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六里庵 さんのレビュー一覧 

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     2024/04/11

    クリストフ・ルセの「フーガの技法」、待ち望んだものが現れた思いであり、演奏も期待通りに素晴しい。第1曲の静謐、第6曲の峻烈、第11曲の法悦、それぞれに美しい。ただ一つ、未完のフーガが存在しないことが極めて残念なので、以下それについて述べたい。興味の薄い方は読み捨てを。

    壮年期のバッハは、多くの器楽曲を6曲組とし、フランス序曲風の曲で後半を開始するのを通例としていたが、イギリス組曲、フランス組曲に続く6曲のパルティータをクラヴィーア練習曲集第1巻にまとめて出版し、続く巻で次々と鍵盤音楽の金字塔を打ち立てるころから、自身の名を曲集に刻み込むことに執着を見せるようになっている。第1巻では6曲のパルティータの楽章の総数は41であり、「J. S. Bach」の名を数に置き替えた「J(9). S(18). Bach(2+1+3+8)」の総和41を表す意図があると考えられる。第2巻(イタリア協奏曲とフランス序曲)の楽章総数は3+11=14であり、「Bach」の名に対応する2+1+3+8の総和14に一致する。第3巻(前奏曲、21のコラール編曲、4つのデュエット、フーガ)の楽章総数は27であり、通常「三位一体」の象徴数3に関連づけて3×3×3(3の3乗)に由来すると説明されている。しかし、裏には「J. S.」の数J(9)+S(18)=27が隠され、「Bach」の数14は全27曲の中央(第14曲)に位置する「我ら唯一の神を信ず」によるフゲッタBWV681を指し示していると考えられる。この曲がフランス序曲の様式で書かれていることがその標識となっている。「ドイツオルガンミサ」と称されるこの曲集に対して、ミサ通常文全歌詞に作曲されたMissa totaであるミサ曲ロ短調BWV232も、同様に全27曲からなり、中央の第14曲が第1曲、第27曲とともに14声の編成によることが標識となっている。この第14曲の歌詞が「我は信ず、唯一の神、全能の父」という、BWV681に対応する中心的信条を示すため、Bach自身がジャンルを超え、ルター派的世界とカトリック的世界を結ぶ中心軸に立つ存在であるような印象をすら与える。第4巻に相当するゴルトベルク変奏曲BWV988では、骨格をなす9曲のカノンと32小節のアリア、32音の低音主題、全32曲の構成に「J(9), S(18)+Bach(14)=32」を見るべきか、同じ低音主題による付録の「14のカノンBWV1087」に託すこともできるだろう。

    このような志向の延長上に、究極の姿として「フーガの技法」があると考えることができる。曲集の変遷を追っていくと、まずベルリン手稿譜のうち初期稿12曲(フーガ10曲+カノン2曲、後半はフランス様式で開始)があったと推定されており、これは6曲組×2組の壮年期のフレームに沿ったものだろう。次いで2曲のフーガが追加され全14曲が主要部となる。最終的にバッハ死後に出版された初版譜では、単純フーガ4曲・反行フーガ3曲・2重/3重フーガ4曲・鏡像フーガ2曲(以上の曲名はContrapunctus)・未完の3重(4重)フーガ1曲の計14曲のフーガに、カノン4曲、総数18曲が骨格となっている。このように、6曲組(12曲組)から14曲組への組替えを継続的に模索していたと見ることができる。基本主題そのものも12音符のものから始まるが、経過音を付加した14音符の主題が主となっていく。未完フーガについては、現存部分が全曲集の基本主題を含まないことから、ルセを含め曲集から除外する演奏家も多いが、バッハ本人の意図を最も知る位置にいた近親者が出版譜に含めたものを捨て去ることは、やはり不遜に過ぎると言うべきだろう。何よりも、既存の部分だけでも尋常でない力と美と堂々たる偉容、「フーガの技法」との親和性を備え、あるべき姿と場所を求めている、それは「フーガの技法」自身の目指すところではなかったか。未完のフーガの主題の音符数は、第1主題7音(=14/2)、第2主題41音(=9+18+14=J. S. Bach)、第3主題4音(BACHの音名)、これに未導入の第4主題として、和声的リズム的に相性の良い経過音付きの基本主題を導入して4重フーガとすれば、第4主題14音(=2+1+3+8=Bach)となり、すべてBachの名に関係づけられる数が並ぶ。これらは同時に「フーガの技法」全体の構成を規定する数でもあり、さらには晩年の作品を貫く建付けにも関わることを窺わせる。Contrapunctus 14(=Bach)の名にこれほど相応しい曲はないだろう。常に究極を目指すバッハの構想にとって、未完フーガは不可欠のキーストーンだったに違いないと思う。

