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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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     2018/09/01

    ゲヴァントハウス管の楽長就任内定後だが、実際には就任する前のライヴ。ブルックナー・シリーズではオケの伝統的なブルックナー様式にうまく乗っかってしまっているネルソンスだが、ここでは自分の方から積極的に音楽を作りに行こうとしている。『新世界より』は以前からの持ちネタでバイエルン放送響との録音、録画(2010年)もあるが、わずか7年の差とはいえ、指揮者のアプローチに確実に進歩が感じられるのは心強いところ。テンポはやや遅めで、序曲『オセロ』のみ最後に猛烈に急迫するが、それ以外では力押ししてオケを無理に煽ったりしない。強弱の差は非常に大きく、硬めのバチでティンパニを強打させるなど、ダイナミズムの表現にも見るべきものがあるが、むしろ特筆すべきは抒情的な部分の美しさ。まず第1楽章では、かなりテンポを落として歌われる第3主題のしなやかさに惚れ惚れさせられる(ちなみにバイエルン放響盤と違って、今回は第1楽章の提示部反復なし)。前回録音では第2楽章の素っ気なさがやや残念だったが、今回はより遅いテンポで細やかに歌う。第3楽章トリオの脱力具合もとても面白いし、第4楽章最後の粘り方も一段とスケールが大きくなっている。オポライスの当たり役『ルサルカ』を中心にした前半ももちろん結構。アンコールが『新世界より』と同じホ短調のスラヴ舞曲 Op.72-2だというのも、よく考えられている。

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     2018/08/26

    『チェッリーニ』の舞台は、シュテルツル演出/ゲルギエフ指揮のザルツブルク版もそうだったが、どうして毎度こんなハチャメチャになるのか。作品自体の持つ破壊的なエネルギーがどうしてもこういう演出を要求する、ということなのだろう。もっとも、こちらの人々はルネサンス期の衣装で、読み替えではないのだが。テリー・ギリアム演出は早くも序曲終盤から巨大な張りぼて人形が登場し、客席を巻き込んだ大騒動を仕掛ける(パイ投げのタイミングが絶妙!)。この先どうなるか心配になるほどの派手な出だしだが、その後はモンティ・パイソン的なくすぐりと笑い(教皇庁は激怒しそうだ)を交えつつも、一方ではいかにもロマン派的な芸術家オペラをまじめに展開。本物の大道芸人たちを大挙投入し、相当に卑猥な劇中劇の場面を経て、最後はプロジェクション・マッピングも華々しい第1幕フィナーレ、いわゆる「ローマの謝肉祭」の場面がさすがに見応え十分。
    バルトリ主演『ノルマ』でのポルリオーネや『オテロ』(ロッシーニの方)の主役でもあったジョン・オズボーンはいかにも無頼漢らしい豪快なチェッリーニ。シチーリアの生きの良さも魅力的だが、ザルツブルク版に続いていじられ役フィエラモスカを演ずるローラン・ナウリが実にうまい。マーク・エルダーはいつもながら手堅い。欲を言えば穏健に過ぎるのだが、とにかく舞台上が大変に騒がしいので、指揮はこのぐらいで丁度いいか。上演として二幕仕立てだが、ほぼヴァイマル版に基づくと思われる。

