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窓際平社員 さんのレビュー一覧 

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     2020/11/14

    庄司紗矢香は、東京生まれのヴァイオリニスト。ウト・ウーギ、シュロモ・ミンツ、ザハール・ブロンの各氏の薫陶を受け、1999年のパガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで優勝を果たしたことで、国内だけでなく海外からも注目を集めた。また、2000年からドイツ・グラモフォンとも録音契約を結び、近年ではカロル・シマノフスキやマックス・レーガーなど、ちょっと捻った選曲でレコードを作り続けている。
    そんな庄司のデビュー・アルバムが、パガニーニのヴァイオリン協奏曲No.1を中心に据え、エルネスト・ショーソンの詩曲、フランツ・ワックスマンのカルメン幻想曲とナタン・ミルシテインの無伴奏ヴァイオリンのためのパガニーニアーナを収録したこの録音である。パガニーニ作品からワックスマンの作品までの伴奏は、ズビン・メータの指揮するイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団が受け持つが、これはメータが自ら共演を申し出て実現したものだとのこと。

    パガニーニの協奏曲演奏は、メータの手厚い伴奏に守られながら、可憐な音色でテンポ良く弾き切っている。その仕上がりは優等生的ではあるが、録音時17歳ということであれば、さもありなん。無理のないペースで美しく仕上げているので、何の抵抗もなく聴くことができるだろう。ルッジェーロ・リッチやイヴリー・ギトリスのような超絶技巧と緩急自在な間合いでパガニーニその人を描き出すような演奏を知るとこの演奏は低刺激ではあるのだが、庄司の演奏については、悪趣味に走らない節度を是とすべきかもしれない。メータの指揮については、少女を守ろうという意識が強いのか、終始穏当で、独奏を煽ったり仕掛けたりといったことがない。もっと能動的なアプローチをとっていれば、もっと熱のこもった演奏になったであろう。
    ショーソンの詩曲は、ツルゲーネフの小説から着想したといわれるように、不倫の恋のような背徳感と官能性が内側にこもるように展開されていく楽曲である。庄司のヴァイオリンにはそうした頓着はなく、寧ろオーケストラ側が背徳と官能の世界に誘うような表情づけを行う。生娘を大人の色気に染めていくという構図で、この演奏は作品の内実に迫っているといえる。庄司のヴァイオリンがべたべたしていないからこそ、こうした構図の演奏が成功したのであろう。
    ワックスマンのカルメン幻想曲は、この録音時点での庄司の課題が見える。ヤッシャ・ハイフェッツが好んだこの曲は、超絶技巧と気迫で聴き手を圧倒させなければならないのだが、やや遠慮がちな彼女のヴァイオリンは、技巧的な難点こそないものの、どのようにして目立つかという、エゴイスティックなまでのソリスト根性が、この演奏では見られない。曲自体で象られるカルメン的魅惑にも乏しいので、今後演奏家としての魅力を深めていくことを期待したい。
    最後のパガニーニアーナは、パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで優勝した庄司の強みが発揮されている。オーケストラとの共演という縛りのない彼女の演奏は、奔放とまではいかないものの伸びやかで気持ちが良い。

    全体的な印象としては、良く言えば楽譜に素直な演奏だが、人生経験の不足からくるであろう表情づけの引き出しの少なさが優等生的な演奏に留まっているようにも感じられる。フレッシュな新人の前途有望さを感じさせる点では成功しているが、これは彼女の芸術の集大成ではない。これが彼女の代表盤とならぬことを願う。

    なお、SHM-CDということで、音質が向上しているものと期待したのだが、感触は良くない。独奏ヴァイオリンの音を際立たせるためか、初発売時のCDよりも高音を強調するよう微調整されたような感じがする。音質面では、私は初発売のものを支持する。

