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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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     2016/12/30

    ティーレマンの次はバレンボイムとの共演。普通なら豪華共演者と喜ぶべきなのだろうが、共演者、曲目の選定ともにレコード会社は彼女の美質を分かっていないな。演奏は再録音となるシベリウスの方がベターで、彼女の世界最高と言っても良い美音と美しい歌い回しが味わえる。シベリウスの交響曲をレパートリーとしないバレンボイムだが、ヴァイオリン協奏曲の伴奏録音はこれが三回目。過去二回いずれも悪くないし、今回は特に緻密かつ周到で、この曲をドイツ・ロマン派の音楽と考えるならば申し分ない。けれども、シベリウスに関しては門外漢の私でも(3番以降の交響曲は私にとって「取りつく島のない」ゲンダイオンガクだ)、前回のオラモ指揮フィンランド放送交響楽団と比べると、響きの作り方が間違っていると感ぜざるをえない。チャイコフスキーの方はやはり曲自体が彼女に合っていない。この曲に関しては、私は完全にコパチンスカヤ/クルレンツィスの録音に「毒されて」しまっているのだが、この種のHIPスタイルに対するアンチを標榜した反動的な演奏。過度に感傷的になることは避けつつも、明らかに抒情的な歌に傾斜した解釈で、コパチンスカヤ、いやムターにすらあった俊敏な運動性は失われてしまっている。指揮者のバレンボイムはライナーノートの中で、ないがしろにされがちなこの曲の「構造」を大事にしたと語っているのだが、その構造をぶち壊しにしかねないアウアー版に準拠したカットを第3楽章で採用しているのは、どうしたわけか。それに、かつてなら私自身もそういう印象は持たなかっただろうが、今となっては両曲とも、特にホルン4以外は標準的な二管編成の(トロンボーンもテューバも含まない)チャイコフスキーに関しては弦楽器の人数が多すぎて鈍重かつ明晰さを欠くと感じる。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2016/12/16

    ティーレマンが振っているだけあって、音楽的にはとても充実。ほとんどワーグナーのような彫りの深い音楽だ。他にはシュースターの魔女が好演で、怖いと同時に愛嬌も感じさせるキャラクターになっている。でも良かったのはそれだけ。ジャケットを見た時から悪い予感がしていたが、こんなに主役二人に魅力がない『ヘンゼルとグレーテル』は初めてだ。この二人には大人のオペラ歌手が演じながらも子供のように見せなければならない、特にヘンゼルはズボン役なので女性歌手が演じつつ男の子のように見える必要があるという難しい課題がある。ショルティ指揮のオペラ映画で演じていたファスベンダー、グルベローヴァですらこの点では万全ではなかったが、歌・演技の両面で圧巻だったのはチューリッヒ歌劇場のニキテアヌ、ハルテリウス。この盤は指揮、演出、美術すべて満点の素晴らしい出来だった。これに次ぐのがロイヤル・オペラのキルヒシュラーガー、ダムラウ。ここでの演出もオペラでは十分に語られない物語の「暗黒」面を暗示させる秀逸なものだった。これらに比べるとシンドラム、トンカはそもそも子供に見えないし、歌にもさっぱり魅力がない。ノーブルの演出は冒頭(序曲の間)に世紀末(ちょうどオペラ初演の時代)ロンドンでクリスマスを祝うヴィクトリア朝中産階級の子供たち(男の子と女の子)が魔法の扉を通って、グリム童話の世界に入って行くという『ナルニア国物語』みたいな「枠」を付けたのが新機軸。でも、このロンドンの子供たちの物語へのからみ方が中途半端で、せっかくの枠が機能していない。

