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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/11/06

    近年の読み替え演出の様々な問題点を集約したような舞台。まず第一に舞台を現代の中東(第1幕間奏曲の間に投影されるグーグルアース風映像によれば、シリアとイラクの国境あたり、当時のIS支配地域とのこと)に移したこと。これについて私は、説得力があれば何でも認めようという立場。キリストに擬せられたアムフォルタスを使って血糊たっぷりの血なまぐさい聖餐式が演じられる第1幕終わりまでは、おおむね肯定的に見た。しかし第2幕、クリングゾールのアラブ風の館になると、そこには(本来いないはずの)アムフォルタスが囚われている。歌のパートがない人物を登場させるのも昨今の演出ではおなじみの手法だが、このアムフォルタス、「アムフォルタス!」と自分の名前が絶叫されているにも関わらず、ただ見ているだけで何も反応しないのだ。この黙役の扱いがいかにもまずい。第3幕、聖金曜日の奇蹟の場面では舞台奥にオアシスが出現し、そこで女性の全裸を見せたりするが、ここで最も肝心なパルジファルとクンドリーの心の交流についてはさっぱり描かれない。最大の問題はエンディング。この演出では第2幕終わりでパルジファルが聖槍を折ってしまっているのだが、彼がその折れた槍(ドイツの批評家の解説によれば、槍にはイスラエルとシリアの国旗をはじめ、様々なものが巻き付けられているとのこと)をティトゥレルの棺桶に投げ入れると、まわりの人々も七枝の燭台(ユダヤ教のシンポル)や十字架、数珠(仏教?)などの宗教的象徴をそこに投げ入れてしまう。素直に理解すれば、宗教を捨てよということらしいが、そんなことで二千年来のパレスチナ問題が解決するわけないでしょうが。最終場面にクンドリーは現れないので、ワーグナーのト書き通り、彼女が死んだのかどうかも分からない。オペラ演出に政治的メッセージを持ち込むなとは言わない。しかし一番いけないのは、作品そのものの解釈とちゃんと向き合わずに(シリア難民の大量流入に苦悩していた2016年のドイツでは特に受けたであろう)口当たりのいい政治的メッセージにオペラの結末を丸投げしてしまったことだ。
    ヘンヒェンの指揮は中庸かやや速めのテンポで手堅いが、ただそれだけ。近年、バイロイトで『パルジファル』を振ったガッティやフィリップ・ジョルダンですら聴かせてくれた「形而上的な」次元に欠ける。歌手陣の中で文句なしなのはツェッペンフェルトのグルネマンツだけ。フォークトはいつも通りの輝かしい声だが、全曲の真ん中での主役の「覚醒」が的確に描かれないので(もちろん演出の責任だが)説得力に乏しい。パンクラトーヴァも声は立派だが、演技の方は全く生彩なく(これも演出の責任)、存在感が薄い。マッキニーは(この演出ではキリストそっくりに見える必要があるので)見た目重視の起用と言えるが、歌の方はイマイチ。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/11/02

    2016年9月18日、つまり一連の首席指揮者就任披露演奏会のライヴ。近年のガッティは遅いテンポによる細部拡大趣味という「巨匠的」なスタイルを見せることがある。それはこの半年ほど前、すなわち首席指揮者就任前に収録された『幻想交響曲』のように「面白いけど、こねくり回しすぎ」という印象を招くこともあったが、ここでは彼の解釈が見事にツボにはまっている。終楽章の行進曲風な展開部における、まるでクレンペラーのような遅いテンポ、明確なフレージングはガッティの面目躍如。ただし、続く第2主題の展開において、(先のヤンソンス指揮の録画ほど露骨ではないが)舞台裏で演奏するバンダの姿を見せてしまうのは映像演出として好みを分けるかもしれない。また特筆すべきはオランダ放送合唱団の好演。この曲の合唱パートに数百名の大合唱は不要。それよりもピアニッシモかつ正しい音程で歌える確かな技術が必要だが、至難な無伴奏・最弱音による歌い出し部分は「まさにこうでなくては」という理想的な出来。この演奏では合唱は座ったまま歌い始める。それ自体は決して珍しいことではないが、立ち上がるタイミングが実に心憎い。これまた極度に遅いテンポをとった曲尾の極大スケールも圧巻だ。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/10/08

