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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2018/10/14

    いかにも今のバレンボイムらしい泰然自若の印象を与える演奏だが、細部は細かく作り込まれており、全集全体としてすこぶる旗幟鮮明な方向性を感じさせる。ためしに第1番第4楽章の例の「歓喜の主題」を聴いてみてほしい。旋律線を担当するヴァイオリンはかの有名な主題を丁寧なアーティキュレーションで追うのではなく、一定の部分では故意に脱力して、いわば雑に弾いてゆく。これに対し、中低域の伴奏部はきわめて雄弁に動き、声部全体が和声の変化を克明に表出する。テンボはかなり遅く、第1番第1楽章以外、すべての楽章で前回録音より時間がかかっているが、音と音の間にエネルギーが充満している感じだったバーンスタイン/ウィーン・フィル、アポロ的な強固な構築性を感じさせたジュリーニ/ウィーン・フィルとは違って、枯淡の境地を感じさせる、やわらかな当たりの柔構造の構築物といった感じ。こういうアプローチがブラームスに合っていることは間違いないし、HIPなど無縁と思われたバレンボイムが各声部の雄弁な表出の結果、響きに調和がもたらされるというピリオド・スタイルに近いサウンドを志向しているのは興味深い。ここぞという所でのティンパニの強打なども、かつてのバレンボイムには見られなかったものだ。曲ごとに言うと両端の第1番、第4番が断然すばらしい。重苦しく鬱屈した第1番は正直言うと苦手、絶対に好んで聴きたくない曲なのだが、不思議に風通しの良いこの演奏なら繰り返し聴けそうだ。第4番冒頭はシカゴ響との録音と同じくフルトヴェングラーのコピーだが、第1楽章最後のアッチェレランドはずっと控えめで、峻厳さよりは芳醇さを優先させた印象。第3楽章は緩急の幅が大きく、遅いところでの脱力具合など音楽が止まってしまいそうだ。第3番も中間二楽章の嫋々たる美しさは買うが、終楽章はテンポが遅すぎて、音楽が弛緩している。第2番は現在のバレンボイムのアプローチには最も合わず、曲自体が凡庸に聴こえてしまう。ちなみに第1番、第2番では第1楽章の提示部反復なし、第3番のみ第1楽章の提示部反復を実行しているのは楽章相互の長さのバランスを考えたせいだろう。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2018/09/25

    序曲や二つの管楽器オブリガート付きアリアなど力作ナンバーもあるが、現代人としてはモーツァルトのこの作曲で数度目のおつとめとなるメタスタージオの大時代的でトロい台本におよそリアリティを感じられないのが、このオペラの難点。昨年夏のザルツブルクのセラーズ演出/クルレンツィス指揮のようにモーツァルトの他作品を大量にぶち込まないと、音楽的にも聴き応えに乏しいのは事実(幾らなんでも、あれはやり過ぎだけど)。人物たちをほぼ現代の衣装にしているグート演出は舞台をはっきりと二層に分けていて、一方はススキの繁る草原、自然あるいは子供時代のイメージであろう。もう一つは現代風の機能的だが冷たい感じのオフィスで、猜疑と欲望にまみれた大人の世界といったところ。リーフレット所収のインタビューでも演出家自身がはっきりそう語っている。この二分法を補強するように、序曲ほか要所要所では少年時代のセストとティートの映像が投影されるし、ついには子供の二人(分身)まで舞台に出てくるのではあるが、映像の中の子供たちはなぜかスリングショット(パチンコ)で鳥を撃って殺しているのだ! 野原もひどく箱庭的で私にはユートピア的な自然の表象には見えない。私の感性がヨーロッパ人のそれとは違うので、演出を深読みし過ぎている可能性もあるが、私には少年時代=単なる無垢ではないよと言っているように感じられる。全体主義国家でおなじみのマスゲームのように画一的な動きをする民衆たち(合唱)に対しても強いアイロニーが向けられているようだ。結果として2006年ザルツブルクのクーシェイ演出ほどには登場人物たちに共感することができなかったが、演出家の狙いはむしろ共感を拒む異化効果か?
    演奏自体の水準はきわめて高い。ティチアーティは現代楽器オケ(スコットランド室内管)でもブラームスに至るまでHIP的センスにあふれた好演を披露しているが、ここではピリオド楽器オケを率いて、尖鋭かつみずみずしいモーツァルトを聴かせてくれる。歌手陣ではセスト役のステファニーが抜群。当分、ズボン役で世界の歌劇場を席巻するのではないか。クート(ヴィテッリア)のドスの効いた悪女ぶりもなかなかだし、渋いおじさんになった(20年前のグラインドボーンでは素敵なペレアスだったけど)クロフトのティートも悪くない。葛藤の末に誰も彼も許してしまうというよりは、最後はヤケになっているようにしか見えないが。

