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ココパナ さんのレビュー一覧 

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     2021/07/10

    2002年からシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者となったハイティンクによる、就任すぐのコンサートの音源2種を集めたもの。ハイティンクは長いキャリアの中で、録音活動も積極的に行ってきた人物で、特にブルックナーに関してはひとかたならぬ愛を感じさせるものがあって、例えばLP期のひところ、ブルックナーの第0番のディスクなんて、ハイティンクのものが唯一だった記憶がある。ブルックナーの初期の交響曲なんか、ほとんど相手にされない時代から熱心に取り上げてきた人なのだ。しかも、第8番は得意中の得意といってよく、1969年のコンセルトヘボウ管弦楽団との録音以来、4種の既存盤がある。逆にモーツァルトは意外なほど録音がなく、交響曲の録音なんて、詳細を確認したわけではないが、おそらく、当録音がはじめてではないか。そういった意味で、とても興味深い2曲なのである。演奏を聴いてみた。これが「素晴らしい」の一言。特にブルックナーは流石の名演である。なんと表現すればいいが、どこをとっても、ものすごく純朴にまっすぐなブルックナーなのである。悠々たるテンポ、適度な脈を持った大きな呼吸。フォルテの崇高な盛り上がりは、実に自然で、うるささと無縁。しかも壮絶な迫力に満ちている。すべての場所において自然発揚的なエネルギーが満ちており、ブラスセクションと弦楽器陣の調和された響きは、アコースティックという形容詞が示す本来の姿のように思われる。私は、この演奏を聴いていて、突然思い出したことがある。吉田秀和(1913-2012)が著書の中で、以下のようなエピソードを披露していたのである。・・『ある時、カール・ベームの隣に坐って食事をした。一言、二言、話しているうちに、このつぎはいつ日本に来るのかという話になった。そうしたら、彼は「一度ドレスデンのシュターツカペレを呼んだらどうか。あれこそ本当にオーケストラらしいオーケストラなのだから。その時は、私は即座に飛んでくるよ」という。「でも、あなたは日本に来るのはいつだってウィーン・フィル、ベルリン・フィルといった選りぬきの交響楽団と一緒じゃないですか。ドレスデンはどういうわけで挙げるのですか」というと、あの言葉数の少ない巨匠はニヤッとして「まあ、きいてごらん」といっただけだったが、一呼吸おいて「でも、ドレスデンの方で私にふらせるかな」とつけ加え、軽くため息をついてみせた。』。この話は、ベルリンの壁が出現して何年もしないころの話だというのだから、今となっては、それから何世代か入れ替わったぐらい昔のエピソード。しかし、私がこの演奏を聴いて、思い至った感慨は、まさに「本当にオーケストラらしいオーケストラ」の演奏というのは、こういうものではないだろうか、ということである。それくらいこの演奏は、各奏者が自分のことだけに専心するのではなく、他の奏者の出す音も全部完全に踏まえきったうえで、すべての奏者が自らの役割を果たしていて、それが何十年も前から当たり前のこととして繰り広げられてきたというような、どっしりと深く座った安定感と自然さに満ちている、と感じるのである。モーツァルトも実に素晴らしい。自然で、溌溂としていて、いや、それだけだったら、この交響曲を演奏したら、大概の演奏がそうなるのだけれど、当盤の演奏には、各楽器の調和から導かれた豊かで深い香りが感じられるのである。どこがどう、と具体的に挙げる能力が私には足りないのだけれど、とにかく素晴らしい。というわけで、巨匠の指揮、伝統あるオーケストラの響きをこころゆくまで堪能できるアルバム。

