トップ > My ページ > ひのき饅頭 さんのレビュー一覧

ひのき饅頭 さんのレビュー一覧 

検索結果:46件中16件から30件まで表示

%%header%%

%%message%%

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/07/28

    弦楽四重奏の団体がテクニックがあるかどうか、簡単に見分ける方法があります(特に若手の団体)。リゲティの弦楽四重奏曲を録音しているかどうか。リゲティはピアノでも20世紀最強の練習曲集を書いたが、彼の弦楽四重奏曲は、まるで弦楽四重奏団のためのエチュードのようにも聴こえます。弾くためには相当なテクニックが必要で、並みのグループでは歯が立ちません。この曲集を録音できるということは、相当に技術的自信があるということです。例えば弦楽四重奏曲の最高峰ベートーヴェンの後期作品(大フーガは別ですが)は、技術的にムラがあっても、音楽になるものです。でもリゲティは駄目です。技術的なムラがあれば音楽になりません。これは一つの指標になります。ところで、批評家が良く使う「この団体にこの曲はまだ速いのではないか?」という言節。これは嘘です。弦楽四重奏団はメンバーが入れ替わります。その度に傾向が変わったり、メンバーが固定していても、急に良くなったり、逆に悪くなったり、その変遷はいろいろです。さて、この曲の定盤としてアルディッティの録音はあまりにも有名です。アルディッティはリゲティは何種類か聴くことができます。どの録音も完成度の高さに驚かされます。しかしそれぞれ表現のコンセプトは明らかに違っています。奏者が違うのでそれは当然です。このくらい高度な曲になると、奏者の違いや関係性の在り方が音に出てくるものです。それが奇麗事でない音から立ち上ってくる。室内楽とは本当に面白いと思います。この団体は時代によって演奏スタイルがかなり変遷しています。それは決して恣意的なものではなく、時代の変化に合っているところに感心させられます。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/07/17

    録音で聴かれるベートーヴェンの弦楽四重奏曲。ズスケQ、バルヒェットQ、ハンガリアQなど素晴らしい演奏が結構多いのだが、問題がある。「大フーガ」だ。技術的に大変、最後の解決に到達する前に演奏が崩壊し、それこそ何をやっているのかわからなくなる。形式を自ら破壊しつつその断片から再構築するという、とんでもない西洋音楽史上屈指の傑作は、あらゆる演奏団体を拒絶し続けてきた。録音史上初めて最後の解決に到達できた記念碑的録音が@ラサールQの演奏だった。圧倒的なチェロが崩れ落ちる3本の線のセーフティーネットとして機能した本当に素晴らしい録音に世界が驚いた。次に大フーガを成功させたのがAアルバンベルグQ(スタジオ録音が良い。ライブのほうは駄目)。内声が強烈無比な求心力を発揮し、4本の線がかろうじてだが最後まで走り抜けてみせた見事なもので、ベートヴェンの後期作品はヴィオラが強力でなければ物足らないことを納得させ、世界が拍手喝采、彼らの名は演奏史に残ることになる。そしてBメロスQ、4本の線が1つの楽器のように鳴る領域に始めて到達した団体で「破壊と再構築」を初めて音として表現することに成功し、世界の度肝を抜いた。そしてベートーヴェンの書いた音を最高最強の技術で全て解き明かしてみせたCアルディッティQ。このあたりがやはり圧倒的に凄い。その後若手で大フーガを弾く団体は増えたが、ラサールやアルバンベルグのような気迫、メロスの超絶的な高み、アルディッティの冷徹なまでに的確な視点と技術には到底及ばない。「構造」と「様式」の視点が抜け落ちている上っ面だけ巧い空虚な団体では駄目なのだ。現在はメロスが廃盤になり(コレと比較される団体はたまったもんじゃないだろうし)、そんな状況で、現在最強のベートヴェンを聴かせてくれたのがDアウリンQだった。抜群の録音と演奏技術、さらに驚くほど音楽に対する要求度が高いこの団体。これほどの技術があればバリバリ弾くことも可能なのだが、実はある程度音を出す奏法は以外と簡単だそうで、本当に難しいのは、音量を押さえ、その中で微細で陰影の深い表現を諧調的に重ねる行為。さらにアウリンは構造のために和声を解体することも厭わない。それでいて「大フーガ」を明るく、鮮明に弾ききっている。メロスQ以来、久しぶりに音楽的に機能したベートヴェン後期を聴かせてくれる現在最高の団体だろう。いずれにせよ「大フーガ」は別格の存在で、基準を満たせた演奏は、私はこの5つしか知らない。

