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遊悠音詩人 さんのレビュー一覧 

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  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/01/03

    清涼感溢れる演奏だ。

    巷では、フランクのソナタと言えば俄然デメイ&ピリス盤の評価が高い。

    しかし、難を言えば、ピリスのピアノにコシがなく、残響も多過ぎて輪郭がはっきりしないのが気に食わない。ピリスはブラームスのソナタでも、デュメイのヴァイオリンに呑まれるようなナヨナヨとした演奏だった。それを“透明感溢れる演奏だ”などと評価する向きもあるようだが、僕は賛同し難い。

    そこで、明晰なるタッチで定評のあるブロンフマンがバックなら、無論不満はないだろう(ダジャレ!?)と思い、当盤をチョイス。

    買って正解!勿論、ヴァイオリニストが下手ではお話にならないが、さすがパガニーニで至高の名演を繰り広げたミンツだ。技術や情緒に些かの不足もなく、余分な肉付けを排したキリリと引き締まった音色で聴かせてくれる。

    特に、二人の息がピタリと合わないと出来ないであろう絶妙な“間”に惚れ惚れする。中でもフランクは絶品であり、有名なカントロフ盤に比肩するであろう内容だ。

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     2013/12/03

    実に危ういシューマンとブラームスだ。まるでマーラーかと思うほどの分裂気質に彩られている。ケーゲルはライプツィヒ放送響とドレスデン・フィルという、何れもゲヴァントハウスやシュターツカペレの陰に隠れたマイナーオケを率いていたが、それが幸か不幸か、ケーゲルの芸風には合っていたのかも知れない。LGOもSKDも、ドイツの、いやクラシック音楽そのものの伝統の担い手であり、正統派である。ケーゲルははっきりいって異端である。交響曲の構造を自ら破壊しにかかるような大胆なデフォルメが、そこかしこで見られる。特に曲の終盤の見せ場のようなところで、病的なほどのアゴーギクやディナーミク、パオゼなどが現れ、不穏な空気を醸してしまう。彼の悲惨な最期を云々するまでもなく、これは危険な音楽だ。ドレスデン・フィルも、そんな半ば強引な棒についていけないところが散見され、アンサンブルが乱れたり音が裏返ったりすることもしばしばだ。よって、ドイツのオケと指揮者がシューマンやブラームスをやっているというだけで、何やら正統的で上手い演奏を期待してしまった人は、見事に裏切られるだろう。そういう人は、例えばサヴァリッシュのシューマンやヴァントのブラームスを聴けば宜しい。ケーゲルの演奏は、普通の演奏に飽きたらず、平静を装いつつラディカルなものを求める向きにこそ、うってつけと言えよう。

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     2013/11/27

    別次元の音質改善に驚喜!ケンペ&SKDのリヒャルトといえば、旧東独Schallplattenの辣腕エンジニア、クラウス・シュトリェーベン氏による名録音として誉れ高い。しかし、長いことオリジナル・マスターテープは紛失されたものとなっていた。当然ながら、過去幾多のCD化はコピー・マスターからの復刻であった。つまり、いくらリマスタリングしても、情報量の欠如を補填するには至らなかったのである。EMIプレスは高音偏重の嫌いがあったし、Brilliantプレスは平面的であった。そこへ来て、オリジナル・マスターテープが再発見され、しかもアビーロード・スタジオで入念にリマスタリングされた当盤が登場したのだが、今まで聴かされ続けたのは一体何だったのかと思える程、実にいい音である。何より、Lukaskircheのアコースティック特性をフルに活かしているのが心憎い。今まで金属的だった弦楽器が、驚くほど艶めいてなり、コントラバスなどの低音部も床をえぐるかのように響いてくる。旧東独時代のSKDは名手揃いだが、彼らの名技が心行くまで味わえる。特に、三人のペーターがいい味を出している。ダムの円やかなホルンや、ゾンダーマンのマッシブなティンパニ、ミリングのVnソロなど、超一級だ。更に驚くべきは《家庭交響曲》の終曲。TpのハイC連発ばかりが注目されがちだが、その裏で実に様々な楽器が細々と動き回っているのが分かる。何より、キーやバルブのカチカチという音まで捉えきっているのには驚いた。その他、既存盤では省かれた《月の光の音楽》が復活していたり、《フニクリ・フニクラ》をナポリ民謡と勘違いした故に著作権問題にまで発展したという曰く付きの《イタリアより》など、演奏頻度の少ない隠れ名曲もギッシリ詰まっている。それが一枚300円ほどの破格値で手に入る。これはマストバイだろう。

