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MISPRISIONER さんのレビュー一覧 

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     2016/03/06

    新しいオーケストラの機能の開拓、その美的領域の拡張、それはそれでみな価値のあることだが、古典的なオーケストラの美として築きあげられてきた不抜のものは、この音でないかといえるのが、本盤でのソウル・フィルのそれである。このCDを聴いているあいだ、これが本当のオーケストラの音ではないかという気持ちが一瞬でも去ることがなかった。もちろん録音の力もあろう。だが、無いものは入らないのだから、なんと言っても素材の強みである。弦も木管も、そして金管も練れに練れている。殊に金管は十分な表現を果たしながら、少しも強烈とか鮮烈とかの感を与えない。外から貼り付けた威嚇や怒号ではないから、盛り上がりが本当に内部から膨れ上がらざるを得なかったという自然な表情で築き上げられている。驚くほどのオーケストラの熟度の高さは音響的にばかりでなく、リズムとテンポとの極めて美しい弾力性にも現われている。明らかに、率引や抑圧を試みているように見えるところが全くない。ほとんど人間の生理の音的美化そのものといえそうな、腰の据わった芸術の重みを宿しているのである。チョン・ミョンフンの指揮は、それを最大限に生かしたもの、というより、彼自身がその中にいて、そこで息づいているというほうがいいだろう。では、まるで無指揮者状態の無個性な演奏かといえば、さにあらず。彼ではなくてはならないところがある。それは、中の2つの楽章をやや強めの対照として描き、両端楽章を広闊なオーケストラ美の沃野として広々と枠付けたことで、これは60歳を出たばかりの年代の彼の、明敏な設計である。彼はこの設計によって、2005年からポストにある祖国を代表するオーケストラの最大美点にものを言わせる。そしてその結果が、チャイコフスキー最後の傑作交響曲を通して、他作品と内容的に肩を並べる豊かさと、大きい空間的容量を感じさせるものにしたのである。

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     2016/03/06

    マーラーの《第九》は、メータでさえ避けて通る、マーラーの完成された9つの交響曲の中でも難物中の難物だが、臆することなく幾度も同曲を取り上げているチョン・ミョンフンは、流石に全く危なげなくオーケストラをドライヴしており、彼の複眼的な鋭いセンスは、この作品に宿る様々な音楽的魅力を巧みに引き出している。全体として、歌のニュアンスが優先するように見える作品の中に、リズムの活力を強く印象づけるのは、彼一流の行き方であると同時に、それがいつものチョンよりもはるかに細密な神経に貫かれ、音楽的生気の色合いを細やかに描いており、テンポの微妙な変動もまた極めて鋭く音楽的表情の造出に関わり合っている。彼の指揮は極めて深いヒューマンな味わいをもっている。それは、どうみてもカラヤンのような神がかった託宣でもないし、バーンスタインのようなモンスターの絶叫的な身振りからももっとも遠い、人間同士の心の交流のあり方である。さらに、音色に関しても、聴き手はこの蒼枯とした第一楽章の中にさえ、色調への周到な配慮を感ずることしばしばである。第二楽章は、抒情と形成を両手に等分に引っさげて縄を編んでゆくのを目にするような面白さがある。つづく第三楽章は、前述の音色のニュアンスと、リズムの推進力が素晴らしい。その変わり身の敏捷さは、マーラーの音楽の中の隠れた手品的妙味をくっきりとあらわにした。終楽章は、むしろ古典的な行き方の徹して、ひたすら頑丈を目指してきっちりとした終結感へと持ち込む。こうしてたくさんの見せ場を持ち出しながら、チョンは彼自身とマーラーを語りつくす。現代の「才」というものに照らされた典型的な演奏のひとつといいたい。