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     2018/09/16

    コーミッシェ・オーパー来日公演の『魔笛』はもちろん面白かったが、あれは普通の『魔笛』を見飽きた、すれっからしファンのための舞台。『魔笛』ってこういうオペラだと思われては困ると感じたが、こちらは文句なしに素晴らしい。腑抜け演出、勘違い演出揃いの近年のバイロイトでは随一の名舞台。幕が上がる前に紗幕にえらく詳しい(詳しすぎて厭味な)状況説明が文字で表示される。それによれば第1幕の舞台は1875年のヴァーンフリート。ここに集う実在の人々がそのままオペラの登場人物になってゆく。すなわちワーグナー→ハンス・ザックス、リスト→ポーグナー、その娘コージマ→エーファ、ユダヤ人指揮者ヘルマン・レヴィ→ベックメッサー、ピアノから出てきた若いワーグナー→ヴァルター、もう少し若いワーグナー→ダヴィッド、ワーグナー家の女中→マグダレーナ。ヘアハイム演出と似た趣向だが、違うところもある。冒頭の礼拝シーンからユダヤ教徒のレヴィは一人だけ浮いているし、ワーグナーから強引にベックメッサー役を押しつけられる。ユダヤ人=ベックメッサー問題をここバイロイトで正面から問おうというわけだ。第2幕の乱闘シーンではベックメッサーは文字通り袋叩きにされ、いかにもユダヤ人といった風の戯画化されたかぶりものを被せられたあげく、同じ形の巨大なベックメッサー風船が膨らみ、萎んで頭の上の六芒星(ユダヤ人の象徴)が見えるようになったところで幕切れ。第3幕の舞台は第1幕の終わりでチラ見せしておいたニュルンベルク裁判の会場。マイスター達が入場してくるたびに拍手が起こるのだが、ベックメッサーに対してだけは誰も拍手しない。この演出の良いところは、このような問題提起の苛烈さだけではない。音楽と各人物の振る舞いとの間に齟齬がない(もちろん指揮者も演出に合わせているのではあるが)。音楽だけでは途中、寝るしかないほど退屈な所のある第1幕を、ヴァルターに一目惚れしたおネエ風のマイスターの一人が彼にすり寄るといった小ネタも含めて、最後まで飽かせず見せてしまうのは大した才能。問題意識は買うが、どうもチグハグな所のあった一代前のカタリーナ・ワーグナー演出と比べると、プロと素人の違いを見せつける。全曲最後のザックスの国粋主義的大演説では彼以外の全員が退場。ザックス=ワーグナーは一人舞台の戦争裁判会場で自己弁護の演説をぶったあげく、舞台上のオケ(楽器は弾かずに歌っている)と合唱団を指揮してと大奮闘なのだが、私にとってこのエンディングはかつてないほど痛烈なパロディとしか受け取れない。ところが、地元ドイツの批評家たちは必ずしもそう解していないようなのだ。日本から見に行った批評家センセイに至っては「『マイスタージンガー/ドイツの芸術』を正面から弁護した」と書く始末。やれやれ。
    ジョルダンの指揮は足どり軽く、ピリオド・スタイルのモーツァルトのように金管やティンパニの響きを際立たせ、対位法的な音楽の構造を浮き彫りにして見せる。これもヘアハイム版でのガッティの指揮と同じ志向だが、ザルツブルクでウィーン・フィルを振っていたあちらと比べると、こういう音楽作りには不向きなバイロイトのピットでの指揮。それでもここまでやり遂げてしまうのはご立派だ。歌手陣は相変わらず文句のつけようのないフォレの題名役以下、ほぼ完璧な布陣。ただ一人、コージマとしては申し分ないシュヴァーネヴィルムスがエーファとしては見た目、老けすぎなのが惜しい。