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     2021/07/09

    イギリスのピアニスト、ハワード・シェリーによるムツィオ・クレメンティのソナタ全集プロジェクトの第6集にして完結編。当盤に収録されたのはクレメンティの完成期とも言えるop.40とop.50の作品群である。ただ、ひとまとめに完成期とはいっても、op.40が出版されたのが1802年、(第5集に収録されていた)ソナタ変ロ長調op.46が1820年、そしてop.50が1821年ということで、op.40と46の間には18年のタイムスパンがある。その間ソナタの作曲から離れたクレメンティの思索を創造すると、ひと括りに「完成期」とは呼べないのかもしれない。参考までに書くと、ベートーヴェンの熱情ソナタの出版が1807年になる。クレメンティもどこかでこの傑作ソナタを聴いたに違いない。それはおいておくとして、収録されたソナタはいずれも充実した出来栄えであることから、「完成期」の作品と言わせていただきたい。ピアノという鍵盤楽器の性能限界を追求し続けたクレメンティの集大成として、聴き応え満点。私は先に「ハイドンやモーツァルトのピアノソナタを凌駕し」と書いたけど、その根拠を説明しよう。私が高く評価したいのはクレメンティのソナタのドラマティックな要素である。効果的な倍音の使用、序奏と展開部の劇的な対比、果敢で急激な展開力。それらは、聴き手に「ピアニスティックな激しさ」として伝わる。かつ、その激しさが、ソナタとしての論理的な構築に鮮やかに収まっていて、パチンとすべてのパズルピースが嵌るかのように終結する完成度の高さを感じさせる。まさにピアノソナタの王道といえる作品群だと思う。イタリアは、クレメンティほどの作曲家を擁しながら、なぜこの分野の後継といえる人物が登場しなかったのだろうか。ト長調op.40-1のソナタは第1楽章のお洒落な主題と適度な幅のある展開の妙が見事。クレメンティにしか書けえない存分な魅力のある音楽。ニ短調op.50-2はまさに疾風怒濤の音楽で、ト短調op.34-2を髣髴とさせる。1楽章終結部の情熱的なエンディングは、「ベートーヴェンと双璧」と言えるパッションを提示している。また、ロ短調op.40-2も同じ傾向の作品と言えるだろう。先に書いたが、このソナタの出版は熱情ソナタに5年先んじている。クレメンティのソナタを評価していた楽聖ベートーヴェンが、このソナタを聴くことでなんらかの作曲意欲として感化されたことはおおいにありうるだろう。また、ベートーヴェンを聴いてクレメンティもまた新たな作曲意欲を刺激されたに違いない。シェリーの果敢なタッチによるアプローチは、そんな想像をかきたててやまない。

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     2021/07/09

    アナトリー・ヴェデルニコフは現黒龍江省ハルビン市生まれのソ連のピアニスト。ロシア・ピアニズムを象徴するピアニストの一人であり、スターリン全体主義によってその人生を大きく制約された芸術家の一人でもある。ヴェデルニコフはレパートリーの広いピアニストだったが、近現代作曲家と近い距離を保つことは旧体制下では危険と係わりあうことを意味した。ヴェデルニコフはそれでもなお芸術家としての信念を貫いたピアニスト。当盤は貴重な録音と言うだけでなく、演奏が実に素晴らしい。ヴェデルニコフのバッハは気高い崇高な雰囲気を湛えており、古典的だが古くなく、ロマン性があるのに耽美に傾かない。ピアノの響きはややほの暗く、つねに憂愁を帯びているが、凛とした佇まいがあり、清冽である。現代のピアニストの演奏では、楽曲によってはこれらの舞曲としての色彩に配慮した一種の軽さが備えられるが、ヴェデルニコフはむしろ堅牢な構造物を思わせるような質感を持って臨んでいて、峻険な趣も呈する。結果、聴き進むにつれ、敬虔な雰囲気に包まれてゆく。これはなにもバッハの音楽が教会音楽的だという先入観によるものではなく、特定の宗派を超えたもっと普遍的な象徴を音楽が表しているように思えるのである。イギリス組曲という厳しさを湛えた舞曲が、そのアプローチを活かす見事な名作であることをも再認識させられる。

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     2021/07/09

    スクリャービンが書いた「マズルカ」が、総て収録されたアルバム。ヤブロンスキー以外にも、同内容の曲目を集めたアルバムはそれなりにあるし、ショパンの影響を濃厚に宿したスクリャービン10代のころの傑作、「10のマズルカ」など、結構、弾かれることも多いのだが、私は、このヤブロンスキーの録音は、素晴らしい名録音だと思う。古今のスクリャービン名録音の中に、列挙されても良いのではないだろうか。ヤブロンスキーの演奏は、粒立ちの良い鮮やかな音色で、瞬発的な緩急を自在に操り、その情感をカラフルに描きあげたもの。楽曲の魅力が、最高と言って良い形で表現されており、私は、この曲集の魅力をあらためてたっぷりと味わうことが出来た。例えば、スクリャービンが16才の時に完成したop.3-1、その典雅さと、流麗な節回しの練達に作曲者の天才ぶりが示されているが、ヤブロンスキーは、透明かつ鮮烈なタッチで、情感とスピードの双方に抜群の冴えを感じさせるアプローチを示す。続くop.3-2でも、特徴的なリズムがくっきりと処理されながらも、清冽な音の流れが圧巻であり、聴き手の胸に、スッと情感が薫る。op.3-6では、巧妙なタッチと、不安をないまぜにした世界は美しく展開し、聴き手を魅了する。op.25-2やop.25-4のような古典的な長調の調性をもつ楽曲においても、スクリャービンならではの憂いや幻想的なものが交錯するが、ヤブロンスキーの演奏は、明瞭でありながら、陰影を巧みに描き分けていて、とても洗練されている。ある意味、現代的なスクリャービンを極めたような演奏である。スクリャービンが「マズルカ」という曲集に注力したのは、作曲家としてキャリアの若かったときであるため、当盤で、スクリャービン特有の神秘和音を応用した音世界が描かれているわけではないが、ロマン派の薫りが濃く漂うこれらの楽曲は、それ自体、別の魅力を持っており、ヤブロンスキーの演奏は、その魅力を、存分に聴き手に伝えるものであり、これらの曲集の演奏として、一つの理想に到達したものだと感じる。なお、当盤には、「3つの小品 op.2 から 第3番 “マズルカ風即興曲”」が収録されているが、「2つのマズルカ風即興曲 op.7」は収録されていないので、その点、留意事項として補足したい。

