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松浦博道 さんのレビュー一覧 

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     2021/11/08

    19世紀初頭〜中庸期を生きたドイツの器楽曲の多作家ルイ・シュポーアだったが、どちらかと言えば、彼以前のハイドンやモーツァルトら先鞭者・パイオニアの様式への模倣や接近を見せている作品が多々ある中で、この交響曲第3番ハ短調と第6番ト長調〈歴史的〉の2作は、発表初演当時は斬新で型破りな音楽として、かなり聴衆を惹き付け魅了した様だが、21世紀今現在に聴くと、あまり新鮮な音楽には響かない、保守的な作りと内容・質感で、明快な聴きやすいメロディとによって、古典的な響きの音楽を創出・追及していると言う評価にしか留まらない価値を認める。ハ短調の第3番は、ベートーベンの死の翌年、及び、シューベルトの没年に当たる1828年の作で、第1番変ホ長調の1811年、第2番ニ短調の1820年に続く初期作品に属する成立年を持っているが、ハ短調と言う調整の意味合いが持つ悲愴感は、さほど顕著でなく、終楽章のアレグロなどは、ベートーベンのハ短調の第5交響曲のそれと同じ様に、冒頭からハ長調へと転じ、力強い響きを放ち、勇ましい推進力でもち展開する王者の様な性格を見せているが、ベートーベン以後の多くのシンフォニストの中では、軽い扱いに留まる域を出ない点を感ずる。1797〜98年頃に、ベートーベンがウィーンで書いたピアノソナタ第8番ハ短調〈悲愴〉作品13に似たスタイルを維持している特徴や構成感を呈し見せており、冒頭の第1楽章のアレグロ主部への推移前には、重厚壮麗なグラーヴェ導入部を置くなど、相互の作曲上の影響関係の強さが指摘できる。1808年にベートーベンが書いた周知の有名過ぎる第5交響曲ハ短調〈運命〉を意識している創作態度は明らかで、第3楽章スケルツオのティンパニの連打に始まる不穏な雰囲気なども、楽聖の性格を受け継いだ要素が強く前面に押し出されている。単にベートーベン風な模倣としか、後世の作曲家たちが評価しなかった理由が、こうした部分に見い出されるのだろうと窺える。当時の典型的なウィーン古典派の伝統的ソナタ形式を踏襲し、楽聖ベートーベンの和声書法からの大きな逸脱・離脱を図る次元には、まだ及んでいない。生前に強く偶像崇拝したモーツァルトのウィーン時代後期の伝統スタイルと影響を自作に取り入れ昇華しつつも、何か新しい響きや性格を帯びている様な時宜的な創作性は影を潜めている様にも感ずる。こうした模倣は、ベートーベンやシューベルトの没後以降に、多数の作曲家が絶えず試み模索した亜流スタイルの域に過ぎないものだ。かと言って、聴くに値しない凡作と言う評価が与えられるのも不当性がある。伝統的な様式や響きに準拠した作風ながらも、後のブラームス、さらには、ブルックナー、マーラーらの全く異質で巨大な交響曲の世界概念路線と比較するのも落ちが残る。シュポーアは、自作の10ある交響曲の中に、声楽や合唱を導入することこそ全く試み無かったが、純オーケストラ作品のジャンル/ガットゥンクでは、ほとんどが、地味で鳴りの悪い作品が多く残るが、これらを個性的な出来の秀作と見なすのには少し魅力さに欠ける抵抗感もあるかと思う。だが、決して枯渇されるべき内容の作品ではなく、19世紀前半当時、あのメンデルスゾーンやヴァーグナーらが、自ら指揮したコンサートで、この第3番ハ短調を得意気に取り上げて、その解釈を競ったらしい逸話も伝わっている。同じ理屈は、第6番ト長調〈歴史的〉にも共通しているだろう。作曲者自身以前の時代を生きた天才らと、最新の時代の要素を、1作の交響曲の内容と構成で混ぜ合わせ融合させると言う発想自体はユニークな目新しい意義があろうが、基本的には、保守的な響きと作りである点は、他の諸作品らと何らの特徴的なニュアンスや差違は見られない。取り立てるほどの目ぼしい特徴は、第4番ヘ長調〈音の奉献〉でやって見せた、音と詩との文学的関連性の試みとは打って変わり、より古くさい趣味に目映りする傾向の内容作品に落ち着き、意欲旺盛さはややも後退している。