    6人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/07/17

    (※このレビューはSACD版のものです)SACDはハイブリッド仕様のものが多い。以前から思っていたのだが、どうしてSACDの層とCDの層に同じものを収録するのか?別のものが収録できる利点をどうして生かさないのか?正直不思議でした。そこでこのTACETの企画。当然弦楽三重奏のゴルドベルグ変奏曲が収録されているのだが、SACD層には繰り返しを行ったバージョン。CD層には繰り返しをしないバージョンが収録されている。「リピート」の問題、これは多くのバッハ演奏、ベートーヴェンの悲愴ソナタやショパンの作品35のソナタの第1楽章などで常に議論の対象で、これらの作品で「リピート」の問題に無自覚な演奏は本当に勘弁して欲しい。このSACDはハイブリッドの利点を生かし、楽曲において「リピート」とは何か?それはどのような効果を持ち、どのような問題を孕むのか?を刺激成分の極めて少ない最強録音と最上の演奏で聴かせてくれる。このSACDは途轍もなく音が良い。CD層のクオリティでも普通のメーカーのSACDが裸足で逃げ出す抜群の音質。これほど音が良く、かつ自然な収録だと、僅かな迷いや縺れすら明晰に収録されてしまう。いわゆる有名なプロレベル程度ではボロが出てしまい、とても持たない。このトリオのリーダーは元ウィーンフィルのコンマスだそうだが(資料による)、10回聴きに行っても基本10回ともコケるウィーンフィルが、ときどき途轍もない絶美の凄絶演奏をするのは、彼のような本物の名手がときどき潜んでいるためだろうか?演奏の質も音色、解釈、技術、視点、全てにおいて他の有名盤を遥かに引き離し、その音楽的な充実には恐るべきものがある。「リピート」の問題に悩んでいる人はSACD層とCD層を比較して、良く勉強して欲しい。どちらの層も音楽的に解決しているのだが、同じ演奏でリピートを扱いを変えると何が変わるのか、これは本当に面白い。厳しいことを書くが「リピート」の問題に躓いたことのある人でなければ、このSACD版の本当の面白さはわかりにくいと思います。申し訳ないが、本当に音楽的に凄い演奏は聴く人をどうしても選んでしまいます。ストロープやアンゲロプロスの映画のようなものだと考えてください。わかる人は強烈に熱狂しつつ心奪われますが、わからなければこれほど退屈なものはありません。迷うくらいなら購入は控えて、まず他の録音を購入してみてください。本当に自分に必要と思えたときにのみ購入してください。内容は絶対に裏切りません。この形式で最高の演奏です。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/07/14