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     2018/08/25

    無敵の超絶技巧も年齢には勝てない。やがてロッシーニほかのベルカント・オペラを歌えなくなる日に備えてレパートリー拡大中のフローレスが選んだのは、かつてアルフレード・クラウスの当たり役でもあった『ウェルテル』。フランス語もうまいし、とても彼に合っていると思うが、以前のようなラテン的な奔放さはやや抑えられ、几帳面な歌なのは、まだ歌い慣れていない役だからか。あるいは窮極のヘタレ男である役そのもののキャラクター(われわれ現代人なら、とっとと女をさらって駆け落ちしてしまえばいいのにと思うのだが)、もしくは後述するような演出のせいかも。一方のステファニーは歌、演技ともに秀逸。読響への客演でおなじみのマイスターはプラッソンのようなフランスの香りは望めないが、劇的な起伏のしっかりした、丁寧な指揮。
    演出はいかにもドイツ語圏に帰って来た『ウェルテル』という感じ。舞台となる閉鎖的なドイツの田舎町を表象するように、舞台は四幕とも壁に囲まれた家の中。人物達は現代の服装だ。ただし、舞踏会帰りの第1幕終わりでは、王女様の小王冠を付けたシャルロット、インディアンの髪飾りをつけたウェルテルの前に照明のマジックで月明かりのカーニヴァル的空間が出現。最後の第4幕では壁が開いて、星のきらめく宇宙空間に地球(!)が浮かぶユートピア的なイメージが見られる。第1幕終わりと同じ髪飾りをつけた仲むつまじそうな老夫婦(もちろん黙役)は、ちょっと分かりやすすぎる「ありえたかもしれぬもう一つの未来」のイメージだろう。娘の結婚相手を親が決めてしまう家父長制の時代(正しく言えば、シャルロットの場合は亡き母との約束に縛られているのだが)が終わって、男女がまず文学のなかで、そしてやがては現実にも自由恋愛、情熱恋愛をする時代のきっかけになったのが、多くの追随自殺者を出したと伝えられるゲーテの原作小説だというのは、良く語られる話だ。とはいえ、このオペラでドイツ文学史あるいは恋愛学の講義を聞かされるのは御免被りたいところ。演出が主張したいのも結局、こういうことであろうが、それをうまく視覚的イメージとして見せることに成功している。

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     2018/08/25

    カウフマンの『オテロ』という前にパッパーノの『オテロ』と呼ぶべきだろう。作品の求めるマッシヴな力の表現とデリケートな心理的あやの描出、この両面をこれほど完璧に満たした指揮は前代未聞。カラヤンやクライバー以上と言っても過言ではない。この演奏自体をHIPとは呼べないだろうが、弦楽器のセンシティヴな弾かせ方や金管の朗々たる鳴らしっぷりなどはHIPスタイルの最良の成果を踏まえていると感じられる。カウフマンももちろん凄い。ドミンゴ以上に声のポジションの低い、バリトナールなテノールだが、それだけにここでしばしば求められる高い音域での絶叫が一段と映える。イタリア・オペラでは最高の適役と言ってよい。声のテクニックを総動員して作り上げたオテロ像だが、演技のうまさも彼の大きな武器。だんだん狂ってゆく第3幕の迫真力など圧巻だ。ヴラトーニャもイヤーゴ役としては低い声の持ち主で、ほぼバスだが、この人も特筆すべき演技力(声の演技と身体・表情の演技の両方)の持ち主。イヤーゴ役は自分の仕掛けた陰謀の成り行きを超然と見ていることが多いが、ヴラトーニャのイヤーゴは彼の手を離れて自ら転がってゆく陰謀におののきつつ巻き込まれてしまっている。指揮者・演出家との共同作業で作られたイアーゴ像だろうが、第3幕の幕切れなど大変面白いし、説得力十分だ。手練手管満載のこの男性二人に挟まれるとアグレスタはやや影が薄いが、ひたすらピュアで一途な彼女の演唱もまた悪くない。
    キース・ウォーナー演出はかつての新国立『指輪』とは全く違って、読み替えなしのストレート勝負。最後にオテロが自らイヤーゴを殺す(ように見える)のがほぼ唯一の新機軸だが、そんなにデコラティヴな装置を使わなくても場面の作り方にセンスがあるし、鏡・仮面といった小道具の使い方もとても効果的だ。