バッハやヘンデルを模倣した第1楽章では、バッハの〈平均率クラヴィーア曲集〉や、ヘンデルのオラトリオ〈メサイア〉からの断片的な引用が、第2楽章では、ハイドンの1790年代の12曲ある〈ロンドン・セット〉や、やはりモーツァルトの晩年期の交響曲第38番〈プラーハ〉や第39番変ホ長調あたりの緩徐楽章の響きの余韻を思わさずにはおけない。第3楽章スケルツオの効果的なティンパニの使用は、ベートーベンを限りなく意識したものだろうし、第4楽章アレグロの「最新の時代」では、シュポーアと同時代を生きたフランスのダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベールの歌劇〈ポルティチのおし娘、マサニエッロ〉の序曲の動機などからの劇的なパロディ的引用が見え隠れしてもいる。かの大家ローベルト・シューマンは、この第6番について、「全楽章があたかもシュポーアの音楽の様に聴こえてくる」と揶揄し評した様に、あまり当時の慎重な立場をとる作曲家や評論家らの意表をひく内容物には感じ取られなかった様である。だが、大衆的には成功した部類の作に入ったのであろう。こうした点にも、既に当時、にわかに台頭しつつあったリヒャルト・ヴァーグナーの楽劇的な革新的響きや文学的要素はほとんど散見されなかった様でもある。つまらない内容の佳作と言ってしまえば、それまでだが、シュポーアらしい軽い特徴的な響きは、相変わらず表面上の各所に出て鳴っている点は、申すに及ばない。第6番ト長調〈歴史的〉は、1840年頃に成立した作品だが、同じ様に、過去のバロックや古典派時代の作品を蘇らせようと画策した作曲家は他にも存在した事実を忘れてはなるまい。1829年には、かのメンデルスゾーンが大バッハの〈マダイ受難曲〉を、プロシア王国の都ベルリンで復活上演して話題を呼んで見せ、大バッハ音楽への傾倒と関心を一般市民に啓蒙普及させる様に尽力したし、もっと後の19世紀後半には、ブラームスが彼の最後の第4交響曲の終楽章で、大バッハの、あるカンタータから着想・インスパイアされたとされるバロック時代の変奏曲形式のシャコンヌ(パッサカリアとも)を導入して古い時代への回帰と愛着・オマージュを払うことになるわけだ。ところで、この第3番ハ短調と第6番ト長調〈歴史的〉のカップリングによった2作は、マルコポーロ盤以外にも、ハイぺリオンやCPOなどを含む幾つかの他競合レーベルより、近年、デジタルで新レコーディングされたディスクが次々発売になってきているが、オーケストラの重厚な響きを、なによりも優先的に買う人であれば、このマルコポーロ盤が、なかんずくの推しなのではなかろうか。録音は、1991年11月に、東欧スロバキアの町コシチェの芸術家の家でステレオ収録されたものの様だが、今聴いても、古めかしい野暮な印象は無く、幽霊演奏の様に、聴くに絶えない不自然さも見られない。当盤を含むマルコポーロ出自のシュポーア交響曲全集は、ここ最近になり、Naxosに移行販売されたが、音質がステレオからデジタルにリマスターされたと言う話は聞いていない。近年のリバイバル・ブームの時流の需要性から、単に移行廉価販売されただけなのであろう。近年では、ベートーベンやシューベルト、シューマン、ブルックナー、ブラームス、マーラーらの傑作ばかりが顧みられ、盛んに演奏消費される傾向は、19世紀でも続く20世紀にあっても、基本的にほとんど変わらぬ傾向を見せているが、それはともかく、聴きやすいシュポーアの交響曲で何を取るか、と考えるのならば、第3番ハ短調と第6番ト長調〈歴史的〉が異論無く第一に推挙できる。弦楽器の分厚いサウンドの威圧感に加え、それに装飾的な表情を与える管楽器セクションの響きも、調和一体し、迫力ある管弦楽の醍醐味を楽しむことができるに違いない。重厚な曲想の交響曲を重厚な演奏で、と望む向きの愛好家や通には支持される内容の録音盤だと言えるハズだ。ただ、オーケストラ全体のまとまりや、その力強い扱いや鳴りの良さに比べて、もう少し、弦や管の細部の響きの各表情が室内楽の様に緻密さが強調されても不自然さは残らなかっただろう点で、星評価はマイナス1を減点し差し引いた4としてみたまでにある。何はともあれ、見付けたら購入一聴し、他盤の音源との比較を楽しむのも興味尽きなく一興の余地があるだろう。