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     2021/07/09

    チャールズ・マッケラスが生涯に渡ってその作品の普及に努めた作曲家の一人が、モラヴィアの作曲家、レオシュ・ヤナーチェクである。そんなマッケラスのヤナーチェク録音の集大成と言えるのが、1976年から1982年にDECCAレーベルに行なったウィーンフィルとの一連の録音である。本アルバムは、それらを一つに収めたBox-set。独特の語法を持つヤナーチェクの音楽は実に面白い。自由だが法則があり、ポリリズムだが脈があり、メロディアスではないが簡明である。そんなヤナーチェクらしさを存分に堪能できるのが、全部で11作あるオペラ(前後2部からなる「ブロウチェク氏の旅行」を二つと数えると)であるオペラの場合、中でも特徴的なのが「発話旋律」と称されるもので、チェコ語の微妙な抑揚に合わせて旋律線を描いた朗唱風の書法で、そのため、演じることが可能な歌手が極端に限定される。そのため、上演機会もきわめて少ないのだが、マッケラスは中で5つの代表作にすばらしい録音を遺したことになる。DECCAの高品質録音とあいまって貴重きわまりないもの。ヤナーチェクのオペラは題材も面白い。「利口な牝狐の物語」は動物が多く登場する童話的設定を持ちながら、多層な哲学を描き出しているし、「死者の家から」はドストエフスキーの原作により、シベリアの流刑地での囚人の様子を描いたもので、登場人物はほとんど男性という異色作。「マクロプロス事件」は年をとらない女優の都市伝説的ストーリー。どの作品も、素材、音楽、物語など様々な面でこの上なく「芸術的」で、他では得難い固有の価値を持っていると思うが、中でも「利口な牝狐の物語」の自然讃歌は、善でも悪でもない生死による流転を描ききった感があり、超越した世界観を抱合している。「イェヌーファ」は所謂オペラ的分かりやすさという点では、筆頭ということになるだろう。マッケラスのモラヴィア語法を研究しつくした音楽の運びは、私にはどのくらい凄いのか理解できないが、聴いていて、強い説得力を持って響いていて、私は存分に楽しめることができる。完成された録音が、ヤナーチェクのオペラ全部ではないのが残念だが、それでも5つまでこのレベルの録音が行われたのは、きわめて有意義なことだったに相違ない。いや、偉大な録音芸術の一つといって過言ではないだろう。歌手陣で注目したいのは、近年亡くなったスウェーデンのソプラノ歌手、エリザベート・ゼーダーシュトレーム。多彩な言語の歌唱が可能で、歌曲、オペラなどあらゆるジャンルで縦横な活躍をした彼女であるが、グラモフォン誌におけるジョン・ワラック氏による「無限とも思える微細なタッチと慎重な歌いまわしで、ドラマにおける登場人物のキャラクタを描ききっている」との批評は、彼女がヤナーチェクの歌劇「カーチャ・カバノヴァー」でカーチャを演じた際のものだ。そのハイレベルな万能ぶりは当盤で堪能できるだろう。

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     2021/07/09

    イタリアの弦楽合奏団、イ・ソリスティ・アクイラーニによる、現代のイタリアの3人の作曲家による「ヴィオラ独奏と弦楽合奏のための作品」を集めたアルバム。規模の大きいアントニオーニの作品では、ウラディーミル・アシュケナージが指揮を務める。いろいろな注目点のあるアルバムであるが、一つは、2019年で音楽活動から引退したアシュケナージの最晩年の新譜という観点がある。自身の音楽活動を通じて、若手のアーティストや現代作曲家を積極的に世に紹介してきたアシュケナージらしい1枚として、彼の芸術活動の一面を象徴する感がある。また、収録されている3つの作品は、いずれも当盤が世界初録音ということであるが、いずれも素晴らしいものであり、現代イタリア芸術の鋭い感性、感覚的美観がよく反映したアルバムだと言うこともある。冒頭のセリーノの作品は、長大な単一楽章からなる作品であるが、弦楽器という弓で奏でる楽器の特性を活かした音の持続性と可変性をあやつり、鋭く、深刻な諸相が変容する様を描いたもので、その表出力の強さと緊迫感が見事だ。合奏音の重なりは、時に力強く、時に不安であり、それらが変容を通じてシームレスに描かれる様似独特の美しさがあって、魅力的。アントニーニの作品は、4つの楽章からなる。クラリネット、そして女声も加わり、独特な色彩感のある世界を描き出している。ディミトリ・アシュケナージのクラリネットが、弦楽合奏とよく溶け込んだイントネーションを演出していて、とても秀逸なことも是非指摘しておきたい。この作品でも、音響の連続性に特徴的な視点があり、楽器の音色を重ねることで、風景や自然を描写する試みが示されるが、十分な芸術性を感じる成果があり、それを良く示す演奏となっている。末尾のカルディの作品は、タイトルの通り、現代的なソノリティの中で、うごめく様に立ち現れるフォリアの旋律を扱ったものであり、高い緊張感が支配する中で、古来馴染まれた旋律が見え隠れする様が美しい。いずれの3作品とも、高い完成度を感じさせる作品であり、イ・ソリスティ・アクイラーニの高い技術と精度を持つアンサンブルが、作品の機能美を全面的に支えて、成功している。