    チャルニャコフ演出は半年後に同じペーターゼン主演でメトで収録されたケントリッジ演出とは対照的な舞台。プロジェクション・マッピングを全く用いず(第2幕の間奏曲もパントマイムのみ)、具象物のほとんどない舞台上で人物達の絡みを的確に見せる。普段は見られない自殺した画家の遺体を見せるほか、舞台上でのルルの失神、シェーン博士の婚約者、第2幕ではシェーンがアルヴァを殴りつけるなど、舞台裏の出来事をはっきり見せるのはなかなかの工夫。最後のルル刺殺シーンも舞台前面で演じられるが、ちょっと違った味付けになっている(見てのお楽しみ)。主役ペーターゼンはメト版よりも遥かに生彩ある演唱。ただし、彼女もこの役はこれで歌い納めとあって、アップになると老けて見えるのは残念だが。シンドラムのゲシュヴィッツがやや魅力薄なのを除けば、スコウフスの素晴らしいシェーン博士以下、テノール三人(クリンク/トロスト/アプリンガー=シュペルハッケ)も申し分ない。
    さて、これが初映像ディスクとなる話題のキリル・ペトレンコ。私の聴いた限りでは、緩急の幅を広くとり、ここがクライマックスと見定めれば(たとえば『タンホイザー』第2幕終わりのコンチェルタート)、多少粗いところがあっても一気呵成に行く天性のオペラ指揮者。現役指揮者中ではやはりティーレマンに似ていると思うが、当然ながらティーレマンより世代が若い。3月のベルリン・フィル定期ではモーツァルト『ハフナー』交響曲で、ピリオド・スタイルを自家薬籠中のものとしていることを実証してみせたし、レパートリーも広い(『ルル』から『兵士たち』まで振る)。交響曲レパートリーではマーラー、ショスタコーヴィチを問題なく振れるあたりが、ベルリン・フィルのシェフ選びで、ティーレマン派を取り込みつつ、反ティーレマン派をも黙らせた要因だろう。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/09/21

    近年、ピリオド系アンサンブルを中心にメンデルスゾーンの交響曲が盛んに演奏・録音されているのは、ナチス時代の遅れがようやく取り戻され、新しい校訂による楽譜がたてつづけに出版されているからだ。特に『宗教改革』は2017年が宗教改革五百周年ということもあって、(私の知る限りで)早くも今年登場する三つ目の録音だ。これはブライトコップ&ヘルテルの新校訂版譜面による初録音という触れ込みだが、ネゼ=セガンが録音していたホグウッド校訂、ベーレンライター版に含まれていた終楽章冒頭のフルートのカデンツァ風導入部は含まれていない。初稿に由来するあれはとても美しい部分で、慣れてしまうと従来版での第3楽章から第4楽章への接合は不自然に感じるほどなのだが。とはいえ、今年出た三つの録音の中ではこのエラス=カサド指揮が最も攻撃的で、トーマス・ファイの録音と双璧をなす出来だ。前の『スコットランド』『イタリア』では意外におとなしいなと思ったエラス=カサドだが、今回はすこぶるアグレッシヴ。特に終楽章のリズムの弾みはめざましい。『フィンガルの洞窟』も非常に敏感、鋭利な切れ味満点な演奏。ただし、ヴァイオリン協奏曲だけは御免なさい。ファウストはまことに現代らしい、知的なヴァイオリニストだと思うが、私はこの人の乾いた(私にはとても美しいと思えない)音色と、私にとっては「神経を逆撫でされるような」フレージングがほとんど生理的に苦手。イブラギモヴァ/ユロフスキは実に素敵な、清楚で美しい演奏だと思うし、過激なコパチンスカヤ/クルレンツィス(録音はまだないが、2015年ブレーメンでの録画がある)も大好きだが、このディスクでの演奏は最後まで聴き通すのに忍耐を要した。出と引っ込みのタイミングを心得つつも独奏者に必要以上に遠慮しないエラス=カサドの指揮は、HIPスタイルによるこの曲の伴奏指揮でベストだと思うのだが。というわけで、『宗教改革』『フィンガルの洞窟』は星5つ、ヴァイオリン協奏曲はあくまで相性の問題なので、評価放棄。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/09/14