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     2021/09/25

    まだ楽聖ベートーベンやシューベルトらが、創作人生の晩年で在命中にあった19世紀初めに、ドイツやイギリスなどを背景に活躍を見せ、飛躍を遂げえた、モーツァルトを越える多才な早熟な才能を開花させ、多くのクラシック史に残る旋律的な作品を生み出しえたマルチな音楽家メンデルスゾーンが、まだ作曲家としては無名であった頃の最初期時代・青年期時代の響きや特徴所をよく捉えたピアノ四重奏第1番ハ短調作品1と、それに連なる様式で書かれたピアノ六重奏ニ長調作品120を1枚にカップリングさせたNaxosが、1994年にリリースした旧譜の廉価盤だが、録音もデジタル音質かつ、演奏の質も他の競合レーベルに劣らず遜色ない高質な盤だと言う印象が、何ともマニアックながら、独自の魅力をアピールした特異さが見られるな、と言う、良い意味での新鮮な余韻を、聴き返す度に嫌味なく抱くことの多いスタンダードな1枚として捉えている。天才少年が、わずか中学生くらいの年齢で書いたとは思えない劇的な情熱と、ベートーベンを意識したかの様にデーモニッシュな響きには、感情を奮い立てる高揚感が、聴く者を引き付ける内容充実の室内楽にまとまっているのを知ることができる。ハ短調と言う調整・キーで作品を書くことの意味深長さは、まさに先の楽聖ベートーベン以後に尊重されることになる重要な精神的選択にあった。メンデルスゾーン栄光の作品1であるハ短調ピアノ四重奏に聴かれる性格や要素には、交響曲的と言うか、管弦楽的に響く大胆さがあり、その背景には、まさに楽聖ベートーベンの和声を彷彿させんとばかりに、漲る活力や生命力が背後で、独自の自己主張を帯びている様に強烈な印象を振りまいている。天才少年は、この作品で、早くも、本格的な交響曲・シンフォニーを書くための創作意欲を燃やし、模索していたのでは?とも読み取れる実験作の様なニュアンスが感じられてならない。様式的・形式的に見れば、その作曲当時、西欧で主流にあったであろうハズのフランス風協奏的四重奏の影響が生々しく色濃い点をよく物語っていると思う。その後に一般化する、自由自在に動き回る華麗なパッセージを弾きならす名人芸的・ヴィルトゥオーソ風な要素や、各楽器の個性と可能性に特化したバランスの取り方と配慮と言い、この天才少年の栄光の処女作にある作品1のハ短調ピアノ四重奏には、誰が聴いても、見るべき・聴くべき特徴が随所に多いのを身に染みて体感させられる創意性と色鮮やかな知性的意欲が認められるに違いないのだ。冒頭楽章アレグロ・ヴィヴァーチェは、重く暗いチェロの導入に始まり、次第に大きな器へと熱を帯びて規模が増強し展開してゆく様は、かのベートーベンの運命交響曲の気迫を意識させずにはおけない悪魔的な闘争心が支配的である。変わって、緩徐楽章アダージョの瞑想的な響きからは、同じベートーベン晩年の一連のガリツィン弦楽四重奏曲集からの内省的な世界の影響が顕著に余韻を落としている。転じて、スケルツオ、プレストの第3楽章には、この作曲家特有なオリジナルなトレードマークと見るべき妖精の音楽が、既に立派に躍動しているではないか。結びの終楽章アレグロ・モデラートは、ピアノの端正な響きに始まるが、次第に、エネルギー熱を帯びた曲想展開により、先の冒頭楽章の性格に相通ずる感情の高まりや有機的構成による統一感で、この天才少年最初の室内楽作品の世界を個性的かつ大胆自由にまとめあげているのだ。総じて、何らの不足を覚えない、充実の一作が、ここに、初めから完成されている、と言うわけだ。当盤の作曲者の名を冠したバルトルディ・ピアノ四重奏団の演奏質も、過度に力まず、過不足ない解釈で、天才少年の最初期の作品世界をよく相応に再現して見せている。カップリングに選ばれたピアノ六重奏ニ長調も、さながら小型のピアノ協奏曲の様な様式で書かれた初期の佳品であり、エレガントで鮮やかな強弱の対比感や書法によった美しい世界があり、ここでも、オーケストラ的・管弦楽的な弦の伴奏を伴う、フル編成のピアノ協奏曲と、ほとんど区別のつかない類似点は残るものの、相変わらず、どこまでも自由奔放で、楽器の効果的な扱いや鳴らせ方は、真の天才にしか書けない奇跡の至芸ぶりは、変わらずに健在し作用してもいる。メンデルスゾーンの親しい友人でもあったショパンの名高い2作のピアノ協奏曲のピアノ六重奏編曲版なども、当時の貴族やパトロンなどの邸宅のサロンや、一般家庭での室内楽の集いやソワレでの演奏可能な規模に合わせた親しみやすい編成に配慮し踏襲した、これらの作品が書かれた当時の演奏事情や習慣に照準を合わせる狙いと意図があっただろう往時の身近な演奏スタイルを物語っている。このピアノ六重奏の方は、作曲後の後の時代に楽譜が出版されたがため、後の作品番号を持っているが、作曲されたのは、1824年と、先の1822年作のハ短調ピアノ四重奏とほぼ期を同じくし、破棄されずに後世まで残った希少な最初期作品の一例に数えられる。編成には、内省部を強化したビオラ2本に、低音部の補強として、コントラバス1台が加わる、ややも特異な扱いの器楽編成にある故に、なかなか、実演で聴く機会にこそ恵まれないが、ドイツ初期ロマン派のピアノ付き室内楽を俯瞰する上では、決して見落とすことがあってはならない価値を秘めた力作の部類に入るべき一作だろう。単純に弦楽器だけの四重奏や五重奏なら演奏レパートリー曲の数は世に数えきれない量存在するが、そこに鍵盤楽器ピアノが加わる編成の室内楽ともなれば、過去の西欧音楽史上には作品数は限られてくるハズに違いないが、このNaxos盤は、以上の意味において、1枚に天才少年の知られざる最初期作品が並んで収録・併録されている故に、まんざらありそうで数のない、希少で重宝するプレミア物としての付加価値が付くべき、世代を越えて聴き継がれるべき、音の典拠資料・ソースとなるべき有意義さを含んだ秘盤扱いされ、見なされるべきメリット・簡易さがあろう。よって、評価は最高の星5つとしみたまでだ。是非、この機会に、ご自身の耳で一聴確認あれ。