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     2015/11/23

    まだマーラーもブルックナーも知らない高校生の時だ。当然、「ロバート・シンプソン」など見たことも聞いたこともない作曲家であった。しかし、ちょっと前に聴き、その演奏の素晴らしさに狂喜したニールセンの交響曲第5番の指揮していたホーレンシュタインが指揮者ということで(また、後で気づいたことだが、レーベルも同一であった)、たまたまショップで見つけて手に取り、「(シンプソンの交響曲は)ベートーヴェンの交響曲第7番同様、『力のための音楽である』」という解説の一文に妙に惹かれ(また、「3本のフルートが全てピッコロに持ち替える」という表記も気になった。同じオーケストレーションは第4番でも使われている)、即買いした交響曲第3番のLP(当時はまだCD化されていなかった)に、「こんな音楽を作曲する人がこの世にはいるのか!?」と衝撃を受けた。それ以来、「この作曲家の交響曲をもっと聴きたい」と思った。■残念ながら、その時入手可能だったシンプソンの交響曲の録音は第3番だけだった。ところが、輸入盤の情報収集のために定期購読していた英Gramophone誌に、当時最新の交響曲であった第9番の録音が[HYPERION]からリリースされ、どうもシリーズ化されるらしいと知り、出るたびにコツコツと買い集めてきた。だが、第9番の次がなかなか出てこない。結局、次の第2番/第4番が出たのはその4年後、次の第6番/第7番と第3番/第5番は2年後に相次いで出たが、続く第1番/第8番もそれから4年待たなければならず、結局、最後の第11番が出るまで、第9番が出てから16年の歳月を要してしまった。■今、ユーチューブには、各交響曲の初演の実況録音や、正規録音では聴けない協奏曲の録音(以前、ピアノ協奏曲のライヴ録音がBBCから出ていたことがあった)がアップされているが、このCD-BOXは、現在、シンプソンの交響曲全集としては唯一無二のものであり、その価値には、それ以上のものがある。演奏は、考えうる限り最良のもので、スコアを見ながら聴いていると、譜面に書かれている以上に音楽が効果的に響いていることがよく解る。アレグロやプレスト、ヴィヴァーチェでのシンプソン特有の執拗なオスティナートは、決して無機質ではなく生命力を帯び、その堅固な造型、弾力的な躍動、飽くことなく高潮を続ける音楽が、隅々まで厳しく制御された正確さで、魅惑的な音楽となって現れている。緩徐楽章は大きな息遣いで底光りするように繊細な音楽を作り、その起伏は伸びやかでオーケストラも重量感をもって響き、明快・平陽な音楽を聴かせる。■録音は、最初の第9番から距離感、左右への広がりが適度で、力強く盛り上がる全強奏の雄大なスケール感は素晴らしい。多くの交響曲で頻出する、全オーケストラが最強奏で咆哮する中、ニールセンの交響曲第4番のようにティンパニが乱打し、同第5番のようにスネアが連打を続けるクライマックスでも、各楽器の分離は明瞭。どの部分をとっても文句のつけどころのないセット。