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     2016/12/09

    2016年バイロイトのラウフェンベルク演出は舞台を現代の中東に移しただけで、エンディング以外はストーリーの根幹にかかわる読み替えがないが、こちらはかなり重大な読み替えを含んだ演出。時代はもちろん現代で、聖杯騎士団の面々はタルコフスキー映画に出てきそうな寒い国の衣装を身につけているが、キリスト教的なシンボルは特になく、もっと普遍的なカルト宗教の話にされている。とはいえ、グルネマンツが過去の経緯を語る部分でスライドが投影されるといった工夫があるぐらいで、第1幕はおおむね定式通り進行。ただし、聖餐式は近年の演出ではかなり血なまぐさい儀式にされることが多く、その点ではこの演出も同じだ。やはり面白いのは第2幕以降。クリングゾールは従来のイメージと全く違って小心翼々とした好々爺。花の乙女たちもごく庶民的な服を着た娘たちだ。クンドリーがパルジファルの生い立ちを語る部分では分身が登場して説明的な演技をするが、彼女の例の接吻は完全に性行為と解され、その後の展開はなかなか迫真的。幕切れでは聖槍を奪ったパルジファルが怯えるクリングゾールを槍で刺し殺してしまい、血糊が派手に彼の顔にかかる。第3幕の終わりについては伏せるが、うん、なるほどという納得のエンディング。
    シャーガーの題名役はいかにも若々しい。貫祿不足とも言えるが、この演出では「覚醒」後もかなり精神的に不安定な人物なので、これも悪くない。カンペのクンドリーはユニークだが魅力的。全く「魔女」的でなく普通の女性として描かれているのは演出意図通りだが、多重人格の表現は見事。この演出では第3幕のクンドリーが前の幕でのパルジファルの振る舞いを許せるかどうか、つまりクリングゾールの行動も聖杯騎士団に拒まれたことの復讐として始まったわけだから、その「復讐の連鎖」を絶てるかどうかが重要なテーマになっているので、歌わなくなってからの演技も大いに見応えがある。ティーレマン指揮のザルツブルク版に続いて登場のコッホはやはりアムフォルタスには似合わないと思う。けれども、いかにも女好きの堕落した聖杯王というのが演出意図なら、これも仕方ないか。パーペのグルネマンツはいつもながらのハマリ役。この演出では最後の最後で思いがけぬ行動に出るのだが。バレンボイムの指揮が意外にも良い。ベルリン・フィルとの録音、クプファー演出版の録画ともあまり感心せず、彼には合わないオペラと思っていたが、今回は綿密かつ表出力も強く、全然枯れた印象はない。特に和声の変化、音色の明暗を精密に描き出しているのは、さすがに老練だ。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/11/13

    アルバム・コンセプトは良く了解できたが、結局のところ、楽章間の「つなぎ」の曲を飛ばして『死と乙女』ばかりを聴いてしまっている。『死と乙女』はマーラー編曲版ではなく、コパチンスカヤ自身の編曲だが、特に凝ったところはなく、ごく穏当な仕事。演奏自体もクルレンツィスと共演したときのような極端なことはやらないが(あれはやはり二人の共鳴による特殊ケースのようだ)、やはりこの曲の弦楽合奏版では格段に表出力の強い演奏。劇的な第1楽章から畳みかけるところと少しテンポを抑えて美しく歌うところの配分が良くできている。弦楽合奏にすると第3、第4楽章あたりは弦楽四重奏版のような速いテンポに対応できず、水ぶくれしたような印象になりがちだが、そういう箇所も見違えるほど締まった演奏になっている。この急速なテンポに対応できるということは、20名の奏者たちの技倆もきわめていということだろう。

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     2016/11/13

    もはやピリオド楽器であることのデメリットを全く感じさせない、メリットばかりが目立つような演奏。この2曲は単に歌にあふれた美しい音楽というにとどまらなず、特に第2番は死と孤独の影を強く感じさせるような名作だが、そういう陰影の表出も申し分ない。第1番第1楽章では小結尾主題に入るときのリタルダンドと間が絶妙。全体としては晴朗なこの楽章に孤独の気配を導き入れる。第2楽章は意外に遅めのテンポで、音量を抑えたひそやかな歌が紡がれる。一方、第2番の第2楽章は予想通りの速めのテンポだが、中間部の修羅場の表出は迫真的だ。第3楽章のトリオではフォルテピアノの特殊ペダル(打楽器効果)を使用。前のレビュアーが書かれた通り、「天国的に長い」第4楽章の提示部反復はなし。
    この時代の音楽におけるリピートは難しい問題だが、ピリオド楽器によるものであれ、現代の聴衆のための演奏であり、二百年前の人々と飛行機や高速鉄道で移動する現代人の時間感覚がもはや全く違う以上、楽譜通りにすべてのリピートを実行すべきとは私は考えない。たとえば『未完成』交響曲や変ロ長調ソナタの第一楽章提示部反復はぜひしてほしいと思うが、「大ハ長調」交響曲、特に終楽章のリピートには反対だ。作曲者自身がリピートのための経過句を作り付けているにもかかわらず、後者の場合などリピートは音楽の自然な流れを破壊しているとしか思えない。

