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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2019/09/13

    ネトレプコが出ているドレスデンでのティーレマンの指揮には、きれいごとに過ぎないかと文句を言ったが、これは名誉挽回にふさわしい、素晴らしく彫りの深い演奏。どうやら指揮者を触発したのはヴァルトラウト・マイアーであるようだ。衰えを見せるどころじゃない、凄まじい演唱と舞台上の威圧感。ハルテロス、ベチャワ、コニェチュニー、ツェッペンフェルト、他の四人もすべて万全で、演奏に関しては全く隙がない。
    一方、妖精の国に「光」をもたらそうとした電気技師が受け入れられず帰って行くという読み替え演出は、最後まで無理無理感を払拭できない。見どころは第1幕終わりの決闘が「空中戦」になるところ(もちろんワイヤー吊りで戦うのは歌手本人じゃないけど)。第3幕でローエングリンが電気コードでエルザを縛ってしまうという演出には、やはり時代の推移を感じる。女は男の言うことに黙って従えばいい、というようなポリシーは、たとえワーグナー・オペラの舞台上でも、もう許されない時代になったということだ。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2019/09/13

    主要キャストの面々はこのままザルツブルクに移動して、スタイアー演出の舞台に出たようで、三人ほどが共通している。歌手陣ではやはりカルクが抜群。素晴らしいパミーナだ。シャギムラトヴァもこちらの方が一段と安定している。フォークトも良い。タミーノはパパゲーノに比べて明らかに作者たち(台本作者と作曲家の両方)に愛されていない不幸な役だが、過度にドラマティックにならず丁寧に歌っていて、好感が持てる。まさかビリャソンがパパゲーノに回るとは思わなかったが、これは微妙。キャラとしては合っているのだが、まだバリトンの声ではないし、台詞もしっかり喋られてはいるのだが、やはりシャリンガーのようなウィーン訛りが懐かしい。ゼーリヒは今や舞台上では珍しくなった、品行方正なザラストロ。これはこれで大変結構。
    ネゼ・セガンの指揮も悪くはないのだが、ザルツブルクで振っていたカリディスがあまりに素晴らしかったので、残念だが聴き劣りする。繰り返し聴くには、このぐらい穏健な方が良いかもしれないけど。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2019/09/12

    序曲の間に見せられるのは20世紀初頭、第一次大戦前あたりのブルジョワ家庭の夕食風景。ここにオペラの主要人物が既に顔を揃えている。ザラストロ(いかにも旧世代の家父長らしい父親、食事の間に家を出て行ってしまう)、夜の女王(それを見てヒステリーを起こすお母さん、夫婦仲は険悪そうだ)、三人の侍女(この家のメイドさん達)、パパゲーノ(血のついた前掛けをつけた肉屋)、パパゲーナ(その伴侶)、モノスタトス(父親を訪ねてきた御用聞き?)、そしてパミーナは食堂にかかっている、おじいさんの伴侶だった人の若き日の肖像画として表象される。そしてオペラ本編は食事が終わってベッドに入った三人の孫たち(オペラ内でも彼らのパートを歌う)におじいさんが語るメルヒェンとして展開してゆく。おじいさん役のブランダウアーは2003年チューリッヒでの『後宮』でも素晴らしいセリム・パシャだったが、一段と渋くなって実に素敵。したがって、オリジナルの台詞はほぼ全廃。ザラストロの露骨な人種差別発言など、今となっては扱いにくい元の台詞をやめて、見通しのよい視点から物語を語り直そうという意図かと思ったが、必ずしもそうではない。確かにモノスタトスはもはや全く黒人ではないが、演出家は夜の女王のみならず、怪しげなサーカス団長といった風のザラストロに対しても十分に批判的。特にエンディングで啓蒙主義=ザラストロの暴力性を痛烈に暴いてみせるので、テレビ中継の行われた初日には夏のザルツでは珍しい盛大なブーを浴びたが、アメリカ生まれの女性演出家、スタイアーの意気や大いに良し。ただ一つ、2018年が第一次大戦終戦百周年であることが意識されていたのだとしても、火と水の試練がありきたりな第一次大戦映像の投影になってしまったのだけは残念。
    カリディスの指揮が圧巻の出来だ。ベルリン・フィル・デビューの演奏会(2019年6月)でも素晴らしいモーツァルトを聴かせているが、HIPスタイルでウィーン・フィルを存分に引き回して実に痛快。歌手陣ではまずカルクを誉めよう。情愛細やかな、しかし現代的な自立した女性像を描いていて、歴代パミーナの中でも屈指の演唱。シャギムラトヴァはコンディション万全でなかったかもしれないが(初日はドタキャン)、さすがに現在の第一人者。デセイの演技力と比べたりしなければ、まずは満足できる夜の女王だ。ペーターは生硬ではあるが、おもちゃの兵隊風に作られたキャラにうまくはまっている。ブラチェトカは鈍重なタイプで、私の好みのパパゲーノではないが、まあ及第点か。ゲルネのザラストロは問題作。まず声から言って、無理な配役だ。ザラストロ名物の超低音はひどくわざとらしく響くが、モーツァルトはこの人物をからかうために超低域で歌わせたのだという説も唱えられている。そう考えれば、なかなか面白い配役。演技としては半ば悪役風に演じられているのも納得。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2019/08/29