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     2018/09/15

    『悲愴』の音盤では昨年、クルレンツィス指揮のものが話題を独占したが、個性的という点ではこの演奏もクルレンツィス盤にひけをとらない。2007年のヴッパータール響とのライヴに似た解釈もあるが、あらゆる点でさらに個性的だ。ただし、他の指揮者と違うことをやろうという表現意欲が聴衆の心を揺さぶる演奏に結びついたかというと、やや疑問。同じチャイコフスキーでもこの4ヶ月後、今年7月のリクエスト・コンサートで演奏した第5番の方が上であったように思う。テンポは概して速めだが、特にアダージョやアンダンテの部分(第1楽章序奏、第2主題、終楽章)が速く、その点ではクルレンツィス以上にHIP的だ。もっとも、速いといっても断じてそっけないわけではなく、速いテンポの中に情感を込めるという難しいことをやろうとしている。つややかに歌う第1楽章第2主題などはその見事な成功例。展開部前のバスクラリネットによるppppppがずいぶん強く、はっきり聴かせようとするのも、これまでのルーティンに対するアンチテーゼか。展開部はやや抑え目に始めて、再現部に入ってから大いに盛り上げるが、トロンボーンの強奏による大クライマックスでたいていの指揮者がリタルダンドするのに対し、上岡は逆に加速するのが面白い。第3楽章では大太鼓の強打でおどろおどろしさを演出するが、いつもの上岡ならアッチェレランドするはずの末尾はわずかに加速するのみ。その後、ほぼアタッカで終楽章に突入するのは実演通り。終楽章では第2主題急迫後の大きなパウゼとその後の表情が全く個性的。普通の指揮者なら、まさしく号泣するように弾かせる箇所なのだが。第1主題の再現ではホルンのゲシュトップ音が非常に強い(これはクルレンツィスも盛大にやっているが)。個性的な指揮にぴったり追随する新日フィルには相変わらず感心させられるが、さすがにこういう曲になるともう少し響きの洗練が欲しい。

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     2018/09/05

    ホモキ演出、ルイージ指揮というオペラ並みの強力布陣を敷いているが、きわめて特異な形での上演。ナンバーの間をつなぐ台詞が必要最小限に切り詰められており、たとえばオリジナルの第1幕に相当する部分(この上演では全体の真ん中ほどで一度、休憩があるだけで、オリジナルの第2〜3幕は通して演じられる)では合唱を除けば、リーザ、スー・チョン、グスタフの三人しか登場せず、リーザの父以下、台詞だけの人物はすべてカットされている。ミーとグスタフのコメディ・リリーフ組も歌はちゃんとあるが、台詞がほとんどないため存在感薄く、リーザとスー・チョンの悲恋物語に徹底して焦点が絞られている。舞台装置はシックだが、ごく簡素なもので「白銀の時代」を表象するのか、ブルー系の照明で舞台が一貫してかなり暗いのも特徴。場面転換のため幕を閉め、幕の前で展開するシーンもかなり多い。中国の場面ではそれなりの衣装の人々も登場するが、王子はズボン、ワイシャツに金色のガウン(改作前の題名『黄色の上着』にちなむと思われる)を羽織っただけ。百年前の作品とはいえ、ここでの中国の描き方は人種・女性差別的でもあるので、オリエンタリズム的な見方を避けたいという意図での台詞カットでもあろう。曲順の変更も多く、リーザが「ウィーンに帰りたい」と歌う望郷の歌の直後に何の台詞も挟まず、かの名曲「君はわが心のすべて」が始まる劇的な効果など面白いが、このアリアの直後、同じメロディーがオーケストラで流れる間に全く台詞なしのパントマイムで二人の心情を表現しようとするあたり、この演出のハイライトだろう。最後も台詞がないため王宮から逃げるという話にはならず、スー・チョンは平和裡にリーザを去らせる。
    なかなか考えられた演出ではあるが、甘く、この時期にはワンパターン化しているレハール・メロディを立て続けに聴かされることになるので、やや食傷気味になるのも事実。今やローエングリンまで歌うベチャワだが、端正な歌は「常に微笑みをもって」感情をあらわにしない王子様にぴったり。クライターも単に美しいだけでなく、この演出では王子様に平手打ちを喰わせるといった思い切ったアクションもある強い女性を好演。