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     2015/11/02

    バイエルン放送響(BRSO)はやはり巧い。BRSOのマーラーといえば、クーベリックとの交響曲全集があるが、BRSOは決してマーラー度の高いオーケストラとはいえない(《悲劇的》はかつてラインスドルフとのライブが商品化されていた)。どちらかといえば、R・シュトラウスをそつなく聴かせてくれるオーケストラという印象の方が強い。しかし、マーラーもシュトラウスも、後期ロマン派の頂点に君臨するオーケストラ作曲家であり、音符だけなぞってアンサンブルさえ整えればそれで音楽になるという類の作品ではない。もちろん、それはどの作曲家の作品にも言えることだが、この二人は特にそうなのだ。メンバー一人ひとりが、楽譜に書かれている音符一音一音の意味をしっかりと認識し、相当の理解と共感を持って表現することが必要だ。その意味では、指揮者がいくら頑張ってオーケストラをドライヴしようと、自ずと限界がある。■個人的には、恐らく世界で最もマーラーを多く演奏している英国出身の指揮者、ハーディングの才能については懐疑的な面もあるが(彼の師であるラトル卿のマーラー演奏は実に酷いものだ)。実際、この演奏を聴いて「ハーディング凄い」というよりも、「BRSO凄い」としか思えない。ここには、しっかりとクーベリック時代の伝統が息づいている。素晴らしい演奏に出会ったとき、そのどこまでが指揮者の功績で、どこまでがオーケストラの功績なのか明確に線引きすることは不可能だ。ライヴ録音の場合は、指揮者が意識もしていなかった声部が強調されたり、本当は強調していた声部がマスクされてしまったりもする。■演奏は、第1楽章冒頭から暗い予感に満ち、意味深い感興を示すのが聴き手を捉える。「アルマの主題」は、ほとんど直前からのリタルダンドのまま、ぐっとテンポを落としてこれまでになくしなやかに歌われ、まるで清楚な乙女のような表現だ。実際のアルマの愚挙を知っている我々には、壮大な皮肉に聴こえてしまう。展開部は、余計なアゴーギクは一切ないが存分に情緒的でありながら、造形は極めて普遍的である。再現部は伸びやかで輝かしく、音楽の内面を聴き手に伝える。コーダは俄然緊張感が高まり、堂々とした力感をもって騒然とした姿勢で音楽を劇的に構築している。■第2楽章には「アンダンテ・モデラート」を持ってきているが、いくら「学術的」に正しかろうと、聴きてにとっては従来通りの「スケルツォ→アンダンテ」が至当とういのが正道だろう(実際、最近ではそういう録音も増えている)。この楽章順がハーディングの所為かどうかは知らないが(ラトルはむしろ進んでそうしている)、こういうところがハーディングから懐疑の念が拭えない所以なのだ。とはいえ、演奏自体は、この楽章出色の出来。陰影がたっぷりつき、全体的な流れのよさとレガートの魅力、弦の粘着力や艶やかさも美しさの限りだ。■第3楽章「スケルツォ」はリズムが極めて鋭敏で、一種の浮揚感に満ちているのはマーラーの意図通りか。また、過剰にメカニックに陥らないアンサンブルの妙技も聴きもので、メリハリが冴え、流れの緊張力も見事。外面的効果は狙われていないと思うが、その迫力は聴きてを夢中にさせる。■終楽章、各パートの綿密な処理による確固とした造形が、音楽の風格を強く感じさせる。それが適切なテンポでひたすら前進し、細部にまで血の通った表現で起伏しながら高揚していくさまは、まさに凄烈・凄絶という他ない。2度のハンマー(そう、ハンマーは2度なのだ)はそれだけ特にピックアップされているわけではなく、オーケストラとよくブレンドされている。

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     2015/11/02

    ブーレーズ(DG盤)やカンブルラン、エトヴェシュ、ズヴェーデン、ノットといった、現代音楽を得意とする指揮者や若手指揮者をはじめ、オリジナル初稿版を使用したことで話題となったジンマン盤など、近年、バーバリズム(原始主義)を全面に押し出すよりも、どちらかといえば禁欲的でグロテスクさを抑制した「大人」の表現が好まれている《春の祭典》。しかしこの演奏は、アバドやバーンスタイン、メータやムーティ、そしてショルティやMTTといった、1970年代(メータの旧盤は69年録音だが)的な、鋭角的で即物的な力強い前進性が前面に出ている。しかし、バーンスタインのようなハチャメチャさは皆無だし、ゲルギエフのような土俗的でデモーニッシュな雰囲気は全くなく、あくまでもスマートでクリアであり、音楽的に痛快に割り切った感覚は現代的であるのかもしれない。■とはいえ、クルレンツィスの演奏は、どことなく表層的効果主義で、いろいろ工夫して「変わった」表現をしようとすればするほど換骨奪胎、効果音楽の世界へと陥っていくきらいがある。例えば「敵対する街の人々の戯れ」前半部、練習番号59の木管の八分音符をテヌートにしたり(音符の指示は“デタッシュ”だから短めにしなければいけない)、同後半部(練習番号63以降)のホルン群と木管群の動きの中で、特定の四分音符だけをテヌートにしている(スタッカーティシモが付いている四分音符までテヌートにしている)のは、ちょっと擁護できない「改変」だ。また、「春のきざし」ではホルンやトランペットの旋律を、「賢人の行列」ではテナー・ホルンの旋律を必要以上に抑えているのだが、これはどういう論理的判断に基づいているのだろうか。それに、第1部ではティンパニやカッサをこれでもかと強調していながら、第2部(特に「生贄の踊り)では、重要な部分でもオーケストラの遥か後方で微かに鳴っているだけになっている(タム・タムに至っては全く聴こえない)。こういったことは、録音陣の責任も少なくないのだろが、それは、テンポや音色の技術すべてを統括する人間的能力の領域に属することであり、何よりも話題先行、虚仮(コケ)威し的に表層的な面だけを追求した音楽に、微塵の説得力もないのである。■なお、盤の表記には「1947年版」とあるが、演奏に実際に使用されているのは1967年版の楽譜(ただし、「春の踊り」のアルト・フルートとピッコロ・クラリネット、バス・クラリネットの装飾音符は付けられ、最後の「生贄の踊り」の練習番号192以降、弦はpizz.している)。これは、戦後、ブージー&ホークス社がストラヴィンスキーの版権をロシア出版社から全て買取り、若干の改訂の後出版した版(これが1947年版)以降、著作権をアサイン(再割り当て)していない為で、《火の鳥》や《ペトルーシュカ》のように編成や楽曲構成が大きく変わっていない《春の祭典》は、ブージー&ホークス社にとって、以降の版は全て版権的には1947年版なのである。