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     2021/02/17

     改めて言うに及ばず、新年という1年に1度だけ訪れる祝賀の会の雰囲気が

    存分に楽しめる豪華なコンサートでした。無聴衆かつ無拍手という異例の厳

    しい事態下で実施されたのは疫病の世界的蔓延という情勢を鑑みれば、仕方

    なかった話でしょうが、これで6度目の登板となったニューイヤー常連のイ

    タリアの巨匠ムーティの迫力ある指揮姿と、それに機敏に応じるウイーンフ

    ィル団員の自由な呼吸の合った融通の利く演奏とによって、コロナ禍の沈滞

    した憂いを一掃せんとばかりに、壮大でこれ以上に無い、比類の無き演奏

    と質感とによって、過去のニューイヤーの伝統が大きく覆され打破されたと

    感じる瞬間もあったと錯覚するほど、絢爛豪華な宵であったと感じました。

    とりわけ、耳に印象に残った演目に、ワルツ王晩延期傑作の一つとして知ら

    ぬ者はいない<皇帝円舞曲>や、1869年の夏に避暑地ロシアはパブロフ

    スクで誕生した賑やかなムードなポルカ・フランセーズ<クラップフェンの

    森で>、同年の1869年夏に体調の優れない健康不安の募るロシアのパブ

    ロフスクで次兄ヨーゼフ・シュトラウスの手から放たれたポルカ・シュネル

    <憂いも無く(=Ohne Sorgen)!>などの今日まで廃れない伝

    統的な作品たちから受ける印象は、まさに高揚感とスリルに富んだウイーン

    フィルの繊細でクリアーな弦から自然と醸し出されるメロディーの賜物とい

    った感じが聴き手によく伝わってくる圧巻の演奏美でした。ウイーン・ムジ

    ークフェラインザールからの同時衛星中継のテレビ画像では、<皇帝円舞曲

    >の演奏の際に、ウイーン旧市内に今でも偉容を放ち残るハプスブルク家の

    かつての象徴「ホーフブルク宮殿」の屋根に飾り立つ、同家の家紋「双頭の

    鷲」が映っていましたが、これも最高のカメラワークだったと今でもその時

    の余韻がビジュアルに鮮明と焼き付いています。50年くらい前のボスコフ

    スキーの演奏がなんだか、こじんまりとくすんで地味な印象に思えてしまう

    のも無理はないと思いますが、この事実によってみても、ウイーンフィルの

    演奏は年を増す度に、精度が高く奥行き・立体感が増して、響きの音量が昔

    よりも豊かでパワフルな輝きへと向上している様に感じられます。ウイーン

    の伝統は、ますます汚れの無い次元へと時代の求めに呼応するかの如く発

    展してきている、そんな印象にさらされたコンサート内容でした。来年20

    22年に通算3度目の登場が予定されている巨匠バレンボイムの動向と、次

    はどんな選曲で、世界中の聴き手の心を満たしてくれるかに大きく期待した

    い心境です。期待は増す一方です。来年もガンバレ、天下の名門ウイーンフ

    ィル!ブラヴォー!!!

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     2019/07/11

     19世紀ウイーン音楽の代名詞であった高名なワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の作品を中核に、その他の作曲家の定番曲・代表作品や知られざる音楽にも、体系的に触れられる、ウイーンフィルによるニューイヤーコンサートの過去の歴史が展望できる便利な内容のセット物です。

     当コンサートで過去に1回でも演奏された履歴のある作品はもとより、聴き馴染みある有名作品や、マイナーな希少曲から珍曲まで、ほぼ全てがカバー・網羅されており、このコンサートの定義と伝統がよく理解できる充実さが自慢の売りだと思います。

     ウイーン音楽入門者の方や、もっともっとシュトラウス・ファミリーの音楽が楽しみたいと嗜好するマニアの方も含め、本家本元ウイーンの長き伝統ある由緒正しき、真正なウイーンの生の音が楽しめる価値の高いセットだと思います。

     マルコポーロおよびナクソスでリリースされたヨハン・シュトラウス2世の作品全集のCDボックスセットと併せて、一家に1セット、コレクションにしておきたい歴史的なプレミアがある究極のお宝物でもあると思います。

     値段も手頃でそう高くはなく、ウイーンフィルのファンやマニア、ウイーン音楽が大好きでたまらない方にはウケるはずの内容と質だと評価できます。

     このセットがあれば、一年中、自宅にいて、本場ウイーンの音色が気軽・手軽に楽しめる、毎日が正月気分にひたれる文句なしの構成力と演奏水準の魅力にハマることでしょう。

     また、これまでに一度も市場に出回ったことのない古い貴重な音源も多数含まれている点も高く評価できる価値があると思います。

     なお、アンコールの定番曲として知らない方はいないはずのワルツ<美しく青きドナウ>の音源は、このセットが出された2015年度のズービン・メータ指揮による最新の演奏で収録されております。