    現状のままであれ作曲補完であれ、いずれの再現方法もありうべきだろうし、現に優れた補作演奏もいくつも現れている。現今のバッハ弾きの第一人者ルセによる未完フーガの演奏を、なおも切に望みたい。

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     2022/12/15

    長年聴き続けていると気づかないうちに固執観念が結びついてくるものだが、平均律第1巻の場合には、四季の季節感が表象されているように思えてならない。No.1は清冽な早春の息吹、No.2は吹きすさぶ真冬の嵐、No.3は真夏の海に照り映える燦々たる陽光、No.4は晩秋の夕暮れ時の沈思と祈り・・・というように。ここでは、長調・中庸速(春)、短調・急速(冬)、長調・急速(夏)、短調・緩徐(秋)といった性格の4曲の組合せが(季節との対応はともあれ)、曲集を通じて程度の差はあれ繰返されているように思う。全24曲が6曲組×4組になっているという論もあるが、下記のような平均律第1巻の成立過程から見ても4曲組×6組の枠組で見た方がよりしっくりするのではないだろうか。

    「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィア小曲集」には、平均律第1巻全24曲のうち、No.1〜6、8〜12の11曲のプレリュードの原形が残されている。Praeludium 1〜7は、平均律のNo.1ハ長調、No.2ハ短調、No.6ニ短調、No.5ニ長調、No.10ホ短調、No.9ホ長調、No.11ヘ長調のプレリュードの原曲であり、主調が順次上昇する(以下、ハ長調の)近親調に属している。続く4曲は単にPraeludiumとなっていて番号がなく、平均律のNo.3嬰ハ長調、No.4嬰ハ短調、No.8変ホ短調、No.12ヘ短調のプレリュードの原曲となっている。これら4曲は調号(#/♭)が4〜7個と多い遠隔調で、先の近親調7曲の隙間を埋めるように追加されていることがわかる。ここから推測されるのは、当初バッハは手近な調からなる小プレリュード集(インヴェンションとシンフォニアのような)を作ろうとしたのだが、途中で方針を変更してタイトルの曲番も振り直し、新たに24のすべての長短調を網羅した曲集に拡充しようとしたのではないかということだ。あとは対位法技法の充実を図って各曲にフーガを追加し、繋ぎなどを加筆修正して完成度を高め、後半部の12曲を新たに作編曲し、さらに調律法に対する調整を考慮し・・・といった手順で平均律クラヴィア曲集の完成に向っていったのだろう。問題はこの追加4曲に遠隔調が残されたことに関係すると思われる。No.3嬰ハ長調には、黒鍵上を駆け巡る快速プレリュードのタイプを当てはめるとすれば、ちょうど4曲ごとに現れる他の短調3曲(No.4、8、12)には、タイプの異なる規模の大きな緩徐楽章とすることによって他の曲にない重みと落着きがもたらされる。さらにプレリュードに見合った重厚なフーガとのカップリング後には、それぞれ4曲組を締めくくるフィナーレのような様相を呈してくる。平均律の後半でも、No.16、20、24はむしろ近親調であるにもかかわらず、重厚で規模の大きい短調曲をもってきたことから見て、このような枠組が維持されていると感じられる。その結果、24曲からなる曲集に、季節感とは言わずとも多様性や色彩感とともに、振れ幅の大きな構造の感覚がもたらされたのではないだろうか。

    前置きが長くなったが、トレヴァー・ピノックの演奏は、上記のような各曲の多彩な性格とともに曲集の構成感をもたらすような、非常によく考えられた演奏となっているように思う。上に触れたNo.4、8、12を聴いてみると、プレリュードではどれも和声的、歌唱的な柔らかさを持ち、アルペジオや装飾音に富む、いかにもチェンバリスティックな演奏を聴かせる。対してNo.4のフーガでは、コラール「来たれ、異教徒の救い主よ」冒頭の十字架音形に始まる3重フーガがあたかも受難曲の冒頭合唱かのように展開されるが、ピノックの演奏も訴求的主情的なものとなっている。一方No.8のフーガの主題はコラール「われらの救い主イエス・キリストは」を修飾したものと思われるが、曲のスタイルはロ短調ミサ曲のコンフィテオルのようにグレゴリオ聖歌風の定旋律を用いた古様式の合唱曲を志向している。それに見合うように、演奏はあくまで客観的観照的態度に徹している。装飾音の入れ方も、主題末尾、主題提示部末尾などに厳格に限定されているのが特徴的で、終盤74小節に電撃の走るようなトリルが奏されるが、これはバッハオリジナルのものだ。またNo.12のフーガは、マタイ受難曲のアルトアリアBuss und Reuを思い起させる半音階的主題によるが、プレリュードともども情緒深く美しいカンタービレの演奏を聴かせる。このようにこの3曲は特徴のある大規模な声楽のスタイルを志向していると思われるが、その結果としてこの平均律クラヴィアの世界を一気に拡大する原動力となり、No.24までの後半部を含め一つのミクロコスモスにまで成長させるキーとなったとも言えるだろう。以前にはブラヴーラな印象の強かったトレヴァー・ピノックが、その小宇宙を開示する祭司者としてこれほど相応しい演奏を聴かせてくれるとは、それまではほとんど想像できなかったことだった。

