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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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     2016/05/30

    世界を股にかける山田和樹といえどもマーラーの大作を振らせてもらえる機会は、まだそんなにはあるまい。だからこのマーラー・ツィクルスは彼にとっても日フィルにとってもいい勉強の機会だと思ったのだが、早くもそれを録音してCD化してしまうとは。人気者は大変だ。しかし、私の見るところEXTONはこのツィクルスを全部録音しているようだが(市販の意図はないと思うが、一部は録画もされている)、CDとしての発売は2番と6番だけというのは良心的だ。第1ツィクルスの中では第2番が、第2ツィクルスの中ではこの第6番が抜群の出来だったからだ。マーラーの総譜が要求するデジタル的な楽想の急変に山田の棒はまだあちこちでついていけていないし、アイロニー、パロディといった屈折したメタ・ミュージックにも十分に対応できていない。そんな中で2番、6番が成功しているのは、そういう要素が比較的少ない、ベートーヴェン以来の主題労作原理でできたソナタ形式への対応で押し切れてしまう曲だからだろう。さて、そこでこの6番だが、余裕のあるテンポを好むことが多いこの指揮者としては珍しく、第1・第2楽章はかなり速い。もちろんアルマの主題やスケルツォのトリオではテンポが落ちるが、そこでも過度に引きずるようなことはしない。第1楽章第1主題とスケルツォ冒頭主題は同じ楽想の変形だが、テンポの面で落差を付けようとはせず、むしろ、ひとつながりの音楽として古典的に、スクウェアにまとめようというわけだ。一方、第3楽章アンダンテ・モデラートは最近の流行に反して、むしろ遅めのテンポで細やかに歌う。この楽章順をとった必然性が良く了解できる解釈。終楽章も基本テンポ遅めで克明に描く。個人的にはもう少し暴れてほしいけど、そこまではしないのが彼の個性なのだろう。近年、演奏力の向上めざましい在京オケの中でも「伸び率」では一番の日本フィル(はっきり言って、一昔前は周回遅れ気味だったけど、今や堂々のトップ・グループだ)、さすがに終楽章あたりは「余裕を持った」演奏ではないけれど、かえって緊張感が伝わってきていい。 

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     2016/05/04

    データによれば2011年6月、2012年5月、2013年3月とずいぶん時間をかけた録音。しかもライヴではない。フィリップスへのショスタコーヴィチ交響曲の最初の録音も8番だったし、やはりこの曲には特別な思い入れがある様子。ゲルギエフのショスタコーヴィチ録音(なぜか『ムツェンスクのマクベス夫人』をまだ録音も録画もしていないが)の中では第一に推されるべき出来ばえだろう。この曲の録音はどうしてもムラヴィンスキーと比べられてしまう宿命がある。ウィッグルスワースのように暴力的な大音量、いわば音圧で押しまくるのを避けて、内省的な演奏に徹するしかムラヴィンスキーの呪縛から抜け出す手はないように思えるが、ゲルギエフは基本的にムラヴィンスキー路線。その現代版、あるいは進化版だ。今回は特に両端楽章のテンポがムラヴィンスキーより遅いので、より丁寧な印象が強いが、クライマックスでの大音量はいつも通り、いや、いつも以上。第3楽章は「アレグロ・ノン・トロッポ」の指定を守って、あまり速くならないが、むしろ機械的なインテンポの遵守が酷薄な感触を強めている。最後の一撃(譜面上は第4楽章冒頭)の凄まじさは、スピーカーが飛びそうなほど。

