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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/06/18

    オペラにおける演出の重要性を今更ながら痛感させられる、目覚ましいプロダクション。『仮面舞踏会』はCDもDVDも持っていたが、私にとってあまり興味を惹かれるオペラではなかった。ちょっと面白い作品かもと認識を改めさせられたのはメト2012年のデイヴィッド・オールデン演出だったが、これはそれを遥かに凌ぐ出来。前奏曲の間に夢の中でリッカルドがウルリカからピストルを手渡され、それを頭に当てる様をパントマイムで見せる。つまり、彼が危険な不倫にのめり込み、暗殺の警告を再三、無視するのは死に対するオブセッションのせいというわけ。これだけで、下手をすれば能天気な色ボケおじさんに見えかねぬこの人物が俄然、彫りの深いキャラクターになる。舞台は最後までそのままで、すべてリッカルドの寝室の中。すなわち、あらゆるドラマは彼の心の中で起こったことになる。レナートが初登場シーンからリッカルドにピストルを向けるのも、既に三角関係を自覚している彼にはそう感じられるから。腹話術人形を使って、常に仮装している(ズボン役である)オスカルがリッカルドの分身であることを示すのも秀逸。ウルリカの死の予言は当然、リッカルド自身の無意識の声だ。第2幕では愛の二重唱の最中にレナートがベッドから起き出してくるのが面白いし、第3幕でオスカルがリッカルドの仮装(正体)を明かしてしまう際に男装をやめて女性に戻ってしまうのも理にかなう。刺された後のリッカルドがなぜこんなに長く歌えるという演出家泣かせの課題を鮮やかに解決してしまった幕切れまで、アイデア満載の素晴らしい演出。
    ベチャワはいつも通りスタイリッシュに歌っているが、細やかな心理的綾の表出を求められる演出に応じて巧みな演技を見せる。ハルテロスはまたしても完璧。技術的にも、キャラクターの表現としても申し分ない。ペテアンは100%満足とは言えないが、レナートはイヤーゴのような悪魔的なキャラではなく、ただ愚直で直情的なだけの男だから、これでも構わない。いつもはユルユルで緊張感のかけらもないメータの指揮も演出のおかげで随分、聴き映えがする。メト版での切れ味鋭いルイージの指揮にもさほど聴き劣りしない。前述の名前からも分かる通り、ボストン版による上演。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/06/18

    演出は全く読み替えなく、可能な限りオリジナルのト書き通りに舞台化したもの。「原点回帰」という意味ではこういう舞台もたまには良いかもしれないが、芸がないという批判は覚悟せねばなるまいし、こういう方向ならミュンヒェンのエファーディング演出に及ばない。普通の上演に比べれば台詞は多い方だが、元の台詞が全部そのまま語られているわけではなく、ザラストロのモノスタートスに対する人種差別発言「お前の心が顔と同じく黒いことは知っているぞ」や夜の女王のザラストロ教団に対する非難「あの野蛮人たちの恥ずべき動機」うんぬんはカット。なるほど、こういう台詞がないと論理的一貫性は保たれるが、逆に私は論理的一貫性が無いこと、一方が善で他方は悪と決めつけられないことが『魔笛』の最大の魅力と考えるので、このような恣意的な台詞のカットは残念だ。
    素晴らしいモーツァルト交響曲全集を録音していたアダム・フィッシャーの指揮には大いに期待していたのだが、たとえばパパゲーノとパパゲーナの二重唱「パ、パ、パ」など部分的に秀逸な部分はあるものの、全体としては凡庸と言わざるをえない。現代楽器を持つ若いオケにピリオド・スタイルを踏まえた表現を徹底させるのは難しかったようだ。歌手陣で良かったのは、まずエジプト人らしいエキゾチックな美貌が魅力的なファトマ・サイードのパミーナ。ついで芸達者なスイス人テノール、ザシャ・エマヌエル・クラーマーのモノスタートス。タミーノとパパゲーノは可もなく不可もなし。夜の女王は技術的には及第点としても、悲しみも怒りも一色で、歌にまだ表情が乏しい。『魔笛』に若い歌手が似合うのは、若者たちのイニシエーション物語だからだが、それでも夜の女王とザラストロだけは経験の乏しい歌手には難しい役だと思う。一方のザラストロは絵に描いたような聖人君子でつまらない。この役はもともとそういうキャラではあるのだが、パミーナに色目を使ったりするちょっとした工夫で、もっと深みのある人物にもできるのだ(サルミネンのエロじじいぶり、ツェッペンフェルトの変態マッド・サイエンティストが懐かしい)。ここでも、そもそも責められるべきは演出の無策なのではあるが。さて、毎度問題含みの日本語字幕、今回も特に第1幕フィナーレあたりはデタラメの極みだ。輸入盤にくるみケース(日本語解説)を付けただけで、ずいぶん高い値段で売っている日本の販売会社さん、Cmajorに監修者ぐらい派遣したらいかがか。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 9人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/06/06