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     2019/05/26

    ロバート・ベイツのオルガン演奏によるフランシスコ・コレア・デ・アラウホ「オルガン技法」の本格的全集。「オルガン技法」全69曲のうち、声楽曲2曲を除く67曲のオルガン演奏が収録されている。バッハの「フーガの技法」に100年以上先立つ1626年、スペイン・バロック音楽の黄金時代を代表するコレア・デ・アラウホのオルガン芸術を総結集して出版されたものだ。新大陸の代表的オルガンを駆使するロバート・ベイツの演奏は、非の打ちどころのないオーソドックスなものであり、本当に待ち望んだものがやってきた思いがする。「オルガン技法」の中心となっているティエントはファンタジアやリチェルカーレのような対位法的な曲種で、ディスクルソはクーナウやバッハの意味での練習曲に相当するが、コレアはこの2種を特に区別していないとされている。「オルガン技法」全69曲はいくつかのグループに分けて配列されている。第1のグループはティエントNo.1〜12の12曲で、これはマエストロとしての作曲および演奏の模範演技を示すためのセクションだろう。第1旋法(ドリア旋法)から第12旋法(変格イオニア旋法)の12の教会旋法の性格を色濃く反映した代表的な力作が揃っている。コレアは各曲に演奏の難易度(1:最も容易〜5:最高難度)を附しているが、この12曲は3〜4のやや難易度の高い曲が中心となっている。ティエントNo.1(ドリア旋法)では下降テトラコードを2つ連ねた形の主題に対して、反行主題が最初の展開部から現れ、途中音価を1/2、1/4、1/8とした縮小主題、シンコペーション、3拍子系へのリズム的変形、音形の細分化を伴った変形主題などが導入されて高密度にストレッタを形成し、バッハ「フーガの技法」の先駆けかとも思わせるほどの対位法的に複雑な様相を呈していく。しかしこのような高度に技巧的な曲は必ずしも「オルガン技法」の典型とは言えず、他のティエントでは、たとえばNo.4ではフリジアンらしい繊細さが味わい深く、No.8ではヒロイックな曲想が支配し、いずれも格別なものがある。続く第2グループ12曲は、難易度1〜3のシンプルな曲が集められている。No.25〜63には、同一鍵盤が2分割されて独立にレジストレーションが可能という、イベリア半島独特の機構を備えたオルガン用の曲が集められている。これらはほぼ難易度順に配列され、No.53からは難易度4、No.58からは難易度5の曲が続く。これらは、2分割レジストレーションされる鍵盤種、旋法、難易度などにより、細かくグルーピングされている。このグループの中では、バッハの「来たれ異邦人の救い主よ」BWV659にも似て、低くわだかまる低音部の上で高音部が美しく装飾的な旋律を奏でるティエントNo.39が特に印象深い。そしてNo.64〜66は世俗歌曲の編曲、No.67、68は宗教的歌曲(収録されず)、No.69は宗教的歌曲に基づく変奏曲で締めくくるという構成になっている。全体的に、難易度が次第に上昇するように配列されているが、対位法的密度が上昇するというよりも、重厚な和声、緩急の対比やメリスマの利いた華やかな高音部等々、演奏効果を狙ったと思われる曲、抒情的な旋律線を重視した曲など、バリエーション豊かに曲が続く。とこのように言うのも実はオリジナルのNo.順に聞いていけばの話で、実際の収録順はランダムに配列されているので、この曲集の仕組を知ることはほとんどできないだろう(CDは演奏するオルガンごとにまとめられ、曲の印象が偏らないように、押出しの良い重厚な曲から開始して、歌曲の編曲など軽めの曲を合間合間に交えていくという流れを基本にしているようだ)。何度も言っていることだが、このような大きな全集ものでは、収録順は作曲者の意図を重視して、オリジナルの曲順にできる限り忠実なものとして欲しいと切に思う。特に第1グループでは旋法の特徴が直に現れているのでなおさらなのだが。この「オルガン技法」、特に荘重なティエントの数々はいずれも教会堂の中で宗教儀式のために演奏されたものだろうが、1曲1曲を聴いてみれば宗教的雰囲気は希薄に思える。むしろ大自然の営みを想像させるような大きな音のうねりを感じさせると言おうか、たとえて言えば暗黒の夜空に流星が一つ二つと現れ、やがて全天がとりどりに明るく光を放つ流星雨の嵐に覆われていくというような感懐を抱かせられもする。この奇跡のような時間が続いて行く。