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     2016/05/03

    発売から一年経つが、まだレビューがありませんね。確かに大変な難事業、ゲルギエフ以外にはできそうにない仕事であるのは確か。幸いカメラワークも穏当、録音・録画ともにきわめて良好だ。まだ演奏機会の少ない第2番、第3番を含めて全曲の録画が揃うのはありがたいが、ただし、すべての曲が「最高の名演」でないことは言わねばなるまい。たとえば第4番、それなりにサマにはなっているが、突っ込みに欠ける、彫りの浅い箇所が随所にある。ラトル/ベルリン・フィル(デジタルコンサートホールに二種類の録画がある)と比べれば一目瞭然だ。第5番は最大公約数的な解釈。徹底的に重厚な、シリアス路線で行くわけでもなく、アイロニーや茶化しなど軽みを重んじた解釈でもなく、どうも中途半端だ。第13番も意外に粗く、ロシア語ネイティヴの合唱団の強みを生かしきれていないし、第14番も大味だ(バスはこちらのペトレンコが良いが、ソプラノは2012年7月ペテルスブルク録画、辻井の弾くチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番の後プロのセルゲーエワの方が良い)。しかし、繊細かつシャープな第6番、第9番は素晴らしいし、第7番、第8番、第11番といった「壁画的」な大曲はおおむね良い出来。協奏曲集も貴重な映像が多い。二つのピアノ協奏曲にトリフォノフ、マツーエフとは何とも豪華だが、大好きなピアノ協奏曲第1番の映像はここで初めて見た。史上屈指のヴァイオリン協奏曲、第1番でのレーピンの演奏も嬉しい。
    星を一つ減らしたもう一つの理由は、ライナー・E・モーリッツのドキュメンタリー『多くの顔を持つ男』が、20年ほど前のラリー・ワインスティーンの作品『ショスタコーヴィチの反抗』と違って、今となっては毒にも薬にもならぬ凡庸な内容であること、およびゲルギエフの曲についてのコメントがことごとく当たり障りのない話に終始していること。ロシア国内で重要なポストにある人間としては、まだ発言を自己規制せざるをえないようだ。交響曲全集のライナーノートをすべて自分で執筆しているマーク・ウィッグルスワース(演奏も良いが、ライナーも力作揃い)に遠く及ばない。

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     2016/04/24

    きわめて個性の鮮明な演奏。チャイコフスキーのバレエ音楽は大別すれば二種類の音楽でできている。第1に劇的あるいは抒情的な、いわば交響曲のような音楽。これはチャイコフスキー以前のバレエ音楽には無かったものである。第2は踊りそのものに即した様々な舞曲。このコンビの演奏、前者の系統の音楽はほぼダメだ。特に抒情的な音楽は壊滅的。たとえば冒頭の序奏ではカラボスの主題が終わって、ホ長調のリラの精の主題になったとたん、CDをプレーヤーから取り出したくなるし、第2幕の名高い「パノラマ」もどうしてこんなに素っ気なく演奏できるのか、腹が立つほど。ところが後者の方、舞曲形式の音楽になると、とたんに演奏が精彩を放ち始める。第1幕の「ワルツ」だけは例外的に遅めのテンポで、しなやかなテンポ・ルバートが見事だが、概してテンポは速め。実際のバレエの舞台で良くあるように、ナンバーの終わりでリタルダンドして「見得を切る」箇所もあるが、実際の舞台に即した演奏とも言えまい。この速いテンポで踊るのは事実上、不可能だ。スタッカート気味な音楽の駆り立てが随所で効果をあげていて、普通の演奏だと何事もない序奏の次の「行進曲」なども思いがけぬヴィルトゥオーゾ・ピースに変貌している。特に絢爛豪華な第3幕のディヴェルティスマンは圧巻。ベルゲン・フィルは田舎のオケどころか、この録音に限れば非常に華やかな響きで、メジャー・オーケストラも真っ青だ。