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     2016/11/13

    2011年、マーラー没後百周年の年のライヴではあるが、世に出て本当に良かった。第10番補筆版の中でも、これまでにない大胆かつ尖鋭な感覚を持った補作かつ指揮。第1楽章やプルガトリオ序盤のように作曲者の遺した書きかけフルスコアがある場合はそれに従うのがこれまでの補作の定番だったが、そこすらも思い切って変えている。もちろん最初から最後までつながっている小譜表(パルティチェル)の枠内での補作ではあるが、「やり過ぎ」という批判は当然、巻き起こるだろう。しかしカーペンター版のように単に厚塗りしただけではないし、響きの感覚はほぼシェーンベルク、ベルクのそれではあるが、バルシャイ版のような場違い感は意外にも少ない。
    第1楽章冒頭の序奏旋律は何とヴィオラ・ソロ。アダージョ主題も故意にたっぷりと歌わない。面白いとは思うがどうしても好きになれないダウスゴー盤のような即物的な感覚とも違って、テンポは十分に遅いが、すでに「彼岸の音楽」という感じだ。それに対し第2主題はきわめて奔放で対比が強い。第2楽章はこの補作のハイライト。変拍子のスケルツォ主題と第1楽章アダージョ主題の変形であるレントラーとの間にテンポと表情の両面で最大限のコントラストをつける。スケルツォ主題のポリフォニックな展開も、まさにこうでなくては。第3楽章はずいぶん遅い。焦燥感がなくなったのは惜しいが、オーケストレーションは独創的。逆に第4楽章はきわめて速く、トリオでの減速はあるものの一気呵成に行く。終楽章冒頭は非常に遅く、やはり闘争的なアレグロ部は速い。(かつてないほど凄まじい)カタストローフ後のフルート主題の最終発展部はすこぶる輝かしく、まさに凱歌のようだ。まだ20台の補作者=指揮者の率直な感覚は大いに買いたい。HPで見る限り、国際マーラー管弦楽団はまだ室内オケ規模の団体なので、4管編成の総譜に合わせて大量にエキストラを入れていると思われるが、大健闘だ。

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  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/10/27

    ゲルギエフ就任とともに発足したミュンヘン・フィル自主制作レーベルの第一回発売。豪華独唱者を擁した注目のライヴだったのだが、非常に残念な出来ばえ。まことにテキパキと、破綻なく進められてはいるのだが、あまりにも事なかれ主義的。確かに2番の交響曲には必要以上にくどい所があって、あっさり味は歓迎すべきなのだが、これはひどすぎる。とりあえず名刺代わりに出しておきましょうかという感じの録音で、すでに百種近いこの曲の音盤に新たに何を付け加えたいのか、さっぱり分からない。ゲルギエフの近年の仕事ではLSOとのスクリャービン第3番/第4番は素晴らしいと思ったが、同じスクリャービンの第1番/第2番は凡庸。相変わらずのワーカホリック状態なので、もう少し仕事を絞ってもらわないと、録音に関しても玉石混淆を避けられないだろう。