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     2013/11/01

    金管の咆哮やティンパニの強打などから「これぞスヴェトラ御大の醍醐味」と称賛する人が多いのは百も承知だが、私に言わせれば、これこそスヴェトラ唯一最大の欠点であるといえる。何故なら、音楽的必然性を感じないから。もっと言えば、金管の咆哮やティンパニの強打によって、全体的な音響バランスをなし崩しにしているからだ。オケ全体が盛り上がるのなら、まだいい。いや、むしろそういう盛り上がりなら大歓迎だ。だが、スヴェトラの場合、オケ自体盛り上がっている上にさらに金管や打楽器群を突出させてしまうから、汚く聴こえるのである。特に各楽章クライマックスでの必要以上の強奏に興ざめ。舞台裏からヌッと前へ出て襟首掴まされているようだ。曲の流れ自体は、ロマンティシズムの極致ともいうべき滔々とした音運びでよいし、その意味では、淡泊なプレヴィンやアシュケナージよりもロシア的でよいだけに残念。よってOK止まり。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/11/01

    ベーム&VPOといえば、VPOの長い歴史の中でも蜜月時代と呼んでいい最高の組み合わせとして世評が高い。確かに、モーツァルトの協奏曲や来日公演での《田園》など、屈指の名演だと思う。だが、このブル8はいただけない。VPOは縦の線を若干ずらすことでふくよかな音響を作り出すことで知られているが、それを斟酌してもアンサンブルが雑である。特に第4楽章のコサックの部分の弦の刻みとその他の楽器とのズレ具合が、「えっ?これが世界最高峰のオケ!?」というくらい雑。破綻寸前、いや、破綻そのものだ。黄金期のVPOとあろうものが、録り直し可能なセッションでこんな状態では情けない。ベーム&VPOのブルックナーは、編集痕が露骨な第4番や、やはりアンサンブルが雑な第7番とともに、凡演と呼ぶに吝かではないといえる。ただし、「極めてオーソドックスな解釈による極めて普通の演奏」という意味において、ファーストチョイスだろうから、その点を勘案してOKということにしよう。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/10/16

    「ブラームスのバラードは晦渋」」というイメージを見事に覆してくれた一枚。例えばギレリスのような鋼鉄のタッチで渋くやられるのを好む人には、ミケランジェリの演奏は華麗に過ぎるとして点が辛いかもしれない。あるいは、グールドのような達観として峻厳な演奏を好む人にも合わないだろう。私はギレリスもグールドも好みではない。何故なら、バラードはブラームスが21歳の時に書いた初期の作品であり、しかもそこには、その後生涯に渡って思慕し続けるクララ・シューマンとの出会いがあったのだ。つまりブラームスの青春譜なのである。だから、ギレリスのように小難しい哲学者のようにやられるのも、グールドのように人生を悟りきったようにやられるのも厭なのだ。事実、ギレリスやグールドを聴いているときは、てっきりブラームスの晩年の作品だと思い込んでしまった程である。ミケランジェリのアプローチは違う。尊敬する師シューマンと、その妻でありながら思慕の対象となってしまったクララ、二人に対する想いの狭間で揺れ動く心理を、美の結晶ともいうべき繊細なタッチで描いているのだ。なお、録音には「製造後60年以上経過した楽器を使用」とのこと。こだわりのピアノと繊細な表現の相乗効果が光る逸品といえよう。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/10/16

    演奏自体は諸氏絶賛の如く絶品である。クライバーとの共演が幻に終わったことを歎くファンも少なからずいると思うが、ミケランジェリと共演可能な指揮者は、彼に屈服出来る人か彼を心服させてしまう人か何れかだろう。少なくともミケランジェリとクライバーは、芸風が水と油のようであり、仮に共演が実現していたとしても良い演奏にはならなかったと思う(ミケランジェリは、クライバーが敵対していたチェリビダッケとは相性が良かった)。このような名演ではあるが、何故減点かといえば、DGの製作姿勢。CDフォーマットに1番と3番を両方詰め込むために、拍手をカットしてしまっている。加えて、OIBPの悪癖たる高音域の硬さが、ミケランジェリの透明感溢れる煌めきを剥奪してしまっているのだ。試しにDGのCOLLECTORS EDITION(469 820-2)に収録の音源を聴いてみるとよい。こちらはエミール・ベルリーナ・スタジオでのリマスタリングだが、音の柔らかさが違う。高音域に伸びがあって、柔らかな音なのだ。加えて、拍手もしっかり収録されている。ミケランジェリのライヴを堪能したいのならBOXを買うべし(同BOXのレビューも記載した。やや主観的だがご参照されたい)。