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     2018/09/01

    ゲヴァントハウス管の楽長就任内定後だが、実際には就任する前のライヴ。ブルックナー・シリーズではオケの伝統的なブルックナー様式にうまく乗っかってしまっているネルソンスだが、ここでは自分の方から積極的に音楽を作りに行こうとしている。『新世界より』は以前からの持ちネタでバイエルン放送響との録音、録画(2010年)もあるが、わずか7年の差とはいえ、指揮者のアプローチに確実に進歩が感じられるのは心強いところ。テンポはやや遅めで、序曲『オセロ』のみ最後に猛烈に急迫するが、それ以外では力押ししてオケを無理に煽ったりしない。強弱の差は非常に大きく、硬めのバチでティンパニを強打させるなど、ダイナミズムの表現にも見るべきものがあるが、むしろ特筆すべきは抒情的な部分の美しさ。まず第1楽章では、かなりテンポを落として歌われる第3主題のしなやかさに惚れ惚れさせられる(ちなみにバイエルン放響盤と違って、今回は第1楽章の提示部反復なし)。前回録音では第2楽章の素っ気なさがやや残念だったが、今回はより遅いテンポで細やかに歌う。第3楽章トリオの脱力具合もとても面白いし、第4楽章最後の粘り方も一段とスケールが大きくなっている。オポライスの当たり役『ルサルカ』を中心にした前半ももちろん結構。アンコールが『新世界より』と同じホ短調のスラヴ舞曲 Op.72-2だというのも、よく考えられている。

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     2018/08/26

    『チェッリーニ』の舞台は、シュテルツル演出/ゲルギエフ指揮のザルツブルク版もそうだったが、どうして毎度こんなハチャメチャになるのか。作品自体の持つ破壊的なエネルギーがどうしてもこういう演出を要求する、ということなのだろう。もっとも、こちらの人々はルネサンス期の衣装で、読み替えではないのだが。テリー・ギリアム演出は早くも序曲終盤から巨大な張りぼて人形が登場し、客席を巻き込んだ大騒動を仕掛ける(パイ投げのタイミングが絶妙!)。この先どうなるか心配になるほどの派手な出だしだが、その後はモンティ・パイソン的なくすぐりと笑い(教皇庁は激怒しそうだ)を交えつつも、一方ではいかにもロマン派的な芸術家オペラをまじめに展開。本物の大道芸人たちを大挙投入し、相当に卑猥な劇中劇の場面を経て、最後はプロジェクション・マッピングも華々しい第1幕フィナーレ、いわゆる「ローマの謝肉祭」の場面がさすがに見応え十分。
    バルトリ主演『ノルマ』でのポルリオーネや『オテロ』(ロッシーニの方)の主役でもあったジョン・オズボーンはいかにも無頼漢らしい豪快なチェッリーニ。シチーリアの生きの良さも魅力的だが、ザルツブルク版に続いていじられ役フィエラモスカを演ずるローラン・ナウリが実にうまい。マーク・エルダーはいつもながら手堅い。欲を言えば穏健に過ぎるのだが、とにかく舞台上が大変に騒がしいので、指揮はこのぐらいで丁度いいか。上演として二幕仕立てだが、ほぼヴァイマル版に基づくと思われる。