    ピアノは同じ鍵盤を叩いても、使用する指で音色が違ってくる。当たり前だ。親指には親指の、人差し指には人差し指の、5本の指にはそれぞれの歌がある。当然整備されたアコースティックなピアノでなければわからないし、「構造」を聴き取れない人にコレを理解しろといっても無理です。それは申し訳ない。「構造」を聴き取るかどうか判別することは簡単で、構造の和音をアルペジオでばらされた場合、「構造」を自然に聴けている人は強烈な違和感(怒る人もいるけど)を感じます(こういう人が「構造」を踏みにじる演奏を聴き続けることはまず無理です。つまりそうゆう演奏家が聴けるということは「構造」がわからないということなのです。申し訳ない。何を推薦するか、何を嫌うかで、その人が何を聴いているか簡単に見抜かれてしまいます。そこがレビューの怖いところです)。ところでピアノを弾き始めの人に、この「構造」が分かる人はほとんどいない。キチンとした先生について正しい基本練習を行えば、簡単に身に付きます。独学では駄目です。特に文化的蓄積が重要なものほど独学の駄目さが明確にわかります。必ず習う必要があります。運指が聴き取れないということは、基本練習が全くできてないか、もしくは間違えているかの告白にすぎません。さてショパンの彼自身が指定した運指は、驚異的なまでに構造とシンクロします。「指定された指を使う意味」を理解したければ、やはり構造にシンクロする指使いを聴かせてくれる奏者で聴きたい(長い前フリで申し訳ない(笑))。ツィメルマンとカツァリスは特にお薦めで、ツィメルマンは「理に適った最良の運指」の凄さ。カツァリスは同じ曲でも必ず毎シーズン運指のレベルから変更する。その面白さを教えてくれる。特にツィメルマンのこの頃の録音は、優秀な録音と絶好調のピアノに支えられて、1つの指針として良く語られるドラムのスティックの形状がわかる程度の再生装置(アンプは10万も出せば十分)を使えば、どの指を使用したか、良くわかります。当然「構造」と「音色」から推理する部分もありますが、ツィメルマンクラスの「構造」を明確にするタイプほど、「音」と「構造の論理」から、この指以外に在り得ないと、すぐにわかりますし、基本練習さえ普通にできていると、意識せずに簡単に聴き取れるものです。ツィメルマンの本当の凄さは、自分のレベルが上がると、さらにその凄さの上が見えてくるところ。本当にレベルの高い演奏家は、自分の成長に合わせて一生付き合える。そう思う(決して超えられない圧倒的な存在として畏怖すら覚えるけど)。さらに「バラード」は、いろいろな意味で一生付き合える、真の意味で傑作です。このような曲こそ、本当の意味でレベルの高い演奏家で聴くことを薦めます。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/07/11

    「詩人の恋」の録音は、ディースカウ+エッシェンバッハの演奏と、どうしても比較されてしまう(仕方がないけど)。声が建前、伴奏が本音の世界で、全体の構成を見通した伴奏の、見事な構成と展開が、ディースカウの演劇性抜群(この点は私の好みではない)の歌唱の魅力を最高度に引き立てており、圧倒的にレベルの高い録音だった。そのような状況下で、ボストリッジ+ドレイクの録音には驚かされた。揺れ動く、純粋で敬虔ささえ感じられるシューマンの憧憬、「結晶化」という固形化され視覚化される方向性を示唆する語群が鈍感かと思われるような、それよりは繊細な「触知」と呼ばれる、言語化の困難さを示唆する語群こそ適切かと思われるような、その微妙な領域を音に還元する恐るべき伴奏。全く抜群に素晴らしい伴奏だった。そして今回フィンリーとの「詩人の恋」。この伴奏がまた凄い。ボストリッジとは調性が違うし、声の質も異なる。ドレイクはまず歌手の声をベースに楽曲の和音のバランスをコントロール、その強度までも調節し、最善の音環境を提供してくる。そうして作り出せる音域で何が表現可能で不可能かを明確に判断し、表現を組み立てていく。それでいて完璧に相手軸で適応し、伴奏の条件を十全に満たし、世界までも創造する。しかもそれは「声」が主役として十全に機能する世界。このようなことが可能なピアニストは現在いない。さらに今回の録音では、恋をすることの畏れ、揺らぎ、迷いといった「不安の概念」かと思われるような不安定な領域を、この曲集から引き出していることに驚く。成熟の年齢に到った詩人の恋と呼ぶにふさわしい表現。この曲集からここまで「不安の概念」を引き出した演奏は無かった。それにしても若いフィンリーの歌にここまでの陰影を与えるとは、全く脱帽である。人を恋する怖さに慄き、かつ恋の素晴らしさも狡さも醜さも経験して、自らの存在に苦悩したことのある人は、この録音から強烈な衝撃を受けるかもしれない。このような録音こそが「古典」としての音楽の真骨頂だと思える。しかもそのような表現を、音の状況に最善な構造をさりげなく鳴らすことで実現しているのだから、これは途轍もない力量だ。もしこの録音が気に入ったなら、このコンビのサニュエル・バーバーの歌曲集も素晴らしいので、興味ある人は是非聴いてほしい。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/06/06

