トップ > My ページ > まーきー さんのレビュー一覧

まーきー さんのレビュー一覧 

検索結果:31件中16件から30件まで表示

%%header%%

%%message%%

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/06/05

    前世紀中頃の、ウィーン様式による演奏。いかめしくデモーニッシュなベートーヴェンではなく、フレーズの端々にどこか軽快感の漂う、明晰なベートーヴェン演奏である。特に木管が瑞々しく、美しい。ピリオド楽器による演奏を経過した現在では、5番など少し物足りない感じもするが、決して煽ったりすることなく、徹底的にインテンポで貫かれた上品なベートーヴェンで、バーンスタインなどの正反対に位置する演奏だろう。CDの帯に「マスターテープに限りなく近い状態のテープから復刻」と書いてあるが、「マスターテープに限りなく近い状態のテープ」とは日本語の正しい解釈として、「ファーストコピー」しかありえない。なぜ「ファーストコピー」と書かないのだろうか。書けないのであれば眉唾ものである。しかし、音質は思いの外良く、十分鑑賞に耐えうる。これでMadacyレーベルから出ていた缶入り全集は不要になった。ジャケットのデザインがあまりにも酷いので、中身のCDを缶ケースに移そうかな?

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/03/30

    モントゥーのベートーヴェン交響曲全集だが、第1番はウィーンフィル(Decca原盤),第4番は北ドイツ放送響(コンサートホール原盤)からの借り物。残りはすべてライヴ音源で、第7番のNBC響、第8番のロス・フィル以外はすべてボストン響との録音。ライヴ音源のうちステレオ録音は、第3、5、6、9番の4曲となっている。

    セッション録音を除いて、モノラルだろうがステレオだろうが、昔のAMラジオ放送程度の音質で、音質には期待しない方がいい。ただ、CD4(「田園」「運命」、1959年、ステレオ)だけは飛び抜けており、現在でも十分に通用する音質だ。この1枚でも十分に元が取れるだろう。

    演奏はいずれも自発的な感興に溢れたもので、速めのテンポで粘らずに進んで行く音楽はとても若々しく瑞々しい。1953年から1960年の録音だが、とても80歳を超えているとは思えない指揮ぶりには脱帽するしかない。ボストン響もモントゥーと一体になって自発性に溢れた演奏を繰り広げているが、少し金管(特にホルン)が弱いのが気になった。特に第6番「田園」は個人的にはあまり好きではなかったのだが、この演奏で聞くと、まさしくベートーヴェンの作品であることがひしひしと伝わってくる名演である。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/08/10

    ヴァーツラフ・ノイマン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のマーラー第9番がすごくいい。

    彼がゲヴァントハウス時代に振ったマーラーは、第5番、第6番、第7番、第9番が残されており、その後チェコ・フィルを振って交響曲全集を録音しているが、そちらはまだ未聴ということで話を進めさせていただく。

    初めて聴いたときの印象は「ノーブル」。1967年の録音だが、音もいい。マーラーの交響曲の中でも第9番はマーラーが死を強く意識した最後の交響曲であり、それこそ様々な解釈が可能だろうが、私にとってはヴェリ・ベストの演奏。とにかくオーケストラの響きがいい。

    現代では失われてしまったであろう古き良き時代のゲヴァントハウスの響きが聞こえ、ノイマンの指揮もやたらと詠嘆を強調したりすることもなく、奇を衒ったところのない誠実なもの。それでいて迫力にも欠けていない。小細工を弄した演奏が多い中において、ゲルマン的なものとボヘミア的なものが融合された、本当に稀有な名演だと思う。

    残りの第5番、第6番、第7番もぜひとも聴きたいと思わせる名盤である。第9番がCD1枚で聴けるのもありがたい。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/08/10

    伊ユニバーサルからリリースされた、ジュリーニのDG録音集「カルロ・マリア・ジュリーニの芸術」を購入した。16枚組で4,400円と安かったこともあるが、高名な指揮者であるにも関わらず、今までまともに聴いたことがなかったからである。

    CDは、ブラームスの交響曲全集とブルックナーの交響曲第7〜第9番、ドヴォルザークの「新世界」、マーラーの第9番、ムソルグスキーの「展覧会の絵」、フランクの交響曲、ドビュッシーとラヴェルの管弦楽曲というのが主な内容。