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     2016/10/27

    現在のマクヴィカーにかつての才気走った「読み替え演出家」の面影はもはやない。これも非常にリアルな、いやスーパー・リアルな舞台。歌や台詞のない默役を舞台に出して物語の背景を膨らまそうという彼のやり口はここでも健在で太守まわりの人々、謁見に来たヨーロッパ人たちや黒人の侍従長、複数の妻、子供たちが登場しており、一夫多妻の国だったんだと改めて思い至る。ただし、この18世紀のおとぎ話に徹底したリアリズムを持ち込むことの難しさを随所で感ぜざるをえないのも事実。台詞は要所要所でかなり書き足されており(台詞は台本通りという演出家の発言は嘘)、コンスタンツェはかなり太守に心惹かれているようだが、ベルモンテより太守が好きという読み替えには至らない。そうなると太守の苦悩を克明に描きたいのは分かるが、最後のいかにも啓蒙専制君主の時代らしい寛大さがどうしても嘘っぽい。オスミンをめぐって「文明の衝突」を描きたいのだとしても、そのためにこの人物に欠かせぬ愛嬌が失われ、特に終盤、相互理解不能な「ただの怖い人」になってしまったのは明らかにモーツァルトの意図に反するだろう。
    マシューズは、寝室に舞台を移した例の大アリアではメトでのどんぶり勘定気味の演技とは別人のような迫力ある演唱を見せるが、その魅力はイマイチ。モントヴィダスは長身のイケメンで、貴族のお坊ちゃんらしさは良く出ている。この人物の「上から目線」ぶりを少し風刺的に描こうというのも、演出意図だろう。それでもヤーコプスの録音でも歌っていたエリクスメンのブロンデと中年の庭師オジサンになったガンネルのペドリッロ(演出家は歌手を見てからこのキャラを考えたのではないか)の方が魅力的。ケーラーのオスミンは立派な声だが、(ほぼ演出の責任とはいえ)前述の通り、役作りに関しては大いに疑問。ティチアーティのみずみずしい指揮は素晴らしい。第2幕フィナーレの陰影と躍動感など出色だ。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/09/12

    同じスタイルの演奏は上岡の振るモーツァルトやマーラー4番などで既に聴いたことがある。この演奏会の前プロだったシューベルトの第1交響曲(同じニ長調)も同じ。このスタイルのルーツの一つはHIP(ピリオド)様式だろうが、もはや上岡スタイルと言うべき彼独自の様式になっている。悪く言えば「小手先の芸」とか「何でも同じ手口で振る」とか言われかねないが、これだけ個性のはっきりした音楽を聴かせてくれる指揮者は貴重だ。その個性は第1楽章第1主題から早くも鮮明。弓に圧力をあまりかけないで、弦楽器に主題を軽く歌わせる。葬送行進曲がやや遅い以外、テンポは概して速め。特にスケルツォのトリオ、終楽章第2主題など普通は遅めのテンポがとられる部分がかなり速く、たっぷり歌うことを避けている。読響とのマーラー4番でも盛んに聴かれたように第1楽章展開部やスケルツォのトリオでのグリッサンドの処理はちょっと異様なほどリアル。終楽章冒頭から第1主題にかけての激しく上下動するヴァイオリンの克明な弾かせ方、ダブル・ティンパニの強烈な打ち込み、最後の行進曲へ入る所での木管の耳をつんざくようなトリルの強調など、様々な点で指揮者の明確な意思を感じることができる。結果として、マーラーのこの「青春」交響曲の意欲的な前衛性をうまくクローズアップする演奏になった。今や日本のオケはどこもマーラーには馴染んでいるが、読響ほど上岡との共演経験がないはずの新日フィルも、とても柔軟に上岡スタイルに適合している。拍手入りライヴ。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2016/07/16