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     2016/04/16

    下手をすると支離滅裂になりかねないストーリーにちゃんと筋を通した非常にいい演出。現代への時代変更はそんなにめざましく成功したとは思わないが、教会関係者がカルトな秘密結社の面々に見えるのは、いかにもクシェイ演出らしい。カラトラーヴァ伯爵とグァルディーニ神父を同じ歌手に歌わせたのはウィーンのパウントニー演出も同じだが、この演出では父親の娘に対する近親相姦的な独占欲をはっきりと見せるので、神父は父親の生まれ変わりとしか思えない。『運命の力』という題名は、近代社会におけるそういう普遍的な状況に対する呼び名という解釈だ。父親の代行者であるドン・カルロをレオノーラの弟にしたこと、第1幕のカラトラーヴァ家にあった食卓のテーブル(序曲の間に夕食の様子を見せる)が常に同じ場所に置かれていること、さらにはカラトラーヴァ伯爵の遺体が第2幕第1場の間じゅう舞台上にあることなど、いずれも納得できる工夫だ。
    ハルテロス/カウフマンの超強力コンビについては、もはや何も言うことはない。ドイツ人であっても全く違和感ないし、現在、望みうる最上のヴェルディ歌唱だ。テジエ、コワリョフと脇役陣も申し分ない。ただひとつ残念なのは、アッシャー・フィッシュの指揮。手堅い出来ではあるが、演出が精神分析的なものなだけに、さらに積極的な音楽への踏み込みが欲しかった。

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     2016/04/16

    それなりに舞台は華やかだけど、ストーリーは全然ゲーテじゃないし、もはや手垢にまみれてダサい印象しか受けないグノーの『ファウスト』。しかしノゼダの切れ味鋭い指揮と、演出、振付から装置と衣装のデザイン、照明デザインまで一人で担当したポーダが鮮やかに作品を蘇らせた。セットは魔法陣を模した円形の廻り舞台の中央に巨大な可動式のリングを置いたもの。最初の場面では一番外側の円に沿って砂時計が並べられ、リングの象徴する「円環の時間」と砂時計の象徴する「流れ去って還らぬ時間」の対比を巧みに表現する。酒場の場(ジャケ写真)での人々の衣装も何ともファッショナブルだが、例のワルツの場面は痙攣的な集団舞踏に変容しているし、ワルプルギスの夜(バレエ音楽は最初と最後だけに縮減)ももちろん普通のクラシック・バレエではなく、黒塗りの裸のダンサー達による暗黒舞踏風ダンスになっている。マルグリートの前に「円環の時間」が開かれるのに対し、ファウストとメフィストフェレスには砂時計が手渡されるという皮肉な幕切れも見事で、本来、ゲーテの詩劇とはかけ離れたオペラからゲーテの精神を垣間見させる演出と言えよう。
    カストロノーヴォの軽い声による題名役はデリケートな繊細さが出色。けれども、これまでの彼に比べれば、かなりスピントで劇的な表現も見せる。一方のアブドラザコフは「怪物的」な声の持ち主だが、メフィストフェレスはしばしばファウスト役を食ってしまいがちなので、悪魔的な表情の誇張をやや抑えているように聴こえる。とてもいいセンスだ。ルングも軽めの声のソプラノだが、初登場の場面では童女のようにすら見える美貌は、このような映像作品ではありがたい。

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     2016/04/04

    フランス語圏(モントリオール)出身ながら、ブルックナーもマーラーも盛んに振っているネゼ=セガン。マーラーではモントリオールのオルケストル・メトロポリタンを振った第10番(クック版)の全く構えたところのない素直な演奏が印象的だったが、第1番は2014年6月、フィラデルフィア管との来日公演でも指揮した演目。これはその直後の録音だが、オケはこの曲に最適の団体が選ばれた。響きのバランスも強弱も緩急も、ことさら人と違うことをしようとはしない演奏で、一聴しての個性の刻印という点では、バッティストーニの方が鮮明だが、こちらも決して無個性な演奏ではない。スケルツォのトリオでのグリッサンドの克明な実行、葬送行進曲のクレズマー風の響きの作り方など、現代のマーラー演奏では定番だが、もちろん的確。しかし、それ以上にまず特筆したいのは、流れのスムーズさ。たとえば第1、第2楽章最後のアッチェレランドはお見事だし、終楽章第1主題部の「少し減速 Zuruckhalten」からア・テンポ(第106小節)へとテンポが変わるところなど、何百回と聴いて私の耳に染みついているバーンスタイン/ニューヨーク・フィルは強烈にアクセルを踏み込んで、ア・テンポ以上に速くなるのだが、ネゼ=セガンは流れるように減速、加速する。さらに、歌の美しさもこの指揮者の美質。終楽章の第2主題、とりわけ第1楽章序奏回想部から第2主題再現にかけての弦楽器のつややかな歌いっぷりには惚れ惚れする。演奏全体から醸し出される若々しい雰囲気は、まさしくこの曲にふさわしい。ちなみにこの盤、ジャケットにもディスク表にも『巨人 Titan』というニックネームが書かれなくなった。このように四楽章版で演奏するのなら、まさにこれが正解であり、大変結構なことだ。