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     2015/07/05

    クリストフ・ルセと言えば、抒情性に溢れるような90年代初めのパルティータ、極度の集中力によって曲集の印象を一新した2003年のイギリス組曲などが思い起される。それからさらに時を経たルセの平均律第2巻では、全体に遅いテンポで丁寧に各曲の意趣を掬い上げ、研ぎ澄まされた一音一音によって、どの曲にも全く新たな面目を施していく。No.16のプレリュードでは、厳しい表情は一貫しながらタッチの微妙な変化によって息づきと奥行きのある作品に仕上げている。そして続くフーガの感嘆するばかりに完璧なアーティキュレーション。ジーグ風に弾き飛ばされることの多いNo.18のフーガだが、緩やかにして慈しむような演奏が印象的だ。喜遊部では、同時奏鳴にアルペジオと細かなニュアンスを紡ぎ出すコード、頻繁に入るルバートに揺れ続ける旋律に絡む少なめの装飾音が驚くほどの効果をもたらす。また、第1巻のそれと対照的に軽めに扱われてきたNo.24の、誰も思い及ばなかったような決然とした佇まい。浩瀚にわたるこの平均律第2巻にあって事ごとに目覚ましい発見に満ちている。バッハのクラヴィア曲には、イギリス組曲のプレリュードやジーグのいくつかに典型的に見られるように、一般の音楽的美の範疇からはみ出る類の、ある種メカニカルな風貌をもつものがある。平均律第2巻でもNo.20のプレリュードや、No.10、16、20、22のフーガなど、短調曲の多くにも見られる。作曲家の意図では、例えばマニフィカトにあるような怒れる神の威力といったものの表現であるのかもしれない。しかし、優れた音楽がそうであるようにそのような解釈の枠を直ちに超え出て、尋常でない何ものかとして立ち現われてくる。ルセは、そのような尋常ならざる美のカテゴリーにも正面から向きあい、解釈を与える現在最も異能の奏者と言えるのではないだろうか。一方、No.11やNo.14の柔らかな情調は往年のパルティータの演奏を思い起こさせる。典雅なファンタジアの風姿を持つNo.11プレリュードの天国的な美しさは、誰にも真似のできないものだろう。

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     2015/05/30

    パッヘルベルの作品は500曲余りが知られているが、バロック中期の最も重要な作曲家の一人であるにもかかわらず、未だ作品目録の整理も十分に行われていない。うち約8割を占めるオルガンのためのコラールや自由作品(多くはオルガンまたはチェンバロなどの楽器指定も明確でない)も未整理の状態のようだ。この状況下、本CDの演奏者の一人でもあるMichael Belottiらの校訂によってオルガン(あるいは鍵盤楽器)作品目録の編纂と同時に、各地のオルガンを使用した実演盤を順次刊行するという計画が現在進められている。作品目録は、1.前奏曲とフーガ(ペダル付オルガン用)、2.フーガ、3〜5.マニフィカートフーガ、6.ファンタジア・シャコンヌ・組曲、7〜8.変奏曲、9〜11.コラール編曲、12.教育的作品(6、9〜12は準備中)の12巻となる計画。これまでにパッヘルベルのオルガン作品全集としてはJoseph Payne、Antoine Bouchardらのものがあるが、さらに包括的で壮大な計画となるのか。パッヘルベルの壮麗な世界がどこまで展開されるのか、楽しみだ。本盤では実演盤の第1弾として、「教会暦:復活祭からミカエル祭」、「詩篇T」、「教理問答歌T、U」、「アポロンの六弦琴」の5つのテーマに沿ったオルガン演奏が5枚のCDに収録されている。演奏者にはChristian Schmitt、Juergen Essl、James D. Christie、Michael Belottiの若手からベテラン4人の、それぞれ個性のある当代一流の名手を揃えている。チームのパーフォーマンスの結集によってプロジェクトの進捗が期待されるが、それでも簡単には進まない現状があるようだ。パッヘルベルの作品は決して単純でも非技巧的でもなく、前模倣や定旋律を織り込んだ複雑な対位法的構成であっても、すっきりと見通し良く仕上げたところに特徴がある。バッハの初期のオルガン曲はブクステフーデらのドイツ北方の即興的な音楽に範を仰ぐところからスタートしながらも、年月とともにパッヘルベル流の複雑ながら静謐な作風に磨きをかけていったように感じられる。晩年のクラヴィア練習曲集第3巻はその流れの集大成とも言えるのではないだろうか。