    聴いたのはブラームス、ドヴォルザーク、ムソルグスキーだが、どうにも好みに合わず、残りは聴く気がしない。なぜかというと、やたらとテンポが遅く、歌いまわしが粘着質なのである。晩年のジュリーニは、テンポが非情に遅くなったらしいが、このブラームスは1989〜1991の録音であり、晩年とまでは行かない。それでこれだけ遅いのだから、晩年のテンポは推して知るべしである。

    とにかくテンポが遅いので音楽の流れが途切れ、緊張感に欠けること甚だしい。音楽に緊張感を求めず、情緒纏綿とした表現だけを好む人にはいいかも知れないが、私はダメ。明らかにジジイの聴く音楽だ。これが所謂「巨匠的表現」なんだろうかと思ってしまう。ブラームスでいえば、第4番あたりはまだいいが、こんな覇気のない第1番は勘弁願いたい。

    世評高い録音なのだが、世間の評判は当てにならないというか、ブラームスの交響曲はヴァントが北ドイツ放送交響楽団を振った旧録音が今まで聴いた中でのヴェリ・ベストであり、ドラティやライナーで育ってきた私にとっては水と油なのだろう。このジュリーニといい、バーンスタインといい、私の好みは世間一般のリスナーとはよっぽど違っているんだろうなあ。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/06/26

    ピアノという楽器は同時に10個の音が出せますが、さらに連弾ともなると20個の音が同時に出せることになり、表現の幅が大きく広がります。ところが、連弾用の曲は独奏曲に比べると非常に少なく、連弾を目的としたユニットもさほどいないのが現状です。ピアノと他の楽器の組み合わせとは違い、ピアニスト2人による演奏は、おそらく合わせるのが難しいんじゃないでしょうか。

    曲の方も連弾用の曲を書いた作曲家はモーツァルト、シューベルト、ブラームス、ドヴォルザークあたりが主で、探せば他にもあるんでしょうが、それほどコンサートで演奏されたり、CDが発売されたりもしていません。

    ところが、近代になるとバレエ音楽のピアノ編曲がたくさん出てきます。バレエをオーケストラなしで練習するための編曲です。独奏用の編曲もありますが、元々はオーケストラ曲のため独奏では原曲のニュアンスを伝えきれないのでしょうか、連弾用の編曲も多くあります。

    フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルは「管弦楽の魔術師」と謳われたほどのオーケストレーションの大家でした。その彼が自分のオーケストラ曲をピアノ連弾用に編曲したものを集めたのがこのアルバムです(「マ・メール・ロワ」と「スペイン狂詩曲」は元々連弾用曲)。

    冷たく精緻で硬質な、まるでガラス細工のようなラヴェルの楽曲ですが、ピアノ連弾で演奏されると、一層その冷ややかな工芸品のような手触りが露わになるようです。梅雨時の蒸し暑さを和らげてくれるアルバムです。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/06/26

    今年はドビュッシーの生誕150年ということで、様々なCDがリリースされていますが、BrilliantレーベルからASV原盤のファーガス=トンプソンによるピアノ独奏曲集が再発されています。
    ドビュッシーの代表曲といえば、やはり交響詩「海」などに代表される管弦楽曲と、「前奏曲集」などのピアノ曲でしょう。中でもピアノ曲には、「前奏曲集」、「映像」、「子どもの領分」など、一般にも有名な作品が多く含まれています。

    ドビュッシーのピアノ曲の録音といえば、ギーゼキング、モニク・アース、フランソワ、ミケランジェリ、ベロフあたりが有名ですが、このファーガス=トンプソンの録音も中々のものだと思います。
    英国人らしく抑制の利いた、淡い色調の夢見るようなドビュッシーですが、濃く隈取りされたミケランジェリの演奏が苦手な私としては、むしろこちらの方が好ましく感じます。ペンギン・レコードガイドでロゼッタ賞を獲得した名盤です。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/06/18

    DGから出ている新盤を聴いて、そのあまりのネチっこさに悲鳴を上げたが、旧盤はさほど粘着質でもなく、若さ溢れるストレートな表現だと聞いたので購入してみた(値段も安かったし)。

    聴いてみると、たしかにストレートな表現というか、非常にわかりやすい表現で、晩年の持って回ったクドさはない。ただ、「わかりやす過ぎる」というのも変な表現だが、肉以外の部分が削ぎ落されて、肉屋のショーウィンドウに陳列されたステーキ肉を見せられているような印象がある。