    まもなくバイエルン州立歌劇場の『タンホイザー』が日本でも観られるカステルッチの読み替え演出はそれなりに面白く見せつつも、作品の哲学的含意を重視した、なかなか高尚な舞台。冒頭、モーゼが神の啓示を受けるシーンでは空中でテープレコーダーが回り、そこから黒い磁気テープがモーゼのもとまで降りてくる。かつては最前衛だったが、今や時代遅れのテクノロジーになってしまったオープンリールのテープレコーダーを「十二音技法」の比喩と見れば面白い。ユダヤ・キリスト教もヨーロッパ知識人の間ではとっくに時代遅れなわけだけど。モーゼとアロンの出会い以降の場面では背景や紗幕に様々な言葉が文字として投影される。言葉それ自体が避けがたく形象、つまり「偶像」を招き寄せてしまうという最終場のテーマの先取り。アロンが幾つかの奇蹟を演じて見せる第1幕終盤(近未来風だけど実はアナログな、大きなペニスのような機械装置が持ち出される)はすべて紗幕の中で演じられ、モーゼ一人だけが紗幕の手前に出てしまう。彼だけが疎外されているという状況の鮮やかな視覚化。第2幕になるとアロンは磁気テープという時代遅れのイデオロギーで緊縛されて身動きできなくなり、人々は好き勝手に乱痴気騒ぎを始めてしまう。このシーンは白服の人々が黒い墨汁まみれになるという分かりやすいが、いささか陳腐な表象で表現され、全裸の女性(ただし一人だけ)や本物の雌牛(立派な乳房があるので雄牛ではない)は出てくるものの性的なモティーフはごく控えめ。ルール・トリエンナーレのデッカー演出のような露骨なものを期待すると、肩すかしを食う。
    マイヤーとグラハム=ホール(後者はややリリックな声だが)の両主役は理想的な演唱。フィリップ・ジョルダン指揮のオケとコーラスはすこぶる精緻でありながら、オペラとしての「劇的」な面白みも十分。このコンビの近年の好調さがうかがわれる。

    9人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/06/06

    舞台上演するとなると、超巨大編成オケをオケピットに入れるだけでも大変だが(ピットを拡張したようだ)、結果はなかなか面白い。もちろん最後のシュプレヒシュティンメも担当する女性のナレーターが第1部と第3部の前にシェーンベルクが作曲していない原詩(ドイツ語訳)の一節を朗読して状況説明を補足するという工夫があるが、それ以外はすべて原曲通り進行。演出は第1部からすこぶる的確だが、やはり観て面白いのは第3部。普通の演奏会形式の演奏でも鳥肌がたつ場面だが、舞台を埋めつくすゾンビ兵士達の男声合唱は迫力満点。しかも例によって、オランダの合唱団の実にうまいこと(ショスタコの交響曲第13番の合唱で最も良いのが毎度、オランダの合唱団であることが思い出される)。第1部から舞台上にいたヴァルデマール王の分身が実は・・・・だったというのも秀逸な工夫だし、HMVの「商品説明」に写真がある大団円の演出も文句なし。声楽的にも至難なヴァルデマールのパートを演技しながら歌いおおせてしまったブルクハルト・フリッツにまず大拍手。やや太めながら見た目もそんなに悪くない。エミリー・マギーとアンナ・ラーションは相変わらず見事。マルク・アルブレヒトの指揮も精細かつスケールも大きい。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/06/06