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     2018/08/24

    この曲のディスクでは1987年に録音されたクレーメル以下の面々による盤が長らく決定盤の座を譲らなかったが、ついに世代交代の時が。ヒリオド楽器、特に管楽器の不安定な(もはや「ひなびた」という形容は正しくないだろう)、だがナチュラルな響きが徹頭徹尾、陰影の付与に寄与しているし、ディヴェルティメント的な側面もある曲だが、奏者たちは誰も「気楽に、軽やかに」弾こうとは思っていない。「深く、濃い」表現が徹底して目指されているが、にもかかわらずテンポが遅くならない、終楽章などむしろ速いのは驚くべきことだ。第3楽章スケルツォの強拍ごとにホルンがつけるアクセントなど完全にHIPの感覚だが、オーケストラやアンサンブルもソリストの集合体であり、最初から調和を前提とするのではなく、各パートが存分に自己主張することが大事だというHIPのセンスを全奏者が共有していることが、この演奏のかつてない雄弁さにつながっているのだと思う。イザベル・ファウスト嫌いの私でも、第1ヴァイオリンとクラリネット(ロレンツォ・コッポラ)の巧さには脱帽するしかない。

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     2018/08/24

    このコンビによるマーラー交響曲録画の最終作。このあと最後の第3番のための録画セッションも組まれていたが、シャイーがキャンセル、ネルソンズが代わりに振った。近年のこのコンビの常で、がっちりと構築されてはいるが、伸びやかさに欠け、この曲らしい若々しさや前衛性はほとんど感じられない。カメラワークがとても良いのが取り柄だが、この曲の録画も数多くあるなかで、どうしてもこの演奏でなきゃというセールスポイントはない。マーラー・シリーズの中でも中期の曲(特に第6番、第7番)ほど無条件では誉められないな。この盤ではシャイー先生の語りが復活したが、相変わらずピンボケ。「譜面のメトロノーム表記なんてのは間抜けな指揮者のために仕方なく書いてるんだ」というマーラー自身の発言を知らないのか。葬送行進曲冒頭を新全集版に反してコントラバス・ソロにしているのはなぜ、といった一番訊きたいことについては何も語ってくれない。

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     2018/08/23

    もともとはネトレプコ主演をあてにして企てられたプロダクション。現在の彼女の声を考えれば、ネトレプコが降板したのは当然だが、代役ヨンチェヴァは大健闘、パッパーノも毎度ながら確かな仕事ぶりを見せている。にもかかわらず、新たなクリティカル・エディションに基づくバルトリ主演、アントニーニ指揮による画期的な録音が出た後でも(同じコンビによるザルツブルクでの上演が録画されなかったのは痛恨事だが)、ノルマ(ソプラノ)、アダルジーザ(メゾ・ソプラノ)という旧来の形での上演をまだ続ける意義はあるのか、という根本的な疑問を提起する上演になってしまった。
    現代化演出は残念ながら失敗。キリスト磔刑像を積み上げて作られた森の造形や「カスタ・ディーヴァ」の間に香炉を揺らすといったスペクタクルな効果には、確かに見るべきものがある。しかし、その大道具にしても「ドルイド教とキリスト教は対立関係にあるはずだが」といった当然の疑問に演出家は全く無頓着。そもそもこのオペラの台本には「ヒロインが敵将と通じて子供まで作っているのが、なぜ何年もバレない」といった、この時代のオペラらしい「おおらかな」所があるのだが、「大昔の話だから」ということで、かろうじて了解されていたのだ。それを何の工夫もなく、時代だけ現代に移すと、台本の無理な部分が至る所で露呈されてしまう。演出家は「現代にもそのまま通ずる話」と主張するが、エンディングを少し唐突に変えたぐらいで、この話をそのまま現代化できると思うのは、考えが甘い。なるほどNormaは(恋人、子供に対する)愛と社会や宗教の規範(Norm)の板挟みになるが、ジハードを唱えて自爆テロをする人々はまだいるとしても、宗教上の人身御供を許容する社会がもはや地球上どこにもない以上、現代化にあたってはもっと慎重にプランを練るべきだった。ガナッシは声楽的には文句のないアダルジーザだが、どう見てもノルマより年増に見えてしまうのは、このような映像作品では致命的。この問題がクリアされない限り、従来版の上演はやはり難しいと改めて感ずる。ポルリオーネがノルマからアダルジーザに心を移すという根本設定に説得力が欠けるからだ。カレヤは最初のアリアで危ない箇所があるが、その後は歌に関しては無難。ただし、演技の方は大根なので、土壇場での「改心」などは、はなはだ嘘っぽい。これも台本の欠陥ではあるが、そこを何とかそれらしく見せるのが、演出家の手腕であろう。シェラットはノルマの父親に見える必要があるという「見た目」重視の起用かもしれないが、すでに声の力を失ってしまっていて、歌に関しては論外。