    マーラーの贅肉をすべて削ぎ落とし、まるで一編の映画音楽のように仕上げられていると言い換えてもいい。良くも悪くもアメリカ人向けの表現であり、バーンスタインがアメリカで絶大な人気を誇ったのも頷ける。

    値段も安いし、初めてマーラーを聴く人には、わかりやすい、良いセットかも知れない。深みはないが。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/19

    黒人ソプラノ歌手、レオンティーン・プライスが歌うクラシック歌曲と黒人霊歌を集成した12枚組ボックス・セット。

    CD1からCD8までがクラシックの歌曲集で、CD9〜CD11が黒人としての確信に満ちた歌声と聖歌隊による黒人霊歌(スピリチュアル)集。CD12は、ピアノ・トリオをバックにしたミュージカル・ナンバー集だ。

    ちなみに、オリジナル・アルバム名は、CD9が”Swing Low, Sweet Chariot”、CD10が”My Favourite Hymns”、CD11が”I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free”、CD12が”Right as the Rain”。

    クラシックも良いが、CD9からCD11の自家薬籠中の黒人霊歌集はさらに素晴らしい。CD12のアンドレ・プレヴィン(p)、シェリー・マン(ds)、レイ・ブラウン(b)をバックに、ジャズ風の伴奏で歌うプライスは最高。プレヴィンさん、昔からいい仕事してますね。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/19

    私はショパンが苦手だ。なぜ苦手なのかというと、その音楽が華麗でロマンチック、かつドラマチックでオシャレだからだ。つまり、ピアノの機能、特性を最大限に生かした音楽だからで、さらにこの線を追求したリストになると、ほぼお手上げ状態だ。

    というのも、私はピアノという楽器があまり好きではない。平均律に調律されていて、その以外の音程の出せない楽器であり(ピアノでチョーキングはできない)、コンチェルトでオーケストラに対峙できる音量と音色、音程の安定性を備えた楽器だからだ。つまり、機械的、金属的だからである。

    ピアノはモダン楽器である。その祖先はピアノフォルテやハンマーフリューゲルで、さらに遡ればチェンバロになる。このあたりは他の楽器も同様で、金管楽器、木管楽器や弦楽器も、現在一般に使われているのは、外見は古楽器と似ていても中身はモダン楽器なのである。

    バロック時代の演奏形態はソロや室内楽だった。王侯貴族たちの前での演奏が、モーツァルトあたりになると、コンサートホールに集まった多くの市民の前でのオーケストラ演奏に変わっていくに従い、楽器自体に大きな音量と音程の安定性が必要とされるようになった。

    つまり、木から金属への移行。これは楽器だけに限らず、あらゆる道具や機械類が同じ道を辿っている。木の時代から金属の時代への移行、鉄の文明の到来だ。ピノッキオから鉄人28号への移行である。

    例えばギターでも話は同じで、ガット弦からスチール弦への移行、さらにエレキ化により大音量の金属的な音響をばらまく機械に変貌した。金属礼賛。ヘヴィ・メタル。なにしろロックコンサートがスタジアムで行われる時代だからね。需要と供給の関係だ。

    ところが、私は、この金属音、金属臭が苦手なのである。金属の冷たく無機質な感触も苦手だ。おまけに金属アレルギーである。若いときはそれほどでもなかったが、今はだめだ。鉄製の螺旋階段のある家、重く重厚なデザインの金属製ダイバーウォッチ…考えただけでも気が遠くなる。だから、私はキラキラと輝く金属的で華麗、名技的なショパンよりも無骨で木質的なベートーヴェンの方を好むのだ。

    古楽器運動なども私の感覚に近いのかもしれない。古楽器を使うことで、その時代に実際に響いていた音を再現できているかどうかは、実際には誰も知ることができないが、当時の楽器で演奏することを前提として作曲された曲をモダン楽器で演奏することは、「牛刀割鶏」なんじゃないだろうか。つまり、鋤や鍬で耕していた畑にいきなりブルドーザーを持ち込むような感じ。

    バッハやモーツァルトの鍵盤楽曲は手数(この場合は指数か)が多い。やたらと音符の数が多いのだ。これは、当時のチェンバロやフォルテピアノの減衰時間が短い(音が長く続かない)からであり、彼らには、例えばラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の導入部のような音符は書き様がなかった。

    バッハのチェンバロ曲をピアノで演奏したCDはたくさん出ていて、世間ではやれグールドが一番だとか、リヒテルが最高だとか言われているが、どちらも私にはピンと来ない。いずれもピアノの持つ機能、特性を押し殺した演奏だからだ。