    なぜかまだレビューがないので、遅まきながら一筆。かつては選択肢が限られた『エフゲニ・オネーギン』の映像も今やボリショイからメトまで選び放題だが、これもまた忘れがたい舞台。魅力の焦点はオポライスのタチャーナ。このキャラクターは夢見がちな乙女とはいえ、決して普遍的な人物ではなく、相当にエキセントリックな、狂気を秘めたヒロインだと思うが、そういう人物を演じさせたら、彼女は無敵。モノガローワと双璧をなす名唱だと思う。この二人に比べたらフレミング、ストヤノヴァ、ネトレプコなどは遥かに「普通の人」に見える。対するルチンスキの題名役はニヒルなイケメンで見た目は文句なし。ただ、ややクールに演じすぎていて、声楽的に非力だとは思わぬものの、幕切れの絶望の表現なども「きれいごと」に終わった感は否めない。けれども、後述するような演出の仕様からして、これで良いということかもしれない。指揮は実にみずみずしく、切れ味鋭い。本当に素晴らしい指揮者という感想を新たにした。
    演出はすべてを老オネーギンの回想という「枠」の中に入れていて、白塗りの老オネーギン(もちろん黙役)が狂言回し的に最初から最後まで登場している。熱いドラマが噛み合うというよりは確かに作曲者が名付けた副題通り、「抒情的場面」の並列である作品にふさわしい工夫だと思う。第3幕冒頭のポロネーズを「死の舞踏」に仕立てるのは、最近の流行だが(最も強烈だったのは、ペーター・コンヴィチュニー演出だが、映像作品としては見られない)、ジャケ写真上部およびHMVレビューの写真に見られるように、この振付もそうなっている。ヘアハイムやチェルニャコフほど斬新とは言えぬかもしれないが、オケピット手前の前舞台を活用したスタイリッシュで重層的な見せ方はなかなかの出来と見た。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/05/24

    スカラ座音楽監督としてプッチーニのオペラ全曲録画プロジェクトを進めるシャイーだが、これは一足先に2015年ミラノ万博の際に収録された映像。指揮はさすがに素晴らしい。そんなに特別なことをしているわけでもないのだが、20世紀の作品らしい和声の斬新さ、オーケストレーションの面白さを的確に伝えてくれる。歌手陣ではステンメが期待通り。このような一発ライヴに近い収録では、なるほど高い音に危ない瞬間があるが、ニルソン以後、最も頼りになるトゥーランドットであることは間違いない。演技も悪くないし、「絶世の美女」とかいう見た目にこだわらなければ(そんなの所詮、男の妄想でしょ)、申し分ない題名役だ。対するアントネンコは強い声でひたすら力押しする無骨なカラフ。華はないが、リューの気持ちを知りながら「絶世の美女」の謎への挑戦をやめられないマッチョイズムの化身みたいな男には、ちょうどいい。映像では実年齢以上に老けて見えてしまうのが残念なアグレスタも、歌そのものはとても見事。
    レーンホフの遺作となった演出は、北京の民衆たちが仮面をかぶった18世紀仮面劇の人物であるように、中国や東洋趣味には最初から関心のない舞台。各幕ともに金属製(に見える)のボルトが突き出た巨大な壁が正面に立ちはだかっており、同じくベリオ補筆版を使った2002年ザルツブルクのパウントニー演出に似た無機質な印象。だからゼッフィレッリ演出のようなデコラティヴな舞台が好きな人には受け入れられないだろうが、私はいつものレーンホフらしく過激な読み替えはないが、細部には色々と工夫のある舞台をとても面白く観た。第1幕では本物の火を使った合唱場面がさすがの迫力(俯瞰映像で見ると、舞台に引火しないよう細心の注意が払われているのが分かる)。ペルシャの王子が全裸、弁髪姿(後ろしか見せない)であるのも不思議なインパクト。第3幕では冒頭からトゥーランドットが舞台上にいるので、例の「誰も寝てはならぬ」は彼女の前で歌われることになる。リューの死の場面でも彼女が短刀を奪う相手がト書きと違うが、これもとても秀逸な工夫だと思う。さて、ベリオ補筆版については賛否両論だろう。しかし、音楽のスタイルが全く異質だとしても、私はなぜプッチーニが最後の二重唱以降を作曲できなかったかを良く考えた(カラフの強引な接吻で「氷のような姫君」の心が溶けるという原作戯曲の男尊女卑的な設定に違和感をぬぐえなかったからだと私は思う)ベリオ版が通常のアルファーノ版より好きだ。ただ一つ惜しまれるのは、ベリオがなぜか慣用版の歌詞にそのまま作曲してしまったこと。トスカニーニがカットしてしまったアルファーノ版オリジナルの歌詞を復元し、そのうえで不要と思われる部分はカットするのが筋だったろう。なぜなら、トスカニーニが削ってしまった部分の歌詞には、トゥーランドット姫がなぜ求婚者に謎を出して首をはねるというエキセントリックな所業に及んだのか、その理由がより克明に語られているからだ。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/05/18