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     2021/07/09

    2006年12月8日、札幌交響楽団第494回定期演奏会の壇上に登場したのは、これまでほとんど無名だったチェコの指揮者、 ラドミル・エリシュカであった。その日のプログラムは、スメタナの交響詩「ボヘミアの森と草原から」、次いでドヴォルザークの交響詩「金の紡ぎ車」、最後にリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」というものであった。その日、定期演奏会に来た聴衆のたいていは会員たちで、無名の指揮者ではあったが、それでもこのオーケストラが元来得意とするスラヴ系のレパートリーに期待を持って訪れた人が多かっただろう。ところが、その日の演奏は、彼らの期待をはるかにを上回るものだった。生気に溢れる表現、細部まで練り上げられたニュアンスの深さは、たちまち会場に集まった人々を魅了した。翌日、同じプログラムであったが、前夜の成功を聞きつけて、普段にはない多くの聴衆を集め、再び夢のひとときが繰り返されると、「これは本物だ」との声が沸き起こった。その後も、札幌では、エリシュカが壇上に立つたびに、当日券も完売するほどの人気となった。札幌交響楽団はエリシュカに首席客演指揮者の就任を依頼し、これを快諾したマエストロと、その後良好な関係を築き上げることとなる。2008年から札幌交響楽団の主席客演指揮者を務め、さらに2015年からは名誉指揮者として、年に2回のペースで札幌を訪れ、タクトをとった。その過程で、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ブラームスの一連の交響曲集を中心とする録音が行われた。どれもが素晴らしかった。しかし、そんな関係にも終りの時は訪れる。医師から、これ以上の長旅は、体力的に無理であると告げられたエリシュカであったが、「最後に、きちんとお別れが言いたい」とラストの訪日により、2017年の10月27日と28日に札幌コンサートホール・キタラで開催された「ザ・フェアウェルコンサート・イン・札幌」の模様が当盤には収録されている。プログラムを見てすぐに気づくのは、2006年の、エリシュカと札幌交響が組ん、そして札幌の音楽ファンが出会ったコンサートの曲目とそっくりである点である。スメタナ、ドヴォルザーク、そしてメインにR=コルサコフの「シェエラザード」。解説によると、当初は、ラストにベートーヴェンの第3交響曲という案があったのだが、エリシュカ本人の希望により、札幌での「出会い」の楽曲に差し替えられたのだと言う。札幌で素晴らしいキャリアを刻んだマエストロが、その活動の完結を示しているように思えてならない。演奏は、まさにラストに相応しいもの。いつもにもまして、熱い情感が伝わる。スメタナの「売られた花嫁」では、弦のダイナミックな響きが、なにか一つ一つしっかりと刻印を掘るように響くのが印象的。熱血的でエネルギッシュな表現で圧巻の締めくくりを迎える。ドヴォルザークのスラブ組曲では、郷愁的な高揚と、内省的な情緒が寄せては返すようにせめぎ合う。美しい時が流れるように過ぎていく。フリアントの躍動的な音楽の脈動は圧巻である。そして、シェエラザード。一夜にして札幌の聴衆を魅了した楽曲。実に堂々とした運び。全般に遅めのテンポをとり、脈々とうねりを高く重ねていく。情熱に溢れていながら、透明感のある響きがその基礎をささえる。中間2楽章は入念かつ繊細に描き込まれ、シーンの移り変わりに応じた楽器の語り掛けが心に響く。そして終曲。オーケストラが、マエストロとの貴重な最後の時間にすべてのエネルギーを放出しつくしたかのよな豊麗で力強い響きが貫かれる。この最後の曲終了後、客席の拍手と歓声は、25分以上も続いたのである。それにしてもエリシュカを招いてから、札幌交響楽団はあきらかに一つレベルの高い芸術集団になった。エリシュカの偉業は、セルとクリーヴランド管弦楽団の関係を彷彿とさせる功績だろう。