    ソナタの2番はバラードよりも雄弁。特にその終楽章は感動的で、その暗示的で黙示録的な内容の深さには圧倒される。最後の1音が鳴り終えたときに受ける感動は、偉大な長編文学を読みきったあとの、あのズシリとくる重さに例えても構わないだろう。しかし「それほどの作品のように思えない」という人は多い。答えは簡単。良い演奏を聴いてないだけだ。現実良い演奏は驚くほど少ない。ショパンの作品の中でも、ソナタ2番は最も表現が難しいものの筆頭で、当然良い演奏は滅多に出ない。この曲の重要ポイントは2つ。@冒頭のDesの音をどう響かせるか。A終楽章をどう演奏するか。これに尽きる。特に@。この冒頭のDesが確定しなければ、終楽章の短3度の分解方法も決まらないし、ましてや3楽章を聴かせることなど不可能だ。しかしこの2つの課題をクリアすることは本当に困難を極める。あのツィメルマンは2010のツアーでソナタ2番を取り上げているが、彼が要求しているだろうレベルに到達できていないようだった。構造に敏感な人は気づいているだろう。ツィメルマンのレベルを持ってしても、あの方法では終楽章に問題を残してしまい、そのため2番の演奏後、彼は私の聴いた全ての演奏会で毎回苦悩している(彼は一度Graveまで戻る演奏も試してみるべきだと思うのだが、どうだろうか?)。といっても、相当に高いレベルの演奏だったことには間違いない。さてラツィックの演奏だが、抜群のテクニックに支えられた表層の処理は、歴代でも最強のレベルだが、それ以上に凄いのが、短3度の処理。短3度の効果を最大限に引きずり出すための、やりすぎとも聴こえかねない表層の処理。しかしそれらは皮膚感覚とか印象・雰囲気などといった感覚的なものとは次元が全く異なる、極めて構造的な論理に支えられたものだ。3楽章と終楽章が特に見事(ただし、ツィメルマンが注視していた問題とは全く違うの視点からのアプローチです)。ところで現在発売されている録音のほとんどは「終楽章は音符をなぞるだけで終わり」という己の無知と分析能力の無さにふんぞり返り、この作品が有する構成の面白さ、斬新さを打ち壊す演奏が多く、それでこの傑作の音楽的な感動を味わおうなどと、全く不可能で不可解な話です。有名曲ほど本当に良い演奏を選んで欲しい。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/05/16

    パルティータとは、当時のハープシコード(チェンバロ)の性能を限界まで引き出すことを目的として作曲されている。楽器の選択も重要で、パープシコードの録音ならミヒャエル・ミートケの楽器を使用したレオンハルトの2回目の録音(実際に1719年にバッハが注文したモデルのレプリカ(笑)オタクだねえ)か、平均律に調律していない(そのため発売当時叩かれたけど)スコット・ロスが面白い。レオンハルトは、例えば組曲では常識的にクーラントからサラバントに続く慣習に合わせ、第4番のアリアとサラバントの順番を逆にしたり、舞曲の反復を省略し(その事実を知った学者は一斉に反発した)たが、それは簡潔で深いバッハの世界を表出した現代バッハ解釈の最高峰ともいうべき驚異的な完成度を持つ演奏だった(発売後、音源聴いた学者が一斉に沈黙したのは面白かった。:権威主義に弱い一部日本の評論家だけが発売後も批判していたけど)。ロスはその独特なリズム感と、平均律では得られない和音の見事な陰影。古風なバッハの拍子記号をどう解釈するかという問題は残ったが、舞曲のリズムが明確に聴き取れる解釈は面白かった。ジーグを高速で飛ばしまくるが(1番)、「和声進行が意識されて弾きわけられているので、音楽が不安定に揺れ動くことがない」。パルティータの最大の特徴が「和声進行」だ(できてない演奏は、音楽が不安定に揺らぐため、一聴でわかる。プロならばその程度の技量の無い奏者は弾くべきではない。それは音楽を貶める行為であり、論外だ)。この意識の高い演奏を前にして、方向性で唯一ピアノで比肩できるのがフェルツマン。バッハの音楽をピアノで弾く場合、運指とフレーズがシンクロすることの重要性を知る人達から圧倒的な支持を集める彼。現代ピアノの構造と性質を熟知し、楽器と楽曲の最良の接点を求めるために楽譜を改編するその実験的精神。それが未聴の音世界につながる凄さ(ただし方向性で語れても、楽器自体が異なるためレオンハルトと同列には語れないと思う)。それまでの演奏も十分に凄かったのだが、カメラータで発売されるようになり、その完成度が過去の演奏を明らかに凌駕していることに、全く驚きを禁じえない。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/05/15