    完璧主義のあまり、録音嫌いの変人ピアニストの烙印を押されてしまったツィマーマンだが、彼の音楽作りに奇矯なところは何もなく、玲瓏たる美音と端正で堅固な造型は今も健在だ。ただ、細部の細かな味付けが年々、濃くなっていることは確かで、イ長調冒頭の晴れやかな第1主題とかすかに悲しみをたたえた第2主題のコントラストから早くも味の濃さを聞き取れる。第2楽章中間部の壮絶な修羅場の表現力も申し分ない。変ロ長調ソナタ冒頭の美しい歌と展開部の大きな盛り上がりとの対比も見事だし、提示部リピート経過句ほかでの左手トリルの凄みも期待通り。足を引きずるような第2楽章主部と中間部の明るさのコントラスト、楽章終盤でのごく自然なリタルダンドも近年の彼ならではの解釈だろう。ためらいがちな終楽章序盤から喜びの爆発する終結まで、私の大好きなこの名曲の新たな名盤の誕生を喜びたい。82分に及ぶ長時間収録ながら録音はきわめて優秀。雪深い1月の柏崎(ライナー所収のピアニスト自身のインタビューによれば積雪3メートルであったという)に参集した録音チームの皆さん、本当にグッジョブ! シューベルト最後のソナタと対にしてツィマーマンが近年、好んで弾いているもう一つの変ロ長調ソナタ、ベートーヴェン『ハンマークラヴィーア』の録音もぜひまたここで。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/08/25

    これもまたナマで聴いて震撼させられたが、恐るべき集中力と苛烈さを感じさせる演奏。8番は演奏時間60数分の曲で、たとえばネルソンス/ボストン響は約66分と、余裕のあるテンポをとって細部まで細密に描く演奏が近年は増えてきているのだが、このディスクの演奏は58分を切っている。もちろんムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの荒涼たる風景をここに求めるわけにはいかず、あれに比べたら都会的な、洗練された演奏なのではあるが、それでもこの緊迫感とオケのヴィルトゥオジティは凄まじい。長大な第1楽章も全く弛緩することなく、強い表出力をもって奏でられているが、第2楽章アレグレットが5:29で片付けられると、ちょっと皮肉っぽい舞曲楽章という従来のイメージは一変。早くもきわめて緊張した音楽になる。そして都響の全楽員がまなじりを決して突進する第3楽章は5:35。ムラヴィンスキーのどの録音よりも速いし、ウィーン交響楽団とのインバル自身の前回録音6:52より遥かに速い。この速いテンポにもかかわらず、細部まできわめて克明に作り込まれており、中間部での高橋 敦以下、トランペット群の妙技もお見事。80歳を超えて、見た目はかなりお腹が出てきたインバルだが、苛烈な音楽作りに弛みは全く感じられない。来年の第7番「レニングラード」、「幻想交響曲」、「悲愴」も楽しみだ。

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     2017/08/21

    初役挑戦の二人のうち、まずベチャワは文句なし。声もかなり重くなってきたし、クールかつ流麗な歌は女心など分かろうともしない、この「人でなし男」にぴったり。ネトレプコも決して悪くない。大変高名な歌手でもドイツ語がおかしい人は少なくなかったので(実名を挙げて恐縮だが、幾多のアメリカ人歌手はもとより、たとえばグルベローヴァなど)、それに比べれば上出来の部類。ただ、キャラクター的にエルザかと言われれば、合っていないのは確か。この古色蒼然の演出では、演技力を発揮する余地もないし。今回、意外にも不満を感じたのはティーレマンの指揮。きれいな歌を歌う歌手たちばかりだからかもしれないが、流麗に進みすぎていて、どろどろした「どす黒い」感じに乏しい。カラヤンのかつての録音のように、徹底したレガート趣味で、流麗さを磨き上げるというわけでもないし。『ローエングリン』はまぎれもない悲劇だし、相当に「どす黒い」オペラだと私は感じているのだが、第2幕のようにヘルリツィウス、コニェチュニの両悪役が前面に出てくると指揮はとたんに生彩を帯びるものの、清澄な美しさの影に隠れた「どす黒さ」が出せていない。それは結局、演出が無策だからとも言えるのだが。