    ティーレマンの指揮はここでも見事。『トスカ』はプッチーニ諸作の中でも特殊なキャラクターのオペラなので(アバドはさすがに振らなかったが、この作曲家をあまりやらないムーティもレパートリーにしていた)、R.シュトラウスと同じような振り方で押し切ってしまえる。歌にぴったりつけるテクニックもさすがだ。歌手陣ではテジエが出色。一見、紳士的だが実はすこぶる陰険な悪役を的確に表現している。ハルテロスも声楽的には非常に高度だが、この人物の演技性人格の表出という点ではオポライスの方が一枚上手。「歌に生き、愛に生き」のようにしっとりと歌い上げる部分は全く見事だが、スカルピア刺殺シーンなど激烈な部分の演じ方がちょっと型通りで嘘っぽい。アントネンコは相変わらず立派な声だが、演技も含めてひどく鈍重で、私のイメージするカヴァラドッシとは違う。
    第1幕冒頭は地下駐車場での銃撃戦から始まる現代化演出だが、以下の一点を除けば特に見るべきところはない。バーデンバーデンのヒンメルマン演出に比べると、オペラへの「現代」の取り込み方が全く下手だ。その一点と言うのは、第1幕から出ている教会付き寄宿学校の生徒の一人が第3幕冒頭の牧童の歌を歌うのは当然としても、カヴァラドッシ銃殺シーンでも少年たちが銃を持たされ、銃殺の役割を担わされるという場面だ。中東やアフリカで問題化している少年兵問題をアピールしたということだろう。最後の「どんでん返し」については一応伏せるが、幕切れ直前の「スカルピアが殺された」ほか、幾つかの台詞を無効にしてまでやる意義のある読み替えとも思えない。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2019/07/14