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     2014/10/05

    ここにはいくつもの幸福な出会いがある。リブレットのカバーにはヨハン・ゼバスティアン・バッハ少年の手になる1枚のオルガンタブラチュアのファクシミリ版が印刷されており、そこには署名とともに、ラテン語で「ゲオルク・ベーム氏の許にて完成。1700年、リューネブルクにて記す」と記載されている。この年紀「1700年」の肝心の「00」の部分は、残念ながらトリミングされてしまっているようだ。しかしこの記載内容から、少なくとも少年バッハがゲオルク・ベームの許で直接指導を受けただろうことはほぼ確実となったとされる。このタブラチュアは2005年になって発見された。300年以上を経た21世紀になって我々の前に現われ出た幸運。それにしても、15歳の少年バッハが記した筆跡を飽かず眺めることができるとは。深い感慨を覚えざるを得ない。そこには後年のバッハに特有の緻密でかつ力強く迷いのない筆致が、疑いの余地なく現れている。その献呈文(あるいはメモ)の筆跡は、とても15歳の少年のものとは思えない大人びたものであり、一種のカリグラフィのセンスも見せている。オールドルフの長兄ヨハン・クリストフ・バッハが、巷間伝えられるような吝嗇で意地の悪い人物では決してなく、むしろ末弟の教育に並々ならぬ配慮をもって臨んだことは既に明らかにされていることだが、この兄の仲介の労なくしてヨハン・ゼバスティアンとゲオルク・ベームの幸福な邂逅はありえなかった。ベームのプレリュードにはニ長調BWV532などバッハの直系の後継曲があり、コラール前奏曲にはコラール前奏曲の、パルティータにはパルティータの、バッハによる模倣作が思い浮かぶ。中でも2曲のコラール前奏曲Vater unser im Himmelreichの深い味わいはどうだろうか。1曲目の第2節は遥かに年月を超えてクラヴィア練習曲集第3巻のオルガンコラールのいくつかを思い起こさせる。同名の2曲目のコラールは、イタリア風協奏曲の緩徐楽章、直接的には《トッカータ、アダージョとフーガ》第2楽章のリリカルな表情に範を与えたに違いないと思う。フォクルールの演奏は、ベームとバッハを結ぶこのような絆を強く感じさせる。この録音に使われているアルクマール聖ラウレンス教会のシュニットガーオルガンは、かのヴァルヒャがかつてアルヒーフに一連の録音を行ったときに愛奏したバロックオルガンの名器でもある。これを現代の名匠フォクルールが演奏する時、同じように澄明で輝かしいパッセージが、またあるときは深く内省的なポリフォニーが響き渡る。格別の味わいと同時に一種の懐かしさを感じさせる。演奏の素晴らしさもさることながら、バッハ音楽のルーツに関心のあるすべての人に薦めたい必聴の1枚。

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     2013/10/03

    6声のリチェルカーレ、並みの奏者では魑魅魍魎が一面に蠢いているような印象に終わってしまうところだが、このリフシッツの演奏の何と清冽で透明で煌きに満ちていることか。それにしてもトリオソナタでは、奇態な半音階的巨体をくねらす大蛇かはたまた毒龍かという大王の主題を、2楽章では種も仕掛けもありません、和声的全音階的対位の檻に閉じ込め、4楽章ではお立ち会い、飛んだり跳ねたり逆立ちしたりの珍獣の芸当に仕立て上げてしまうという、猛獣使いバッハの面目躍如の作品ながら、リフシッツはそのバッハのお眼鏡にかなう優等生にまちがいなく、すべてを自己の完全な管制下に置いてしまうリフシッツにかかっては、鬱蒼として深く見通し難かったバッハ世界も白日の下にさらされて、まるで古典派の音楽を聴いているかのように見通し良くなってしまう。そのあたり、往年の鬱蒼たるバッハ愛好者には好き嫌いはあるだろうが、ピリオド楽派ともまた違う近年のバッハ演奏の新局面を切り開いているのかもしれない。フレスコバルディも結構だが、ならばバッハ青年期から壮年期のクラヴィア曲・オルガン曲の森の幸もぜひとも料理して頂きたいものだと思うが如何。