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     2017/08/04

    たまたまヤンソンス/バイエルン放送響とほぼ同時の発売となったが、私の考えではこちらの方が断然上。シベリウスとマーラーは音楽の志向するヴェクトルが正反対なので、良いシベリウス指揮者が良いマーラー指揮者になれるとは限らないが、ヴァンスカの場合は幸いどちらも素晴らしい。彼のシベリウスは弦の編成を少し刈り込み、もちろん管楽器は倍管なしで、金管やティンパニをよく響かせるバランス、ピリオド・スタイル風にやや速めのテンポで、アグレッシヴに行くところが特徴だったが、マーラーでは百八十度逆のスタイルに変えている。テンポ上げの指示がある第3、第5楽章末尾は申し分なく速くなるが、全体としては余裕のあるテンポで大編成のオケをたっぷり鳴らした演奏。特に第4楽章は12:36と近年では最も遅い部類の演奏になっている。この楽章のタイトル「アダージェット」は「小規模なアダージョ楽章」という意味で、テンポについての指示ではない。その後「引きずらないで」というテンポ上げの指示があるまでの冒頭部のテンポはSehr langsam(非常に遅く)というのが作曲者の意図だというのが私の考えだから、最近流行の8分台、9分台の演奏は間違いだと思うが、ヴァンスカの細密でたっぷりした指揮は私にとって理想的。その他の楽章でもパートの隅々まで血が通い、指揮者の意図が徹底されているのが感じられる。特に第3楽章スケルツォの細かなテンポの切り換え、グリッサンドの克明な処理などは見事と言うほかない。これが近年とみにオケに対する統率力がユルくなったと感じられる(だから昨年の来日公演の9番もさっぱり感心しなかった)ヤンソンスとの大きな違い。

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     2017/06/25

    1995年ライヴのラフマニノフ第3番が驚愕の名演。音・絵ともに貧弱だがネット上には1978年モスクワ音楽院大ホールでの全曲ライヴ映像があり、このCDに付属するDVDには同じ場所での1984年のものとされる映像(全曲のほんの一部)も含まれているから、ラフ3が協奏曲も弾いていた時代のソコロフの中心レパートリーであったことが分かる。ちなみに前者、1978年の演奏について言えば、28歳のソコロフは早くも堂々たる風格だが、解釈としては超個性的な1995年と常識的な線の中間ぐらい。つまり1990年代は彼にとって解釈の深まりと技術的精度が最高のバランスで手を携えることのできる時期だったのだろう。ネット上には1998年ストックホルムでのライヴ(音だけ)もあって、これも圧巻だがテンションの高さではこのプロムス版が一枚上手だ。さて、この演奏、どこが凄いかと言うと、まず彼の大きな体躯から繰り出される、まるでロシア正教会の鐘の音のような「深い音」。第1楽章、大カデンツァの和音がすべて鳴り切っているのには驚嘆させられる。それに加えて千変万化のタッチ。絶妙なテンポ・ルバート。さらにもっと大きなスパンでの緩急自在なテンポ設計の見事さ。たとえば第1楽章冒頭はやや遅めのテンポで始まるが、主旋律が弦に移る主題確保部ではぐんぐん加速し、第2主題でまたガクッと遅くなる。こういうことが全く恣意性を感じさせぬ自然な呼吸でできているのだ。終楽章の短いカデンツァ前の加速から曲尾までなど、仮にインテンポのまま演奏するとしたら、何とも間抜けなことになりかねないが、激烈なテンポの切り換えを伴うこの演奏で聴くと、ああ作曲者の意図したのはこういうことだったかと初めて了解できる。指揮者とオケはあまりの爆演に振り落とされそうになりながら、必死にくらいついてゆく。もちろん一発ナマ演奏ゆえ、ミスタッチ皆無とは言えないが、この曲の求める濃厚なロマンティシズムとグランドマナーな巨匠芸をこれほどの水準で両立させた演奏がかつてあっただろうか。少なくとも私には他に思い浮かばない。
    一方のモーツァルト第23番は「ピアノを弾く哲人」みたいな近年のソコロフのスタイルにかなり近づいた演奏。けれども、終楽章の敏捷な運動性は今の彼にはもう望めないかもしれない。そう言えば、晩年のホロヴィッツがちょうどこの2曲の協奏曲を録音していたのを思い出したが、彼の場合、何を弾いてもいつものホロヴィッツのまんまだったのに対し、世代が違うとはいえ、ソコロフは第1楽章冒頭から通奏低音を担当してオケ・パートに加わるなど、ピノック指揮マーラー室内管のピリオド・スタイルにぴったり合わせている。それでも第2楽章は決して速くなく、味わい深いが。予想通り、ソコロフ本人のインタビューなどは一秒も含まれないが、おまけのドキュメンタリーDVDもなかなか面白い。1966年のチャイコフスキー・コンクールで16歳のソコロフを優勝させたギレリス審査委員長が袋叩きにあったという話はここで初めて知った。クライバーン事件の再来を狙ってミッシャ・ディヒターを優勝させようとした共産党幹部および世論の意向を無視したせいらしい。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2017/06/24