    ティーレマンの素晴らしい指揮、しかし舞台上は目を覆わんばかりの惨状というコントラストは毎度おなじみのパターンだが、今回は夢も希望もない、酷薄(したがって非ロマンティック)な、しかし最初から最後まで首尾一貫したカタリーナの過激かつ徹底した読み替えを受け入れるならば、非常に水準の高い上演と言えるだろう。指揮は例によって、いやこれまで以上に見事だ。ほとんど拍節感を感じさせない流動性の高い指揮で、ここぞという所でのテンポの動かし方も堂に入っている。ティーレマンが演出に合わせて演奏を変えるとは考えにくいが、第2幕幕切れの遅いテンポによる悲劇性の強調、第3幕での恋人たちの再会場面でも最後に大きくリタルダンドするといった仕様は結果的に演出の絶望的な雰囲気にマッチしている。歌手陣もなかなかの水準。ヘルリツィウスは表現主義的な歌い方をするので、時に美観を欠くこともあり、スタミナ的にもやや苦しいが、演唱のコンセプトは好ましいと思う。ウェストブレークのように声は立派だが頭カラッポの歌手より遥かに良い。グールドは柔らかい、細やかな歌い口で、テノール殺しと悪名高い第3幕の「狂乱の場」もいたずらに絶叫に走らず、的確に言葉の意味を伝えてくれる。悲劇的な陰影の濃さはまだ乏しいが、見た目(かなりの肥満)に目をつむれば近年出色のトリスタンだと思う。ツェッペンフェルトはまたしても標準イメージと真逆のキャラクターを演出に押しつけられたが(この人、こんな役回りばっかり)、歌、演技ともに大変すばらしい。
     さて、問題のカタリーナ演出。『トリスタン』を観る人は、恋人たちが媚薬を飲む前から愛し合っていることは百も承知だと思うが、エッシャー風の迷宮を舞台にした第1幕では、演出家はそれをくどいほど強調する。ところが最後では、二人に媚薬を飲ませない。シェロー演出が描いてみせた通り、媚薬は「ただの水」で構わないのだが、二人がそれを毒薬だと思って飲むことに意味がある。まさにここで死への恐怖が愛に反転するという絶妙のアイデアなのだが、カタリーナはこれを放棄してしまった。完全な確信犯だと思う。つまり、愛=死によるカタストローフというオペラの根本思想を全部ひっくり返してしまったのだ。異性愛など人間を惑わすだけで虚しいものだという、いわば『パルジファル』の視点から見返した『トリスタン』、それがカタリーナ演出だと思う。バイロイトにおける一代前のマルターラー演出と似たテイストではあるが、マルターラーのような多義性はなく、すべては明確に割り切られている。第2幕、クプファー演出でのマルケ王は老人ではなく、むしろ感情の起伏の激しい男盛りのオジサンだったが、この演出のように悪辣な暴君として描かれるとさすがに衝撃的だ(やはりフェミニストか)。言葉としては彼の台詞は全部嘘ということになるわけだが、はたして演出が音楽を裏切ることができるか。私はなかなか面白い結果になったと思う。第3幕での再会場面、クライマックスなのに数秒にわたって舞台真っ暗という作りもプロの演出家としては大失態と言われかねないが、これもまた(相変わらず素人っぽいとも言えるが)確信犯だろう。

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     2016/06/18

    アバドの死後、2年間だけピンチヒッターを務めたネルソンスだが、これは2年目のライヴ。今年からシェフの座をシャイーに譲ってしまうのは惜しいと思えるほどの充実した出来ばえだ。アバドが指揮した2004年の演奏に比べて全体で数分長いが、テンポの遅いネルソンスの指揮はきわめてスケールが大きく、特にもともと遅いテンポが指定されている第2楽章第2主題、スケルツォのトリオ、アダージェットなどでは微視的な繊細さがきわだっている。オブリガート・ホルンはアレグリーニが自分の席に座ったまま吹くが、このオケのヴィルトゥオジティはまだ健在(もちろん吉井瑞穂さんの顔も見える)。映像では現役指揮者中随一だと思うネルソンスの雄弁なボディ・ランゲージも堪能できる。ただし、現時点では構えの大きな造型の内部を埋めるべき音楽の内実にほんの少し、不足を感じるのも事実。どちらかと言えば小編成の『角笛』歌曲の方が、シャープな楽譜の読みの美質が文句なく感じられる。今やドイツ・リート界の王者となったゲルネの歌の素晴らしさは言うまでもない。
    なお、日本語字幕付きなのは有難いし、ある程度の意訳は訳者の裁量範囲内だと思うが、間違っては困る肝心な所で致命的な誤訳があるのは困る。たとえば『死んだ鼓手(レヴェルゲ)』末尾の「墓石のように臥しならぶ」。骸骨と化した兵士たちの隊列はやはり「立って」いないとぶち壊しだ。『美しいトランペットの鳴り渡る所』の「1年たてば僕のひとだと言ってたくせに」も意味不明。彼女はこんな約束していない。彼が「来年には僕の嫁さんにしてあげる」と言っているのだ。話者の意思という語法を知らないのか? 欲を言えば「近寄る男に雪ほど白い手をさしのべた」は間違いではないが、「彼女も」という大事な部分が抜けてしまった。「も auch」という一語だけで、彼も「雪ほど白い手」の持ち主、つまり骸骨であることを暗示しているこの詩のキモなのだが。