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     2020/02/13

    現在入手できない音源をぶら下げて、「この演奏家は、とても素晴らしい演奏家ですよ」などと宣うのは、ほとんどの場合、コレクターの戯言と受け取られるだろう。そう受け取られるのも無理はない。紹介する音源は、今や手に入らないのだし、それを持っていることを自慢したいがために、そんなことを宣うのだから。そう受け取られる限り、取り上げられる演奏家は、名声的な意味で死んでいる。
    人生的な意味での死と名声的な意味での死の違いは、一方が現代医学の粋を尽くしても蘇生できないのに対し、他方は再評価されることによって蘇生することが出来ることだ。入手しやすい音源が、入手しやすいルートで手に入れられる限り、その演奏家は名声的に死に絶えることはないだろう。しかし、一旦名声的に死を迎えた―つまり忘れられた―演奏家を蘇生することは、決して簡単なことではない。コレクターの戯言としか受け取られないようなことを、泥水をすすってでも言い続ける必要があるし、それが入手しやすい音源の供給に繋がらなければ、名声的な意味での蘇生につながらない。音源の入手しやすいルートが確保されただけでも、継続的な名声的蘇生は困難だ。音源を供給する側が、「所詮、忘れられた演奏家だし、やっぱり売れないし話題にもならない」と踏んで供給を打ち切れば、名声的な死を迎えた状態に、すぐに戻ってしまうのだ。
    音源の供給元を探すのも一苦労だ。往々にしてコレクターは、コレクションを人目にさらすのを嫌う。名声的な意味で死んだ演奏家は、死んだままでいてもらって、そのミイラを自分の手元に置いて、自分だけがそれを持っているという秘かな優越感に浸りたいものらしい。その優越感への誘惑を乗り越えて、コレクションを開陳する勇気を持ったものが、演奏家の名声的蘇生に携わることが出来る。
    音源の所有元が放送局であれば、権利問題さえ解決できれば、音源をリリースする会社からリリースが出来るのだが、これもしばしば不調に終わるという。音源のレコードやテープを破棄したり再利用して消去してしまったりして、現存しないということも非常に多いのだ。演奏家の名声的蘇生は、幾多の困難を経て行われ、しかもその復活状態がいつまで続くか保証できないという不安定さの下で行われる。

    アルド・フェラレージというイタリアのヴァイオリニストは、名声的に死に瀕するヴァイオリニストである。大昔に発売されたSP&LPレコードはコレクターズ・アイテムとなって久しい。IDISというイタリアの復刻系レーベルが、フェラレージの放送用音源に目を付けてリリースを開始したものの、CD1枚発売したところで頓挫している。ジャンルカ・ラ・ヴィラという、フェラレージの生地フェラーラ在住の人が、イタリア放送局の協力を得て9枚組のCDセットをローカルに販売したこともあるが、これもすぐに底をつき、入手しやすい音源のリリースとはならなかった。
    今回の18枚組のCDセットは、これまでに販売されたことのあるSP&LPレコードの音源、さらにジャンルカ・ラ・ヴィラの販売していたCD9枚分の音源、さらにイタリア放送局やフェラレージの遺族等から提供された、これまでレコードとして販売されたことのない音源を加えた、フェラレージの名声的蘇生の強力なバックアップとなるアイテムである。ただ、これに続くフェラレージの音源を探して第二弾、第三弾をリリースできるのか、またこのレーベルがどこまで活動を継続するのかが不透明だ。また18枚組のCDセット自体が高価という向きもあろうし、フェラレージの弾いたモーツァルトとベートーヴェンの協奏曲だけ聴きたい等と考える向きもあろう。第二弾、第三弾が用意できぬとあらば、分売という形での再リリースも検討されるべきか。

    フェラレージの経歴については、既に商品説明に経歴が記載されているので、それを参照頂けばよいだろう。付け加えれば、ブリュッセルでフェラレージの留学を引き受けたウジェーヌ・イザイが「我が最高の弟子」として非常に可愛がった。13枚目のCDは、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ集以外のイザイの作品が聴けるという以上の価値を持つし、イザイと過ごした思い出を語った18枚目のフェラレージの肉声の証言も、イザイの研究資料として参照に足る。