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     2015/11/02

    ■非ユダヤ系指揮者で、早い時期からマーラーを積極的に取り上げてきた指揮者のひとりがバルビローリで、「晩年の20年間、世界各地でマーラーの交響曲を盛んに演奏した」(マイケル・ケネディー著『グスタフ・マーラー』より)。イタリア系、ということで考えれば、アバドやシノーポリの大先輩、ということになる。しかし、『マンチェスター・ガーディアン(現・ガーディアン)』紙でマーラーの熱烈な死亡記事を書き、1920年にアムステルダムで開催されたマーラー音楽祭にも出席した、マーラーの真価を認識した最初の英国評論家といわれる、サミュエル・ラングフォード(1863-1927)や、『10人の指揮者』(1945年)でマーラーについて詳細に分析したネヴィル・カーダス(1889-1975)らによる、戦前からの極めて秀逸なマーラーに関する評論を受け、英国ではもともとマーラーが好まれて演奏され来た。英国で初めてマーラーの交響曲(第1番)を演奏し、交響曲第4番、第7番、第8番、《大地の歌》を英国初演したヘンリー・ウッドや、英国人指揮者で初めてマーラーの全交響曲を演奏したチャールズ・グロヴズがその先駆的な指揮者だが、国際舞台で活躍した英国人指揮者としては、バルビローリが最初であると言える。■本セットに聴くバルビローリのマーラーは、いずれも主観的でどの曲の演奏にも気迫がこもっており、強く豊かな求心力に貫かれた実に立派な音楽だ。ところどころバルビローリの唸り声も聴こえ、まるで調子の良い時のバーンスタインのようだ。演奏は英国、米国、西ドイツ、チェコと、国際的に活躍したバルビローリならではの多彩な国々のオーケストラで行われているが、2種収録されている《巨人》を比べても、驚く程首尾一貫した解釈が聴かれ、バルビローリはマーラーの音楽を既に手中に収めていたことがわかる。■収録は、1959年から65年に行われたものだが、全てモノラル録音。低音域は厚めで解像度も高く、かなり最上に近い音質。ピツィカートやコルレーニョ、ハープのグリッサンドは明瞭に聴き取れるし、《復活》終楽章中間部や終結部他の“鐘”も鮮明。前述のように、指揮者の唸り声も聴こえる。ただ、一番新しいはずのベルリン・フィルとの《復活》と第9番は、他の録音と比べるとfレンジがやや狭く、肌理の荒いところもあって音質的には少々劣る。しかし、それでも他の録音同様、耳障りな混濁はほとんどない。■本セットは“第1集”とのことで、第2集以降にも大いに期待が持てる。[MEMORIES]面目躍如の好企画と言。