    演奏だけなら大変充実した公演だが、なぜかまだレビューがありませんね。ティーレマンはすでにバイロイト(2008)とウィーン(2011)で『指輪』全曲をライヴ録音。バイロイト版は『ワルキューレ』のみ2010年に録画もされている。したがって指揮は緻密で、こなれている。もう少しアグレッシヴに行っても良い気がするが、今回の落ち着いた印象はドレスデンのオケのせいだろう。歌手陣はクリスタ・マイアのフリッカがめり込み気味なのを除けば、ハルテロス、カンペの両ソプラノ以下、ティーレマンの関わった『ワルキューレ』では過去最高の陣容。特にカンペの初々しい感触は貴重。両ソプラノが並ぶと、ブリュンヒルデの方が声はドラマティックであっても、ジークリンデの方が人生経験を積んでいるように見えるべきだが、この演奏ではちゃんとそうなっている。ザイフェルトも見た目を気にしなければ(ボータよりは幾らかマシ)、まだまだ素晴らしいジークムント。コワリョフは確かにホッター、アダム、モリスのようなカリスマ性はないが、『ラインの黄金』での権力欲ギラギラの家父長とは違って、『ワルキューレ』のヴォータンは人間的な(?)弱さを見せるべきキャラなので、これもまた悪くないと思う。少なくともこれまでティーレマン指揮で歌っていたドーメンよりは遥かに良い。ツェッペンフェルトの性格的な悪役ぶりも相変わらず見事。
    シュナイダー=ジームセンの半世紀前の装置をそのまま使うという「縛りプレイ」を引き受けた奇特な演出家はネミロヴァ(つまりカラヤン演出の舞台ではないので、お間違いなく)。もちろん盛大にプロジェクション・マッピングを投入すれば、舞台の印象を全く変えることができるだろうが、さすがにそれはいけないだろうというわけで、最小限に自粛。幕切れなどはナマの火を使うことにこだわって見せたが、印象は何ともしょぼい。フンディング家での露骨なDVの有り様など(略奪結婚だから、これで当然)、女性演出家ならではの視点もあるが、これは2012年にフランクフルトで録画されている彼女演出の『指輪』全曲ですでに見られるもの。そこでの演出に比べると、やはり「縛りプレイ」の制約がはっきり見えてしまう。それでもバイロイトの、箸にも棒にもかからないドルスト演出に比べれば断然良いけれどね。

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     2019/07/05

    南西ドイツ放響とは通常の4楽章版で録音していたロトだが、5楽章版の録音にはレ・シエクルを起用。相変わらず楽器の選び方に対するこだわりは半端ない。世紀転換期頃のドイツ系楽器が集められていて、普段フランス式のバソンを吹いているファゴット奏者など、ドイツ式ファゴットに適応するのは容易ではないと思われるが、大したものだ。ただし、楽器へのこだわりに反して、楽譜の選択が何とも安易なのは残念。すでに通常版で録音しているのに、何で二度目の録音にこのマーラー協会版を選ぶかな。確かに第1楽章最初のファンファーレはクラリネットではなくホルンだし(ヘンゲルブロックと同じく舞台裏ではなく普通にオケの中で吹いているようだ)、終楽章になってもダブル・ティンパニにはならないが、それ以外では通常版との違いはほとんどない。ちゃんと校訂されている楽譜だから、以前のハンブルク稿に比べれば信頼性は高いだろうけど、オケの編成も普通の四管だし、ホルンも(メンバー表が正しければ)8人いる。演奏自体も叙情的な部分の歌い方など、ノン・ヴィブラートに固執して、ちょっとぎこちない所が面白かった前回録音に比べると、ずっと普通のスタイルに近づいている。確かに普通はマスクされがちな中低音域の動きが良く聴こえるあたりは、さすがロトと思うけど、もともと極度にポリフォニックな5番と違って、1番でこれをやられても、あまり有難みがない(その点ではギュルツェニヒ管との3番も不発だったと思う)。行くところ可ならざるはなしという感があったロトも、ドイツ系レパートリーに関しては無敵とは言えないな。