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     2012/06/30

    「フーガの技法」は全体の輪郭も曲順も定かでないが、晩年のバッハ作品の中でも最も規範性が高く、ショーンガウアーの香炉やデューラーの野兎のように、デッサンでありながら、範例としてこの上ない高みに立っている。この曲集こそ実は「クラヴィア練習曲集第4巻」の名に最もふさわしいのかも知れない。この作品は、一方で分類学や化学や数論のテキストのような風体をしているが、同時に商品カタログのようでもあり、自身の名を刻んだautographであり、自撰の墓碑銘を記したautobiographyであり、そしてデューラーのもう一つの傑作メレンコリアのように、象徴性と謎に満ちた底知れない深淵を覗かせるような作品でもある。アントン・バタゴフほどこの作品の尋常でなさを再認識させ、謎に輪をかけてくれる演奏者もいないだろう。一切のアフェクトも装飾も削ぎ落して坦々と弾き連ねる時間の経過とともに、シンコペーションによる充填リズムや、附点リズムによる充填、半音階音形による対位、アルペジオ風のストレッタ…と、とりどりの空間が現れ、消えていく。バタゴフの演奏スタイルは、それを十全に表現するために最もふさわしいものだったのだろう。一方のメシアン「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」では、一転して音空間の端から端まで最大限のデュナーミクをもって駆け巡るかのようだ。しかし劇場空間全体を支配する内省的な静謐さは全曲を通じて揺らぐことはない。再び「フーガの技法」を聴いてみて、一つの内的空間、母胎の胎盤中でリズミカルに噴き出す血液の流れによってのみ時間が支配されている子宮の温かい空間の中に保護されている胎児が無心に手指を動かして音を紡ぎ出すさまを思わせるような、原初的で信頼に満ちた幸福な情景を浮かび上がらせるような演奏だったと思い到った。

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     2011/12/23

    晴れ晴れとしたヴィヴァルディならではの世界が、一点のくるいもなく再現されていると言えばよいだろうか。このヴィヴァルディ宗教音楽全集を入手以来、数回通し聴きしたが、聴きなれた曲も初めて聴く曲も聴く曲全てが耳を捉えて離さない。ヴィヴァルディの宗教曲では、このシリーズ以前にもネグリの古い全集などもあったが、近ごろではnaïveのレコーディングなども次々現れ、一方でますます発掘が進んできたオペラとともに、ヴィヴァルディ世界が一気に3倍にも6倍にも広がってきた印象だ。ヴィヴァルディの器楽曲を心地よい森の散歩にたとえるとすれば、このような声楽曲は大海原の航海にも似て壮大かつ爽快なパースペクティブを展開してくれる。数曲のミサ楽章、サルヴェレジーナ、スターバトマーテルなどなじみの曲も改めて聞いてみると、雄大で優美、時に端正で抒情的な美質が溢れるようだ。マニフィカートRV610a、グロリアRV589などはバッハの曲に規模でも密度でも引けを取らないが、ヴィヴァルディの場合宗教曲と言ってもシリアスというより明朗闊達で流麗なヴィヴァルディ節をそこここに聞かせる。中でもヴィヴァルディ合唱曲の素晴らしさを遺憾なく引き出したのがIn exitu Israel RV604だろう。長大な章句にぴったり寄り添って次々表情を変える声がよどみなく快速に飛ばして小気味よい。一方でマニフィカートのEt misericordia eiusや、Gloria RV588のEt in terra paxは、バッハロ短調ミサのEx Maria Virgineなどに繋がる抒情的神秘表現の先駆けとも思え、忘れ難い。どの曲もバッハの師匠にはふさわしいものだ。ロバート・キング指揮の合奏、合唱、ソロは、いずれもオペラティックに傾きがちな要素を極力抑え、きびきびと彫琢の行き届いた演奏を聞かせており、一頭地を抜く出来栄えといえる。Deborah YorkやAnn Murrayの透明感、Nathalie Stutzmannの堂に入った声にも魅せられる。歌詞はミサ曲やモテットなどを除いて多くが新旧約聖書から取材されており、オラトリオ「勝利のユディット」を含めすべてラテン語で歌われている。リブレットの英訳と、詩篇などの該当箇所を参照しながら聞くと、ヴィヴァルディがいかに詞と音の対応に心血を注いだかがよくわかる。器楽には耳慣れた音形が随所に現われ、その意味合いが実はこうだったのかという発見に満ちている。率直に言って楽しいボックスだ。体裁の面では、トラック詳細、演奏者等のデータは各ジャケットの表裏に書かれているだけで通覧できず、ブックのCD番号、トラック番号も探しにくい、リブレットは文字が小さくて読みにくいなど、安づくりな面が残念だが、内容の充実が補って余りあるといえるだろう。

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     2011/12/21

    バッハ作品の中でも装飾美の極北がパルティータ6番のサラバンドだろう。この難曲に迫った、往年のリヒターのバロック的ヒロイズム、レオンハルトのゴシック建築的様式美、これらに比肩する程の、ロマン派的耽美を極めたピアニズム。この一曲だけだと五つ星に値するだろう。しかし、曲集トータルには、この曲集の在りようと何か噛み合っていないとしか言いようがない。恣意的な装飾や過剰な演出はあまり効果を挙げているとは言えず、どこか流麗さに欠ける。一方、インベンションは埋め草にするにはもったいない情緒あふれるアンソロジー。ここでは、バッハ作品でも特に小品ほど深い情感が込められているという法則が実証されているようだ。