    HMVレビュー通りの読み替え演出だが、とても良くできている。このオペラのアナーキーな雰囲気に合っているし、たとえば普通なら全く別の場面になる第2幕第1場「庭園」と第2場「魔女のサバト」をひとつながりのシークエンスとして描くことによって、長大な原作戯曲の「名場面集」に過ぎないオペラ台本の弱点をうまくカバーしている。より具体的に言うと、第2幕第1場のマルゲリータと第3幕「牢獄の場」のマルゲリータは普通に観ると全く別人だが、演出は間の第2幕第2場に両者の断絶を埋めるような演技を入れることによって、二つのシーンがうまくつながるように配慮している(何が起こるかは見てのお楽しみ)。ただ一つ残念に思うのは、近年ではト書き通りに演じられたためしのない第4幕「古代のワルプルギスの夜」の扱い(ここも一応伏せます)。根拠のある読み替えだと思うが、あまりに真っ当すぎて「ひねり」に欠ける。
    パーペのメフィスト役はグノーの『ファウスト』でも悪達者なところが鼻について好きになれなかったが、彼も歳をとってやや枯れた感じのなかなかいい悪魔になった。この演出では(最後で逆転されるものの)物語全体を彼が仕切っているという仕様なので、達者で構わない。カレヤのファウストは歌に関しては文句なし。もう少しスリムで、知的に見えればなお良かったが。ヒロインのオポライスは歌・演技ともに迫真の出来。第3幕冒頭のアリアなど戦慄すべき名唱だ。指揮は少し粗いところがあるとしても、スケールの大きさは断然買える。壮大なプロローグの音楽が演出のせいでチープに聞こえるのが惜しいほど。バレンシアでの『エフゲニ・オネーギン』も素晴らしかったオメル・マイア・ウェルバーという名前は忘れないようにしよう。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/05/11

    演出はジャケ表紙にも見える可動式のガラスの宮殿(実際には透明プラスチックか?)と今や定番のプロジェクション・マッピング(それなりに効果的)以外、特に新味なし。典型的にメトらしい保守的な舞台だ。アントネンコの題名役は確かに素晴らしい声。「トランペットのように咆哮する」というイメージ通りのオテロだ。やや太ったけど、2008年ザルツブルクに比べれば演技もうまくなったと思う。われわれはドミンゴの達者な演技を見慣れてしまったので(しかも大量に映像が残っている)、続く世代の歌手は大変だが、もともと不器用な男という設定だから何とか我慢できる範囲か。ヨンチェヴァの憂いを含んだ美声もデズデーモナにぴったり。問題はルチッチ。声自体は力強く、第2幕幕切れの二重唱などなかなかの迫力だが、盛んに悪ぶってはみても、本質的にイヤーゴのキャラでないのは明らか。こんなマヌケ男に簡単に騙されるオテロがいかにも哀れに思えるが、それはシェイクスピア/ヴェルディの意図するところと違うだろう。
    メトの次期音楽監督に指名されたネゼ=セガン、この録画は指名発表前のものだが、これでヴェルディも問題なく振れることを証明してみせた。彼の音楽作りは重厚というより俊敏でシャープなものだが、『オテロ』にとって特に不都合とも思わない。むしろ私としては、ピリオド・スタイルの洗礼を受けた世代らしい斬新な譜読みをもっと見せてほしいところだが、それはまだ第1幕冒頭など散発的に聴かれるにとどまっている。