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     2014/11/04

    スヴェトラーノフによるショスタコーヴィチの交響曲のメロディア音源は、ムラヴィンスキーやコンドラシンと比べると、CD時代になってあまり顧みられることがなく、90年代後半にZYXというレーベルから交響曲第5盤、第7番、第9番がまとまって復刻されていたのが、殆ど唯一のまともといえるCD化だった。そのような状況の中、本セットは、久々に出たスヴェトラーノフによるショスタコーヴィチの交響曲音源のディスクであり、交響曲第6番が初CD化、第1番はロシアン・ディスクで出ていたライヴの復刻である。交響曲以外では、《森の歌》はLP時代から激演として知られるライヴ音源で、少し前にVENETSIAからCD化されていたことがある。《祝典序曲》は、交響曲第5盤同様、LP時代、交響曲第9番や《タヒチ・トロット》とc/wでVICTORから何度も再発売された有名な録音だが、ずっとCD化から漏れていた音源。再現部(コーダ)でバンダが採用されていなかったり、バス・ドラムの後打ちのリズムがオミットされていたり(パート譜に誤植がある時期があったようで、同じ箇所でバス・ドラムがすっぽり抜け落ちている録音も多く、ムラヴィンスキーの録音では、1拍目だけが落ちている)、完璧とは言えない演奏だが、前述のような状況もあり、この曲は演奏に刷り込まれている人も多いだろう。ちなみに、タイミング的にはこの演奏は決して最速の演奏ではなく、20〜30秒近く速い演奏も少なくない。■音質は、CD自体が少ないので比べようがないのだが、第5、第7、第9は先のZYXと比べると、90年代後半にはやったCEDERを使ってリマスタリングしたような、全体的に硬めで乾いたメタリックな響きとなっており、テープの音揺れも目立って、音の分離もよくない。現在、メロディアの音源は様々な利権が絡んでモスクワ(オスタンキノ)放送のライヴ音源しか容易にはCD化できなくなっており、その意味では交響曲第5、7、9番他が復刻されたのは朗報ではあるが、一刻も早くきちんとしたレーベル(VENETSIAはかなりグレーゾーンなレーベル)がメロディア音源を良い形でコンスタントに供給してもらいたいものである。

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     2014/08/03

    昨今の激安CD-BOX攻勢の風潮の中、出るものが出たという感じだ。確かに、中には、もう何度も繰り返し再発売されている音源はあるが、録音の古さのせいもあって、コンスタントに流通している音源はごく一部に限られ、生前の評価の高さ(ポスト・フルトヴェングラーといわれたくらい)とは裏腹に、フリッチャイは半ば忘れ去られた指揮者といっても過言ではない。しかし、こうして一人の指揮者の録音が一堂に会すると圧巻。わずか10数年の短い録音活動の間に、ひとつのレーベルにこれだけの音源を残しているのは驚きだ(カラヤンでさえDGには60年代の10年間でCD80枚ほど)。■何枚かのディスクを聴いて驚いたのは、音質の良さだ。マスタリングについては大々的には謳われていないものの、50年代初期のモノラル録音でさえ、コンサート・プレゼンス充分で、音質的な貧弱さを微塵も感じさせない。60年代のモノラル録音だと言われたら、うっかり信じてしまうのではないだろうか。演奏は、今聴いても古さを全く感じさせず、バルトークやベートーヴェン、モーツァルトの演奏にはモダンささえ覚える。今ほとんど聴くことが出来ないブラッハーやエック、アイネム、リーバーマン、ハルトマン、そしてストラヴィンスキーといった、当時の「現代音楽」の演奏も説得力十分。本格派のクラシック音楽を聴きたいという向きは手を出してみる価値のあるセットだと思う。■なお、「80ページのブックレット云々」は間違いで、ブックレットは計108ページ。だが、そのうち70ページ以上はトラックリストで、残りのページも同じ文章が英語・ドイツ語・フランス語で書かれていて、内容も薄く、これに期待していると肩すかしを食う。また、「レア写真云々」というのも疑問で、珍しい写真は片手ほどもない。これは飽くまでも、フリッチャイの演奏・録音自体を愉しむもので(上にも書いた用意、もちろん、それで十分すぎるくらいなのだが)、それ以外の付加価値を求める商品ではないことを添えておきたい。

