える。ワルターを穏健派の指揮者などと誤解をしているクラシック音楽ファンにとっては、度肝を抜かれるような力強い演奏といえるかもしれない。もちろん、第2楽章や第3楽章の心を込め抜いた情感豊かな表現は、いかにも最晩年のワルターならではの温かみを感じさせる演奏であると言えるが、老いの影などいささかも感じられないのが素晴らしい。そして、終楽章は、切れば血が吹き出てくるような生命力に満ち溢れた大熱演であると言えるところであり、とても死の3年前とは思えないような強靭な迫力を誇っていると言える。カプリングされている悲劇的序曲と大学祝典序曲もワルター渾身の力感漲る名演。特に、大学祝典序曲など、下手な指揮者にかかるといかにも安っぽいばか騒ぎな通俗的演奏に終始してしまいかねないが、ワルターは、テンポを微妙に変化させて、実にコクのある格調高い名演を成し遂げているのは見事というほかはない。コロンビア交響楽団は、例えば、ブラームスの交響曲第1番の終楽章におけるフルートのヴィブラートなど、いささか品性を欠く演奏も随所に散見されるところではあるが、ワルターによる確かな統率の下、編成の小ささをいささかも感じさせない重量感溢れる名演奏を披露している点を高く評価したい。音質は、DSDマスタリングによるBlu-spec-CD2化によって、大幅に改善されることになった。メーカーの段階的な高音質化というあくどい金儲け主義を助長するようで気が引けるが、今後はSACD化を図るなど更なる高音質化を望んでおきたいと考える。そして、ワルター&コロンビア交響楽団による交響曲第2番及び第3番の高音質化、そしてモノラル録音ではあるが、ワルターの数あるブラームスの交響曲の演奏の中でも最高の超名演とされている、ニューヨーク・フィルとの交響曲第2番のスタジオ録音盤のSACD化をこの場を借りて強く要望しておきたい。

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     2013/02/17

    本盤の演奏は、ラトルがベルリン・フィルの芸術監督に就任後、2008年のマーラーの交響曲第9番の登場までの間、鳴かず飛ばずの状態にあった中では、最高峰の名演と言えるのではないだろうか。ラトルも、世界最高峰のオーケストラを手中におさめた後は、当然、クラシック音楽ファンの厳しい視線にさらされたこともあって、それを過剰に意識したせいか、演奏に気負いが見られたところである。その気負いが、自らの指揮芸術の軸足にフィットしたもの(最近のラトルはそうである。)であれば、いわゆるラトルの個性が全面的に発揮した名演ということになるのであろうが、そうでない場合には、奇を衒ったわざとらしさ、あざとさだけを感じさせる凡庸な演奏に陥ってしまうことになる。ラトルの当時の演奏は、正にそれに該当するところであって、芸術監督就任お披露目公演のマーラーの交響曲第5番、ブルックナーの交響曲第4番、シューベルトの交響曲第9番など、死屍累々の山。どうなることかと心配していたところ、前述のマーラーの交響曲第9番で奇跡的な逆転満塁ホームランを放つのであるが、本盤のハイドンの交響曲集は、不調をかこっていた時代にまぐれであたったクリーンヒットのような趣きがある。そうなった理由は、楽曲がハイドンの交響曲であったということにあると思われる。ハイドンの交響曲は極めてシンプルに書かれているが、それだけに様々な演奏スタイルに堪え得るだけの懐の深さを湛えていると言える。モーツァルトの交響曲との違いは、正にその点にあるのであって、仮に、ラトルがモーツァルトの交響曲集の録音を行っていたとすれば、間違いなく凡打をもう一本打ったことになったであろう。それにしても、これほどまでにハイドンの交響曲を面白く、そして楽しく聴かせてくれる演奏は他にあったであろうか。もちろん、ピリオドオーケストラを起用しての演奏には、インマゼールやノリントン、ブリュッヘンなどの名演が存在しているが、大オーケストラを起用しての演奏としては、他にあまり類例を見ないものと思われる。そして、本演奏の場合は、ラトルの思い切った解釈がいささかもあざとさを感じさせず、気高い芸術性に裏打ちされているというのが素晴らしい。ベルリン・フィルの首席奏者とともに演奏した協奏交響曲も見事であり、いずれにしても、本演奏は、ハイドンの交響曲を得意としてきたラトルならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質は、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が図られることになった。音質の鮮明さ、音場の拡がりなど、どれをとっても既発の従来CD盤とは比較にならないほどの極上の高音質であり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ラトル&ベルリン・フィル、そして超一流の首席奏者たちの素晴らしい名演を高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたいと考える。