    もしかして私は許先生と同じ会場で聴いていたのかも知れない。私は原則@キチンとピアノが弾けていること。A音楽家の方法論コンセプトが可聴であること。B構造・様式が考慮されていること。この3つがクリアできていれば「最高」を出す。聴くに堪えず、最後まで聴けなかったものは全くレビューしていない。酷い演奏を何故酷いかを考える分には有益だが、それでも限度というものがあるだろう。あちこちでリクエストされても(まあ挑発とも言うけど(笑))聴けないものは書けない。まあ事実を指摘してしまう私が悪いのだ。このスケルツォ。実によく弾けている。細部まで注意深く打鍵され、見事。商品として立派。自分の基準では「最高」で良かった。しかし私は、特に90年代に入ってからのポゴレリチの録音には「良い演奏だが、果たして良い音楽だったのか?手放しで容認できない何かが憑き纏う(笑)」と強く感じていた。@に関しては文句はない。しかし構造と様式がメタメタで、この曲集最大の魅力「素材が侵食される過程」すら犠牲にして、細部が解体されまくる。鋭敏な聴き手なら、フレーズが引き裂かれていく過程に戦慄すら覚えるだろう。個々の音のリアリティが、曲の形を粉砕する。私が「ポゴレリチに何が起こっているのか?」と当惑していたのがこの時期の録音で(コレまでのレビューからそれは明らかですが念のため)「ここまで音と音との関係性に執着して、全体が解体しているなら、何故機能を停止しようとしている曲のフォルムの、その体裁を整えなければならないのか?」「コレを手放しで賞賛することは変だ」という疑問。これ以上解体が進み、それでも「体裁」に執着するなら、それは駄目だろうと考えていた。「次」の録音は出なかったけど。最近のコンサートでの彼は、その「体裁」を何の躊躇もなく捨てている。最近の彼がやっていることは、彼が主張する「練習という行為」と実質変わらない。ポゴレリチの講義を聴いたことのある人ならわかるはずだ。彼は発言を実行しているだけなのだ。構造や様式を持つ音楽の約束事すら超えて、ひたすら音を聴かせる行為。音が示すものはその次の音、その関係性で音楽は見直される。まるでウェーベルン(笑)。しかし、この録音に聴かれる速度では、細部において、ポゴレリチの方法論には速すぎ、そこまでやるならもっと遅く弾くべきだと思っていた私にとって、最近のポゴレリチのコンサートは全て大喜びの対象で、私は会場で大いに満足している。ここまで細心の注意を払い個々の音のリアリティを追求し、結果曲は解体するが、隣接する音同士の関係性は強烈に刻印される。こんな演奏は他では聴けない。このスケルツォ集は現在のポゴレリチの予告編として、最も腑に落ちる一枚だ。ただしこの録音を手放しで賞賛することは、変だ。この録音の本当の凄さとは現在のポゴレリチを聴かなければ理解できる性質のモノではない。現在のポゴレリチの演奏はこの録音なぞ蹴散らすほど強烈だ。新録を希望する。難しいとは思うけど。:手放しではないので今回は評価を戻しておきます(笑)。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/05/08