    ティーレマンの指揮はすこぶる好調。強弱、緩急の幅を広くとり、ここぞという所ではタメと瞬発力にものを言わせる、いかにもオペラティックな指揮だが、後期ヴェルディとの相性は極めて良い。近年、ワーグナーではちょっと手の内が見え過ぎる感があるので、むしろ新鮮だ。久しぶりに見たクーラはなかなか渋い感じの中年になっていて、クリスチャン・ラクロワの衣装も良く似合い、見た目に関してはとても好ましいオテロ。しかし、残念ながら声のコンディションはあまり良くないようだ。一段とヴィブラートが増えて、かつての輝かしい声は影をひそめてしまったし、音程が一発で決まらず、しばしば「ずり上げ」気味になるという悪癖も相変わらず。若い男との不貞を疑われるというシチュエーションからすれば、デズデーモナはもっと若く見えた方が説得力は増すだろうけど、レッシュマンの周到な役作りはやはり得難い。いかにもはかなげな従来のイメージよりはもっと芯の強いヒロインになっている。カルロス・アルバレスは2008年(夏の)ザルツブルクの時から、現時点で望みうる最良のイヤーゴだと思っていた。今回は一段と素晴らしい。
    演出はまあまあ。終始一貫暗めの舞台の中で下からの照明を効果的に使うし、個々の場面の作り方に関しては、随所にセンスの良さが認められる。祝祭大劇場の広い空間を持て余しがちな第1幕終わりの二重唱では大きな鏡を有効に使う、第4幕は舞台を区切って中央の一角だけを使うなど。特に終幕は非常にユニークで、そもそもベッドがなく、デズデーモナが死んだかどうかも明らかでない(舞台上に彼女の遺体はなく、飾られたドレスだけが身代わりのように残っている)。最終局面ではオテロ以外の全員が舞台から去ってしまう。ストレートプレイに比べて遥かにアンチリアルな、高度に様式化された劇形式であるオペラならではの演出だ。前年のシュテルツル演出のような奇矯な舞台ではないのでザルツブルク復活祭の観客にとっても問題なく受け入れ可能だろうが、これまでにない『オテロ』の一局面を見せてくれたかと問われれば、口ごもらざるをえないところが苦しいか。その典型が開幕冒頭から舞台に登場している黒い翼の天使(黙役)。主要な場面のほとんどに姿を見せ、第3幕では翼が燃え上がり、最終幕では舞台上に倒れてしまうのだが。この天使はオテロの運命の象徴、あるいはイヤーゴに否定された旧世代の信仰の象徴なのか。たとえば、グート演出『フィガロの結婚』における天使ケルビムの役割は明らかだが、こちらの天使の場合、その存在意義がいまいち曖昧なのが歯がゆい。

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     2017/06/18

    オペラにおける演出の重要性を今更ながら痛感させられる、目覚ましいプロダクション。『仮面舞踏会』はCDもDVDも持っていたが、私にとってあまり興味を惹かれるオペラではなかった。ちょっと面白い作品かもと認識を改めさせられたのはメト2012年のデイヴィッド・オールデン演出だったが、これはそれを遥かに凌ぐ出来。前奏曲の間に夢の中でリッカルドがウルリカからピストルを手渡され、それを頭に当てる様をパントマイムで見せる。つまり、彼が危険な不倫にのめり込み、暗殺の警告を再三、無視するのは死に対するオブセッションのせいというわけ。これだけで、下手をすれば能天気な色ボケおじさんに見えかねぬこの人物が俄然、彫りの深いキャラクターになる。舞台は最後までそのままで、すべてリッカルドの寝室の中。すなわち、あらゆるドラマは彼の心の中で起こったことになる。レナートが初登場シーンからリッカルドにピストルを向けるのも、既に三角関係を自覚している彼にはそう感じられるから。腹話術人形を使って、常に仮装している(ズボン役である)オスカルがリッカルドの分身であることを示すのも秀逸。ウルリカの死の予言は当然、リッカルド自身の無意識の声だ。第2幕では愛の二重唱の最中にレナートがベッドから起き出してくるのが面白いし、第3幕でオスカルがリッカルドの仮装(正体)を明かしてしまう際に男装をやめて女性に戻ってしまうのも理にかなう。刺された後のリッカルドがなぜこんなに長く歌えるという演出家泣かせの課題を鮮やかに解決してしまった幕切れまで、アイデア満載の素晴らしい演出。
    ベチャワはいつも通りスタイリッシュに歌っているが、細やかな心理的綾の表出を求められる演出に応じて巧みな演技を見せる。ハルテロスはまたしても完璧。技術的にも、キャラクターの表現としても申し分ない。ペテアンは100%満足とは言えないが、レナートはイヤーゴのような悪魔的なキャラではなく、ただ愚直で直情的なだけの男だから、これでも構わない。いつもはユルユルで緊張感のかけらもないメータの指揮も演出のおかげで随分、聴き映えがする。メト版での切れ味鋭いルイージの指揮にもさほど聴き劣りしない。前述の名前からも分かる通り、ボストン版による上演。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/06/18