    フェラレージの演奏は、1960年代の録音までがダヴィッド・オイストラフに強壮剤を注入したようなヴァイタリティを感じさせる芸風。尤も、オイストラフが得意としたドミトリー・ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲No.1は、そもそもオイストラフとは生活環境が違うのか、楽曲の捉え方が随分違う。
    1970年代の演奏は、例えばルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタに、フェラレージの精力減退を感じてしまうが、それも1960年代までの一連の録音を聴いた後に接したが故の感想である。70代に差し掛かるヴァイオリニストでフェラレージのような技術的な完成度の高い演奏をする人は、なかなかいないのではないか。
    1920年代あたりの録音も、超絶技巧からカンタービレまで弾くのが楽しくてしょうがないといった風。個人的にはヨハネス・ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3曲がリハーサル用のテープで音の欠落があり、本演奏のテープが紛失しているのが凄く残念。
    ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲は、No.1の録音が複数あるが、そのどれもがカットの箇所を変えているのが興味深い。4枚目に収録された演奏が、ほぼノーカットの形といえるだろうか。同じ曲のを複数回入れているものとしては、マリオ・グァリーノがフェラレージのために作ったヴァイオリン協奏曲もあるが、こちらは表現方法が確立されていたのか、フェラレージの演奏に大きなブレはない。ウィリアム・ウォルトンのヴァイオリン協奏曲は、イギリスに行って作曲家と共演したものと、母国で演奏したものがあるが、母国で演奏したものの方が奔放。
    シベリウスの《2つの荘厳な旋律》のような技術的にさほど難易度の高くない作品でも、独自の存在感を発揮する。このシベリウスの作品を聴けば、フェラレージの演奏したシベリウスのヴァイオリン協奏曲が存在していないか血眼で探したくなる。
    《妖精のロンド》で知られるアントニオ・バッツィーニのヴァイオリン協奏曲No.4やアルフレード・ダンブロージオのヴァイオリン協奏曲No.1など、曲自体が拾い物なものもあり、これらの曲はNaxosあたりで再発掘をお願いしたいところ。
    シュチェパン・シュレックがフェラレージのために作った協奏曲や、フランツ・シューベルトのアヴェ・マリアをフェラレージが自分の編曲で弾いたものなど、多分この18枚組ボックスでしか聴く機会がないような音源も面白い。フランコ・マンニーノの《気まぐれなカプリッチョ》など、パガニーニのカプリッチョを弾くフェラレージにマンニーノの指揮するオーケストラがちょっかいを出してひっちゃかめっちゃかにしていく珍曲。他にこの曲を演奏した例を知らないし、今後も取り上げる人がいるかどうか微妙なところ。同じCDに収録されているカルロ・ヤキーノのソナタ・ドラマティカやサルヴァトーレ・アレグラの2作品は、マンニーノの作品ほどにネタに走っていない。アレグラの作品などは、良い掘り出し物として、アンコールで弾く人も出てくるのではないだろうか。
    室内楽の分野でも、ガブリエル・フォーレだろうが、ブラームスだろうが、作品の様式よりも自分のカンタービレを優先する演奏ぶりは変わらない。1970年代の演奏になると、自己の芸風の押し出しっぷりが控えめになっていくのだがフランコ・アルファーノの作品まで技のキレまでは失っていない。
    コレクターの戯言ではなく、心から私は書く。「この演奏家は、とても素晴らしい演奏家ですよ!」フェラレージの名前が、このCDボックスを手に取った音楽愛好家の皆様の記憶に刻まれることを願う。

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     2020/02/03

    ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲というと、通し番号にしてNo.20以降の曲が人気なのだけど、ルドルフ・ゼルキン(以下「ルドルフ」)の子息であらせられるピーター・ゼルキン(以下「ピーター」)は、敢えてNo.20以前の作品―No.14からNo.19まで―をチョイスして録音に臨んだ。ここではNo.18までが収録されており、No.19はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのニ長調のヴァイオリン協奏曲のヴァイオリン独奏パートをピアノ用に編曲したバージョンのカップリングとして別売りされている。
    ルドルフはベートーヴェンの作品を中心に、モーツァルトの作品も得意とし、No.20以前の作品も折に触れて取り上げていたものだが、ピーターはルドルフのエピゴーネンとして扱われないよう、細心の注意を払って録音している。ルドルフの盟友であるアレクサンダー・シュナイダーにイギリス室内管弦楽団を指揮させて伴奏を任せているのは、自分のことをよく分かってくれるからだろう。
    ルドルフの演奏は、80代にクラウディオ・アバドと録音したドイツ・グラモフォン盤こそ年齢相応の腕の衰えを感じさせるものの、壮年期の録音では往々にして気さくに語りかけてくるような親しみやすさがある。細かいことには拘らず、豪快に弾いていく気風の良さに、頼れる兄貴のような魅力があった。
    ピーターの演奏は、ルドルフがざっくり弾くようなフレーズの一つ一つ、いや音の一つ一つの意味を熟考し、表現方法を模索していくような弾き方をする。ルドルフと同じような弾き方を絶対にしないように自らを律しつつ、慎重に音楽を奏でていくので、軽やかで心地よい音楽とはならない。まるでモーツァルトの曲を弾きながら、ルドルフとは違う自分の芸風のあり方を自問していくような内向性が強く感じられる演奏であろう。息が詰まるような緊張感、あるいは切迫感が刻印されている。
    伴奏を指揮するシュナイダーは、自問自答の世界に沈潜しそうなピーターを現実に引き戻す役割を担う。テンポの設定は基本的にピーターにイニシアチブを渡しているのだが、各曲の第一楽章の管弦楽による提示部では溌溂とした演奏でピーターの音楽性を刺激している。伴奏に回る際でも、ただのお付き合いとして音を添えるのではなく、ピーターの紡ぎ出すニュアンスに的確に呼応し、モノローグに傾こうとするピーターをうまくディアローグの土俵に留めている。