    ショパンの死の直後、彼の作品は「不道徳で不謹慎で猥雑なもの」として、演奏の世界から締め出しを食らった。当時音楽は調和と均衡が尊ばれる傾向が強かった。協和音程は神の秩序であり、不協和音程は魔のささやきであった。ショパンはその創作において、例えば長3度→短3度→2度のような、調和された音世界に影を落す音進行や、響きの上に響きを重ねるペダル指定など、世界が不安定に揺らぐかのような音の領域を使用したが、これは当時の人々には違和感として響いたはずだ(これがドビュッシーのように協和音と不協和音を別々の領域に配置したら、また違ったと思う)。協和(神の秩序)が不協和(魔の存在)に侵食されるかのような音世界は、神学の思想がベースになる文化域では敬遠されて当然だ。しかし排除するにはショパンの和声の世界は魅力的すぎた。そこで演奏家はショパンの表層の和声と雰囲気を抽出し、短3度の効果を最大限に引き出すかのようなフレーズ構造を、運指のレベルから曖昧にしてしまい「魔」を抜いてしまった。結果キリスト教的文化圏で喜ばれ、ショパンは受容されていく。こうして近代ショパン演奏は広がっていく。だがそれは音楽としては決して最上級とは言えない。大衆消費社会と近代の演奏家が作り上げた「現代ピアノによる記憶装置としてのショパン解釈」とはそうゆうことだ(ちなみにこの説明は、多少の付け加えはあるが、お年寄り用の通信販売を扱う本の「ショパン特集」にも出てる程度の知識なので、一応お断りを付け加えておく)。さて、シャプランは響きの領域の曖昧な部分に、高い感覚を持つ奏者だ。前回の彼のノクターン録音ではスタインウェイが使われた。音域によって音を使い分けたい場合は最高の楽器だが(彼のドビュッシーはスタインウェイの能力をフルに引き出して初めて可能になる物凄いものだった)、ショパンの開拓した音の領域は、音域の違いを意識したものとは方向が違う。響きの均質さに重点を置いた場合、今回彼がヤマハを選択したのは方向として正しいと思う。曲に元々備わっているはずの、響きの本来の領域を試行錯誤する傾向がある人にとってシャプランは最高のピアニストだろうし、事実響きが好きな人々から支持を集めている。ちなみにそのような多少特化した録音は「採算が取れれば良い」でしか基本作っていない。だからすぐに入手困難になるのかも(笑)。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/05/06

    最新の研究の成果、独自の解釈の提示、優れた技巧の誇示など。バッハの無伴奏の録音は、何故か皆何かに憑り付かれたかのように武装する。クレーメルは変奏曲の究極の解釈を聴かせ、見事に解決するが、外側に向けて硬い。ミルシテインは気高く技術的完成度も、気品に溢れた表層も好ましいのだが、その表層が作るある種の距離感が気になる。シェムスキーの威厳さえ感じさせる音楽へのまなざしは凄いが、バッハの音楽とはそれほど外側へ圧力が掛かってしまうモノなのだろうか?美音と音色で様式を侵食するだけの演奏とか、これは凄いのだと力説する演奏、物語を演出する演奏、新興宗教も真っ青な演奏などは当然論外だが、この曲集に取り組むと、普通は外側へ向けて武装してしまう。さて、おそらくワイマンと呼ぶのが正しいのだろうが、最初ヴァイマンと読んでしまったこの奏者(ヤクマンでないところが丁度良い(笑))。与えられた楽器の性能と自分の技術を適切に把握し、楽譜を読み、一つ一つの音のエッジ処理を丁寧に行う。一つ一つそこにある音を丁寧に拾い上げて行く姿勢。当然ベース音とそれ以外は弾き分けられているが、基本的に出された音は、皆等しく扱われ、過剰な表情付けは排されている。音は確かに振舞って入るのだが、何故か外側へとは向かってこない。最近流行の、マイクを近づけて、奏者の呼吸音を拾うセッティングではなく、少し距離をとり、ヴァイオリンの響きを十分に拾い上げる録音が丁度良い。音は美しいが、金属的な美音では無く、適切な大きさの木の箱がなる節度ある美しさが丁度良い。最後の終止の瞬間、ふと世界が完結したかのように見えて、すぐに空へと昇華する。その音の振舞いが丁度良い。前に出るベクトルなど存在しないかのように音を紡ぐ行為。この演奏には「ベクトル」という概念は見当違いで「振舞う」という言葉がふさわしいようにも思える。「心地良い」でも無く「最高に良い」でも無い。この「丁度良い」バッハを私は最上級に評価したい。さすが「DUX」レーベル。しかしこのレーベルは基本「入手困難」です。この点はさすがに丁度良いとは言い難い(笑)。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 9人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/05/03