    減衰力をカットするために、鍵盤を叩いた指をすぐに鍵盤から離すスタッカート奏法を活用した演奏だからで、つまり、ピアノをチェンバロに近づけた奏法であり、そんなことなら最初からチェンバロで演奏すればいいのにと思ってしまう。
    ポリーニやガヴリーロフのショパンをすごいとは思う。けれども音楽はスポーツではない。華麗なる技巧で、楽譜に書き込まれた音符や指定を正確無比に演奏できたとしても、関心はするが感動はしない。というわけで、私がショパンを聴くときは、主にフランソワや、このマガロフのCDということになる。

    フランソワにはクセがあるが、あの独特なピアニズムには中毒性がある。マガロフにはそのようなものはないが、楽譜に書かれた一音一音が、意味を持って聴き手に語りかけてくるような演奏だと思う。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/19

    フランスEMIからリリースされた、クレンペラー指揮のマーラーの交響曲集を購入した。値段は約1,700円。クレンペラーがフィルハーモニアを振って英EMIにステレオ録音したすべてのマーラー音源が収録されている。

    彼のマーラーは第2番と大地の歌はすでに所有していたが、このCDがリリースされるのを知り、処分してしまった。

    クレンペラーはワルターとともにマーラーの弟子筋にあたるが、ワルターとは異なり、その演奏はシャープでモダン。曲の構造を克明に浮かび上がらせながら、感情を排し冷徹に進めて行く演奏に甘美さはなく、時に虚無的ですらある。

    不思議に思うのが、彼が同じEMIに残したベートーヴェンとの違いである。ベートーヴェンではなぜ、巨匠然としたあのような引きずるように遅いテンポなのだろうか。向こうがクレンペラー本来のスタイルであり、こちらは作曲者直伝の演奏だということなのだろうか。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/19

    待ちに待ったディリアス箱がやっと発売された。英国EMIはエルガー箱、ヴォーン・ウィリアムス箱、そしてブリテン箱まで出しておきながら、なかなかディリアス箱を出さなかった。「なにトロトロしとんじゃ。はよ出せ、ボケっ!」と心の中で小さく呟いていたが、生誕150年記念としてようやくリリースされることになった。ありがたや。

    しかし、18枚だけとは少なすぎる。EMIの持てるビーチャム、ボールト、バルビローリの音源はすべてぶち込んでほしかった。

    いつの間に「ディリアス」になったのだろう。以前は「ディーリアス」だったのに…。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/19

    ベートーヴェン後期の3曲のピアノ・ソナタは格別だ。特に第30番は私にとって特別な存在である。それまでのベートーヴェンのソナタを聴いていると、学校で習った「苦悩する英雄ベートーヴェン」だの、「楽聖ベートーヴェン」といったキャッチフレーズが思い浮かんでくるが、後期の3大ソナタに関しては別だ。とにかく自在なのである。

    ピアノ・ソナタとはその名のとおり、ソナタ形式の楽曲である。交響曲と同様に複数の楽章を持ち、起承転結を経て最後に結論へとアウフヘーベンするという、クラシックというよりはドイツ民族固有の思弁哲学的音楽形式だ。

    後期の3大ソナタに関しては、たしかにピアノ・ソナタの形式を取ってはいるが、ベートーヴェンの興味はもう形式にはない。一般的には第31番、最後の第32番の評価が高いが、私はこの3つのソナタの中では最もベートーヴェンらしくない第30番が一番好きだ。

    流れるように始まる第1主題。知らずに聴けば、これがベートーヴェンとは思えないだろう。まるでオケのないピアノ協奏曲のようだ。彼の頭の中ではオーケストラが鳴っていたんじゃないだろうか。

    3楽章構成だが、楽章の流れは自然で、おそらくベートーヴェンの中ではこの3つの楽章が次々と溢れ出して来たに違いない。第3楽章はフーガ形式による変奏曲で、あらゆる欲望や絶望を超越した、そこにはただ音だけが鳴っている世界。モーツァルトの晩年にも似た、ただ音と戯れるベートーヴェンの姿がそこにある。

    演奏は、ベートーヴェン時代のフォルテピアノを弾いたピーター・ゼルキンのCDがオススメ。ピーターはこの貴重な楽器を弾けるのが嬉しくて録音を承諾したらしい。愉悦感に溢れたすばらしい演奏だが、まるで風呂の中で聴いているような残響過多の録音が残念だ。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/19