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     2021/07/09

    チャイコフスキーのマンフレッド交響曲という作品に対する評価は人によって様々だ。熱烈に支持する人も居れば、軽視している人もいる。チャイコフスキーを得意とし、何度も悲愴交響曲を録音した帝王カラヤンは、マンフレッド交響曲には手を出さなかった。一方で、小林研一郎のように「何度も」手がける人もいる。かつてロジェストヴェンスキーがモスクワ放送交響楽団を指揮してメロディアに録音したLPが忘れ難い。濃厚なロマンティシズムと土俗的な迫力を「これでもか」と前面に押し出した凄演だった。その録音を聴いて圧倒されながらも、あまりに情感を歌うメロディラインにやや戸惑ったことも事実。「交響曲」としての形が整っているだけに、齟齬を感じてしまう。そんな問題作の録音となる当ペトレンコ盤は2009年グラモフォン賞の管弦楽部門賞を授賞した。元来なじみ易いメロディに満ちた作品である。問題はその「俗性」をどの程度のラインでキープするかである。ペトレンコが巧妙なのは、その「俗性」が聴き手に訴える部分を肯定的に保ちながら、繊細な楽器のコントロールにより、表現を洗練させ、スタイリッシュな音楽に仕立て上げている部分にある。冒頭の瑞々しい木管の主題提示部から、これを支える弦の伴奏音型の表情が豊かで情緒が清清しい。まさに北国の音楽と思う。やや早めのテンポで引き締まっているが、場所によっては音楽を膨らまして見事な迫力を導く。第1楽章終結部の全管弦楽の合奏は力強い。中間2楽章もメロディラインが清らかに歌われるのが心地よく、いつのまにかすっかり音楽の世界に浸ってしまう。終楽章はもっとも浪漫的な音楽で、かつ土俗的だと思うが、ここでもペトレンコの入念なアプローチは音楽を造形的にまとめている。終結部のオルガンの導入も壮麗で幻想性に溢れている。このクライマックスの後の短く静かな終結部はことのほか美しい余韻を残す。併録されている「ヴォエヴォーダ」は交響的バラード「地方長官」の名の方が通っているかもしれない。両者は同じ作品である。こちらも名曲というわけではないがペトレンコの棒で洗練された白熱は楽しめる。

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     2021/07/09

    面白い選曲。グリーグでは、3曲あるヴァイオリン・ソナタのうち、有名な第3番ではなく、第2番を取り上げている。まあ、グリーグのヴァイオリン・ソナタは、どれも佳曲であるとは思うので、どれを取り上げるかというより、ヤナーチェク、フランクと一緒に収録というのは、なかなか見ない組み合わせだ。そういった点で面白い。レーピンとルガンスキーは、明瞭なクライマックスを築き上げながら、気持ちの良い流れでこれらの3曲を演奏している。ヤナーチェクは、速いテンポで開始される。冒頭の印象的なフレーズは、その速さのため、いくぶん不安定だが、情熱的であり、その情熱の行き着くさまを明瞭に感じさせる点でドラマティックだ。第2楽章の童話的な雰囲気、第3楽章の鋭さも、巧妙に演出されていて、聴かせる。第4楽章は、ヤナーチェクの様々な意図が含まれた音楽であると思うが、当演奏はそれをかいつまんで説明すると言うより、飄々とした感じであり、あくまで全体のスムーズを優先した印象。レーピンのヴァイオリンの流麗な美しさが、その解釈に一貫した方向性を与えている。グリーグの第2ソナタは、この曲がもつ情熱的な要素を鮮やかに描きあげた演奏になっている。特に終楽章は、心地よく早目のテンポで、グイグイと運んでいき、一気にフィナーレの放散に結び付ける。その燃焼度は高く、聴後感は実に清々しい。また、第2楽章は豊かなカンタービレに溢れていて、両端楽章との間にギャップをつける演出。このソナタは、これくらい積極的な表現があったほうが良い。フランクでは、ルガンスキーのピアノの技術的な冴えが一層魅力的だ。冒頭はさりげなく、自然だが、第2楽章の運動美は圧巻であり、レーピンのヴァイオリンともども、その鋭さと精密さで、聴き手を圧倒する。第3楽章はわりと普通だが、第4楽章は明るく壮大なエンディングに向けて力を蓄えていく過程に様々なドラマを感じさせ、夢中にさせてくれる。