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     2016/06/13

    ホーネックのチャイコフスキー演奏のスタンスはEXTONから2006年のライヴが出ている第5番と基本的に同じ。感傷過多、ズブズブの低回趣味に陥るのを避けようとして造型はかなり堅固。その中で細かいアゴーギグの駆使や普通は聴こえない裏の響きの強調で独自性を出そうという行き方だ。ただし、チャイコフスキー交響曲の中で最も構築的な5番と楽章の配置自体が独創的な6番では同じやり方は採れないし、オケとの信頼関係も9年前とは全く違うだろう。というわけで、今回の6番だが、基本テンポは全楽章とも標準的(終楽章、私は少しも快速とは思わない)。しかし、例によって指揮者自身が執筆したライナーノートでほぼネタバラシされてしまっているが、細部には色々と工夫がある。第1楽章ではバスクラリネットのpppppp(やはりファゴットでは演奏できない理由を指揮者が明快に述べている)に続く展開部が出色。当然ながらテンポは激烈で、荒っぽく演奏されがちな部分だが、対位声部にも目配りした目のつんだ響きは見事。再現部に入ってからの大クライマックスは、バーンスタイン最後の録音ほどではないが、かなり粘る。中間2楽章はやや失望。第2楽章中間部のティンパニはもっと強くていいだろう(指揮者は強調したと書いているのだが) 。第3楽章では楽譜にない強弱の変化をつけるが、これも既におなじみの手口だし、最後のアッチェレランドも全く想定通り。このコンビには珍しく今回は5つ星は無理かと思い始めたが、終楽章は再び良い。冒頭、両ヴァイオリンの旋律のため息のような弾かせ方(フルトヴェングラーのブラームス第4番冒頭と同じ)から始まって、様々な工夫が生きている。終盤、ホルンのゲシュトップト奏法の音色へのこだわりも面白い。
    『ルサルカ』幻想曲はなかなか凝った編曲。元のオペラでの登場順通りではないので、お目当ての「月に寄せる歌」の旋律は「満を持して」出てくるが、私は大いに楽しんだ。ちなみに今回の録音、ややマイクが近すぎたのか、歪んではいないが潤いに欠ける硬い響きがするのは残念。

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     2016/06/12

    ネルソンスのベルリン・フィル・デビューの曲目であり、ロイヤル・コンセルトヘボウとの録画もあった第8番が期待通りの名演。まだ30台の指揮者とは信じられないほどスケールの大きな、懐の深い演奏で、第1楽章の大クライマックスや苛烈きわまりない第3楽章でも安易にオケを煽ったりしないが、総譜はまことに丁寧に読まれ、パートの隅々にまで血が通っている。最終楽章の驚くべき入念・緻密さも特筆すべき。続く第9番も良い。この2曲を続けて聴くと、一見、対照的な両曲の間には深いつながりがあり、いわば「双子の」交響曲であることが実感できる。題材に似つかわしくない軽音楽的な側面を見せる『ハムレット』付随音楽も面白いが、第5番だけはちょっと疑問。
    この曲は終楽章前半を「強制された歓喜」の表現、後半ではスターリンに対する強烈なプロテストが表明されていると解するのがここ20年ほどの流行で、ウィッグルスワースやティルソン・トーマスのように指揮者自身がはっきりそういう解釈を語っている場合はもとより、小澤、V・ペトレンコなども聴けば、そうした解釈のもとでの演奏であることが明らかに分かる。ネルソンスも基本的にはこの流れに乗っているように聴こえる。第1楽章はすこぶる繊細で内省的な楽想の真ん中にド派手な軍隊行進曲が侵入している異様な音楽であり、ネルソンスの演奏もこれがソナタ・アレグロから第8番、第10番のような冒頭=緩徐楽章への過渡期にある楽章だということを良く分からせてくれる。終楽章も必要以上の興奮を避けたクールな演奏。けれども、ウィッグルスワースのように第1楽章に19分29秒もかけたりはしないし、終楽章の二度のアッチェレランドもティルソン・トーマスほど戯画的にはやらない。その結果、ネルソンスの演奏はややこだわりの乏しい、常識的な方向に傾いてしまっている。指揮者は「音楽外」の要素を排除して、純粋に楽譜だけに向き合いたかったのかもしれない。しかし、他ならぬその楽譜の中に、これだけ多量のパロディや「ほのめかし」が埋め込まれた作品から「音楽外」の要素を排除できるだろうか。この曲に関する限り、それはもう無理だと私は思う。第5番のみ最後に拍手入り。