    その後、ピーターは紆余曲折を経て、音楽家として着実に成長していったが、21世紀に入って、これらの協奏曲を再録音することがあれば、どんな演奏が出来上がっただろうか。ピーターがその気にならなければ、それを確かめることは出来なかったわけだが、それを確かめる術が、今や完全に絶たれてしまった。実に残念だ。

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     2019/10/07

    イギリス人と日本人のハーフとして東京で生まれたダイアナ湯川は、日本人ビジネスマンの父親が御巣鷹山の飛行機事故の犠牲者だったということで、その父親を失った悲しみを乗り越えてヴァイオリニストとして活躍している、みたいな物語付きで2000年にCDデビューを果たした。御巣鷹山での慰霊祭で、遺族としてヴァイオリンを献奏する姿がニュースで流れたこともある。ただ、飛行機事故が起きた時、彼女は母親のお腹の中だった。彼女に紐づけられる父親を失った悲しみ云々は、本来イギリス人の母親を主人公として、夫を失った悲しみを乗り越え、婚外子だった娘を湯川家の親族として認めさせるまでのストーリーとして語られた方が自然だったかもしれない。

    そんな湯川が、2001年に2枚目のアルバムとして協奏曲の録音に挑戦した。演目は、カミーユ・サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲No.3と《序奏とロンド・カプリチオーソ》と《ハバネラ》の3曲。伴奏は、グラント・ルウェリンの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団だ。
    湯川に付帯するストーリーを引っぺがしてヴァイオリニストとしての湯川の実力を、デビュー・アルバムの『天使のカンパネラ』なり、この初の協奏曲アルバムなりを聴いて判断するに、クラシック音楽のフィールドで、さらなる飛躍は望めないのではないかと思う。確かに、彼女の演奏は技巧的にはさしたる破綻はない。しかし、この程度の弾き手であれば、ジュリアード音楽院でオーディションでもすれば、ゴロゴロ出てきそうだし、エリザベート王妃国際音楽コンクールみたいな難関のコンクールで最終選考まで残る若手ヴァイオリニストのほうが、もっと踏み込みの良い音楽を奏でるのではないかと思えてしまう。この独奏を聴いて、さらにあれが聴きたい、これが聴きたいと思えない。
    ルウェリンの指揮は、ヴァイオリン協奏曲No.3の第3楽章でテヌート気味にオーケストラをコントロールするところが、なかなか面白いのだが、他に特筆するようなことはしていない。湯川がもっと大胆な音楽性を持っていたら、さらなる仕掛けを施して、もっと聴き応えのある演奏が出来たのだろうなと思う。

    2009年になって『バタフライ・エフェクト』なるアルバムをリリースしたが、これを聴く限り、もはやクラシック音楽の方面には正面切って取り組むことはないようだ。それはそれで賢明な判断だが、ヴァネッサ・メイやデヴィッド・ギャレット等のエピゴーネンで終わりそうな気がする。この予想を覆すほどの活躍が出来るかどうかは、今後の彼女の研鑽次第だろう。