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     2021/07/09

    イギリスのバロック・ヴァイオリン奏者パブロ・ベズノシウクが、自らディレクターを務めるエイヴィソン・アンサンブルと録音したもの。エイヴィソン・アンサンブルは、1985年に結成されたイギリス、ニューカッスルのピリオド楽器によるオーケストラ。ちなみに「エイヴィソン」の名は、18世紀のニューカッスルの作曲家チャールズ・エイヴィソンにちなんだもの。当盤は、2013年に没後300年を迎えたイタリア・バロックを代表する作曲家、コレルリにターゲットを当て、室内楽を順次録音していくというプロジェクトの一環だったもの。「合奏協奏曲」という形式は、コンチェルティーノと呼ばれる独奏(単独の楽器とは限らない)と、コンチェルト・グロッソと呼ばれる全合奏が、交代しながら進行するというもので、バッハのブランデンブルグ協奏曲など名作が多い。コレルリは、「合奏協奏曲」に、4から6楽章により1曲を構成してする形を定着させた人物であると考えられている。コレルリ以前には、同様の室内楽作品は、「トリオソナタ」と称される形式で書かれることが多かった。すなわち旋律楽器2つと通奏低音楽器1つによる3声部による音楽である。一方で、op.6の12曲は、2つの旋律楽器と、5部からなる弦楽合奏の対比により音楽がつくられる。また、これらの作品は、構成という観点では「教会ソナタ」もしくは「室内ソナタ」と称される形式で書かれており、これが“コレルリによる合奏協奏曲の完成”という業績と考えられている。ここでは、12曲のうち前半8曲が「教会ソナタ」、後半4曲が「室内ソナタ」と呼ばれるものになる。「教会ソナタ」では「緩−急−緩−急」の基本構成となる一方で、「室内ソナタ」は急速楽章から開始され、かつ舞曲を含んだ組曲になる。「教会ソナタ」の場合、本来は舞曲を含まない4楽章構成をとるわけだが、コレルリはしばしば舞曲風楽章を挿入した。これは、フランスのスタイルの影響であり、コレルリは、経過的で自由なスタイルの楽章を挿入することで、楽曲に変化を与えたとされている。「室内ソナタ」の形式は、のちにヴィヴァルディによって、急−緩−急の近代的な3楽章構成へとさらに進化していくことになる。コレルリの合奏協奏曲の場合、コンチェルティーノの部分は、一貫して2つのヴァイオリンと通奏低音(コンティヌオ)という編成で、2つの合奏群の音色と音量の対比によって効果を与えている。この点では、バロックの「合奏協奏曲」群の中でも、コレルリのものは古典的なものに該当する。さて、それでは当盤の代表的な特徴を挙げよう。一つは録音の秀逸さである。きわめて明晰で、音の空間把握が良好。各楽器の距離感が的確に再現されていて、臨場感に溢れている。もう一つは柔らかく洗練されたサウンドである。ピリオド楽器による奏法は、時として鋭角的で、攻撃的な側面を印象づけることが多いと思うが、ペズノシウクの作り出す響きは、柔和で、内省的な慎ましやかなところがあり、これが美徳として聴こえてくる。そのため、アンダンテ系の楽章では、その透き通った情感が、まるでヘンデルのような高貴さを思わせるように響くし(「教会ソナタ」群の冒頭楽章に注目されたい)、スピーディーな楽章では、快活で活発な息遣いが自然な起伏で奏でられている。以上の特性によって、コレルリの音楽の魅力を伝えると同時に、後の発展へのイマジネーションをも刺激する演奏となっており、音楽史的な俯瞰という視点においても、内容の濃い演奏になっている。

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     2021/07/09

    めちゃくちゃに面白い録音。2曲が鳴っている間、とにかく楽しくて、あっと言う間に聴き通した。まず、モーツァルト。開始と同時にただちに一つの特徴が明瞭となる。すなわち、オーケストラによる導入部から、すでにピアノが入ってくるのである。さながら、それこそモーツァルトの時代の通奏低音の様に。しかもボジャノフが操るのは、音彩豊かな現代の楽器である。現代ピアノの音響を用いたがゆえの、創造性に満ちた響きがあちらこちらで生まれて、ただちに聴き手を楽しませてくれる。私はこれを聴いて、グルダが、時々モーツァルトの協奏曲で、同じような遊び心に満ちた演出を繰り広げていたことを思い出す。グルダにしろ、ボジャノフにしろ、これはある意味即興的・感覚的な試みで、やりようによっては、華美に過ぎたり、聴き減りしたりしてしまう危険性もあるのだけれど、ボジャノフのコントロールはグルダ以上と言いたいほどに巧妙で、強弱を細やかにコントロールし、滋味さえ感じさせる音響をオーケストラと作り上げていく。そして本来のソロ・パートでは、これまた、装飾性豊かで、跳ねるように生命感に満ちたリズム、鮮やかな音色によって、私たちを楽しませてくれるのである。なんとカラフルで幸せなモーツァルト。もし、「ピアノ協奏曲第17番」という楽曲に、地味なイメージをお持ちの方がいたら、当盤はそれを一新してしまう可能性に満ちている。ショスタコーヴィチも楽しい。この外向的な軽妙さを湛えた楽曲に、ボジャノフはスリリングなインパクトと多彩な音色を用いて、とにかく「ノリの良い」演奏に仕上げる。あちらこちらで畳みかけるような演奏効果がさく裂し、鮮やかな絵巻が繰り広げられる。特に第3楽章の光沢あるピアノのタッチによる導入から描かれる透明な情感と、引き続く第4楽章で、名手ロイビンのトランペットとピアノ・ソロの圧倒的なやりとりは、極め付けといって良い楽しさ。両曲におけるシュルツ指揮のオーケストラも、特に管楽器陣の美しさが見事で、ソリストの描く魅力的な世界を、見事にサポートしている。