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     2014/06/08

    テミルカーノフとサンクト・ペテルブルク・フィルが、1990年代半ばに旧RCAに行なった一連の録音をまとめたもの。収録曲は、交響曲、協奏曲、声楽曲と脈絡のないものだが、まずはショスタコーヴィチ入門者が聴くべき作品が、一気に揃うという点で、お買い得の商品だと言える。テミルカーノフは、作曲者の生前から活動しているロシア人指揮者の中で、最もショスタコーヴィチ作品から遠い指揮者で、それだけに、いずれも客観的な目でスコアを眺めた演奏である。やや線は細いが、極めて清潔で現代的な表現であり、無用な表現や誇張は一切ない。とはいえ、ロシアの伝統的な様式感覚が生きており、全体に恰幅が良く、安定感が強い。そういった特徴は、純器楽的な交響曲第1、6、9番でもちろん顕著だが、交響曲第5番を始め、プログラム性の高い交響曲第7番や、叙事詩的な交響曲第13番にもみられる。そのため、演奏の表層面だけしか聴いていない聴き手には、物足りなさだけが不満として残る危険性を孕んでいるが、ソ連邦が崩壊して5年、弱体化したといわれる、このロシアを代表するオーケストラが、これほど質の高いアンサンブルを聴かせるポテンシャルを有していたことを、録音から約20年を経て聴き直して、改めて驚かされた。

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     2013/05/07

    ファーバーマンによる《イリヤ・ムーロメッツ》(UNIKORN音源)は、半ダース以上ある同曲盤の中で、恐らく、今までに最も多く聴かれていた録音だろう。全曲版では、E・ダウンズ盤(CHANDOS)が出るまで、この録音しか入手できない時期が続いたのだ。ファーバーマンはジュリアードで打楽器を学び、ティンパニ協奏曲などの作品がある。その一方で指揮者としても活躍し、ロンドン響とのマーラーの交響曲集(全集ではない)の録音でも知られるが、《イリヤ・ムーロメッツ》も彼の代表盤の一つだ。帝政ロシア末期の1911年に完成、翌12年にモスクワで初演されたこの曲は、リムスキー=コルサコフ、グラズノフ、ボロディン、そしてムソルグスキー(作曲の師であるイッポリトフ=イワーノフ、タネーエフ、アレンスキーを加えてもいい)らの作風を踏まえた、ロシア国民楽派の集大成であるとともに、ラフマニノフ、スクリャービン(ロマン主義時代の)、ミヤスコフスキーへと繋がる、国民学派(スラヴ派)と西欧派共通の哲学的背景を持つ大作である。■ユダヤ系であるファーバーマンと、英帝を代表するロイヤル・フィルによるこの演奏は、この曲のそういった側面を如実に具現化したもので、かつ、膨大なスコア(筆者所有のものは、楽章ごとに4分冊になったもの)をよく整理し、明暗濃淡の起伏を強く結びつけて太い持続感を保持してゆく独自の表現は、極めて充実している。しかし、録音の音場が遠いのと、終楽章クライマックスでのトランペットの(この録音で有名な)ハイCのハズしが盤の価値を下げているのも事実であり、残念ながら星4つという評価を与えなければならないが、この曲を語る上で外せない録音である。