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     2016/03/28

    DSOLiveは良く言えばホールトーン重視、音源が遠い感じで、音量レベルも低い。ズヴェーデンのオランダでの録音、特にEXTONの鮮麗な音とはひどくギャップがあるが、アンプで補正すればそれなりに聴ける音になる。『モーツァルティアーナ』は音場の感じが交響曲と全く違い、こちらはセッション録音ではないかという気がするが、例によって録音データが全くない(マーラー6番以降から記載されるようになる)。2009/2010シーズンのライヴではないかと思われるが、ダラス響のHPに行っても過去の定期演奏会曲目なんて何も分からないし、いかにもアメリカ的というか南部的だ。
    さて、ニューヨーク・フィルの次のシェフに指名されたのを機に、この指揮者の録音をあれこれ聴いてみたが、これが最も個性的だ。怖そうなご面相に似合わず、細やかな神経の持ち主。細部に色々とこだわる人らしく、4番の交響曲では冒頭の運命動機から独特な譜読みを見せる。このモティーフが戻ってくるたびに常に同じなので、指揮者の解釈であることが分かる。マンフレート・ホーネックなどと同じく弦楽器出身、そもそもコンセルトヘボウの元コンマスなので、弦楽器の弾かせ方にもこだわりがある様子。楽譜にない強弱を盛んにつける。テンポに関しては、あまり極端なことをする人という印象はないが、この曲では両端楽章が非常に速い。終楽章の最後には盛大な拍手とブラヴォーが入っているので、実演奏時間は7分30秒ほどか。この楽章の史上最速演奏の一つだが、野放図にオケを驀進させるのではなく、最後まで良くコントロールされており、その点ではスヴェトラーノフよりはムラヴィンスキーに近い。これなら聴衆の熱狂も当然だろう。

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     2016/03/15

    第6番がいかに傑作であるかは近年、かなり良く知られてきていると思う。皮肉っぽい第1楽章アレグロ・モデラート、沈鬱な第2楽章ラルゴにハイドン風の能天気な第3楽章ヴィヴァーチェが続くが、最後に第1楽章第2主題が戻ってきて、凄まじい「悲嘆の絶叫」で全曲が終わってしまう。スターリン体制下でこんなアブナい交響曲を初演するなんて、プロコフィエフも無防備すぎるが、この作曲家としては珍しく、彼自身の「ナマ」な声を(かなりアイロニーや技巧がまぶされているとしても)聴ける作品として貴重だ。ディスクでは別のところで誉めたカラビツ指揮の全集中の一枚も、もちろん見事だが、こちらは第5番と第6番という明+暗の大作2曲を一枚のCDに入れてしまったお買い得盤。オラモのテンポが速いから実現したカップリングではある(曲間のトラックを含めた総演奏時間は79:59)。第6番でのオラモやカラビツの良さはロシア人指揮者ほど第1、第2楽章のテンポが遅くなく、粘らないこと。しかし、それは楽想に対する踏み込みが甘いということでは決してなく、第2楽章まではクールに描いて、必要以上に暗さ、ドロドロ感を強調しないということだ。そのために、きわめて急速なテンポで始まり(いわゆるピリオド・スタイルの感覚と同じ俊敏さだと思う)、最後は思いっきり遅くなる終楽章の明から暗への推移がきわだって聴こえる。フィンランド放送響の表出力も素晴らしい。シベリウス交響曲全曲録画を観た限りでは、後任のハンヌ・リントゥは喋りは達者だが、棒振りの方はイマイチの感。やはりオラモは天才だったなと実感する。