     その他、1992年のカルロス・クライバー指揮のポルカ<雷鳴と電光>など、往年の名演奏も聴くことができる有意義なセット物です。

     添付のハードカバーのブックレットも巻末に作曲家別にアルファベット順に作品の索引機能が付いており、重宝します。
     
     いささか大袈裟な表現ですが、このセットを全て聴けば、ウイーンフィルとウイーン音楽の通になれることでしょう。毎日聴いていても飽きの来ない、明日を生きる人のための知恵と活力が沸くヒントとなる大切な栄養源になると思います。
     
     よってこの贅沢な充実内容ならば、評価の決め手となる星数は、最高の5つとしてなんらの迷い・異論はないでしょう。廃盤にならない内に、見付けたら、即購入すべきヴィンテージ・アイテムだと言い切れるでしょう。

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     2019/07/01

    今から20年以上前の1997年に英国のシャンドスよりリリースされた魅力的な1枚。この1枚で、あの「ピアノの詩人」ショパン以前の「夜想曲(=ノクターン)の創始者}でもあった作曲家・ピアニストのジョン・フィールド(1782〜1837)の知られざる実力の姿・世界が再発見・堪能できる充実の豊かなコンテンツによっている、いかにもクラシック音楽らしいユニークな秘曲たちが寄せ集められており、まとめてそれらに触れられ聴くことができる重宝する手軽なアルバムだ。この作曲家最後のピアノ協奏曲第7番ハ長調(orハ短調?)も素晴らしい劇的なインパクトの強い音楽だが、特に、ピアノ独奏付きの管弦楽伴奏による協奏的作品が旋律の美しさと言い、ピアノとオケのかけあいと言い素晴らしい新鮮な効果を生んでいるのが多く目につく。それらのどれもが、当盤による演奏・収録が世界初となる試みであったのも嬉しい当アルバムならではの特典を特徴付けているだろう。澄んだ快晴の秋空の様にすがすがしいさわやかな音楽ばかりだ。起床後の静かな朝にでも肩の力を抜いてリラックスしたムードで一気に聴き通せる。とりわけ、ピアノ、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの編成によるピアノ五重奏曲より<アンダンテ・コン・エスプレッシオーネ変イ長調>の存在だ。演奏時間に11分も要する長め単一楽章作品として当アルバムに収録されているが、牧歌的・抒情的な美しい室内楽であり、イギリスor ロシア音楽というよりかはドイツ・ロマン主義的な傾向と要素・響きを留めた隠された楽章となっている。弦の響きに溶け合うピアノ独奏の響きの調和の妙味がなんとも言えない絶妙な空間を描出してもいる。この<アンダンテ・コン・エスプレッシオーネ変イ長調>の楽譜だけは単独で出版されており、日本のアマゾン・ジャパンのサイト上でも販売されているのが検索で確認できたことがある。ただし、肝心のピアノ五重奏曲全体の方のCD録音源や楽譜はまだ市場には出回っておらず、未知の知られざる秘曲扱いの作品となっている。故に、このピアノ五重奏曲全曲のCD・ディスクのリリースと楽譜の出版を併せて希望したいと願わざるをえない近況だ。その他、<ディヴェルティスマン第1番ホ長調>や<同第2番イ長調>なども素晴らしい魅力的で穏やかな情緒がにじみ出た人間的ぬくもりのある名作として、もっと一般に知られて聴かれるべき価値と内容をもったものと推奨できる。なお<ディヴェルティスマン第2番イ長調>は2つの楽章から構成されており、第1楽章とも言うべきパストラレ・アンダンテの冒頭に聴かれるピアノ主題は、後の1821年頃に書かれ、ロシアのペテルブルクにおいて楽譜出版されたピアノ独奏のための<夜想曲第7番ハ長調>に再使用・転用されてもいる。この