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     2018/08/25

    無敵の超絶技巧も年齢には勝てない。やがてロッシーニほかのベルカント・オペラを歌えなくなる日に備えてレパートリー拡大中のフローレスが選んだのは、かつてアルフレード・クラウスの当たり役でもあった『ウェルテル』。フランス語もうまいし、とても彼に合っていると思うが、以前のようなラテン的な奔放さはやや抑えられ、几帳面な歌なのは、まだ歌い慣れていない役だからか。あるいは窮極のヘタレ男である役そのもののキャラクター(われわれ現代人なら、とっとと女をさらって駆け落ちしてしまえばいいのにと思うのだが)、もしくは後述するような演出のせいかも。一方のステファニーは歌、演技ともに秀逸。読響への客演でおなじみのマイスターはプラッソンのようなフランスの香りは望めないが、劇的な起伏のしっかりした、丁寧な指揮。
    演出はいかにもドイツ語圏に帰って来た『ウェルテル』という感じ。舞台となる閉鎖的なドイツの田舎町を表象するように、舞台は四幕とも壁に囲まれた家の中。人物達は現代の服装だ。ただし、舞踏会帰りの第1幕終わりでは、王女様の小王冠を付けたシャルロット、インディアンの髪飾りをつけたウェルテルの前に照明のマジックで月明かりのカーニヴァル的空間が出現。最後の第4幕では壁が開いて、星のきらめく宇宙空間に地球(!)が浮かぶユートピア的なイメージが見られる。第1幕終わりと同じ髪飾りをつけた仲むつまじそうな老夫婦(もちろん黙役)は、ちょっと分かりやすすぎる「ありえたかもしれぬもう一つの未来」のイメージだろう。娘の結婚相手を親が決めてしまう家父長制の時代(正しく言えば、シャルロットの場合は亡き母との約束に縛られているのだが)が終わって、男女がまず文学のなかで、そしてやがては現実にも自由恋愛、情熱恋愛をする時代のきっかけになったのが、多くの追随自殺者を出したと伝えられるゲーテの原作小説だというのは、良く語られる話だ。とはいえ、このオペラでドイツ文学史あるいは恋愛学の講義を聞かされるのは御免被りたいところ。演出が主張したいのも結局、こういうことであろうが、それをうまく視覚的イメージとして見せることに成功している。

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     2018/08/25

    カウフマンの『オテロ』という前にパッパーノの『オテロ』と呼ぶべきだろう。作品の求めるマッシヴな力の表現とデリケートな心理的あやの描出、この両面をこれほど完璧に満たした指揮は前代未聞。カラヤンやクライバー以上と言っても過言ではない。この演奏自体をHIPとは呼べないだろうが、弦楽器のセンシティヴな弾かせ方や金管の朗々たる鳴らしっぷりなどはHIPスタイルの最良の成果を踏まえていると感じられる。カウフマンももちろん凄い。ドミンゴ以上に声のポジションの低い、バリトナールなテノールだが、それだけにここでしばしば求められる高い音域での絶叫が一段と映える。イタリア・オペラでは最高の適役と言ってよい。声のテクニックを総動員して作り上げたオテロ像だが、演技のうまさも彼の大きな武器。だんだん狂ってゆく第3幕の迫真力など圧巻だ。ヴラトーニャもイヤーゴ役としては低い声の持ち主で、ほぼバスだが、この人も特筆すべき演技力(声の演技と身体・表情の演技の両方)の持ち主。イヤーゴ役は自分の仕掛けた陰謀の成り行きを超然と見ていることが多いが、ヴラトーニャのイヤーゴは彼の手を離れて自ら転がってゆく陰謀におののきつつ巻き込まれてしまっている。指揮者・演出家との共同作業で作られたイアーゴ像だろうが、第3幕の幕切れなど大変面白いし、説得力十分だ。手練手管満載のこの男性二人に挟まれるとアグレスタはやや影が薄いが、ひたすらピュアで一途な彼女の演唱もまた悪くない。
    キース・ウォーナー演出はかつての新国立『指輪』とは全く違って、読み替えなしのストレート勝負。最後にオテロが自らイヤーゴを殺す(ように見える)のがほぼ唯一の新機軸だが、そんなにデコラティヴな装置を使わなくても場面の作り方にセンスがあるし、鏡・仮面といった小道具の使い方もとても効果的だ。