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     2019/06/22

    第14番以降の6曲から始まった、このコンビによるモーツァルト/ピアノ協奏曲シリーズもいよいよ20番台に突入。全集になるかどうかは分からないが、第22番以降の6曲は間違いなく録音されるだろう。モダン・ピアノによる録音だが、ピリオド・スタイルは十分に踏まえられている。第21番では両端楽章でフリードリヒ・グルダのカデンツァを用いているが、これが実に素敵。緩徐楽章の旋律装飾はきわめて大胆だが、ここでもグルダのアイデアが踏襲されていることが分かる(アバドとの録音ではなく1962年録音のスワロフスキー指揮の方。ただし、この盤でグルダがやっているように、ピアノが通奏低音を担当してオケ・パートに加わることはない)。『ドン・ジョヴァンニ』序曲は演奏会用の結尾をつけた版の方。最後の第20番もベートーヴェン作のカデンツァの表現力などさすがだが、バヴゼはそんなに強烈な個性を刻印するタイプのピアニストではないので、ドビュッシーでも初期の作品では端麗な造形と美しいタッチが魅力的だが、さすがに『前奏曲集』あたりになると、もう少し何か主張してほしいという不満が出てくる。第20番も模範的な演奏だが、オケの表出力ともども、少し前に出たチョ・ソンジン/ネゼ=セガン/ヨーロッパ室内管の方が一枚上手。けれども、リーフレットの中で第2楽章中間部の旋律について、バッハの『ヨハネ受難曲』の一節に由来し、シューマンのピアノ・ソナタ第3番終楽章でも繰り返されているとピアニストが言っているのは、なかなかの卓見。マンチェスター・カメラータは10型ぐらいの編成と思われるが対向配置ではなく、近年では珍しくチェロが指揮者の右横にいるのが面白い。

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     2019/06/08

    先のレビュアーによれば『悲愴』の第1、第3楽章のクライマックスでリミッターがかかるということだが、わが家の安物装置では全くそんな気配もない。アンプのスピーカー保護機構が働いているのではないか(わが家のアンプは無理な入力があると音量を下げたりせず、音そのものを遮断してしまうが)。もっとも、ネルソンスの録画としては必ずしも最上の出来とは言い難いが。モーツァルトは「昔懐かしい」ふっくらしたスタイルではなく、かなり鋭角的な、もちろんHIPを踏まえた演奏。第2楽章の「あえぐ」ような息苦しさなど出色だと思うが、ヴィブラート控えめとはいえ弦楽器の数が多すぎて、解釈が徹底しきれていない。トランペットもティンパニもないこの曲の場合、8型以下でも全く構わないと思うのだが、オケ側としては室内オケのように扱われては困るという事情もあるのだろう。ちなみに、クラリネットありの版で演奏。管楽器は全く倍管なし、リピートはすべて実施。
    『悲愴』は両端楽章がかなり遅いが、バーンスタイン(DG録音)などに比べれば、形式の崩れはほとんどない。細部までこだわりまくりのクルレンツィスを聴いてしまうと、こういう超名曲を王道路線で征服するのは難しいなと痛感する。思い切って情念に身を委ねるか、解釈としてはどちらかに極端に振れてほしいところ。ゲヴァントハウスとの録画では何といってもブルックナー7番が圧巻だったし(これも遠からずディスク化されるのではないか)、同じチャイコフスキーでも来日公演で振った第5番がチャイコフスキー流の感傷を残しつつも、きわめてマッシヴかつ堅牢(つまりバーンスタインとは真反対)な解釈で断然、印象的だった。