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     2016/03/15

    現時点で最新のプロコフィエフ交響曲全集の一枚(これが第1弾録音ですでに全曲が発売済み)だが、圧倒的な出来ばえ。プロコの交響曲ではこの第3番が断然好き、ついで2番と6番を面白く思うが、他の4曲には全く興味なしという偏屈人間だが、第3番ではコンドラシン/コンセルトヘボウの1975年ライヴ(これは素晴らしい演奏だった)以来、ロストロポーヴィチ、ムーティ、小澤、シャイー、ゲルギエフ、キタエンコ(2005年の再録)と裏切られ続け、7枚目のこれでようやく最高の演奏にたどり着いた。なぜならこの第3番、オケを煽って派手派手しい音響を立てれば、それで一丁あがりみたいな安易なアプローチをとる指揮者が後を絶たないからだ。世代的に言えばゲルギエフなどは、もっと新しいセンスの持ち主のはずだが、少なくともLSOとの全集はひどく荒っぽいやっつけ仕事で、普段の彼の水準をも大きく下回る。それらに比べるとこのカラビツの録音は、まずきわめて緻密にスコアが読まれ、その読みがオケによって的確に音化されているのが実感できる。第1楽章から、やたらにがなりたてるだけのこれまでの録音ではマスクされていた声部がちゃんと聴こえ、オケの響きがきわめて重層的だ。第2楽章でのグリッサンドの克明な実行、第3楽章での弦楽器群の俊敏な運動性など、いずれも出色の出来。前述のような理由から第7番についてのコメントは遠慮したいが、ライナーノートに載ったプロコフィエフ研究家、ダニエル・ヤッフェとの対談を読むと、この指揮者のインテリジェンスの高さが良く分かる。そこでカラビツは第7番について、外圧(ジダーノフ批判)によって『古典交響曲』のような新古典様式への回帰を迫られた「非常に悲劇的な作品」だと述べている。

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     2016/03/07

    『賭博者』二つ目の映像は本場、マリインスキー劇場での上演。日本語字幕付きなのも大変ありがたい。音楽自体は基本的に器楽的に発想されている上に、分厚いオーケストラがのべつまくなしにがなりたてるので、歌手にはなかなか辛いオペラのようだが、何といってもストーリーが断然面白いし、世界中で盛んに取り上げられるのも当然という気がする。こちらの演出は全く読み替えのない正攻法なもので、舞台は簡素、賭博場のルーレットなどもリアルに見せるわけではないが、それなりに良くできている。ただし、ちょっと残念なのは主役のガルージン。96年のCD録音のメンバーでもあり、歌の方は見事だが、見た目はどう見ても中年オジサン。演出が、それなりの年齢に達した主人公が過去の出来事を回想するかのような「枠」を冒頭に設けているのは、そのための配慮かとも思うが、バレンボイム/チェルニャコフ版のディディクがロシア文学に良くある野心的な青年そのものだっただけに、好みを分けるかもしれない。ヒロインのパヴロフスカヤもオポライスには及ばないが、誇り高い貴族のお嬢様らしさは良くでている。アレクサーシキン、ジャドコーワ以下、脇役陣は申し分ない。ゲルギエフの指揮も非常に的確。歌手に配慮してオケを抑えるところと、第4幕の二つの間奏曲のようにパワー全開にするところとの使い分けがうまい。