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     2017/05/06

    第22番は未完のため、これと室内交響曲第4番 Op.153がヴァインベルクの完成した最後の作品となった。第21番『カディッシュ』は続けて演奏される6つの部分から成る。ラルゴ(17:47)/アレグロ・モルト(7:40)/ラルゴ(5:26)/プレスト(3:00)/アンダンティーノ(7:08)/レント(13:10)。つまり、コントラスト付けのための速い部分はあるものの、ほとんどが緩徐楽章。やや速いシンプルな緩徐楽章(アンダンティーノ)とより遅い楽章(レント)を併置するのは、もともとこの作曲家の常套手段だが、彼の弱点は緊張感のある緩徐楽章を書けず、ユルい音響の垂れ流しになってしまいがちなこと。この曲のアレグロ・モルトから(二度目の)ラルゴへの流れ込みなど、どうしてもショスタコの第8交響曲(第3/第4楽章)を思い出してしまうが、ショスタコはしばしば緩徐楽章にパッサカリアという形式を採用したし、かのグレツキはミニマル・ミュージックの構成原理を導入したわけだが、ヴァインベルクはそういう工夫をほとんどしなかった。だからこの曲など彼の弱点をもろに露呈しているとも言える。彼の作品を全部聞いたわけではないので、暴論を承知で言うわけだが、この作曲家の創作力のピークはやはり1960年代末ではなかったか。歌劇『パサジェルカ(旅客)』、トランペット協奏曲変ロ長調、交響曲第10番イ短調あたりは間違いなく音楽史に残るべき傑作だと思うが、その後の作品は「戦争」交響曲三部作を含めて、あまり買えない。老境に入った作曲家が懐古的な音楽を書きたくなるのは当然とも言えるが、いささか後ろ向きに過ぎる。この曲はまさにその頂点。両端楽章でのショパンの夜想曲の引用、終楽章でのソプラノ独唱(歌詞のないヴォカリーズ)の導入も、いかにもわざとらしいが、さすがに感慨深いことは確か。『カディッシュ』という題名は、バーンスタインの交響曲にも同名のものがある通り、ユダヤ教の祈りの言葉。一方『ポーランドの音』(『ポーランドの調べ』ぐらいの訳の方が良くないか)は遥か昔(1949年)のお気楽な小品。演奏はオケがやや頼りないが、まずは健闘。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/03/31

    肺病で死期の迫った女性が見た幻想という演出の基本構想は少しも新鮮味がないが、ここでヒロインが同一化するのはサーカスの空中ブランコ乗り。幾らなんでもそりゃ無理だろうと思ったが、エラス=カサドの振るピリオド楽器アンサンブルの俊敏かつ生命力みなぎる演奏で聴くと、何と第1幕などはサーカスの音楽としか聞こえないではないか。最近では昔のように幕の間に休憩が入ることの少ない『椿姫』だが、これは全幕休憩なしの通し演奏。ヒロインの分身=黙役(当然ながら空中ブランコのできる女性で、同じバーデン・バーデンでの上演だったヒンメルマン演出/ヘンゲルブロック指揮の『ドン・ジョヴァンニ』でエルヴィーラのメイドを演じていた人だ)を最後まで徹底的に活用すること、父ジェルモンが完全に「石像の男」、つまり生身の人間ではなく家父長制の化身として扱われることなど実に面白い。ここでは全く歌わず演出に専念しているビリャソンの演出家としての才能、侮りがたし。ペレチャツコはもちろん細身の声の持ち主だが、みずみずしい情感にあふれた素晴らしい歌。元気はつらつで肺病で死にそうには見えない(その点ではネトレプコも同じだった)が、実に好ましいヴィオレッタだ。アヤンのお坊ちゃんらしい若さもいい。そしてこの上演の最大の立役者はエラス=カサドのシャープでしなやかな指揮。大歌劇場では今や「博物館入り」の演目と化している『椿姫』を鮮やかにリニューアルしてみせた。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2017/03/14