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     2019/06/07

    最初に演奏されたのは昨年が生誕百周年だったツィンマーマンのトランペット協奏曲。1950年代の前衛音楽とジャズ風の曲調をミックスした音楽で単一楽章、15分ほどの曲。黒人霊歌「誰も知らない私の悩み」をパラフレーズした作品でもあるので、マーラー2番の前に演奏するのにふさわしい。世界中でこの曲を吹いているハーデンベルガーのソロも堂に入ったもの。マーラーの2番は全5楽章で演奏時間90分を超える、遅いテンポで細密に描いた演奏。第1楽章展開部真ん中のゲネラルパウゼの長いこと、その後のコントラバスに始まる葬送行進のもったいぶった入りなど、やたら「巨匠風」な解釈は嫌いな人には嫌われそうだ。けれども、スケルツォの緩急の付け方など、ウィーン・フィルの流儀に合わせて「なだらか」になりすぎた感はあるものの、マーラーのなかでは現在のネルソンスのスタイルに最も合った曲であるのは確か(3番もたぶん良いだろう)。バイエルン放送合唱団の神経の行き届いた細やかな歌唱もお見事。12月のベルリン・フィル定期で歌ったライプツィヒ放送合唱団と互角の勝負だ。目下、ベートーヴェン交響曲全集を録音中のウィーン・フィルとも息ぴったり。ティーレマンと並んで、最もウィーン・フィルに好かれそうな指揮者であるのは間違いない。ちなみに、カメラワークはとても細かく、アップを多用していて指揮者の映像も意外に少ない(近年のネルソンスのアクションが以前よりは抑制気味なせいか)。でも祝祭大劇場の客席からは絶対にこういう角度では見られないので、これもまた面白い。

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     2019/06/06

    近年の在京オケによるマーラー第9では2019年2月のチョン・ミョンフン/東フィルが圧倒的な名演だったが、これはそれに次ぐ出来。カンブルラン時代の読響ではマーラー1、5、6、7、9番を聴かせてもらったが、6番とこの9番が断然良かった。最近のカンブルランの常で、余裕のあるテンポをとるので、第3楽章の狂騒はだいぶ後退しているが、逆にこの楽章最後のストレッタでも音がダンゴ状態にならず、音楽の構造を明晰に聞き取れるのが、この指揮者の強み。第1楽章展開部末尾のクライマックスでもほとんどテンポを上げないが、トロンポーンの暴力的な強奏から始まる序奏素材の回帰はそれゆえ一段と冷徹、無慈悲だ。終楽章も陰々滅々たる「滅び」の音楽には全く聴こえず、むしろ明るい「新生」の音楽のように響くのは、演奏のクール・ビューティーゆえであろう。すなわちシェーンベルク以下、20世紀音楽の側から振り返ったマーラーで、過去の録音を引き合いに出せばジュリーニ/シカゴやブーレーズ/シカゴに近いアプローチだが、とりわけ後者寄りと言えようか。
    読響の演奏は輝かしく申し分ない。特にこの日は指揮者の指示によるのだろう、随所で通常の声部バランス以上の強奏を披露していたホルン・セクションには大拍手。もちろんドゥダメル/ロサンゼルス・フィルなどを聴くと「上には上がある」ことを思い知らされるが、彼らの演奏はあまりにスムーズで、マーラーがこの曲に盛った新機軸とソナタ形式という古い革袋が衝突して生ずる「きしみ」が聴こえなくなるという贅沢な不満もなきにしもあらず。カンブルランは逆に「きしみ」をはっきり聴かせるように振っていたと思う。望むらくば、当日の休憩前に演奏された20分ちょっとのアイヴズ『ニューイングランドの三つの場所』が一緒にCD化されれば、なお良かった。マーラー第9に対するカンブルランの接近の方向を端的に示す秀逸なプログラミングだったので。なお、リーフレットに載った松浦一生氏の曲目解説がきわめて優れた力作であることを付記しておこう。