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     2013/10/16

    冒頭のピチカートの深々とした響きからして、格が違う。続く弦楽器のシルキーな質感、あたかも霧の中から浮かび上がるような、透明感極まりない響き。管楽器にも威圧感がなく、まるで天啓の如く鳴り響く。全合奏でも音がダマにならず、サントリーホールの中めいっぱいに拡散していくのが分かる。単に音ならず、音と音の重なりによって醸される響き、なかんずく、その響きを作り出す会場の空気感をも感じ取れる。サントリーホールは数多の楽団が来日し、日本でもN響が定期公演を開いているが、このような幽玄なる響きを創れるのはチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルしかいない。加えて、当時の録音陳およびALTUSの復刻技師の技術力の高さがものをいう。チェリビダッケ特有の、ミクロまでこだわる音作りの一つ一つまで捉えつつ、総体として大きな音楽曼荼羅を形成していく。チェリビダッケは禅仏教に精通していたというが、音の運びが座禅を組んだときの丹田呼吸のように深い。その深々とした呼吸が、奇しくもブルックナーの音楽観と一致し、クライマックスに神秘性をもたらしているのではないかとさえ思える。特に、間の取り方に、空観を感じさせるのだ。加えて、「終わりの中に始まりがある」という言葉も、「色即是空、空即是色」の世界観に通じる。西洋人のチェリビダッケが、東洋の思想を、西洋の音楽で表現してみせた。凄い。

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     2013/10/03

    人間の声は基音と倍音によって成り立っている。古来より合唱の際などに、本来聴こえるはずのない高音域の声が反響するのを「天使の歌声」と称していたらしい。本当にいい声の持ち主は、この倍音を豊かに響かせることが出来るのだが、井上さんはそういう声質を持ち合わせているのではないか。これは僕の勘だが、恐らく、マイクを通さない普段の地声自体が綺麗なはずなのだ。そこで是非実験して欲しいのだが、倍音を活かすためには、極力アンプなどの電子機器を使わないほうがいいので、可能な限りアコースティックな音作りにしてみては如何だろうか?何故なら、電子機器の多くは倍音を捉え切ることが出来ないから。だからピアノも電子ピアノではなくグランド、もしくはアップライトの方がいい。それから、録音するときも残響が1,5秒前後あるホールを使うのを勧める。残響を活かすためにややテンポも遅めにする(勢い余ってテンポを上げると、響きがダマになり、せっかくの倍音が死ぬ)。そうすると、多分「天使の歌声」なるものが“響きの帯”として現れてくるはずだ(この論理の極みが、セルジウ・チェリビダッケの『音楽の現象学』)。編集の際も、極力イコライジングは避けた方がいい。継ぎ接ぎなどは以っての外で、井上さんの真骨頂はライヴにあるのだから、スタジオテイクも一発撮りがいい。どうしてもリテイクを複数繋ぎ合わせる必要があるのならば、グレン・グールドの「パルス理論」を採用して、有機的に結合させたほうがいい(グールド研究の第一人者、宮澤淳一の書籍が参考になる)。何だか注文だらけになってしまったが、伸びシロはそこにあると思う。頑張れ!