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     2012/10/01

    サンパウロ響の首席指揮者に就任したオールソップが、このオーケストラと録音した最初のCDである。「女流指揮者のプロコフィエフ」「南米のオーケストラのプロコフィエフ」と表面的にも異例ずくめの企画だが、なんといってもナクソス・レーベルには既にT・クチャル指揮による凄い交響曲全集がプロコフィエフにあるにも拘わらず、新しい交響曲全集をスタートさせたという事実も、注目すべきポイントである。本番のプロデューサー兼エンジニア兼編集者のUlrich Schnerderは、Sonyでメータ指揮イスラエル・フィルによるブラームスの交響曲全集の編集や、Teldecでリゲティ・プロジェクトのプロデュースを手がけてきベテランだが、ナクソスでは既にサンパウロ響を引っさげてヴィラ・ロボスの交響曲第6、7番のディスクをリリースしており、この企画も彼の主導のもとに実現したものと思われる。■シュナイダーは、さすがにメジャー・レーベルでキャリアを積んできただけあって、本盤の音を聴くだけではナクソスとは思えないクオリティだ。室内楽的な部分では、木管や金管はコンサート・ホールで聴くよりも(恐らく)接近しているが、温かみがあって見事なバランスの響きである。全てが素晴らしく澄み切って、細部が明瞭であり、サンパウロ響の明晰な演奏に極めて効果的である。■サンパウロ響の演奏は各部の仕上げが見事で、ソロにみずみずしさがある(ソロ・トランペットのヴィブラート!)と同時に、全体の統一感も素晴らしい。「交響曲第5番」は、プロコフィエフの作品全体の中で最も広く親しまれている傑作の一つだけに、これまでにも多くのレコーディングがあり、それらの中でも価値高い名演盤がいくつか既に生まれているが、それらの名盤と比較しても、今回のオールソップ盤の価値は劣るものではない。いや、むしろ、最高に高く評価できるものではないだろうか。続編が非常に楽しみな企画である。

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     2012/09/18

    ディストリビューター(輸入代理店)からの説明が何もないようなので本品について重要な補足を。本品は、以前に同レーベルから発売された、スヴェトラーノフの10枚組CD-BOX「スヴェトラーノフ・エディション第1集」(Brilliant Classics BRL9001)の当該作品と同テイクの分売品(CD1〜3)。ただし、「ボロディンとグラズノフだけ聴きたい人はこれを買え!」とか「価格で3倍する10枚組を買えない人に朗報!」という訳ではなく、ラフマニノフの交響曲第2番もCD2枚に渡るスヴェトラーノフの管弦楽曲自作自演もミヤスコフスキーのも、10枚組で特に重要なスヴェトラ録音を聴くことの出来ない本品に、果たして存在価値があるのかどうか、甚だ疑問である。スヴェトラーノフ・ファン、ソ連音楽ファンなら、当然10枚組を買うべきだ。件名なるユーザー諸君には、「安物買いの銭失い」になることのないよう、是非とも懸命な判断をしていただきたいと思う。ブリリアントもこんなことをしている暇があるなら、早くスヴェトラーノフ録音集第2弾をリリースしてもらいたい。

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     2012/09/18

    ディストリビューター(輸入代理店)からの説明が何もないようなので本品について重要な補足を。本品は、以前に同レーベルから発売された、ロジェストヴェンスキーの10枚組CD-BOX「 ロジェストヴェンスキー・エディション第1集」(Brilliant Classics BRL9019)の当該作品と同テイクの分売品。ただし、「ショスタコだけ聴きたい人はこれを買え!」とか「価格で3倍する10枚組を買えない人に朗報!」という訳ではなく、歌劇《ロトシルドのヴァイオリン》も《8つのイギリスとアメリカの民謡》も交響曲第4番も、10枚組で特に重要なショスタコ録音を聴くことの出来ない本品に、果たして存在価値があるのかどうか、甚だ疑問である。ロジェストヴェンスキーのレニングラード交響曲や交響曲第10番を聴きたいなら断然全集盤を取るべきだし、ましてロジェストヴェンスキー・ファン、ソ連音楽ファンなら、当然10枚組を買うべきだ。件名なるユーザー諸君には、「安物買いの銭失い」になることのないよう、是非とも懸命な判断をしていただきたいと思う。