    フランクの有名なヴァイオリン・ソナタに始まって、ショーソン、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルと、フランスの室内楽は好きで、よく聴いている。

    ところがドイツものはダメで、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲から始まって、シューベルト、シューマンと全滅。何度聴いても彼らが何を言いたいのか、何を表現したいのかが私にはさっぱり理解できないのだ。

    そんな私に唯一聴けるのが、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」。不器用で口下手、優柔不断で朴訥とした語り口のブラームスに、なぜこのような憧れと失意がないまぜになった夢見るようなメロディが書けたのだろうか。

    ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番同様、ミューズがブラームスの上に舞い降りた瞬間なのだろう。ここにはブラームスの自我を超えた、音楽そのものが自在に鳴っているような気がする。

    ともにフランス人であるフェラスとバルビゼの演奏で聴くと、まるでフォーレの作品であるかのように聞こえるから不思議だ。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/07/19

    ロドリーゴといえばギターとオーケストラのための「アランフェス協奏曲」が突出して有名だが、それ以外の曲となれば数曲のギター独奏曲以外は一般にはほとんど聴かれていないのが現状だ。私はエンリケ・バティスが指揮した「協奏曲&管弦楽曲集(4CD)」を持っているが、初夏の野山を駆け抜ける爽やかな風のような曲想に感心して以来、この作曲家には親近感を持っている。

    夏は牧歌的な英国音楽か湿度の低いラテン系音楽が私の定番だ。ドイツ音楽などは暑苦しい。今夏、Brilliant Classicsからリリースされている「ギター独奏曲全集(3CD)」を購入したのだが、この作曲家に対して私が持っているイメージを覆すような、非常に地味で木訥とした語り口に驚いた。同時に購入した「ピアノ曲全集(3CD)」の方が、この作曲家独特の活き活きとした躍動感に溢れている。調べてみると、彼はピアニストであり普段ギターは弾かなかったそうだ。

    スペインのピアノ曲といえばアルベニス、グラナドス、ファリャあたりが定番だが、彼らの作品に勝るとも劣らない出来映えで、なぜ一般に聴かれないのか不思議なくらいだ。何より驚いたのは、その濃厚なスペイン情緒。スペイン人にしか完全には理解できないだろう土着的なリズムと節回し。グラナダ(行ったことはないが)の夕べなどを想像しながら聴くのも一興だろう。

    3枚組CDのうち2枚が独奏曲集、残り1枚が連弾曲集となっており、連弾曲集の方にはロドリーゴ自身がピアノを弾いた音源も収録されている。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/06/14

    1989年10月にケーゲルが手兵ドレスデン・フィルを引き連れて行ったコンサートのアンコールでの演奏だ。このコンサートはある労働組合の招聘で実現したらしく、聴衆は普段クラシックなど聴かない組合員たちで、観客マナーは相当ひどいものだったらしい。

    演奏曲目は「エグモント序曲」、「田園」と「運命」という驚異のオール・ベートーヴェン・プログラム。招聘側はファミリー・コンサート的なものを想定していたかも知れないが、実際に出てきた音はファミリー・コンサートなどとは似ても似つかぬものだった。ケーゲルがピストル自殺という非業の死を遂げる約1年前の演奏である。この日の演奏はすさまじく、現代音楽を得意とする冷徹なケーゲルらしからぬ何かに憑かれたかのような、なりふり構わぬ指揮ぶりで、今では伝説的なコンサートとされている。

    「エグモント序曲」の冒頭の和音からして聴く者を凍り付かせるようなただならぬ響きだが、「運命」の第4楽章に至っては、よく言われている運命と戦い克服した勝利の歌などではない。音楽はクライマックスを迎えオーケストラは高揚しているが、そこにあるのは歓喜や情熱などではなく、むしろ冷徹で悲痛な哀しみに溢れている。ケーゲル流の魂の歌である。

    アンコールに演奏された「アリア」は、人間の持つ世俗的な喜びや悲しみをすべて洗い流したような無垢な響きの、まるで彼岸から聞こえてくるような音楽だ。優しさとか静謐さとかを超越した、ただただ音楽がそこに存在しているというだけの有りように、私は思わず涙が流れた。熱心な社会主義者であったケーゲルがクリスチャンだったのかどうかはわからないが、まるで敬虔な宗教曲のようだ。私にはケーゲルの信仰告白のように聞こえる。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

検索結果:31件中16件から30件まで表示