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     2018/08/24

    この曲のディスクでは1987年に録音されたクレーメル以下の面々による盤が長らく決定盤の座を譲らなかったが、ついに世代交代の時が。ヒリオド楽器、特に管楽器の不安定な(もはや「ひなびた」という形容は正しくないだろう)、だがナチュラルな響きが徹頭徹尾、陰影の付与に寄与しているし、ディヴェルティメント的な側面もある曲だが、奏者たちは誰も「気楽に、軽やかに」弾こうとは思っていない。「深く、濃い」表現が徹底して目指されているが、にもかかわらずテンポが遅くならない、終楽章などむしろ速いのは驚くべきことだ。第3楽章スケルツォの強拍ごとにホルンがつけるアクセントなど完全にHIPの感覚だが、オーケストラやアンサンブルもソリストの集合体であり、最初から調和を前提とするのではなく、各パートが存分に自己主張することが大事だというHIPのセンスを全奏者が共有していることが、この演奏のかつてない雄弁さにつながっているのだと思う。イザベル・ファウスト嫌いの私でも、第1ヴァイオリンとクラリネット(ロレンツォ・コッポラ)の巧さには脱帽するしかない。

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     2018/08/24

    このコンビによるマーラー交響曲録画の最終作。このあと最後の第3番のための録画セッションも組まれていたが、シャイーがキャンセル、ネルソンズが代わりに振った。近年のこのコンビの常で、がっちりと構築されてはいるが、伸びやかさに欠け、この曲らしい若々しさや前衛性はほとんど感じられない。カメラワークがとても良いのが取り柄だが、この曲の録画も数多くあるなかで、どうしてもこの演奏でなきゃというセールスポイントはない。マーラー・シリーズの中でも中期の曲(特に第6番、第7番)ほど無条件では誉められないな。この盤ではシャイー先生の語りが復活したが、相変わらずピンボケ。「譜面のメトロノーム表記なんてのは間抜けな指揮者のために仕方なく書いてるんだ」というマーラー自身の発言を知らないのか。葬送行進曲冒頭を新全集版に反してコントラバス・ソロにしているのはなぜ、といった一番訊きたいことについては何も語ってくれない。