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     2011/06/25

    このバッハオルガン作品全集の最大の特長は、全曲をほぼ作曲年代順に配列したことだろう。バッハのキャリアを通じて、後年のスタイルや楽想がどのように生まれ発展してきたかを俯瞰できるという大きなメリットがある。このアンソロジーから、20歳前後のバッハが実はバリバリの実験音楽家であって、コラールとトッカータの結合や、強烈な不協和音や半音階の連続など、新奇な手法を繰り返し試みていたことがわかる。音楽芸術としては忍耐を強いられる面もあるが、バッハらしく光るものは存分にある。20代前半には既に同時代に遥かに抜きん出た巨匠の腕を見せた後、イタリア協奏曲に触れてからは北方様式や古様式、各地の新様式との統合によるオルガン芸術の深化に終生取り組んだという眺望が見渡せる。これは20歳の若気の試みの深化拡大に他ならないだろう。BWV順の機械的な配列や、まして無意味なランダム配列(退屈防止?盤枚数削減?)では、このような展望を味わうことは全く不可能だ。作曲年代が確定できない作品も多くあり、編集上の都合で一部の作品群が作曲年代の異なる部分に配置されていることもあるが、全体的にはほぼ納得できる配列といっていいだろう。敢えて困難に挑んだ試みに拍手を送りたい。フォクルールの演奏は、ヴィルトゥオーゾのというよりは深い考察に基づいた確実な手腕によるゆるぎのない名演といえるものだ。ヨーロッパ各地の個性的な歴史的オルガンが使用され、音響の驚くべきバラエティが楽しめる一面もある。最近の研究により偽作と判断された作品はかなり厳密に削除されている一方、新発見曲が網羅されている点も注目に値する。現在最も完成度の高いバッハオルガン全集といえるのではないだろうか。また、従来はチェンバロ用の作品とされていながらも明確な楽器指定のないBWV904を筆頭とした数曲(BWV800番台、900番台)が取り上げられているのも注目点だろう。大部冊の解説論文はそれだけで読み応え十分だが、誤植が多い(英独仏のうち英文部分だが)。また収録位置検索のために曲名順の索引が付けてあるが、あまり役に立たない。BWV順索引の方が実用的だろう。

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     2011/06/04

    リフシッツの「フーガの技法」を聴く時、同じロシア出身のピアニスト、アントン・バタゴフの演奏をどうしても思い起こしてしまう。リフシッツにあってバタゴフにないもの:アーティキュレーション、アクセント、アゴーギク、アフェクト、コントラスト、ダイナミクス、リリシズム、理解可能な解釈、ほらほらここにテーマがいるよと教えてくれるような親切心、親密さ、未完成曲の末尾にあっても無音の虚空に永久に放擲してしまうような冷酷さを持たず暖かい懐に回収してくれるような優しみ、等々(アイウエオ順w)。あまりに対極的に思えるからだ。その意味でリフシッツはなすべきことを極めて高いレベルで実行してくれる、最も優れた意味での大人の演奏者だといえるのだろう。そうすると、バタゴフは最も優れた意味での子供の演奏者だったのか。何の虚飾も身に付けない子供の、何も付け加えない、大人の期待に背いた愛想のないシュピール。論理でも何でもないが、しかしどちらも真正のバッハへの異なるアプローチなのだと思う。むしろ死せるバッハが演奏家たちを思うままにさまざまに走らせているというのが真相か。バッハの多くの鍵盤音楽独特の硬質の光沢を放つ緊密な織物のような質感は、端から人間の息吹が吹き込まれているピアノのコロコロした音質では表現不可能と思っている。特にフーガの技法ではその感が強いが、この二人の演奏は聞き逃すことはできない。このリフシッツの演奏を聴くと、ある種家庭の団欒のような癒しに溢れた「フーガの技法」もあって良いものと思わせられてしまう。