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     2018/08/22

    ロイヤル・オペラでの『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台がはねた所から冒頭シーンが始まる。するとカップルでオペラを観に来ていたフェルランドとグリエルモが「あんたの女性不信には我慢ならん」とばかりにカーテンコールに出てきたドン・アルフォンソに喧嘩を売り、客席から舞台に上がってゆく。フィオルディリージとドラベッラが最初の二重唱を歌うのは本物そっくりに作られたオペラハウスのロビー(クラッシュ・ルーム)で、姉妹が舞台に上がっていってしまった婚約者たちを待っていると、そこへドン・アルフォンソがやってきて・・・・という展開。そこから舞台は「外」へ出て行くのだが(次のシーンは『ハリー・ポッター』シリーズで有名になったキングス・クロス駅か?)、どの場面も明らかに芝居の書き割りと分かるように作られている。他の五人が現代のロンドンっ子なのに対し、オペラから出てきたドン・アルフォンソだけは18世紀の服装だが、第2幕の管楽セレナードの場面になると舞台上にさらに18世紀風の額縁舞台が出現、姉妹以外は全員が18世紀のファッションになる。デスピーナがバーの女主人であるのはピーター・セラーズの現代化演出を思い出させるし、ドラベッラとグリエルモの二重唱の間に彼女が彼の仮装(付け髭だけだけど)を取ってしまうのはポネル演出の映画版と同じ、というように過去の名演出の引用もある。要するに『コジ』が「オペラについてのオペラ」、つまりメタフィクションであることを強く意識した演出。ドン・アルフォンソの例の教訓の歌とともに舞台上に電飾で出るCOSI FAN TUTTEのタイトルは、まもなくCOSI FAN TUTTI(男も女も皆こうしたもの、という意)に変わるが、演出家が主張したいのは、このオペラはたわいないお芝居に過ぎないが、そのお芝居は「貞節」など机上の空論でしかないという恐ろしい真実を暴いてしまうということ。
    歌手陣は六人とも申し分ない。ウィンターズ/ブラウアーの姉妹は見た目上、フィオルディリージが小柄でドラベッラが大柄であることが最初はちょっと気になるが、歌・演技ともにきわめて高水準。クレンツレの渋い狂言回し役も素敵だ。かつては垢抜けないイメージもあったビシュコフがピリオド・スタイルを十分に踏まえて、洒脱かつ心理的綾の表出も見事な指揮を見せているのは驚き。譜面にないヴァリアントを適宜加える18世紀スタイルの歌唱。ほんの少しだがレチタティーヴォの歌詞が書き足されているようで、日本語字幕もかなり思い切って言葉を足しているが、これはこれで結構だと思う。