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     2019/06/01

    エベーヌ四重奏団の元ヴィオラ奏者、マチュー・ヘルツォークが率いる新しい室内オケのデビュー録音。弦は10/8/6/4/3の編成、管楽器はすべて楽譜の指定通り。楽器はモダンだがピリオド奏法、ティンパニは明らかにバロック・ティンパニの響きがする。提示部反復はすべて実行するが、展開部〜再現部のリピートは一切行わない。ピリオド楽器オケと現代楽器アンサンブルの「いいとこどり」狙いと言えるが、彼らの特徴は名前の通り、演奏がきわめてアパッショナート(情熱的)なこと。モーツァルトの三大交響曲はいわば時代を超越した作品であり、実際にはモーツァルトの死後に書かれたハイドン最後のロンドン(ザロモン)交響曲群を追い抜いてベートーヴェンに直結していると指揮者はライナーノートで述べているが、彼らの演奏も、18世紀の様式を踏まえつつも、学問的な考証にはとらわれない。全体にテンポが速いのはHIP以後のスタイル共通だが、彼らは三曲ともメヌエットが速く、リズムのビートが強烈。アーノンクールのように主部とトリオでテンポの落差をつけることもない。優雅な宮廷舞踏会というより、もはやベートーヴェンのスケルツォ、いやロック・ミュージックの乗りだ。『ジュピター』の両端楽章は特に限度ぎりぎりの速さだが(9:45と7:31、前述の通り終楽章後半のリピートはなし)、逆に第2楽章はかなり遅く、歌い口はロマンティックですらある。録音の録り方は各楽器をクローズアップするタイプのものではなく、ホールトーン重視だが、金管楽器やティンパニは十分に雄弁に響く。サヴァールの最新録音を聴いて、ああ彼も老いてしまったなとがっかりしたが、こちらは元気溌剌、きわめて意気軒昂な演奏。 

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     2019/05/26

    話題の女性指揮者、ミルガ・グラジニーテ=ティーラの(協奏曲の伴奏を除けば)初録音。イエロー・レーベルからのデビューとなったが、彼の「白鳥の歌」と言うべき重要作ながらめぼしい録音がなかったヴァインベルク(今年が生誕百周年でもある)の交響曲第21番『カディッシュ』が選ばれており、慎重に準備されたデビューという印象を受ける。この曲の最初のCDが出た時、私は曲自体も「芸がなさ過ぎる」という旨の批判を書いたが、この演奏は曲の「芸のなさ」を完全に逆手にとっている。ほとんどポリフォニーもない、コントラスト付けのための速い部分を除けば緩徐な楽想が延々と続く曲をきわめて繊細に、心を込めて歌っている。ちょうどアルヴォ・ペルトの音楽のようなアプローチ。こういうやり方で曲に近づくためには不可欠だったのだろう。バーミンガム市交響楽団にクレメラータ・バルティカが加わり、ギドン・クレーメルもヴァイオリンのソロ・パートを担当している。最終楽章のソプラノ・ソロ(歌詞のないヴォカリーズ)はリーフレットには指揮者自身の名がクレジットされているが、さすがにこれは間違いではないか。HMVの[収録情報]通り、ボーイソプラノとソプラノに分担させているように聴こえる。ショパン、マーラー、自作ほか多数の引用を含む交響曲。
    一方、第21番の半世紀近く前の交響曲第2番は遥かに普通の新古典派の音楽だが、同じ弦楽のための交響曲でも名作第10番のようにはがっちり書かれておらず、そのナイーヴさがなかなか厄介な作品。こちらも大変美しい。 

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     2019/05/11

    これまで非常に見事だったこのコンビによるショスタコーヴィチ・シリーズだが、今回はやや不満の残る出来。第7番は前回のバーミンガム市響とのライヴを大変高く買っていたのだが、それに比べると全体にテンポが遅くなり、オケのヴィルトゥオジティもあって一段とグラマラスな印象。この曲の演奏にありがちな酷薄な感じがなく、常にヒューマンな感触があるのは一面ではプラスだが、この曲はやはり「非人間的な」面を持つ作品だと思うので、そういう部分がこの演奏では「おおらか」に過ぎる。第1楽章の「戦争の主題」の苛烈さ、あるいはパロディ性なども前回録音の方が的確であったように思うし、スケルツォ中間部、アダージョ中間部などのやたら好戦的な楽想も、もう少し煽ってほしい。第6番も第1楽章ラルゴは全く素晴らしい。この指揮者の緩徐楽章に対する適性が端的にうかがわれる。しかし、第2楽章以下ではもっとシャープさが欲しい。音楽が脂肪太り気味で「もっさり」し過ぎていると思う。かつてのムラヴィンスキー(1965年録音)もしくはゲルギエフ(マリインスキー・レーベルの再録音の方)が私の理想なのだが。