    カティア最初の協奏曲(だけの)アルバムは彼女の中心レパートリーをなす2曲のカップリング。この2曲に期待される「ロシア的憂愁」といったものにはあまり関心のない演奏で、その代わり両曲の華やかなヴィルトゥオーゾ協奏曲としての側面を極限まで追求している。かつてのアルゲリッチ(第3番)や近年ではユジャ・ワンもそうした方向を目指した演奏だったと思うが、ここでのカティアは相変わらず抉りの効いたパーヴォ・ヤルヴィとチェコ・フィル(音色的に派手すぎず、スラヴ的な色彩がほのかに感じられる)という万全のバックを得て、しかもセッション録音であるので、彼女の天馬空を行くようなピアニズムを心ゆくまで発揮している。曲の性格上、第2番の方は少しおとなしめだが、それでも第3楽章は冒頭のピアノの出のパッセージから技巧の冴えを見せつける。名高い第2主題は美しく歌うが、第1主題部はかなり速い。第3番は一段と躁状態の演奏。2011年ヴェルビエ音楽祭での猛烈な演奏がネット上にあって(NHK-BSで放送されたこともある)、まああれはライヴだから特別と思っていたが、あれ以上だったのにはぶったまげた。しかも今の彼女の技術的精度はあの時とは比べ物にならない。ノーカット演奏、第1楽章ではユジャ・ワンと違って「大カデンツァ」を選択しているにも関わらず、演奏時間が39分を切っているのは驚異だ。早くも第1楽章から「マ・ノン・タント」はほぼ無視、ずいぶんテンポが速い。カデンツァもさることながら、その前の展開部の盛り上がりが強烈。第2楽章冒頭はしっかり「アダージョ」だが、中間部やワルツのエピソードでは思いっきりテンポが上がる。そして終楽章は予想通りの快速テンポでぶっ飛ばす。最後の短いカデンツァ前の加速から、曲尾までの凄まじい盛り上がりは、まさしく壮絶。

    12人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2017/02/15

    4番、3番、6番の順に入っていて、交響曲としてはやや散漫な3番がCD1と2にまたがるようになっているのは、いい工夫。しかし、演奏に関して最もめざましいのは、実は第3番だ。終楽章後半、フーガ風の展開になってから曲尾までの盛り上がりは凄まじく、前代未聞だ。第4番は各楽章とも速めのテンポ(17:25/9:09/5:18/7:50)で、劇的なくまどりが濃い。終楽章は史上最速クラスの快速演奏だが、ここでもコーダの最後での更なるアッチェレランドが鮮烈な印象を残す。一方、第6番は18:44/6:47/8:40/11:38 と第2楽章がかなり速いのを除けば、意外にじっくり型。大暴れがありそうに思えた第3楽章も比較的おとなしい。というわけで、めでたく完結した今回の交響曲全集。第1番から第4番までの非常に生きの良い演奏に比べて、第5番、第6番は少し構えすぎたかなと感じる。将来の再録音に期待しよう。 