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     2018/08/23

    もともとはネトレプコ主演をあてにして企てられたプロダクション。現在の彼女の声を考えれば、ネトレプコが降板したのは当然だが、代役ヨンチェヴァは大健闘、パッパーノも毎度ながら確かな仕事ぶりを見せている。にもかかわらず、新たなクリティカル・エディションに基づくバルトリ主演、アントニーニ指揮による画期的な録音が出た後でも(同じコンビによるザルツブルクでの上演が録画されなかったのは痛恨事だが)、ノルマ(ソプラノ)、アダルジーザ(メゾ・ソプラノ)という旧来の形での上演をまだ続ける意義はあるのか、という根本的な疑問を提起する上演になってしまった。
    現代化演出は残念ながら失敗。キリスト磔刑像を積み上げて作られた森の造形や「カスタ・ディーヴァ」の間に香炉を揺らすといったスペクタクルな効果には、確かに見るべきものがある。しかし、その大道具にしても「ドルイド教とキリスト教は対立関係にあるはずだが」といった当然の疑問に演出家は全く無頓着。そもそもこのオペラの台本には「ヒロインが敵将と通じて子供まで作っているのが、なぜ何年もバレない」といった、この時代のオペラらしい「おおらかな」所があるのだが、「大昔の話だから」ということで、かろうじて了解されていたのだ。それを何の工夫もなく、時代だけ現代に移すと、台本の無理な部分が至る所で露呈されてしまう。演出家は「現代にもそのまま通ずる話」と主張するが、エンディングを少し唐突に変えたぐらいで、この話をそのまま現代化できると思うのは、考えが甘い。なるほどNormaは(恋人、子供に対する)愛と社会や宗教の規範(Norm)の板挟みになるが、ジハードを唱えて自爆テロをする人々はまだいるとしても、宗教上の人身御供を許容する社会がもはや地球上どこにもない以上、現代化にあたってはもっと慎重にプランを練るべきだった。ガナッシは声楽的には文句のないアダルジーザだが、どう見てもノルマより年増に見えてしまうのは、このような映像作品では致命的。この問題がクリアされない限り、従来版の上演はやはり難しいと改めて感ずる。ポルリオーネがノルマからアダルジーザに心を移すという根本設定に説得力が欠けるからだ。カレヤは最初のアリアで危ない箇所があるが、その後は歌に関しては無難。ただし、演技の方は大根なので、土壇場での「改心」などは、はなはだ嘘っぽい。これも台本の欠陥ではあるが、そこを何とかそれらしく見せるのが、演出家の手腕であろう。シェラットはノルマの父親に見える必要があるという「見た目」重視の起用かもしれないが、すでに声の力を失ってしまっていて、歌に関しては論外。

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     2018/08/22

    ロイヤル・オペラでの『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台がはねた所から冒頭シーンが始まる。するとカップルでオペラを観に来ていたフェルランドとグリエルモが「あんたの女性不信には我慢ならん」とばかりにカーテンコールに出てきたドン・アルフォンソに喧嘩を売り、客席から舞台に上がってゆく。フィオルディリージとドラベッラが最初の二重唱を歌うのは本物そっくりに作られたオペラハウスのロビー(クラッシュ・ルーム)で、姉妹が舞台に上がっていってしまった婚約者たちを待っていると、そこへドン・アルフォンソがやってきて・・・・という展開。そこから舞台は「外」へ出て行くのだが(次のシーンは『ハリー・ポッター』シリーズで有名になったキングス・クロス駅か?)、どの場面も明らかに芝居の書き割りと分かるように作られている。他の五人が現代のロンドンっ子なのに対し、オペラから出てきたドン・アルフォンソだけは18世紀の服装だが、第2幕の管楽セレナードの場面になると舞台上にさらに18世紀風の額縁舞台が出現、姉妹以外は全員が18世紀のファッションになる。デスピーナがバーの女主人であるのはピーター・セラーズの現代化演出を思い出させるし、ドラベッラとグリエルモの二重唱の間に彼女が彼の仮装(付け髭だけだけど)を取ってしまうのはポネル演出の映画版と同じ、というように過去の名演出の引用もある。要するに『コジ』が「オペラについてのオペラ」、つまりメタフィクションであることを強く意識した演出。ドン・アルフォンソの例の教訓の歌とともに舞台上に電飾で出るCOSI FAN TUTTEのタイトルは、まもなくCOSI FAN TUTTI(男も女も皆こうしたもの、という意)に変わるが、演出家が主張したいのは、このオペラはたわいないお芝居に過ぎないが、そのお芝居は「貞節」など机上の空論でしかないという恐ろしい真実を暴いてしまうということ。
    歌手陣は六人とも申し分ない。ウィンターズ/ブラウアーの姉妹は見た目上、フィオルディリージが小柄でドラベッラが大柄であることが最初はちょっと気になるが、歌・演技ともにきわめて高水準。クレンツレの渋い狂言回し役も素敵だ。かつては垢抜けないイメージもあったビシュコフがピリオド・スタイルを十分に踏まえて、洒脱かつ心理的綾の表出も見事な指揮を見せているのは驚き。譜面にないヴァリアントを適宜加える18世紀スタイルの歌唱。ほんの少しだがレチタティーヴォの歌詞が書き足されているようで、日本語字幕もかなり思い切って言葉を足しているが、これはこれで結構だと思う。