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     2017/10/31

    アントニーン・ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲とチェロ協奏曲(ロ短調)のカップリング。
    ヴァイオリン協奏曲の演奏は、ヴァーシャ・プルシーホダの独奏と、ヤロスラフ・クロムホルツの指揮。
    チェロ協奏曲のほうは、アンドレ・ナヴァラの独奏とフランティシェク・ストゥプカの指揮。
    オーケストラはどちらもプラハ放送交響楽団である。
    プルシーホダに関して、プリホダと読む人がいるが、これはドヴォルジャークをドヴォラクと読むのと同じようなことである。とはいえ、プシホダ、プシーホダ、プシュホダ、プルシホダ、プルジホダ、プルジーホダと、彼の名前の表記は未だ統一されていない様子。彼の知名度が上がれば、呼び名も統一されるようになるだろうか。

    プルシーホダは第二次世界大戦前に活躍したチェコ出身のヴァイオリニストで、この録音が、プラハの春音楽祭での、凱旋帰国公演だったという。この録音の4年後、プルシーホダは心臓発作のため、ウィーンで世を去った。
    プルジーホダの演奏は、もはや全盛期を過ぎており、ボウイングもかなり硬化している。
    それでもなんとかヴァイオリンをわななかせ、老練の語り口で往年の名演奏家の意地を見せている。
    特に中間楽章の郷愁を誘う節回しは、プルジーホダの本心から出た語り口であろうし、彼にしか出せない味わいである。

    ナヴァラは、第二次世界大戦後にソリストとしての活動を本格化した名手で、本録音時はもっとも脂の乗っていた時期に当たる。かのロストロポーヴィチもかくやと思わせる切れ味の鋭い技巧でスマートに歌い上げる。
    脂分の少なさはオーケストラにも伝播していて、ストゥプカの棒も、年齢を感じさせないスピード感のあふれる快活さを示す。

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     2013/10/11

    パガニーニの協奏曲は、トラデイショナル・カットが入ってるものの、シュテファン・ルハことイシュトヴァーン・ルハの技量に舌を巻く演奏。
    伴奏で指揮をするスタニスラフ・ヴィスウォツキは、ギトリスとも録音してたけど、こちらは他流試合ということもあって、ちょっと歯切れが悪い。ただ、その点を割り引いても、ルハのヴァイオリンは凄まじい。
    チャイコフスキーの協奏曲は、ルハのヴァイオリンがパガニーニで見せた芸風をそのままに、より一層ノリに乗った演奏を繰り広げる。
    ミルチェア・バサラブの指揮も暴動が起きるんじゃないかと思う程にメラメラと燃えあがっている。録音が冴えなかろうが、かなりの人が「こういう演奏を待っていたんだ」なんて言うんじゃないかと思える程にインパクトが強い。

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     2012/09/29

    アルド・フェラレージ(1902-1978)は、イタリアの名ヴァイオリニストだが、録音が少なく、その腕前の程は日本では殆ど知られていない。
    このCDは、そんなフェラレージの腕の冴えを知る唯一の手がかりとなる。

    ここでは、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番(フランコ・ガリーニ指揮ローマRAI交響楽団)やネル・コル・ピウ変奏曲と魔女の踊り(アウグスト・フェラレージ)など、技巧的な作品が収められており、ひとかど以上の名手であった事を偲ばせる。
    特に協奏曲は、小細工一切なしの真剣勝負。
    これほど立派に弾ききったパガニーニ演奏はない。

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     2010/08/12

    パガニーニのヴァイオリン協奏曲を、トゥルバンとシャンバダルのコンビで全曲録音する計画の第1弾。長調作品の第1番と第3番を収録。
    超絶技巧を駆使した作品なのだが、演奏からは、そうした技術的な難易度に苦労しているような雰囲気は伝わって来ない。
    見栄を切らず、淡々と弾くことで、ハッタリのない、素のパガニーニ作品の姿を現出させようとしている。
    トゥルバンらの目論見は、アクロバット芸としてのパガニーニとは違ったパガニーニ像を映しだそうとする努力として評価はできる。ただ、その努力の先にあるものが、魅力的かどうかは疑問だ。

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     2010/08/12

    トゥルバンによるパガニーニのヴァイオリン協奏曲の第二集。第2番と第4番という、短調作品の組み合わせだ。
    気心の知れた親友シャンバダルに伴奏をしてもらって、泰然自若の演奏。
    その演奏は、往年のシェリングのそれを思い出すが、シェリングよりも音楽の流れはスムーズで素晴らしい。
    ただ、ヴァイオリンの見せ場の多い曲なので、もう少しアクロバティックに弾いてもいいと思う。
    おそらく、トゥルバンは敢えてエンタテイメント的な芸と距離を置いているのだろうが、パガニーニを攻略するうえでの戦略として正しいかどうかは疑問が残る。