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     2013/10/02

    自他共に認めるクラシック音楽マニアにして、大のSL好きの僕には堪らない一枚!何しろ、今やESOTERICで過去の名盤の音質を一新させ、聞き手を驚嘆させている杉本一家氏その人が、リマスタリングを担当しているのだから。大井川鐵道に所属のC56形44号機の写真をあしらった豪華な装丁は、部屋に飾るだけでも実に絵になる。何より、石田善之氏本人の手による詳細な解説が嬉しい。録音場所や機材、形式などの情報が盛り沢山である。録音された形式に関して少々蘊蓄を言うと、C56は国鉄最小のテンダー形(本体と炭水車によって構成されている形式。大井川鐵道にはジャケットにもある44号機が在籍)だし、C57は“貴婦人”の異名を持つスマートなボイラーが魅力の中型機だ(山口線に所属のC57はトップナンバーの1号機。客車は恐らく12系。最後の車両に発電機が搭載されているのでその音も入っている)。C11はもともと操車場か何かで貨車の入れ換えをするのに使われた小型のタンク形である(収録は大井川鐵道なので、恐らく227号機)。9600はキューロク、あるいはクンロクと呼ばれた機関車だ。これだけバラエティーに富むと、当然、汽笛やドラフト音も違うのである(一例を挙げればC11とC56。C56の方が汽笛の音が高い)。更に、平坦な路線を快速で走っているときと、急勾配に喘いでいるとき、更に、重い貨車を引き出す際に空転を起こしたときなど、SLは全く異なる表情を見せる。今日ではVVVFインバータ制御による静かな走行音の電車が主流だが、SLは現代の電車にはない、まるで生き物のような多彩な顔を見せるのだ。そんな魅力溢れる姿を、精緻なコメントと迫力極まる音質で味わえるのだから嬉しい。今やSLに限らず、列車の走行音を収めたものは映像も含め多数ある。しかし、それらが鉄道マニアの心理をくすぐることはあっても、オーディオ的にも興奮させられることは少ないのではないか。巷に跋扈する列車走行音CDの多くは、顧客ターゲットを鉄道マニアに限定しているはずであり、オーディオマニアまでには射程が届いていないのだ。その点、石田善之氏のこだわりと、杉本一家氏の渾身の復刻技術が融合したこのXRCDは、オーディオマニアをも唸らせる一枚になっている。単に音が鳴るに留まらず、吐き出される煤の匂いや、夏の鮮やかな緑の色や、鉄の塊の擦れるさまや、客車の重みまでもが伝わってくる。蝉時雨や、鳥の囀りや、微かな葉音、人々の喧騒に至るまで克明に収録されている。汽笛一声、山々にこだまするさまは、涙が出るほど嬉しい。これを、名作曲家にして大の鉄道マニアであったドヴォルザークに聴かせたら何と言うだろうか、などと、余計な妄想を膨らませて楽しんでいる。これぞ、SLの醍醐味、生録音の醍醐味と言えよう。

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  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/09/22

    EMIがやっつけ仕事をしている。玉石混交の嫌いが否めないボックスだ。録音自体、1939年から1975年と多岐に渡っている。当然、音質にもムラがある。ハイドンとシューマンは1975年の録音で、これが4枚のうちで一番音質がよい。しかしそれでも、高音域が頭打ちになったような音質であり、殊にミケランジェリともなると、あの煌めくような高音の抜けが再現仕切れないのは残念である。ラヴェルとラフマニノフは、ともに1957年の録音ながら年代離れした優秀なステレオ録音であり、同時期のものとしてはフランソワ盤と双璧を成すものとして名高い。しかし難を言わせていただければ、オケが非力である。指が回らない木管や音の遠い金管など、完全無欠なミケランジェリを支えるにはややお粗末だと言わざるを得ない。少なくともラヴェルに関しては、チェリビダッケ&ロンドン響のライヴ映像が残っているが、そちらの方が断然よい。そのほかの収録されたものはそもそも録音が古く、ミケランジェリの美音を堪能するにはどうしても物理的に無理があるが、それでも一枚目の音作りはまだまだマシな方である。問題は四枚目後半のショパンとドビュッシーだ。殆ど隠し撮りのような貧弱な音質である。何しろドビュッシーに関しては、録音日もエンジニアもUnknownと来ている。出所不明ではメンブランの10枚組と大差ないではないか。勿論、「ミケランジェリの全盛期はモノラル時代である」と主張する人が多いのは百も承知だが、DGの8枚組のボックスのクオリティーの高さと比較すると、所詮は廉価盤程度のクオリティーでしかない。ただ、ミケランジェリの場合そもそも録音の絶対数が少ない訳だし、一応ステレオも全盛期の音源もあるのだから、故人を偲ぶツールとして、まあアリと言えばアリだろう。けれどもその程度のことなら、何も4000円払ってまでこれを買う意味などない(私は中古品を入手出来たので、損した感じは少ないが)。良質な録音が廉価で、音質にこだわらなければネットで無料で拝聴可能なご時世、わざわざCDという入れ物に収めて売るからには、もう少しマトモな商品を安く売ったらどうなんだい?