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     2017/01/22

    ドイツ文学業界では原作戯曲『ヴォイツェック』は悲劇的であると同時に喜劇的な作品とされ、グロテスクな悲喜劇と評されることが多いが、そうした現代の解釈の動向に敏感に対応した演出。舞台は長方形の枠を幾重にも重ね、結果としてひな壇のようになったもので、演技者たちは自由に移動できず、その動きは大きく制約されるが、それはまさに身動きの取れぬ主人公たちの状況にふさわしい。新国立で上演されたクリーゲンベルク演出では大尉、医者、鼓手長ら固有名を持たぬ者たちが戯画化された姿で描かれていたが、ここでは全員が白塗り、戯画化は全登場人物に及んでいる。この演出ではヴォツェックとマリーの子供は人形だが(最終場のみ「声」担当の子供が登場する)、すべての人物が半ば人形化されているので、ごく自然に受け入れることができる。ヴォツェックがマリーを問い詰める全曲のちょうど真ん中、第2幕第3場から第5場にかけてや第3幕第2場、マリーの殺害から第4場、ヴォツェックの溺死にかけては、まさしく悪夢のような見事な舞台。
    ゲルハーエルの題名役が実に素晴らしい。この人物の悲惨と狂気を体現したような迫真の役作りで、これまでに私が見てきたヴォツェックの中でも間違いなく最高と断言できる。バークミンのマリーは普通に見れば「人間味が足りない」と言われかねないが、半ば人間半ば人形という演出コンセプトに沿った演唱だろう。その他、端役に至るまで適材適所の配役。もともと表現主義的な演奏を信条とするルイージにとって、これほどうってつけのオペラもない。最終場前の間奏曲など凄まじい盛り上がりだが、一方、このオペラの凝った構造にも細かく目配りした指揮なのにも感心させられる。日本語字幕にケチをつけるのは、いいかげんやめたいのだが、第1幕第4場のpissen(小便する)がいまだに「咳をする」なのは、どうしたわけか。

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     2017/01/21

    ショスタコーヴィチ『鼻』に続くケントリッジのメト二つ目の演出だが、『鼻』ほど成功していない。映像投影は相変わらずきわめて雄弁で、第2幕真ん中の「オスティナート」間奏曲など見応えがあるが、このオペラではやはり演者たちの絡みが欠かせない。この演出ではプロジェクション・マッピングによって歌手たちの演技負担を軽減しているわけだが、その演技の部分がどうも型通りで凡庸だ。冒頭からルルの分身と言うべきパフォーマーが舞台上にいるが、彼女もあまり積極的に舞台に絡んでこない。たとえば第3幕の最後、この演出ではト書き通りルルの殺される場面は直接見せず、それを投影された手書きアニメーションで表現するわけだが、3幕版初演の際のシェロー演出のように幕切れの時点でルル(正しくはルルの遺体か)が舞台上にいる演出と比べるとやはりインパクトに乏しい。ペーターセンの題名役はさすがに一級品だが、演出のせいもあって、もっと「体を張った」演技をする他のルル役に比べると少々お上品、つまり迫力不足。グラハム、ロイター、グルントヘーバー以下、他のキャストもみな適材適所だが、決定的な魅力には欠ける。指揮はなかなか老練で、水準が高い。

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     2017/01/09

    映像は特に工夫もなく、本拠地テル・アヴィヴでのイスラエル・フィルの演奏会をごく素直に撮ったもの。ドルビー・アトモスという新サラウンドシステムへの対応が売りらしいが、5.1チャンネルですらない、わが家の環境では有難みなし。言うまでもなく、これが映像ディスクになるのはブニアティシヴィリが弾いているからだ。リストのピアノ協奏曲第2番が期待通り圧巻。少し地味な曲だが、リスト得意の主題変容技法を駆使した作品で、人気の第1番にも少しも劣らないと思うが、彼女の演奏は繊細なデリカシーから猛烈な技巧の冴えまで申し分ない。もう一つのベートーヴェン第1番はもちろん名曲だが、現在のカティアの魅力を聴くには少々、役不足な曲。日本で弾いたシューマンなどの方がずっと彼女向きだが、そうしなかったのは共演者を考えて、デリケートな配慮を要するシューマンの管弦楽パートはこの人には無理と考えたせいかもしれない。なぜなら、今のメータはただの優しそうなおじいさんで、音楽的にはそれなりに恰幅が良いが、それ以上の魅力もカリスマ性も感じられないから。でも、協奏曲の伴奏指揮だから、これでも特に不満はない。

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