    現在最もリファレンスな練習曲集。打鍵の精密さのレベルは高く、細部のニュアンスの表出する技術まで考慮に入れると、20世紀に録音されたものとして文句無く最高です。メカニック的な精密さを優先し、結果ニュアンスが硬くなるような運指を一切やっていなし、強い打鍵のあとリズムの安定度も抜群。全ての曲がムラなく弾けている。録音が良いのは、ジュジアーノやロルティのように正しい練習法(コレは運指を確認すれば分かります。特にショパン、ベートーヴェン、ピアノで弾いた場合のバッハは、フレーズと指がシンクロしますので、あるレベルでピアノが弾けて、フレーズが聴き取れる人なら運指を聴き取ることができます)を行っているため、楽に弾けるのだろう。編集がほとんど無いため音質が劣化していない。ヤブウォンスキの録音での解釈の白眉は「休符」(例えば10−3の54小節目)。初めて聴いたときには本当に驚いた。さらにフレーズとシンクロするショパンオリジナルの運指の圧倒的な凄さを生かしたエキエル版の最高の美質が、最高レベルで音に還元されている。ヤブウォンスキのピアニズムは基本的に厳しい。美しいが渋く抑制された美しさだ。安易に表層の美に溺れず、構造と音の意味をひたすら紡いでおり、ショパンを演奏する一つのスタイルとして見事なものだ。このエキエル版エディションの録音は発売当時楽譜を扱う楽器の専門店で入手可能だったが、これらの録音は弾く人のための専門の録音であり、極めて特殊なものです。それを踏まえて購入すべきです。このエキエル版エディションのなかでもヤブウォンスキとシヴィタワの録音は特に凄いものですが、情報量が桁外れに多いので、基本的に聴きこみが必要です。失礼な発言で申し訳ないが、このレベルになると、聴くほうにもある程度のトレーニングが必要になるものです。

    9人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 8人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/05/01

    この演奏の本当の凄さ。ショパンはその指使いで曲のフレーズを厳密に指定しているが、それを当時の知見で可能な限り再現している点にあります(だからこれほどの精錬の極みのような演奏が可能)。エチュードの正しい楽譜には、その弾き方、練習法に到るまで、全て表現されてあります。これは現在ならフランス版初版とエキエル版を読み込んでもらえばより詳しくわかります(ショパンが残した言葉も参考にしてください)。この録音は作品10が特に凄いが、作品10はショパンの書き込みが多く残っている。一方そうでない曲は最高に出来の良い曲に比べるともう一つ。何故か一致している(笑)。このフレーズ構造にシンクロするショパンの運指が分かる人が「ショパンの指定した練習法」を守れば、エチュードは想像されるよりずっと楽に弾けるようになります。ただし巷に溢れる録音は、ショパンのフレーズ構造を無視した、練習を中断するとすぐに弾けなくなるような運指(いわゆるフレーズがメタメタのデタラメ演奏:ある意味凄いけど)のものが多く、ちなみにエチュードは「ショパンの指定した練習法」を無視した場合、殺人的に難易度が上がります。フレーズ構造を無視し、自分の弾きやすさを優先した運指で、音楽的にはデタラメな録音を、私は評価しません。残念な現実ですが、そのようなデタラメ録音を本気で良いと思っている間は、エチュードは困難を極める難曲のままです(ポリーニの録音は聞き疲れすることで有名ですが、これは編集過多のため1/fの揺らぎがぶっ飛んでしまったためです。それほど難しくなるということか)。フレーズ構造の正しい演奏は、比較的簡単に弾けるため、技術的にも凄くなり、編集も最小限で音も当然良くなります。エキエル版が出版されている現在、もしロルティが再録したなら、もっと凄い演奏になることが予想されます。

    8人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/04/28

    ショパンが創作不能に陥る前の、その前人未踏の音世界に、崩落の予兆が不気味に黙示する、実に危うい時期の「後期」作品集。20世紀には、ショパンにまとわりつく「甘さ」や「雰囲気」を徹底的に廃し、遅いテンポで、無骨なまでの音の構築で勝負したピーター・ケイティンの決定的ともいえる名録音があった。私個人として、これほど真摯で、音の構築のみで勝負したショパンが今後出現するだろうか?と思っていたのだが、さすがハフは凄かった。ハフの右手と左手の技巧はかなり違う。そのため、他のバランスの取れたモダニズム的な超絶技巧とは異なる、まるで2つの超絶技巧的な意志が絡み合う、このピアニスト以外には不可能な他の誰とも異なる音世界を聴くことができる。様式への冷徹なまでの眼差し、過去カツァリス以外では聴くことが難しかったズレの領域まで精密にコントロールされた恐るべき技術の高さ、さらにショパンを「聴かせる」というスタンスとは異なる作曲家の視点で「構造を鳴らす」というハフ独特のピアニズム。さらにはハフ以外では絶対に聴けない独特の時間感覚。すべてが前人未到の領域に足を踏み入れているとして過言では無い。今、音楽はモダニズムから離れて「本質を模索する時代」に入り始めているように思う。20世紀後半から21世紀最初の10年に顕著だった、音楽が持つ様々な特徴を、物欲に導かれるかの如く響かせる時代は終わろうとしてることは間違いないと思う。音楽も時代とシンクロしていることは当然のことだ。「モダニズム」も当初「モダニズム」とは何かを模索したように、「本質」とは何か、それを模索する音楽は今後増えていくだろう。ハフは現在その最先端を行く音楽家に間違いない。「ショパンとは何か?何がショパンなのか?」それを見極め、問いかけようとする現在最も先鋭的な解答の一つ。これは本当に凄い。