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     2013/02/17

    リヒテルとマゼールは、バルトークのピアノ協奏曲第2番とプロコフィエフのピアノ協奏曲第5番という近現代を代表する両ピアノ協奏曲において圧倒的な名演を成し遂げたが、本盤におさめられたブラームスのピアノ協奏曲第2番というロマン派を代表する名作においても見事な演奏を行っている。これらのスタジオ録音は、当時の鉄のカーテンの向こう側の盟主国であった旧ソヴィエト連邦から忽然とあらわれた偉大なピアニスト、リヒテルが様々な西欧の大手レコード会社に録音を開始した上げ潮の頃の演奏である。指揮者は、当時、鬼才とも称されたマゼール。当時のマゼールは、切れ味鋭いアプローチで現代的とも言うべき数々の演奏を行っており、その強烈な個性が芸術性の範疇にギリギリおさまるという、ある種のスリリングな演奏を展開していたところである。マゼールに対して厳しい批評を行っている音楽評論家も、この時期のマゼールの演奏に対しては高く評価するほどの芸術性に裏打ちされた超個性的な演奏を行っていたとも言えるところだ。そして、こうした上げ潮にのったリヒテルと鬼才マゼールの組み合わせによって、どれほど個性的な演奏が生み出されるか期待するクラシック音楽ファンも多いと思うが、これが意外にも正攻法のオーソドックスとも言うべき演奏を展開していると言える。リヒテルは超絶的な技量と持ち味である強靭な打鍵を駆使しつつも、非常にゆったりしたテンポで曲想を精緻かつ濃密に描き出している。力任せの一本調子にはいささかも陥ることなく、両曲に込められたブラームスの枯淡の境地とも言うべき美しい旋律の数々を、格調の高さを損なうことなく情感豊かに歌い抜いているのも素晴らしい。そして、演奏全体のスケールの雄大さは、ロシアの悠久の大地を思わせるような威容を誇っていると言えるところであり、これぞまさしくリヒテルの本演奏におけるピアニズムの最大の美質と言っても過言ではあるまい。こうした圧倒的なリヒテルのピアノ演奏に対して、鬼才マゼールの合わせ方も見事。同曲は、ピアノ独奏付きの交響曲とも称されるほどにオーケストラ演奏が分厚く作曲されており、オーケストラ演奏のみの箇所も多いが、マゼールは自我を徹底して抑制し、この当時のマゼールには珍しいほど、音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言えるところだ。このようにマゼールが、リヒテルのピアノ演奏に合わせることによって、同曲演奏史上でも最もスケール雄大な名演に繋がっていることになったものと思われる。いずれにしても、本盤の演奏は、リヒテルとマゼールという個性的な天才どうしが成し得た圧倒的な名演と高く評価したいと考える。音質は、1969年のスタジオ録音であるが、リマスタリングがなされたことによって、従来CD盤でも比較的満足できる音質であった。しかしながら、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。とりわけ、リヒテルとマゼール指揮のパリ管弦楽団の演奏が明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的ですらある。いずれにしても、このような圧倒的な名演を、現在望み得る超高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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     2013/02/16