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     2018/08/21

    アンデルジェフスキと共演したピアノ五重奏曲ももちろん堂々たる名演。特にバロック的なプレリュードとフーガ(第1〜2楽章)に対して第3楽章スケルツォの異化(パロディ)効果を尖鋭に打ち出しているのは目新しいところだ。しかし、弦楽四重奏曲第3番はそれ以上の驚異的な名演。直前に書かれた交響曲第8番、第9番に通ずる劇的なプログラムを持ち、全15曲の弦楽四重奏曲中でも屈指の人気曲だが、ベルチャSQならではの表現主義的な解釈が生きている。「ハイドン風」とも評される一見、能天気な第1楽章からして、微妙な緩急の変化と不協和な響きの強調で早くも不穏な予感を漂わせる。ピアニッシモとスタッカートを徹底させた第2楽章中間部も出色。来るべきカタストローフにおびえる繊細な心の震えを余すところなく描き出している。そしてついに第3楽章では凄まじい暴虐の到来。悲嘆に暮れる第4楽章を経て、第5楽章はちょうど第8交響曲終楽章のような、諸手を上げて喜びは歌えないけれど、とりあえず痛みを抑え込んで終結を迎えようという音楽。第1楽章の楽想が戻ってこようとするが、第4楽章の悲歌に打ち消されてしまう。ベルチャSQはかつてなく遅いテンポをとって、デリケートな音楽の襞を丁寧に描いている。パシフィカSQの清新かつ鮮麗な全集の登場で、さすがに晩年の諸作(第12番以降)では「深み」が足りないものの、それ以外の曲については、もう他の演奏の出番はあるまいと思われたショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲だったが、まだまだ新たな解釈の余地があることを見せてくれた。

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     2018/08/20

    ソプラノ歌手は違うが、昨年の来日公演でも大変感心した演目。ロイヤル・フィルとの1999年録音と基本的なアプローチはそう違わないと思うが、さらに作り込みが精緻になっている。楽想に応じてテンポを細かく動かしつつ、有機的な楽器間の受け渡しに神経をつかった、まさしく「大きな室内楽」のようなマーラー。第4番をナチュラルで楽天的な曲と考える人にとっては、細かな作り込みが煩わしいと感じられるかもしれないが、私のこの曲に対する見方はその正反対。キリスト教に対する露骨な悪意の盛られた、アイロニーたっぷりの悪魔的な作品と私は考えるので、こういう演奏こそまさに大歓迎。来日公演で面白かったのは(私が聴いたのは京都コンサートホールだが)、第3楽章末尾のクライマックスでソプラノ歌手が舞台に出てくるのは定番通りながら、指揮者の横までは出てこず、打楽器の横で、いわばオーケストラの一つのパートとして歌ったこと。日本公演に同行したマリン・ビストレムはこの曲の終楽章を歌うには不似合いな、かなり強い声のソプラノ(ドンナ・アンナ、タイース、サロメなどを持ち役にしている)だったからかもしれないが、この録音でもソプラノ歌手の声はやや遠くから聴こえてくる。ユリア・クライターはカマトトぶったり、ズボン役風に声を作ったりせず、ごく素直に歌っているが、これはこれで正解。この楽章の「毒」は歌詞そのものとオーケストラ・パートに仕込まれているからだ。第1楽章の鈴の楽想が戻ってくるところで、ガッティは一気に加速し「警告」するように強く鈴を鳴らすが、まさに楽譜の指示通り。

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     2018/08/19

    ニールセンとツェムリンスキーは2017年10月の日本・デンマーク外交関係樹立150周年記念演奏会からの曲目(この2曲の間に清水和音をソリストとするグリーグのピアノ協奏曲が演奏された)。レーガーは11月のいわば「ベックリン・プログラム」からの一曲(他の曲目はラフマニノフの交響詩『死の島』とカティア・ブニアティシヴィリをソリストとするチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番)。ほんらい統一性のある二種類のプログラムが分断されてしまったのは残念だし、特にブニアティシヴィリとの共演はどんどん先に行きたい独奏者ともう少し粘りたい指揮者が丁々発止のバトルを演ずるスリリングな出来だったが、アーティストの専属関係から見ても協奏曲を入れるのは無理か。
    この曲目の中では『人魚姫』が抜群の出来だ。開始まもなくの抒情的な旋律の歌わせ方からして、拍の強弱を目立たせないようにして、つややかに(悪く言うと「のっぺりと」)弦楽器を歌わせる上岡節が早くも顕著。一方、管楽器の浮き立たせなど色彩的なオーケストレーションの生かし方も巧みだし、ドラマティックかつ悲劇的な緩徐楽章である終楽章の美しさは格別。初演前に作曲者が行った第2楽章の大幅なカットを復元した版でも録音されているが(ストゥーゴールズ指揮のONDINE盤)、これは従来の譜面による演奏。『ベックリンによる4つの音詩』は珍しい曲だが、残念ながら曲自体が類型的かつ凡庸。同じ『死の島』の音楽化(レーガーの第3曲がそれ)にしても、ラフマニノフの方が断然、上手だと思うが、ラフマニノフ『死の島』はチャイコフスキー『悲愴』とのカップリングで出ることになった。レーガーのみ最後に拍手入り。