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     2021/07/09

    ベリオの「セクエンツァ」は、14の楽曲からなる一群の作品の総称。各作品はそれぞれソロ(フルート、ハープ、女声、ピアノ、トロンボーン、ヴィオラ、オーボエ、ヴァイオリン、クラリネット、トランペット、ギター、ファゴット、アコーディオン、チェロ、サクソフォン)楽器のために書かれている。それだから、全集としてリリースするためには14人の奏者が個別に曲を録音することになる。また、ベリオの狙いとして、それぞれの楽器の奏法の「新しい技術」を求めたため、どの曲も相応のテクニシャンでなければ太刀打ちできない代物である。ナクソスのような廉価レーベルがこの全集を出してくれたことは、とてもうれしいが、聴いてみて驚いたのは、その質の高さである。そもそも、ジャケットのデザインからしていつものナクソス・レーベルに比べて抽象度が高く、内容を期待させるセンスのよいものだったが、実際中身は負けていなかった。それにしても奏者の名前は正直言ってまったく聞いたことがない人ばかりである。そのメンバー全員が、一人のはずれもなくこれほどの演奏をしているのだから、その企画力の見事さにまず脱帽するほかない。楽曲は聴いてみるのが一番だが、とても面白い。様々な音色を一つの楽器に求めるが、決して破壊的ではなく、音楽としての求心性を保っている。とはいえ、その旋律は簡単に口ずさめるものではないし、現代音楽が一切ダメという人には向かないが、偉大な芸術家のライフワークを聴く貴重な機会を提供したアルバム。

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     2021/07/09

    超絶的な技巧を持つピアニスト、シプリアン・カツァリスによるとんでもない録音。ギリシアの作曲家テオドラキスが、1964年に映画「その男ゾルバ」のために書いたスコアを、カツァリス自身が、演奏時間53分に及ぶ壮大な「ピアノ・スコア」に編曲。演奏と併せて、膨大な熱量を感じさせる凄まじいアルバムとなっている。カツァリスがこの構想を思いついたのは、80年代のはじめという。テオドラキスの作品に深く傾倒したカツァリスは、これをリストの「ハンガリー狂詩曲」の構想になぞらえて、10数分のピアノ曲にアレンジすることを思い立つ。しかし、次から次へとあふれ出る構想をまとめた結果、40年近い歳月を費やし、53分にも及ぶ長大なピアノ・スコアが完成したのである。そして、2017年になって、これが録音された。原曲にあたるオーケストラ版は、その抜粋をデュトワが録音しており、私もこれを聴いて馴染んでいるのであるが、カツァリスが扱った主題やモチーフは、数に置いてこれを上回り、さらにリストを彷彿とさせるヴィルトゥオジティ満載の演奏効果が全編によって散りばめられている。とにかく聴いていただきたい。開いた口が塞がらないほどの凄まじい技巧だ。また、カツァリスの音楽に立ち向かう気迫が全体の雰囲気をいやがうえにも熱血的に高め、聴き手に怒涛のように押し寄せてくる。無二の迫力と言って良い。とにかく、この53分の長編がものすごい聴きモノで、これだけでも大推薦なのであるが、カツァリスはさらに別曲を収録してくれている。テオドラキスの歌曲による自発的な即興曲がまた見事で、テオドラキスが映画等のために書いた歌曲たちを集め、ロマンティックで狂詩曲風の一遍に仕上げたピアノ曲となっていて、こちらも演奏時間15分となかなかの規模。さらに、カツァリスは「テオドラキスが優れたピアノ・スコアの書き手であることを示すため、オリジナルの作品を数曲を加えており、この作曲家が技巧的なピアノ曲を自らの語法で開拓したことを示している。そのようなわけで、超充実サービスの78分間収録。