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     2019/03/31

    変ロ長調ソナタ第1楽章はモルト・モデラートとだけあって、テンポを変えろという指示は楽譜にはない。でも、第1主題のように動きの少ない歌謡主題から三十二分音符の連続するパッセージまであるわけだから、何かいじってみようと考えるのは演奏家の常。第2主題提示後の三十二分音符で加速、第二提示部と言うべき第1、第2主題の確保は速めのテンポのまま飛ばして、提示部の終わりでア・テンポに戻すというのがこの演奏の基本コンセプト。提示部反復(もちろんあり)や再現部でも同じことを繰り返しているし、展開部でもしばしばクレッシェンドとアッチェレランドが連動してテンポはよく動く。それ以外にも細かなルバートが随所にあり、第1主題は左手を効かせて「重く」弾くなど、音色も実に多彩だ。第2楽章両端部は前代未聞の超スローテンポ(14:32)、孤独な歩みに心が押しつぶされそうになるが、中間部ではテンポを上げて「希望の歌」が奏でられる。一転してスケルツォは妖精の踊りのように軽やか、トリオでは左手sfpの強調で全くユニークな響きを作る。そして名残り惜しげにいったんテンポを緩めてから最後のプレストに突入する終楽章に至るまで、隅々まで創意工夫にあふれた独創的な演奏にもかかわらず、少しも恣意性を感じさせない。即興曲 D899も一曲目(ハ短調)の重いテンポ、スタッカート気味の弾き方以下、すこぶる個性的。ちなみに、ライナーノートに寄せた彼女自身の文章も何とも素敵。この美貌に文才、ピアニストとしてのテクニック、天はいったい幾つの才能を彼女に与えたことやら。今年2月の来日中止で変ロ長調ソナタを含むリサイタルも流れてしまったのは痛恨事だったが、ヨーロッパでは演奏会に復帰しているようなので、来年4月にはぜひラフマニノフ第3協奏曲を弾きに日本に来てほしい。

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     2019/03/09

    ここ一年ほどの間に来日した三つのメジャー・オーケストラに同伴するなど、相変わらず大活躍のユジャだが、アルバムは三年ぶりとは意外。二年前の来日リサイタルでも『クライスレリアーナ』と『ハンマークラヴィーア・ソナタ』を軸にしたト短調/変ロ長調プログラムを弾いたが、ラフマニノフの(これだけは大変ポピュラーな)ト短調プレリュードで始めて、プロコフィエフの第8ソナタで締めるこのディスクもまた、いわばト短調/変ロ長調プログラム。音楽的に最も聴き応えがあるのはスクリャービンの第10ソナタ。彼女がスクリャービン好きであることは知っていたが、まさかいきなり第10番を弾いてくるとは思わなかった。「神秘主義」などという曖昧なものに頼らず、強靱な技巧で押し切ってしまった演奏だ。一方、最も技巧的な凄味を感じさせるのはリゲティの三つの練習曲。デビュー録音で弾いていた二曲とは違う曲を選んでいて、第3番、第9番、第1番を序破急風に並べているが、第1番「無秩序」の爆発力など圧巻だ。実際のリサイタルではここで大拍手になるはずだが、拍手は最後のプロコフィエフのあと以外、うまくカットされている。彼女はプロコの第7ソナタの終楽章をオハコにしていて、しばしばアンコールで弾いているから、第7番より規模は大きいが、やや穏やかな性格の第8番はもはや朝飯前。ちなみに毎度、議論になる彼女のステージ衣装だが、このジャケットのものなど、とても良いではないか(ミュンヘン・フィル名古屋公演ではピンヒールを裾にひっかけてコケかけたけど)。私は衣装の方も断固、支持したいな。

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