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     2016/02/23

    われわれ日本人でなくとも「イタすぎる」二重の差別(女性差別+人種差別)のせいで『蝶々夫人』も上演が減っているらしいが、このもうひとつの「異国もの」オペラも相変わらず苦戦中のようだ。演出は時代を20世紀後半に移しているが、最後、主役たちが気球に乗って旅立ってゆくのを見ると、何のために時代を変えたのやら意味不明。このオペラ、あまり動きの無い主役二人の場面が長く続くのがドラマトゥルギー上の弱点で(第2幕幕切れのポーカーの場面などその典型)、スウェーデン王立歌劇場のクリストフ・ロイ演出はそこを映像投影でうまくカバーしていたが、クローズアップし放題の映像版で見るわれわれはともかく、最後にジャック・ランスの自殺を暗示するぐらいしか新味のないこの凡庸な演出、劇場で観た観客はさぞ退屈しただろう。ステンメは声の質としてはミニーにふさわしいはずだが、元来クールな彼女の演唱はこの鉄火肌の姐御とキャラクター的に合わない。映像を伴うとそれが一層はっきりと見えてしまうのは痛い。イタオペにもだいぶ馴染んできたカウフマン、もともと不器用なこの人物ならほぼ違和感ないし、アントネンコなどよりも遥かに演技がうまいのは有難い。ソプラノ/テノール/バリトンの三角関係はオペラの鉄板だが、ランスはスカルピアのような悪役ではないので、なかなか難しい役。コニェチュニがとても良い。ヴェルザー=メストの指揮は、当時としては前衛的なこのオペラの書法を的確に聴かせる好演。これと『アラベラ』しかウィーン国立歌劇場時代の録画が残らなかったのは皮肉ではあるが。

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     2016/02/23

    ほぼ同じ演目によるリサイタルを聴いたばかり(2月12日、浜離宮ホール)。超重量級の曲目だし、前回(2012年11月)の印象からかなりのミスタッチを覚悟で出かけたが、技術的精度が格段に上がっていたのには驚嘆した。これなら鬼に金棒と言いたいところだが、ペダルを控えて音の粒立ちを重視する伝統的なピアノ演奏の美観に根本的に反逆するような彼女の弾き方を嫌う人はまだ多いだろう。しかし私は、ペダルによる「ぼかし」効果を多用し、速く強く弾く所では内声部が潰れようが、音が歪もうがお構いなしという彼女の行き方を断固支持したい。
    さて、そこでまず『展覧会の絵』だが、最初のプロムナードで誰もがぶったまげるに違いない。テンポも強弱も、楽譜の指定を完全無視。この曲はホロヴィッツ、プレトニョフなど独自の編曲版で弾く人も多いから、ブニアティシヴィリ版だと思えばいい。しかし、これまでのヴィルトゥオーゾ達が名技性の強調を目指して音を付け加えてきたのに対し、彼女の狙いは組曲全体のプログラム的な一貫性をさらに強めることにある(少なくとも元の楽譜にない音符を加えている箇所はないように聴こえる)。たとえば冒頭のプロムナード、楽譜通りだと鑑賞者はまっすぐに目的の絵の所に向かうような印象だが、ブニアティシヴィリ版では故人を偲びながらその遺作展の会場をゆっくりそぞろ歩いていると、思いがけず「おぞましい」絵にぶちあたる。他には「ビドロ」が極端に遅いので、その前の「テュイルリー」は速めのテンポで軽く弾かれる、など曲と曲、さらには曲の各部相互のコントラストが考えうる限り最大にとられている。
    けれども、このCDでは(実際のリサイタルでも)『展覧会の絵』はまだ前座に過ぎない。次は、腕に覚えのピアニスト達が今やこぞって弾いている『ラ・ヴァルス』ソロ版。これももちろん凄いが、最後に彼女のオハコ、『ペトルーシュカからの3楽章』が控えている。楽譜通り弾くだけでも大変な曲だが、もはや彼女の関心は、きれいに完璧に弾くことには全くない。曲自体が完全に彼女の血肉と化しているようで、ジャズピアニストの即興演奏のように奔放に弾く。リズムの緩急、タッチの硬軟、ぼかした中間色から原色をぶちまけたような色彩の乱舞まで、あらゆる表現技法を総動員したまさしくカレイドスコープ(万華鏡)。