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     2021/07/09

    アルバム・タイトル、演奏者名、収録曲名を眺めているだけで、いろいろ想像力を刺激されるアルバムだ。グリマルはフアンの間では、天才とか奇才と称されるヴァイオリニストで、芸術の表現方法についても、様々な要求を持つ人物と言われる。プルーデルマッハーは、技巧的作品で妙技を聴かせるピアニストで、クラシックだけでなく、ジャンル横断的に活躍している。当アルバムに収録されているのは、ほぼ同時代に東ヨーロッパで生まれたヴァイオリンとピアノのための作品であり、シマノフスキの作品はちょっと別系統かもしれないが、他の作品はスラヴやマジャールといった文化圏の音楽素材と中央ヨーロッパの音楽文化の融合を目指したものである。“Europe”と言うタイトルで、モラヴィア、ポーランド、ルーマニア、ハンガリーといった国々で、特有の文化的背景を背負いながら生まれてきたこれらの楽曲を集めているところが面白い。これらの楽曲が書かれた時代、ドイツ・オーストリアといった音楽文化の中心国では、シェーンベルクを中心とした新ウィーン楽派による無調や十二音技法による新しい音楽書法が導入されていた時代である。ここで興味深いのは、当盤に収録された楽曲の表現技法や聴き手に与える相対的な印象が、新ウィーン楽派の編み出した方法論によるものとの間に、精神的な親近性を感じさせることである。「様々な文化の融合により新しい芸術を目指そうという取り組み」が、「既存の価値観を払拭しようという取り組み」と似たような出口を持っており、そこで成果として還元された一群の作品が、このアルバムに収められていると見做すことが出来るだろう。重ねて指摘すると、そのアルバムに添えられたタイトルが、ズバリ“Europe”である。これは、“Europe”こそが、芸術という高度に抽象化された文化の融合によって、象徴されるものであることを、暗に示しているようにも思われる。さて、グリマルとプルーデルマッハーの演奏であるが、一言で言うと、「情感たっぷり」の演奏だ。二人とも存分な技術を持ち合わせていて、その技術をいかんなく発揮し曲想に自らの思いを乗せる。特にグリマルのヴァイオリンは、「情念」のようなものを感じる。重音にも器用に伸縮や強弱の変化を与え、ニュアンスをたっぷり増幅し、陰影を深く刻んでいく。ヤナーチェクではその傾向がやや強く出すぎた感もあるが、全般に各楽曲の性格が強調された「濃い演奏」になっていて、とても面白い。もっとも私にとって印象深かったのは、エネスコのヴァイオリン・ソナタ第3番である。この曲は、最近では人気が上がってきて、様々な録音で聴くことが出来るようになったが、雰囲気の濃密さという点で当録音は素晴らしい。ジプシーの主題の野趣的な歌いまわしであったり、神秘的な霧を感じさせる気配であったり、そのような「何か」を感じさせるという点で、感覚的な鋭敏さを感じさせる演奏で、楽曲を体感しているという印象が強い。バルトークの曲は、オーケストラ伴奏版にもまけない表現力で、研ぎ澄まされた感覚美を如何なく発揮している。シマノフスキは、彼らの演奏技術の高さが細やかなイントネーションを鮮やかに描き出しており、見事。ヤナーチェクも前述のように、私の好みでは表現性が過多に感じられるところがあるものの、演奏の完成度自体は完璧と言って良いもの。アルバム全体としても、際立った完成度を誇っているだろう。

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     2021/07/09

    イギリスの作曲家、エルガーとオーストリアの作曲家、ハンス・ガルの組み合わせ。メネセスは1982年チャイコフスキー国際コンクールで優勝したブラジルのチェリスト。同郷のブラジル出身の指揮者、クルスとの共演で、オーケストラはイギリスのノーザン・シンフォニアである。ハンス・ガルという作曲家の名はほとんど知られていないと思うが、ユダヤ人であったため、ナチスの迫害を逃れてイギリスに渡り、作曲・指揮活動を行った人物。そのため、ここに収録された2曲は、いずれも「イギリスで生まれたチェロ協奏曲」ということになる。本アルバムには、無名なガルの協奏曲が先に収録してある。製作者側にとって是非聴いてほしい作品ということになるだろう。聴いてみると、確かに美しい部分のある作品である。3つの楽章からなっているが、全曲を通じてほとんど管弦楽による強奏はなく、特に前半2楽章は雰囲気が近い。チェロが紡ぐとりとめのない幻想的で、しかしこまやかな主題は少しずつ変容していくが、そのチェロの歌を支えるようにして、管弦楽のパートが添えられる。全体的に微細なパーツによって編まれた音楽で、チェロが朗々と響き渡るものでもない。その響きは確かにイギリス音楽的であるが、旋律が内包する和声の扱いはドイツ・オーストリアを思わせる。終楽章はより速い経過的な音楽と感じられ、無窮動的で、無調的な要素も散見できる。エルガーの曲は、名曲として知られはするが、こちらも内省的な作品で、積極的に聴衆に関与するような性格の作品ではないだろう。そのためアルバムの中での雰囲気が沈静な音楽で統一されている感がある。本アルバムは、それなりに音楽を長く聴いてきた人でなければ、やや敷居の高いものと感じられるかもしれない。しかし、演奏は素晴らしいものだと思う。メネセスのチェロは、きわめてアコースティックで、柔らかいぬくもりを感じさせるもので、余分なものがなく、淡々と、しかし滋味豊かな情緒に満ちている。エルガーの協奏曲のアダージョに特徴的な、祈りにも似た美しい禁欲的な厳かさがあり、楽曲のシックな雰囲気を落ち着いて素直に表現しており、いかにも大家の演奏といったところ。また技巧的で細やかなパッセージも、非常にスリムに表現されている。エルガーの曲では2009年録音のソル・ガベッタの名演も印象に残るが、より内密的と言えるこのメネセスの演奏も、同曲の代表録音として挙げたい内容だ。ガルの無名曲の周知とともに、地味ながら存在感のあるアルバムとなっている。

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