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     2019/05/21

    18世紀という時代において、極めて時代の先を行く先見的で多彩な才能を開花させ、当時のヨーロッパ人を、そして、死後の後世の作曲家たちにも、多大な影響力を持った天才モーツァルト。彼の音楽を聴くと、言いようのない深い人間的親しみと、感動を覚えることが多々ある。わけても、彼の才能は、純粋な管弦楽作品としてのシンフォニーや、ピアノ・コンチェルトといった形式の中において、その生き生きとした活力の古典的躍動美と、その自由奔放で永遠なる時間が流れる空間に包まれた、誰が聴いても飽きることのない、深い詩情味・ポエジーを感じるのだ。彼の繊細でいて多彩な交響曲やピアノ協奏曲を聴く時、その生前、ウォルフガング・アマデウスなる人物は、どの様な生活を送り、後年、ウイーンという音楽の聖地で呼吸・思考し創造したのか、という大きな疑問を投げかけているようでならない。特に、彼が生誕の地ザルツブルクを追われて後にし、ウイーンへ活動の拠点を移すことになった晩年期の円熟の極みにあった頃に生れ出た珠玉の賜物揃いである作品たちの数々の世界をいろいろと聴き進めていく中で、小生は、この普通ではない非凡な才能、それも、当時世界最高の創造力・クリエイションを持っていたと言っても大袈裟ではない、その傑出した明晰な頭脳と知恵から生れ出た高度な音楽からは、「孤独だが自由に(=frei,aber einsam )という19世紀的思想哲学と、精神性の愉悦感や悲哀感、喜怒哀楽の表現の過不足のなさといった我々、人間ならば誰しもが毎日の単調な生活を送る上で考える理性・知性や、その対極にある要素である感情の自由な呼吸を身に染みて深く一考させられるファンタジー・幻想美に満ちた音楽なのだという、限りなく神に近い存在でありながらも、所詮は一人の人間・男にすぎなかったモーツァルトという個性的創造主、楽園のミューズの18世紀的美学の世界を真に追体験・再現させられるのを、この巨匠アーノンクールの描く1枚のアルバムに収められた、交響曲第38番ニ長調<プラーハ>と、それに続くトリプテークである三大交響曲を形成する第一作目に当たる交響曲第39番変ホ長調の名演奏から、深く学び感じ取ったのである。
     ここまでの表現力の豊かさ、想像力の才気煥発さを見せる内容的にも充実した交響曲、いうなれば「管弦楽のための自由なソナタ」とも言うべき世界の魅力ある光彩美と陶酔力、さらには18世紀という過去の一時代という枠と規模を超えて、現代の我々の時代にまでも普遍的に相通ずる音楽作品を書きえたモーツァルトの和声・響きには、ハイドンやベートーヴェンとは似ている様で全く性格の異なるキャラクターのユニークな創意工夫性・オリジナリティの光の彩を感じるのだ。そう思うのも決して小生一個人だけではあるまい。
     彼モーツァルトの最も円熟した作曲語法の真骨頂とそこから生まれる驚くべきの想像力の爆発の拡散力といった普遍性や、古典的な均整美は、聴くものをしてヨーロッパ史以前の太古のギリシア時代の太陽神アポロンや最高神ゼウスの神々しい理想・イデアや、様々なエロスを生んでいるのを聴くたびに、その深い造形力とバランスの取れたプロポーション、決して音楽の自由な表現という次元にとらわれない、発想転換力の機敏性、21世紀の我々にも不足している生きる上でのエネルギーの活力みなぎる響きの鮮烈さに深く魅せられるのである。ハイドンでは少々暗く趣味が悪く、ベートーヴェンの音楽世界では余りにも巨大・長大すぎる、といった不満やバランス感覚の不均衡さを指摘し、抱く向きの音楽ファンには聴いていて肩に力の入らない、理想的な響きを構築している音楽世界の英知を知るに違いない。基本的に、モーツァルトは永遠の子供・神童であったという従来から言われてきた考え方・伝説に横槍を刺す様なことはしたくないが、あえて言うのならば、彼モーツァルトにしか書けない超個性的名旋律の轟を聴くことができる点に変わり映えはないわけだと言いたいものだ。