    6人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2016/01/17

    サシャ・ヴァルツにヴェーヌスベルクの場の振付だけでなく、全体の演出を任せた時点で、こういう舞台になることが期待されていたのだろうが、バッカナールの部分だけでなく、全体にわたってほぼ常に舞台上にダンサーがおり、オペラとバレエが完全に融合したような演出。ダンサーがいない場面、たとえば「夕星の歌」でもヴォルフラムがバレエの振付のような動きをするのが面白い。音楽重視の人は舞台上のダンサーが目障りだと言うかもしれないが、作曲家自身もその不出来さに頭を抱えることになる「歌合戦の場」のように『タンホイザー』は退屈、凡庸なページもなくはないオペラだから、このような試みは大いに支持したい。ただし、人物達の服装が19世紀以降のものなのはタンホイザーをワーグナー自身の分身と見る解釈なのだろうが、それ以外の部分では根本的な読み替えはなく、最後もごく穏当なエンディング。その点では、クプファー演出などの方が異教の神とキリスト教の間で引き裂かれたタンホイザー=ワーグナーの分裂を深刻にとらえていたと言えるだろう。シラー劇場での上演なので、大がかりな装置はほとんど無いに等しい簡素な舞台。
    これが三度目の映像ディスク登場となるザイフェルトの題名役は安定しているし、今回が最も良いのではないか。見た目は例によって巨体だが、この役はちょっとくたびれた中年オジサンでも構わないと思う。女声陣は見事に美女二人を揃えた。デンマークのソプラノ、アン・ペーテルセンのエリーザベトも好ましいし、プルデンスカヤはこの役には声が軽すぎると思うが、よく健闘している。マッティのヴォルフラムは理想的な演唱で、素晴らしい。緩急の起伏の大きいバレンボイムの指揮もすこぶる強力。第2幕終わりのコンチェルタートの目覚ましい盛り上げ方、「ローマ語り」の雄弁な伴奏など見事だ。序曲はそのままバッカナールに流れ込むが(いわゆるパリ/ウィーン版)、それ以外はドレスデン版による演奏。

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     2016/01/16

    ユジャ・ワンはこのままラフマニノフやプロコフィエフの超絶技巧曲を弾き続けてゆくのだろうか。もちろん指の回りに関しては何の不足もないが、体格的なハンディは簡単には補えないので少し考えた方が良いのではないか、などと思っていた所にこの新譜。ブランギエ指揮によるラヴェル管弦楽曲全集の一枚目ということで、たまたまこうなっただけかもしれないが、今後の彼女の進路を暗示するような録音ではある。ちなみに、ロイヤル・コンセルトへボウと共に昨年来日した彼女はチャイコフスキーの2番の協奏曲を弾いたのだが、これなども実に頭の良い選曲だった。1番以上に技巧的な曲だが、チャイコフスキーなりの古典派へのオマージュもあり(楽器編成にトロンボーンを含まない)、独奏者が先に立ってオーケストラを引っ張ってゆくにふさわしい曲だからだ。さて、このディスクの両協奏曲ではまず「ト長調」が期待通りの痛烈爽快な快演。切れ味の鋭さではアルゲリッチの二種の録音を凌ぐほどだ。指揮も実に良い。第1楽章が第2主題部に入ると、完全に和声が変わって「異世界」が出現する様など、まことに鮮やか。陰鬱な「左手」はちょっと現在のユジャ・ワンの手には余る感があるが、「ト長調」一曲だけでも十分、5つ星に値する。フォーレの『バラード』がピアノ・ソロ版だったのは意外だが、これはもう少しユジャに花を持たせようという配慮か。

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