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     2010/08/12

    トゥルバンによるパガニーニのヴァイオリン協奏曲の第3集。
    これでトゥルバンはパガニーニのヴァイオリン協奏曲を全曲録音したことになる。お疲れ様。
    超絶技巧というイメージから距離を置き、じっくりと腰を落ち着けて挑んだ全集だったが、この第三集が一番しっくりくる。
    第6番は、パガニーニが、まだヴァイオリニストとして売れっ子になる前の作品で、第1番から第4番までのような技巧の盛り込みは行っていないし、第5番も、パガニーニがヴァイオリニストとして落ち目の時に書いた作品らしく、彼の全盛期の作品に比べると、少々落ち着いた感じがする。
    フェデリコ・モンペリオの、ある意味立派過ぎるオーケストレーションも手伝って、必ずしもヴァイオリン中心ではない音楽になっている。
    結果、トゥルバンの協調性を重んじるようなアプローチが、一番しっくりくる形で具現化しているように思われる。

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     2010/01/13

    トッシー・スピヴァコフスキーが、タウノ・ハンニカイネンと録音したヴァイオリン協奏曲が、この商品の目玉。
    すっきりとした抜けのいいスピヴァコフスキーの美音は、第1楽章冒頭の澄んだ空気感をいっそう引き立てる。
    ハンニカイネンの伴奏も雄雄しく、悠然としたシベリウスの音楽の世界観をしっかりと描いている。
    《タピオラ》は、スピヴァコフスキーが独奏したヴァイオリン協奏曲のオマケだが、オマケにするにはもったいないほどの充実した演奏。
    ハンニカイネンの指揮は、決してスマートではないが、この音楽の内実に迫ろうとするが故のゴツゴツ感である。この演奏から教えられることは、存外多いのではないだろうか。

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     2009/11/25

    勿論このCDの主役はエリカ・モリーニなんだけど、チャイコフスキーのコンチェルトが作曲家のストラヴィンスキーだというのでついつい買っちゃいました。
    ストラヴィンスキーの自作のヴァイオリン協奏曲では、作風もあってかサバサバした伴奏だったモリーニも、ロシアン・ロマンティックとなると気合十分のドラマティック!
    ストラヴィンスキーは意外とロマンチストだった??

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     2009/08/22

    イタリア人貴族ヴァイオリニストのウト・ウーギ!
    イザイのソナタから第四番、バッハの無伴奏ソナタ第一番と無伴奏パルティータの第2番、パガニーニのカプリースから第一番、第九番、第十三番、第十五番を収録。
    ただ、バッハの作品は、最初は格調高く弾き始めるも、段々崩れてきてしまうのが難点。
    イザイの無伴奏ソナタは、彼の歌いこみ方と曲がコンフリクト気味?
    一番楽しめたのは、やっぱりパガニーニ!お国ものを演奏させるとやっぱり違うね!

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     2009/07/15

    マイラ・ヘス晩年のベートーヴェンの協奏曲録音。心臓病を患いながらなので、ダイナミズムには幾分不足する。
    でも、そのおかげか柔和な表情の演奏で、第2番の協奏曲では幾分成功しているよう。

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     2009/07/08

    ジャック・ティボーという名前をきいて何の興味も湧かない人には向かない商品。
    楽譜どおりの音価で、正しく弾かれなければならないと考える人にとっては、この演奏をきいても、怒りしか感じないだろう。
    しかし、もし、自分の感じる正しさに疑念を持つ人、あるいは正しさというものに拘らない人にとっては、とても面白い演奏に聴こえるに違いない。

    ティボーのヴァイオリンは、ひたすら聴衆に語りかけるヴァイオリンで、その語り口の小粋な感じが、たまらなく典雅な気分に浸らせてくれる。
    時々音程がズレているように聴こえるが、ズレているのではなくて、ズラしているというのが、ティボーの老獪な芸。
    技術的完成度の高さを競うのと引き換えに失われていった香気が、この録音では確かに息づいている。

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