メヌエットなしの交響曲第38番<プラーハ>の持つ18世紀古典世界の洗練された響きと、それをさらに追い求め試行錯誤した結果できあがったであろう南ドイツのバイエルン風な響きを持つ交響曲第39番のカップリング・アルバムとしては、これまで市場に出た音源の中でも優れた秀演に属するべき、古楽の大家アーノンクールの解釈で酔わされる大人の魅力をたたえた至福でいて飽きの来ない「決定盤」と言うべき価値・バリューと、音楽をすることの無類のない楽しさが溢れているのが聴いていてよく琴線の様に伝わってくる親しみやすさを覚えるのだ。これまでに数えきれないほど演奏・録音されてきた既存で周知の作品だが、古楽の権威として名をはせたアーノンクール流の解釈を通して聴くとまた全く違った魅力ある響きを生んでいるのに気付かさせられるのだ。演奏・解釈とは、この様な指揮者や、オケによっても全く千変万化して違ってくるという無限のヴァリエーションが効く相違性にも気付かさせられるものがある。生前、アーノンクールは当音源を含め、3種ものモーツァルト最晩年期の交響曲群の録音を遺したが、その記念すべき最初を飾った当アルバムの内容は、最初とは言えども、最初からちゃんと天才モーツァルトの本質像を突く革新的な名演が実現しているのを聴き直すたびに勉強させられる不思議と嫌味のないが、古楽演奏らしく、鮮烈でいて、モダン楽器演奏と一味も二味も違った絶妙な加減と抑制の効いた充実の内容味を帯びていて堂々と誇ってもいる究極と呼んでさしつかえのない文句なき自由でいて、自然体なよくまとまりのあるモーツァルトに仕上がっている。交響曲第38番<プラーハ>第1楽章アレグロに流れ込む前に置かれた堂々とした意表を突く序奏部分アダージョの響きは、この作品が書かれた頃の作曲者モーツァルトの円熟の晩年期特有の特徴がよく表れてもいる。続く第2楽章のアンダンテの美しいロマン主義的明暗を秘めた豊な響き、メヌエット楽章を欠いているが、それは当時のプラーハの人々の趣味に合わせて、あえて書かなかったとも伝えられる。そして終楽章フィナーレの活力あふれる楽想展開の爆発は、思わず息をのむ緊張感に満ちている。この時期のモーツァルトにしか書けない最上・最高の開放的音楽だ。続いて交響曲第39番変ホ長調の演奏に入るが、これもまたアーノンクールの学術的解釈の鋭さが前面・前景に強く押し出された力演であり、この作品でも、古代ギリシャの遺跡を見んばかりの、崇高でいて、モーツァルトの最晩年期特有の鋭さが如実に表れている意欲作だ。第1楽章冒頭のアダージョのティンパニを伴う力強いオーケストラの大胆な響き、そこから派生して流れ込むアレグロの自由闊達な躍動する世界の響きの妙には、聴いていて、思わず息をのむ緊張感が支配している。第2楽章のアンダンテ・コン・モートのやるせない官能的なエロスを描写したともおぼしき旋律の陰影美は筆舌に表しがたい複雑な心理状態にさせられる、なにかそれまでのモーツァルト作品にはない新たな次元域に到達したと言わんばかりの陶酔的情緒に心を奪われる。第3楽章のバイエルン風な雄渾なメヌエット主部と、一転してクラリネットによるのどかで田園的・牧歌的なトリオ部分の対比による響きは聴いていて心地よい。そしていよいよフィナーレの第4楽章アレグロ。この楽章も無窮動風な楽想に一貫して貫かれており、アーノンクールは途中の展開部と再現部分をリピートして演奏しており、この辺りも指揮者の腕の見せ所、およびオケの実力の聴かせ所といった内容にもなって、響きの自在な奥行きを生んでいる。
     総じてみるに、このアルバムは単なるモーツァルト晩年期のオーケストラ音楽と呼ぶべき軽い意味合いのものではなく、そこには深いえもいわれぬ最晩年の円熟でいて孤高の境地・心情下におかれていたであろう、紛れもなき天才モーツァルトその人の心の分身を見るような魂の響きが詰まった聴き所の多い重厚でいて意味深長な有意義な労作となってもいる。当アルバムの演奏でも、指揮者として古楽の権威として実力をふるったアーノンクールの解釈が従来の指揮者の解釈にはない特別でいて新鮮なモーツァルト演奏であることかを、よく捉え、体現しえた決定的な代表名盤と言ってよいだろう。。ここまでの豊かで尽きることのない魅力に富んだオケの色鮮やかな世界・底力を見せつけた演奏もそう世界に多くはない希少な名演がこうして実現したのを改めて知ったのだ。
     