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  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/09/03

    演奏は素晴らしい。有名なEMI盤をはるかに凌ぐ充実の内容で、殊に後半楽章の荘厳さにはただただ感服の一語に尽きる。神憑り的な程に美しいハーモニー、そこに楔を打ち付けるザードロのティンパニ、なかんずく、全主題が絡み合う終楽章コーダなど、これ以上何を望むべきかという程だ。ただ、問題は「拍手」。下記の指摘にもあるように、恐らくフライング・ブラボーがあって、それを削除したのだろう。そうすると、最後の和音を機械的に少し延ばしてのちフェイドアウトさせ、直後に、フライング部分を削除した拍手を、ほんの少しフェイドインさせて繋ぎ合わせるということになる。これは苦肉の策だったと思う。もし凡百の指揮者の演奏だったら、むしろ賢明な判断だったと褒めるかも知れないが、ことがチェリビダッケともなると話は別だ。チェリビダッケは、音と響きに対するこだわりが半端ではなかったからだ。だから、音の一つひとつがホール内に完全に消化されるように、最後の和音に至るまで計算し尽くしていたはずなのだ。そういう芸風を本場ミュンヘンの聴衆は心得ていたようで、殊にブルックナーに関しては、終演後かなりの間を置いてから拍手をし始めている。こうしたことも理解せずに、野獣の雄叫びのようなブラボーをいう奴も馬鹿だが、それを無理矢理加工するALTUSもALTUSだと思う。よって、演奏自体は星がいくつあっても足りない位だが、品位のない聴衆とALTUSの製作姿勢が意に沿わないので減点としたい。

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     2013/09/03

    不協和音がこれ程調和するとは!バルトークのオケコンといえば、徹頭徹尾不協和音と変則拍子に支配された曲だ。つまり、どんなに上手くやろうとしても、どうしても雑音の塊に陥りがちな難曲中の難曲だ。はっきり言って型破りな曲である。ところがチェリビダッケときたら、そんな不協和音すらも調和させてしまうのだ!歌舞伎役者、中村勘三郎は「型破り」について、「型破りとは、始めからハチャメチャをやることではない。型を熟知したうえで、敢えて踏み外すから、型破りなのだ」という。不協和音も、和音のバランスを熟知したうえで、敢えて踏み外しているのであって、そこには周到な計算があるはずなのだ。不協和音にも純然たるコスモスがあるのだ。不協和音が雑音とは全く異なるものであること、それ以上に、純然たる和音もバランスが崩れれば雑音になるという、音楽の根幹に至る哲学を、この演奏は教示してくれる。但し、上記の評価はあくまで輸入盤の評価。EMIの国内盤は往々にして指揮者の意図を逆撫でするような悪趣味なリマスタリングをするので、買う前から願い下げである。現在、輸入盤ボックスが限定ながら廉価で入手出来るから、聴くなら断然そちらを薦める。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/08/12

    「音楽は単なるエンターテイメントではない。演奏は作曲家に奉仕し、真理を追求する為にあるのであって、決して聴衆に受ける為にやるのではない。」……ミケランジェリの演奏を聴くと、そんな怒号すら聞こえてきそうだ。今日、“音楽”という名の“流行の産物”が大量生産・大量破棄を繰り返し、似たり寄ったりの“アーティスト”が造り物の個性を売りに乱立している。それに踊らされ続けている聴衆も聴衆で、次々と新曲を“消費”しては物欲を助長させている。そんな中にあって、真の音楽とは何かを知りたく、殆ど縋る想いでたどり着いたのがミケランジェリである。筋金入りの完全主義者にして大の録音嫌い、おまけにお騒がせなキャンセル魔という、三拍子揃った変人ではあるが、それは真の音楽を希求する上では、むしろ必然なことだったに違いない。ここで聴かれる演奏も、そんなミケランジェリの究極の美学に貫かれている。全編“死”の香りが支配するという、聴衆受けなど糞喰らえと言わんばかりのプログラムからして、凄い。拍手から始まり、椅子を引き、しばらく間を置いてからシューマンを弾きはじめる。もう、冒頭の数小節からして異次元である。分厚い和音が多い曲であるが、ミケランジェリときたら驚く程の透明感を獲得しているのだ。煌めく高音から地響きのような低音まで、一つとして埋もれさせない。全ての音が主役であるのと同時に、他の音を支える名脇役なのだ。白眉は《高雅にして感傷的なワルツ》だろう。ラヴェルの名盤といえばフランソワが名高く、軽妙洒脱にして即興的な中に絶妙な色彩感を醸し出す名演といえる。一方のミケランジェリは、ある意味フランソワとは真逆である。即興的なニュアンスは皆無といってよく、透徹の極致というべき計算され尽くした打鍵で弾き切る。それが奇しくも、ラヴェルがドビュッシーとは違う古典的造形美を宿していたことを、強く聴き手に認識させるのだ。特に終曲の繊細極まりなさと言ったら……!どうしてこんな響きが作れるのであろうか。刹那的な感情の高ぶりとか快楽などから完全に隔絶された、殆ど聖域というべき音響世界がそこにはある。これこそ、音楽、これこそ、真理だ。