    演出は全く読み替えなく、可能な限りオリジナルのト書き通りに舞台化したもの。「原点回帰」という意味ではこういう舞台もたまには良いかもしれないが、芸がないという批判は覚悟せねばなるまいし、こういう方向ならミュンヒェンのエファーディング演出に及ばない。普通の上演に比べれば台詞は多い方だが、元の台詞が全部そのまま語られているわけではなく、ザラストロのモノスタートスに対する人種差別発言「お前の心が顔と同じく黒いことは知っているぞ」や夜の女王のザラストロ教団に対する非難「あの野蛮人たちの恥ずべき動機」うんぬんはカット。なるほど、こういう台詞がないと論理的一貫性は保たれるが、逆に私は論理的一貫性が無いこと、一方が善で他方は悪と決めつけられないことが『魔笛』の最大の魅力と考えるので、このような恣意的な台詞のカットは残念だ。
    素晴らしいモーツァルト交響曲全集を録音していたアダム・フィッシャーの指揮には大いに期待していたのだが、たとえばパパゲーノとパパゲーナの二重唱「パ、パ、パ」など部分的に秀逸な部分はあるものの、全体としては凡庸と言わざるをえない。現代楽器を持つ若いオケにピリオド・スタイルを踏まえた表現を徹底させるのは難しかったようだ。歌手陣で良かったのは、まずエジプト人らしいエキゾチックな美貌が魅力的なファトマ・サイードのパミーナ。ついで芸達者なスイス人テノール、ザシャ・エマヌエル・クラーマーのモノスタートス。タミーノとパパゲーノは可もなく不可もなし。夜の女王は技術的には及第点としても、悲しみも怒りも一色で、歌にまだ表情が乏しい。『魔笛』に若い歌手が似合うのは、若者たちのイニシエーション物語だからだが、それでも夜の女王とザラストロだけは経験の乏しい歌手には難しい役だと思う。一方のザラストロは絵に描いたような聖人君子でつまらない。この役はもともとそういうキャラではあるのだが、パミーナに色目を使ったりするちょっとした工夫で、もっと深みのある人物にもできるのだ(サルミネンのエロじじいぶり、ツェッペンフェルトの変態マッド・サイエンティストが懐かしい)。ここでも、そもそも責められるべきは演出の無策なのではあるが。さて、毎度問題含みの日本語字幕、今回も特に第1幕フィナーレあたりはデタラメの極みだ。輸入盤にくるみケース(日本語解説)を付けただけで、ずいぶん高い値段で売っている日本の販売会社さん、Cmajorに監修者ぐらい派遣したらいかがか。