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     2010/11/07

    「フーガの技法」をオルガンで弾くならこうあるべきと思わせる圧倒的な力量による突き抜けた演奏に久々に出会った思いがする。「フーガの技法」がチェンバロ演奏を想定して作曲されたというのが現在の標準理論だとしても、それでもオルガン再現の効果は格別だ。Contrapunctus 1や6のオルゲルプンクト(!)、Cp.7の cantus firmus風の拡大主題、未完フーガの滔々たる和声的対位法の流れ。フォクルールの構想力と理知的表現によるみごとなリアリゼーションは、ヴァルヒャ以来のこれからの標準となるべきものではないか。2007年ドミニク・トマ製作のオルガンは18世紀前半チューリンゲンのトロスト・オルガンを参照したもので、対位法のクリアな響きとともに柔らかな音色が美しく、フォクルールは多彩なレジストレーションを駆使して各曲の個性を際立たせている。未完のフーガは、未完成版とフォクルールによる完成版の2つのバージョンが収録されている。完成バージョンの方は、既出の3主題に基本主題を加えた4主題を一度重ね合わせただけの最小限の提示部を付加して終わっている。注目点は、第4主題として、ノッテボームが提唱した基本主題そのもの(Cp.1の主題)ではなく、付点リズムによる変形主題(Cp.5〜7などの主題)を用いたことだ。基本主題を用いた場合には現れる不協和音が無理なく解消されるほか、次のような興味深い構造が現れる。つまり、基本主題の音符数が12であるのに対して、この付点付き変形主題では14となるため、第1主題7音符(BACH=2+1+3+8=14の1/2)、第2主題41音符(J.S.BACH=9+18+14=41)、第3主題4音符(BACHの音名による)、第4主題14音符(BACH=14)というように、4主題ともすべてBACHの名前と関連付けられ、完成後にはContrapunctus 14となるはずだったこの曲が完全にBACHの名で埋め尽くされることになる。フォクルール自身は触れていないが、この部分もバッハの意図再現の上で、また一つのキーとなるのではないか。しかし、この第4部をフルに展開して演奏してみせて欲しかったと思うのは私だけだろうか。(なお、Zoltan Gonczもこの付点リズムによる変形主題を用いて補完作曲している。)

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     2010/08/22

    フランス・ブリュッヘン率いるヨーロッパツアーカンパニーによる再度のロ短調ミサ曲ワルシャワ公開録音盤。
    前回録音の1989年ツアーは、ベルリンの壁崩壊に象徴される東側体制崩壊の嵐のさなかに行われたものだった。ライナーノートによれば、1989年3月のワルシャワコンサートでは聴衆は終曲Dona nobis pacem(我らに平安を与えたまえ)の繰り返し演奏を求めたという。民主化の過程で内戦の危機に直面していたワルシャワの聴衆にとって、それは平和への切迫した願いだったに違いない。その後20年、ポーランドは平和のうちに苦境を乗り越えてEUへの加盟も果たした。同慶の思いはヨーロッパ全体のものだっただろう。この2009年ツアーではメンバーの総意としてワルシャワ公演が組まれたという。義務感というよりも、古い友人の許に駆けつけ、ともに喜びを分かち合いたいという自然な友情の発露だっただろう。プログラムとしては、(作曲家自身の意図はどうあれ)かつてはプロテスタントとカトリックを結ぶ象徴的存在となり、今は東と西を一体化させる力ともなったロ短調ミサ曲以外には考えられなかっただろう。それにしてもこの曲の色褪せることのない、むしろ輝きを増していく一方の生命力には驚かされる。
    本盤は過去に聴いた中でも最高の美しさと弛みのない力強さを持った素晴らしい演奏だ。時代背景がこの演奏に力を与えたとしても、それを離れても驚くべき名演と言わざるを得ない。大音響に頼らない輝かしい透明感と、熱狂ではなく理知的な親和力に満ちた合唱、それぞれに個性的な成熟が感じられて美しい独唱群、艶やかで的確な器楽、加えてライブ特有の一体感を伴った盛り上がり感覚。特に感慨深いのはGratias agimus tibi(汝に感謝す)。Dona nobis pacemと同じ旋律を持つこの感謝の賛歌は、20年前の祈りに呼応するかのような感動をもたらす。Et in terra pax(地には平安を)のフーガは、89年盤(ユトレヒト公演ライブ)ではソロの重唱だったが、本盤では本来の合唱で構成されている。落着きと機敏を兼ね備え体現した演奏だ。このような表現を抑えた合唱曲に躍動感を与える手際が素晴らしい。89年盤もピリオド楽器による斬新さをもった名演だが、時に尖りすぎた演出も感じられたのに対して、2009年盤はすべてが豊かに調和を持って熟成されているように思う。20年前の切迫と20年後の成熟。来し方を振り返っての感謝と喜びの共有、余裕すら感じられる円熟ぶりだ。ロ短調ミサ演奏の一つの到達点に立ったと言えるのではないだろうか。さらに言うなら、この演奏は単に至高の名演というにとどまらず、歴史の中で長く人々の記憶に留まり語り続けられていくだろうと確信できる。
    再聴、思い余っての長文をご容赦頂きたい。

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