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     2016/06/05

    いま乗りに乗っている指揮者とオケのコンビらしい活力にあふれた演奏。楽団のスポンサーでもあるClassic FMのレーベルに入れた『1812年』序曲も、この曲に対してちょっと「大人げない」のではないかと思うほどシャカリキになった演奏で、13:56という時間はノーカット演奏では史上最速の部類ではないかと思うが、この交響曲集でもテンポはかなり速め。劇的な部分は非常に隈取りが濃く、一方、抒情的なメロディーもたっぷり歌う。第5番も第2楽章での二度の「運命動機」登場シーンの劇的な振幅、終楽章コーダ(モデラート・アッサイで運命動機が戻ってくる部分)の独創的な譜読みなど、聴くべき箇所は多いが、第1番と第2番はさらに個性的だ。かつてのマゼール/ウィーン・フィルってこんな感じだったっけ、と思って古いCDを引っ張りだしてみたが、いやいや、意外にもマゼールはウィーン・フィルの優美な味わいをちゃんと重んじていて、ペトレンコの方がはるかに爆演している。とりわけ、ここぞという所でのめざましいアッチェレランドは鮮烈で、たとえば第1番の終楽章コーダは少しカットしたほうがいいほど凡長だとずっと思ってきたが、この演奏ではじめて長さを感じなかった。リズミックな局面では一気に畳みかけ、第2主題は美しく歌う第2番終楽章でも最後の最後での猛烈な加速が凄まじい。

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     2016/06/05

    2015年7月、ブレゲンツ音楽祭での上演だが、会場はおなじみの湖上ステージではなく、やや小振りな祝祭劇場での収録。『ホフマン物語』はなるほど名曲も多いが、音楽的にはやや凡長、退屈なところもなくはないオペラだと思っていたが、こんなに舞台上が面白いと退屈している暇はない。またしてもヘアハイム演出の大勝利。このオペラの怪奇・幻想の趣きはそもそも彼向きだし、音楽の方も決定稿がないので演出家の要求に合わせて独自の版を作れるという点でヘアハイムが腕を振るうにふさわしい作品だ。デブス指揮のウィーン交響楽団はもちろん好演だが、独自のブレゲンツ版を作ったという点で特に指揮者の貢献を高く評価したい。
    さて、今回の演出コンセプトは「アイデンティティの散乱」。普通にエンターテインメントとしても楽しめる舞台だが、精神分析が主張するように、我々の「自我」は他者という鏡に映った無数の鏡像の集積に過ぎないのか、などといった哲学的なテーマを突きつけてくる演出でもある(日本語字幕あり)。この舞台のミソはジュリエッタ役の歌手がいないこと。彼女のパートはオランピア、アントニア、ニクラウスが適宜、分担する。アントニアのみやや太めだが、この三人が見た目、とても良く似ているのも演出の眼目だろう。そもそも男性の合唱団員たちは皆、ホフマンの分身だし、女性団員たちもまたステッラ=オランピア=アントニアの分身。いや、ホフマンはオランピアやアントニアですらもある。オランピア編の最後にコッペリウスによって壊されてしまうのはオランピアではなくホフマン人形、さらに男女のお客たちだ。
    ホフマン役のヨハンソンはあまり男っぽくなく「中性的」な演唱。おそらく演出家の求め通りだろうが、頻繁に着替え、女装しという演出の要求に良く応じている。アヴェモ、フレドリヒ、フレンケルの女声トリオもいずれも好演。歌手陣のなかで最年長なのは敵役4役+ルーテルを演ずるフォレ、彼はこのところヘアハイムの舞台には欠かせない。さらにオッフェンバックそっくりの扮装で、召使い3役を演ずるモルターニュもいい。

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