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     2017/06/06

    まもなくバイエルン州立歌劇場の『タンホイザー』が日本でも観られるカステルッチの読み替え演出はそれなりに面白く見せつつも、作品の哲学的含意を重視した、なかなか高尚な舞台。冒頭、モーゼが神の啓示を受けるシーンでは空中でテープレコーダーが回り、そこから黒い磁気テープがモーゼのもとまで降りてくる。かつては最前衛だったが、今や時代遅れのテクノロジーになってしまったオープンリールのテープレコーダーを「十二音技法」の比喩と見れば面白い。ユダヤ・キリスト教もヨーロッパ知識人の間ではとっくに時代遅れなわけだけど。モーゼとアロンの出会い以降の場面では背景や紗幕に様々な言葉が文字として投影される。言葉それ自体が避けがたく形象、つまり「偶像」を招き寄せてしまうという最終場のテーマの先取り。アロンが幾つかの奇蹟を演じて見せる第1幕終盤(近未来風だけど実はアナログな、大きなペニスのような機械装置が持ち出される)はすべて紗幕の中で演じられ、モーゼ一人だけが紗幕の手前に出てしまう。彼だけが疎外されているという状況の鮮やかな視覚化。第2幕になるとアロンは磁気テープという時代遅れのイデオロギーで緊縛されて身動きできなくなり、人々は好き勝手に乱痴気騒ぎを始めてしまう。このシーンは白服の人々が黒い墨汁まみれになるという分かりやすいが、いささか陳腐な表象で表現され、全裸の女性(ただし一人だけ)や本物の雌牛(立派な乳房があるので雄牛ではない)は出てくるものの性的なモティーフはごく控えめ。ルール・トリエンナーレのデッカー演出のような露骨なものを期待すると、肩すかしを食う。
    マイヤーとグラハム=ホール(後者はややリリックな声だが)の両主役は理想的な演唱。フィリップ・ジョルダン指揮のオケとコーラスはすこぶる精緻でありながら、オペラとしての「劇的」な面白みも十分。このコンビの近年の好調さがうかがわれる。

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     2017/06/06

    舞台上演するとなると、超巨大編成オケをオケピットに入れるだけでも大変だが(ピットを拡張したようだ)、結果はなかなか面白い。もちろん最後のシュプレヒシュティンメも担当する女性のナレーターが第1部と第3部の前にシェーンベルクが作曲していない原詩(ドイツ語訳)の一節を朗読して状況説明を補足するという工夫があるが、それ以外はすべて原曲通り進行。演出は第1部からすこぶる的確だが、やはり観て面白いのは第3部。普通の演奏会形式の演奏でも鳥肌がたつ場面だが、舞台を埋めつくすゾンビ兵士達の男声合唱は迫力満点。しかも例によって、オランダの合唱団の実にうまいこと(ショスタコの交響曲第13番の合唱で最も良いのが毎度、オランダの合唱団であることが思い出される)。第1部から舞台上にいたヴァルデマール王の分身が実は・・・・だったというのも秀逸な工夫だし、HMVの「商品説明」に写真がある大団円の演出も文句なし。声楽的にも至難なヴァルデマールのパートを演技しながら歌いおおせてしまったブルクハルト・フリッツにまず大拍手。やや太めながら見た目もそんなに悪くない。エミリー・マギーとアンナ・ラーションは相変わらず見事。マルク・アルブレヒトの指揮も精細かつスケールも大きい。

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     2017/06/06

    なぜかまだレビューがないので、遅まきながら一筆。かつては選択肢が限られた『エフゲニ・オネーギン』の映像も今やボリショイからメトまで選び放題だが、これもまた忘れがたい舞台。魅力の焦点はオポライスのタチャーナ。このキャラクターは夢見がちな乙女とはいえ、決して普遍的な人物ではなく、相当にエキセントリックな、狂気を秘めたヒロインだと思うが、そういう人物を演じさせたら、彼女は無敵。モノガローワと双璧をなす名唱だと思う。この二人に比べたらフレミング、ストヤノヴァ、ネトレプコなどは遥かに「普通の人」に見える。対するルチンスキの題名役はニヒルなイケメンで見た目は文句なし。ただ、ややクールに演じすぎていて、声楽的に非力だとは思わぬものの、幕切れの絶望の表現なども「きれいごと」に終わった感は否めない。けれども、後述するような演出の仕様からして、これで良いということかもしれない。指揮は実にみずみずしく、切れ味鋭い。本当に素晴らしい指揮者という感想を新たにした。
    演出はすべてを老オネーギンの回想という「枠」の中に入れていて、白塗りの老オネーギン(もちろん黙役)が狂言回し的に最初から最後まで登場している。熱いドラマが噛み合うというよりは確かに作曲者が名付けた副題通り、「抒情的場面」の並列である作品にふさわしい工夫だと思う。第3幕冒頭のポロネーズを「死の舞踏」に仕立てるのは、最近の流行だが(最も強烈だったのは、ペーター・コンヴィチュニー演出だが、映像作品としては見られない)、ジャケ写真上部およびHMVレビューの写真に見られるように、この振付もそうなっている。ヘアハイムやチェルニャコフほど斬新とは言えぬかもしれないが、オケピット手前の前舞台を活用したスタイリッシュで重層的な見せ方はなかなかの出来と見た。

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