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     2019/05/13

     19世紀ウイーンのビーダーマイヤー時代(*1814〜15年のウイーン会議以降、1848年の3月革命での保守的なメッテルニヒ体制・ウイーン体制の崩壊まで続いた当時の時代様式・パラダイムの呼称名)に、主としてドイツ語歌曲(=Deutsche Lieder)の天才作家として先輩格の崇拝する偉人作曲家ベートーヴェンを凌ぐ才能と独特で伸びやかな抒情性あるメロディストとしてにわかにウイーンの街のサロンで活躍をしていた才人シューベルトが書いたわずか4曲のヴァイオリンとクラヴィーア(=ピアノ)のためのソナタ全曲を1枚におさめた持っていて損はしないレアーなお宝物アルバム。
     20〜21世紀ヨーロッパ古楽界の大家・確かな解釈者としての実力を誇るオランダ出身のフォルテピアノの名手インマーゼルと、ベルリン古楽アカデミーやアニマ・エテルナのコンマスとして有能な日系の混血女流ヴァイオリニストであるミドリ・ザイラーのコンビネーション・組み合わせで演奏・収録したビーダーマイヤー時代の典型的な軽快で優美なサロン的室内楽としてしばし演奏されるシューベルトのヴァイオリン・ソナタの通念を覆した金字塔的アルバム内容で楽しむ大人の魅力が詰まった確かな1枚となっているのが当盤の他の盤にはない特別な香りが漂う希少な1枚だ。
     ザイラーの弾く1814年製のフランツ・ガイセンホーフ(1753〜1821)のウイーン・オールド・ヴァイオリンの歴史的な響きと、インマーゼルの弾く、こちらはレプリカだが、1814年製のウイーンのヨハン・フリッツによるフォルテピアノの響きの組み合わせで、19世紀初頭の楽都ウイーンのカンマームジーク(=室内楽)の世界が堪能できる、いわゆるピリオド楽器・古楽器使用による鮮烈で耳に違和感なく響くシューベルトの世界も、この様な意表を突く時代楽器の使用によって聴き直すと、これまでのモダン楽器使用によるありきたりの演奏・録音などのアルバムでは味わうことのできなかったユニークさが当アルバムが普通ではない、従来にはない魅力をアピールしていることは一聴瞭然の内容だ。
     今日「ウイーンのストラディバリ」として楽器マニアの間では有名なドイツのフュッセン出身のフランツ・ガイセンホーフの手による1814年制作のヴァイオリンの響きは、イタリアン・オールドの最高峰ストラディバリウスや、オーストリアのヤーコブ・シュタイナーの影響を受けつつも、あまりイタリア製のオールドやモダンの力強いコンサートホール全体を包み込む様な奥底まで響くヴァイオリンの世界とは異なり、やや貧弱でクリアーな音色を出すには厳しい難点があることをシューベルトの4作のソナタを通して耳で確認できる点はユニークで斬新なアイデア・発想だと言えようが、ガイセンホーフを含め、ウイーンやドイツ、チェコなどの18〜19世紀の中欧・東欧の楽器は、当たりはずれはあろうが、総じてあまり鳴らない個体が多いのがイタリアンやフレンチなどの弦楽器と比べた時、19世紀当時の音楽習慣に合わせるためにガット弦を使用している点などもあり、ややもくすんでいて、音の響きが落ちるのが実際の話だろう。18〜19世紀にかけてウイーンで制作されたヴァイオリンは、ガイセンホーフ以前では、これまでに、ライドルフ王朝やティーア(=ティール)王朝の他、ベートーヴェンも愛用・使用したとされるゼバスティアン・ダーリンガーや、ポッシュ、レープなどの多数の個体が市場に出回ってきたが、それらの多くが歴史的および資料的価値という点では、名器の部類に入るだろうが、肝心な音の方が、貧弱でパワーに欠けるという相反する特性があるため、なかなか、今日、実際にウイーン製のヴァイオリンやビオラ、チェロをファースト楽器として使用しているプロは数少ないだろうと言えるものがある。現地ウイーンの大御所ウイーンフィルの団員も、かつてはガイセンホーフを使用してきたらしいが、近年では、ガイセンホーフ以後にウイーンで弦楽器制作家として知られた、ニコラウス・ザビッキやガブリエル・レンベックなどの個体や、東ドイツ(=サクセン)の町で、音楽の母ヘンデルの生誕地ハレのモダン制作家ヨアヒム・シャーデの個体を使用する様に変ってきているらしい。さらに言えば、弓・ボウ(=bow)は、当時のウイーンの制作家の手によるものではなく、フランスのトルテ・ファミリーや、イギリスのドット・ファミリーのものがウイーンに輸入されて使用されていたのではと、このアルバムのライナーノートの中で、古楽器研究家のルドルフ・ホップフナーは指摘・言及している。
     まあ、楽器の話になってしまったが、それはともかく、シューベルト音楽の持つサロン的・女性的魅力と、シューベルトにとって最も身近で親しみのある楽器であったクラビーア(=フォルテピアノ)によるやや、アクションの弱い音色の出るヨハン・フリッツ鳴る人物の忠実な復元・レプリカを使用したことは単なる偶然ではなく、19世紀往時の響きの歴史的再現という意義においては、大変有意義で、合理的な判断および選択であったと高評価できる魅力と付加価値が認められる。
     あまり芳香で大胆な男性的な音色ではないが、ガイセンホーフとヨハン・フリッツの組み合わせによる楽器で、限りなくシューベルトが生きていた頃に近い音色の世界が相応に再現されていることは、プレミア価値という意味合いも込めて持たせる意味で、5つ星評価を与えたく思った次第である。楽器に関心のない無教養なクラシック入門者が聴くのであれば、当アルバムの価値の利点(=virtue)はいくぶんにも強調できないだろうが、楽器に詳しい方やクラシック上級者が聴くのであれば、このアルバムは画期的で、超お宝物的な1枚として愛蔵盤として家宝にできる大人の魅力を生んでいる充実なコンテンツ内容で上出来の1枚でもある。
     ガイセンホーフとはこんな音色の個体かという点を確認したい方や、当時のオリジナル楽器の響きで、シューベルトに室内楽の世界にはまりたい方、従来の解釈にはない学術成果を時代の考証をもとに反映させて企画から演奏・収録への実現に至ったという事の経緯と独自のコンセプトを受け入れ、それを高く買う方には、当アルバムはきっと耳に有益な情報源をもたらしてくれるエスプリの効いた上質でいて退屈にはさせない、熱心な音楽マニアの期待感を裏切らない内容のアルバムとして持っていたいと親しみを感じることだろう。
     シューベルトの書いた4作のヴァイオリン・ソナタは同時代のベートーヴェンの10作もの芸術的な完成度を誇るヴァイオリン・ソナタの存在感の重さ・大きさに比べれば、内容や質、魅力の点で大きく落ちるものだが、ベートーヴェンにはない、シューベルトという歌曲作曲家のビーダーマイヤー風ピアノ書法の魅力や、ベートーヴェンでは少し堅苦しいとストレスを感じる方は、耳に心地よく入り込んでくる柔軟・フレキシブルで、ウイーン風に言えば「ゲミュートリヒ」な居心地の良さとしての軽やかな愛らしさを求める方には、大きく受け入れられるに間違いないだろう。
     見苦しい長文レビューになってしまったが、肩の力を抜いて、何も考えずにリラックスしてウイーン音楽を、という向きの方には無条件でおススメできる至福のアルバム内容である。星評価も、もっと一般に広く聴かれるべき価値あるものとしての、いっそうの需要と流布を見込んで、5つ星としてみたまでである。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタに関心のある音楽ファンにもおススメしたい1枚だ。

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