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     2012/06/27

    本セットの4枚目に入っている《ベルシャザール王の饗宴》と管弦楽曲を集めた録音集は、1990年の夏、私が初めて買ったウォルトンのディスクだった。その頃は学生だったので、気に入ってる範囲内の決まりきった音楽しか聴いていなかったが、アルバイトを始めて可処分所得もそれなりに出来たので、聴く音楽の幅をもっと広げようと思った訳だ。何故ウォルトンだったかというと、これといって明確な理由はない。今更モーツァルトやベートーヴェンを始めても聴くべき録音を一通り揃えるだけで一財産必要だし、在り来たりのライブラリしか構築できない。まして、それらの音楽を極めることなど不可能。その時ハマっていた音楽は、広く知られていない音楽だったが、いずれも素晴らしいものばかりだった。そこで、そういう音楽を発掘する事の方が楽しそうだったので、とにかく他人(ひと)の聴いていない音楽を、ということで、探し始めただけだった。マイナー作曲家に関して情報も知識も乏しい中、あのタイミングで、しかもあのディスクからウォルトンの音楽に出会えたのは幸運だった。当時、CHANDOSで「ウォルトン全集」が始まったばかりで、次々にウォルトンの音楽の世界を広げることが出来たし、すぐに93年のウォルトン没後10年も射程に入り、過去の名録音も次々に復刻されて(EMIが”British Composers”シリーズを始めたのもその頃)、比較的容易にウォルトンの一大録音ライブラリを構築することができた。例えば、本セットの1枚目に入っているサージェント指揮の交響曲第1番は89年に、5枚目に入っているオペラ《トロイラスとクレシダ》(交響組曲しか聴いたことのない人も多いのでは?)のウォルトン自演盤は92年に初CD化されたが、あの時期にウォルトンの録音を集め始めなければ、ずっとLPで聴くハメになっていた。■本セットは、近年ウォルトンを聴き始めた人にとっては、ウォルトン作品の貴重な録音を一気に聴けるまたとないチャンスとなるだろう。協奏曲集は、もっと他の録音を持ってこれなかったのかと思うが(例えばトルトゥリエのチェロ協奏曲や、今となっては珍しい《シンフォニア・コンチェルタンテ》改訂版など)、ナイジェル・ケネディのこの録音も、単独では入手し難いディスクになってしまった・・・。そういえば、今年はウォルトン生誕110周年なんだなぁ。。。

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     2012/05/27

    ヤルヴィのエーテボリ響との録音は、(ロイヤル)スコティッシュ・ナショナル管のものと比べると、どこか”毒気”が抜かれてる感じがして、「サビ抜き」の寿司を食べているような物足りなさがある。そういう意味では、チャイコフスキーやボロディンの交響曲の録音がスコットランドのオーケストラと残されなかったのは残念で仕方がないが、ショスタコーヴィチの交響曲全集がそのオーケストラと完遂されなかったことはもっと悔やまれる。スウェーデンとスコットランドのオーケストラを振り分けて「全集」が完成したことで、聴き手に、二つのオーケストラとの演奏レベルの違いが如実に突きつけられてしまったからだ。この交響曲第11番も例外ではない(皮肉なことに、副題となっている「1905年」は、正にエーテボリ響が設立されたその年に当たる)。■ヤルヴィの解釈は、速めのテンポで、フレーズの切れ目に「間」をおかず、何の抵抗感もなくスイスイと音楽が進行していく。第2楽章など、17分台前半と、コンドラシンやムラヴィンスキーの初演盤より速いタイムをたたき出しているくらいだ。テクスチャの扱いも、余計な小細工なしに次々とこなしていくのはいつものヤルヴィ調といえるし、速め(というか、ムラヴィンスキー、コンドラシンに次ぐ最速テンポなのだが)のテンポがアダとなって細部がおろそかになっていないのは流石と言える。オーケストラのアンサンブルにも破綻はみられない。■しかし、北欧のオーケストラのくすんだ響きがショスタコーヴィチに相応しいかというと、人によって認識は大きく違ってくるだろう(「サビ抜き」の寿司を肯定できるか否か)。しかし、それは、第2、3番や第12〜15番なといった、ヤルヴィがエーテボリ響と組んだ他の交響曲録音にも言えることだが、「(演奏に)ロシア的な激しさがなく物足りない」などという低レベルでの話ではない。やはり、エーテボリ響の演奏には、ショスタコーヴィチ演奏に不可欠な要素が何か欠けているようにしか思えない。それが何なのか、そんなものが本当にあるのかは、この録音を聴いた者に各々感じ取ってもらいたい。■最後に一言付け加えれば、ビシュコフ/ベルリン・フィルの同曲録音が好きな人には、この録音は大歓迎で迎えられるかもしれない。

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