    来日公演のブルックナーの交響曲第5番及び第8番のSACD化に引き続いて、今般は、チェリビダッケの1986年の来日公演の際に演奏された、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」とシューマンの交響曲第4番(アンコールのドヴォルザークのスラヴ舞曲第8番を含む。)のSACD化がなされることになったのは、チェリビダッケの十八番とも言える楽曲だけに、誠に慶賀に堪えないところだ。それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であると言える。楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追及しようというものではない。むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、正に音のドラマ。これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤におさめられたシューマンの交響曲第4番やムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」については、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。確かに、テンポは遅い。例えば、組曲「展覧会の絵」について言うと、約42分もかけた演奏は他にも皆無であろうし、シューマンの交響曲第4番についてもきわめてゆったりとしたテンポをとっている。しかしながら、本盤の両曲の演奏には、こうしたテンポの遅さをものともしない、圧倒的な音のドラマが構築されていると言える。とりわけ、組曲「展覧会の絵」は、ラヴェルの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが魅力の楽曲であるが、これをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。いずれにしても、これら両曲の演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去の両曲のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考える。チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、正に完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。音質は、今般のシングルレイヤーSACD化によって、圧倒的な超高音質に生まれ変わった。チェリビダッケが構築した圧倒的な音のドラマが、鮮明かつ高音質なSACD盤で再現される意義は極めて大きいものと言えるところだ。

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     2013/02/16

    ルービンシュタインは、3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集をスタジオ録音している。ルービンシュタインはポーランド出身ということもあって、稀代のショパン弾きとしても知られてはいるが、前述のように3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したことや、生涯最後の録音がブラームスのピアノ協奏曲第1番であったことなどに鑑みれば、ルービンシュタインの広範なレパートリーの中核を占めていたのは、ベートーヴェンやブラームスなどの独墺系のピアノ曲であったと言えるのかもしれない。本盤におさめられたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番&第5番は、ルービンシュタインによる3度目のピアノ協奏曲全集(1975年)からの抜粋である。最初の全集であるクリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアとの演奏(1956年)や、2度目の全集であるラインスドルフ&ボストン交響楽団との演奏(1963年)と比較すると、本演奏は88歳の時の演奏だけに、技量においてはこれまでの2度にわたる全集の方がより優れていると言える。しかしながら、本演奏のゆったりとしたテンポによる桁外れのスケールの大きさ、そして各フレーズの端々から滲み出してくる枯淡の境地とも言うべき奥行きの深い情感の豊かさにおいては、これまでの2度にわたる全集を大きく凌駕していると言えるだろう。このような音楽の構えの大きさや奥行きの深さ、そして格調の高さや風格は、まさしく大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。特に、両曲の緩徐楽章の深沈とした美しさには抗し難い魅力があると言えるが、その清澄とも言うべき美しさは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、自らの生涯を自省の気持ちを込めて回顧するような趣きさえ感じられると言える。これほどの高みに達した崇高な音楽は、ルービンシュタインとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。ルービンシュタインの堂々たるピアニズムに対して、バレンボイム&ロンドン・フィルも一歩も引けを取っていない。バレンボイムは、ピアニストとしても(クレンペラーの指揮)、そして弾き振りでも(ベルリン・フィルとの演奏)ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音しているが、ここではルービンシュタインの構えの大きいピアニズムに触発されたこともあり、持ち得る実力を存分に発揮した雄渾なスケールによる重厚にして渾身の名演奏を展開しているのが素晴らしい。いずれにしても、本盤におさめられたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番及び第5番の演奏は、いずれも両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。音質は従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、数年前に行われたSHM−CD化、今般のBlu-spec-CD2化によって、音質は大きく改善されることになった。もっとも、メーカーの段階的な高音質化というあくどい金儲け主義を助長するようで気が引けるが、ルービンシュタインによる超名演でもあり、今後はSACD化を図るなど更なる高音質化を望んでおきたいと考える。

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