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  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/08/11

    ピアノ芸術の美の頂点!これを聴かずして何を聴く?論評が長くなるがお付き合い願いたい。さて、@ベートーヴェンの協奏曲は、かつてはクライバーとの共演が予定されていたことでつとに知られている。共演が幻に終わったことを歎くファンも少なくないが、私見としては、仮に共演が実現していたとしても名盤にはなりえなかったと思っている。ミケランジェリのバックを務められる指揮者は、ガーベンやジュリーニのように彼に屈服出来る人か、もしくはチェリビダッケのように、彼をして驚嘆させる程の強烈な芸風を持っている人か、いずれかである。ミケランジェリにとってクライバーは、何れにせよ及第点以下だったのだ。そのベートーヴェンであるが、少なくとも《皇帝》に関してはチェリビダッケ&スウェーデン放送響の69年ライヴ(ヴァイトブリック)の方が一枚上手だ。ミケランジェリの透徹したピアニズムは歳を追う毎に衰退(それでも、余人の追随を許さないレヴェルであることには違いないのだが)し、特に本盤収録のモーツァルトはその傾向が強いが、60年代のミケランジェリにはより完全無欠な技巧と美音があったのだ。とはいえ1番も3番も彼ならではの繊細な表現が随所に聴かれ、とかく“重厚感”の名の下に看過されがちな精妙さが抜きん出ている。Aドビュッシーも名演である。ドビュッシーは印象派音楽の先鋒として知られ、殊に色彩感覚に優れている。そうした芸風を見事に再現してみせたピアニストとしては、無論フランソワが筆頭格である。軽妙洒脱で即興的、それでいて気品すら漂わせるという意味では、右に出るものはいないであろう。一方のミケランジェリは、ある意味フランソワと対極である。軽妙洒脱とか即興などとは縁遠い、隅々まで計算され尽くした打鍵。即興などというその場凌ぎの刹那的快楽など知ったことかと言わんばかりの、端正にしてクール、しかも微塵の曖昧さも感じさせない演奏である。ドビュッシーに付き物のもやついた感触が全くないのだ。殊に《沈める寺》と《水の反映》は絶品!Bショパンがこれまた凄い。ショパンの歴史的名盤といえば、真っ先にルービンシュタインの名が挙げられるだろう。作曲家と同郷にしてショパン・コンクールの審査委員長も歴任する程の権威だが、個人的には技術的な稚拙さ、特にミスタッチの多さが気に食わなかった。勿論、機械的ではない人間的な温かさを褒めちぎる論評を嫌というほど聞かされた上での話だ。敢えて言う。ルービンシュタインは下手くそだ。ここでのミケランジェリの打鍵、なかんずく音と響きの関係を注視するがよい。《バラード》や《スケルツォ》における場面展開毎の鮮やかな弾き分けは、殆ど神憑り的な美しさだ。一見無機質に感じる透徹しきった打鍵の中から、繊細至極なニュアンスが立ち上る。しかもお涙頂戴という女々しさなど皆無で、むしろ極めて男性的なショパンが描き出される。こんなショパンは、滅多にあるものではない。Cブラームスも、例えばギレリスの“鋼鉄”という名の雑音を聴いてしまった耳には、まるで別次元に感じられるだろう。分厚い和音ゆえ混濁しがちな響きが、ここまで透明感を伴って再現された例を私は知らない。……クドクドと書き連ねたが、とにかく驚きと発見、それ以上の根源的な感動へと誘う本盤。ピアノに少しでも興味のある人なら、聴かない理由はないだろう。

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