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     2018/08/21

    アンデルジェフスキと共演したピアノ五重奏曲ももちろん堂々たる名演。特にバロック的なプレリュードとフーガ(第1〜2楽章)に対して第3楽章スケルツォの異化(パロディ)効果を尖鋭に打ち出しているのは目新しいところだ。しかし、弦楽四重奏曲第3番はそれ以上の驚異的な名演。直前に書かれた交響曲第8番、第9番に通ずる劇的なプログラムを持ち、全15曲の弦楽四重奏曲中でも屈指の人気曲だが、ベルチャSQならではの表現主義的な解釈が生きている。「ハイドン風」とも評される一見、能天気な第1楽章からして、微妙な緩急の変化と不協和な響きの強調で早くも不穏な予感を漂わせる。ピアニッシモとスタッカートを徹底させた第2楽章中間部も出色。来るべきカタストローフにおびえる繊細な心の震えを余すところなく描き出している。そしてついに第3楽章では凄まじい暴虐の到来。悲嘆に暮れる第4楽章を経て、第5楽章はちょうど第8交響曲終楽章のような、諸手を上げて喜びは歌えないけれど、とりあえず痛みを抑え込んで終結を迎えようという音楽。第1楽章の楽想が戻ってこようとするが、第4楽章の悲歌に打ち消されてしまう。ベルチャSQはかつてなく遅いテンポをとって、デリケートな音楽の襞を丁寧に描いている。パシフィカSQの清新かつ鮮麗な全集の登場で、さすがに晩年の諸作(第12番以降)では「深み」が足りないものの、それ以外の曲については、もう他の演奏の出番はあるまいと思われたショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲だったが、まだまだ新たな解釈の余地があることを見せてくれた。

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     2018/08/20

    ソプラノ歌手は違うが、昨年の来日公演でも大変感心した演目。ロイヤル・フィルとの1999年録音と基本的なアプローチはそう違わないと思うが、さらに作り込みが精緻になっている。楽想に応じてテンポを細かく動かしつつ、有機的な楽器間の受け渡しに神経をつかった、まさしく「大きな室内楽」のようなマーラー。第4番をナチュラルで楽天的な曲と考える人にとっては、細かな作り込みが煩わしいと感じられるかもしれないが、私のこの曲に対する見方はその正反対。キリスト教に対する露骨な悪意の盛られた、アイロニーたっぷりの悪魔的な作品と私は考えるので、こういう演奏こそまさに大歓迎。来日公演で面白かったのは(私が聴いたのは京都コンサートホールだが)、第3楽章末尾のクライマックスでソプラノ歌手が舞台に出てくるのは定番通りながら、指揮者の横までは出てこず、打楽器の横で、いわばオーケストラの一つのパートとして歌ったこと。日本公演に同行したマリン・ビストレムはこの曲の終楽章を歌うには不似合いな、かなり強い声のソプラノ(ドンナ・アンナ、タイース、サロメなどを持ち役にしている)だったからかもしれないが、この録音でもソプラノ歌手の声はやや遠くから聴こえてくる。ユリア・クライターはカマトトぶったり、ズボン役風に声を作ったりせず、ごく素直に歌っているが、これはこれで正解。この楽章の「毒」は歌詞そのものとオーケストラ・パートに仕込まれているからだ。第1楽章の鈴の楽想が戻ってくるところで、ガッティは一気に加速し「警告」するように強く鈴を鳴らすが、まさに楽譜の指示通り。

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