    10人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/04/18

    音楽の嗜好とは極めて個人的なものです。ショパンコンクールで優勝しなかった3人のピアニスト、ケナー、スルタノフ、ジュジアーノ。彼らは歴代のピアニストと比較しても極めて傑出した技量を持っているが、彼らが優勝しなかった理由は聴いてみればわかる。当然のことだがコンクールは「基準に基づいて順位」をつける場で、「音楽性」を争う場ではない。「基準」とは審査員の好みの問題であって、彼らのように「審査員の好み」を考慮しないような演奏では優勝できるわけがない。彼ら3人全員が1位なしの2位だったことは「あなた方の技量は最高だが、このコンクールの好みではない」ということだ。その中で、最も外側に対して妥協しないのがケヴィン・ケナーだ。その実力の物凄さは、あのポーランドの超頑固レーベルが、米国人のショパンの音源をわざわざ買い取って自国で発売していることからもわかる(自国の文化に誇りを持つ文化圏においてコレがどれほどモノ凄いことか)。このアルバムは「スケルツォとその周辺」のコンセプトで、その選曲に到るまで、このピアニストの妥協を排する厳しいまでの姿勢が伺える。ただし「ショパンとはこうあるべきだ」と考える人は他を聴くべきだ。彼の弾くショパンは、ショパンをベースにした音楽の探求という行為で、「ショパン」が主役では無い。「音楽」が主役だ(その結果独自のスケルツォに仕上がっているのは面白い)。曲の和声とか前提を一度リセットできて、出される音をひたすら論理的に追跡できる人(簡単に言うと偶像の学説から自由な人(笑))にとって、ケナーは「音」を聴く喜びを教えてくれる最高のピアニストです。でも「自分にとって最高」というピアニストが既にいる方はそちらのほうを聴くべきです。あまりにも独特なために判断が分かれるピアニストです(結局ショパンコンクールでもそうだった)。輸入盤は入手が極めて難しいので、国内盤での購入を勧めます。繰り返します。「音楽の嗜好とは極めて個人的なものです」

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/04/13

    シュタイアーは「聴かせる」音楽をする。それは聴衆を意識した音楽。アピールする音楽。そのような音楽を演奏させれば、シュタイアーは最高の奏者だろう。それは前に出て行くベクトルであり、それは大衆消費社会の要素と不思議に適合するベクトルだ。正直シュタイアーのフォルテピアノは、まるで大衆消費社会の申し子のようにも聴こえるが(だから彼のモーツァルトは素晴らしい(笑))、シュタイアーは演奏を披露するプロとして賢明だし正解だと思う。彼は存分に楽器を鳴らすが、楽器の性能が表現を枠の中に収め、その枠の中で存分に自由で、弾きすぎを感じさせない。これが現代ピアノ使用だったなら、多分私はひっくり返っていたと思う(笑)。現代ピアノの豊かな響きが、どれほど繊細な表情をわかりにくくしているか、シュタイアーの演奏は参考になる。本音を言うと私の好みとは多少ズレるのだが、これほどの演奏を自分の好みと関心だけで評価しないということは変だ。演奏者の方法論が作品の魅力に光を当てる場合。「好み」という地域と周辺の問題を超えて、喜んでこの演奏を推薦したい。特にシュタイアーの演奏は、大衆消費社会的なベクトルと楽器と音楽がバランスをとった実に見事な例だ。音楽とは本当に面白い。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

検索結果:46件中16件から30件まで表示