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     2018/08/13

    ちょっと『ルサルカ』を思わせる妖精と人間男性の悲恋物語。魔女(アルト)、水の精(バス)、三人の妖精たち、など声の配置も似ているが、実は1901年初演の『ルサルカ』はフケーの『ウンディーネ』、アンデルセン『人魚姫』などと共に1897年初演のハウプトマンの原作戯曲も下敷きにしているからなのだ。ただし、大きく違うところもあって、『沈鐘』の男主役は芸術家(鐘作り)で妻子持ち、遊び人タイプでは全くない。つまり、異教の神とキリスト教の間で引き裂かれる『タンホイザー』の主役みたいな芸術家オペラでもあるわけだ。まずハンブルクでドイツ語版が初演され、それからイタリア語台本が作られてスカラ座に持ち込まれたわけだから、ストーリーが細部を除いて原作戯曲通りなのは仕方がないところだが、オペラ化にあたってもう少し大胆な脚色がなされていたら、と惜しまれる。たとえば、オーケストレーションは期待通り色彩的で聴き応え十分だし、主役男女(テノール/ソプラノ)の聴かせ所もクライマックスの第3幕を中心に不足しないが、かなり長い第1幕はストーリー的にも散漫で、『ルサルカ』の「月に寄せる歌」のような「つかみ」の名旋律を欠くのが、初演後まもなく忘れられてしまった原因ではないかな。
    珍しいオペラの発掘と映像ソフト化で知られるカリアリ歌劇場だが、2000年代収録の『アルフォンソとエストレッラ』『オイリアンテ』『ハンス・ハイリング』などではオケがかなり頼りなかった。しかし、今回は遥かに厚いオーケストレーションの作品であるにも関わらず、飛躍的にクオリティが上がっている。悩める主人公のエンリーコ(原作戯曲のハインリヒ)にはかなりスピントな声が求められるし、妖精ラウテンデラインは高い音域のソプラノで、軽やかな妖精的な歌と人間的なしっとりした情感の切り替えが求められるが、どちらも及第点以上。演出は具象的で分かりやすく、要所要所でのプロジェクション・マッピングの投入も的確だ。初めての映像化としては申し分ないソフトと言える。

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     2018/08/11

    確かに力作だとは思うが、主役の男女が共に死んでしまうという悲劇的なストーリーもあって、あまり好んで観るオペラではなかったのだが......またしてもヘアハイム・マジックが炸裂。作曲者チャイコフスキー自身を登場人物の一人、エレツキー公爵と重ねているが、エレツキーはリーザの婚約者ではあるものの、同性愛者の彼が本当に愛しているのは、実はゲルマン(肉体関係もあり)というのが今回の「裏設定」。全く歌のパートのない演技だけの部分ではスタンドインを起用しているが、エレツキー/チャイコフスキーはほんらい出番のない箇所も含めて全場面に登場し、狂言回しとしてオペラ全体を仕切ってゆく。たとえば第1幕幕切れのラブシーンは彼が居ることで微妙な三角関係の場面に変容するし、第3幕でのリーザのアリアも彼が居ると二人共通の苦悩を歌っていることになるなど、何とも面白い。若き日の伯爵夫人=フォン・メック夫人の肖像画とエカテリーナ女帝の肖像の切り換えから始まって、チャイコフスキーの自己表象である「籠の鳥」(ジャケ写真)と第2幕の牧歌劇、さらに第3幕のトムスキーの歌との関連付け、伯爵夫人、リーザ、そしてチャイコフスキーの命を奪うことになる小道具「グラス一杯の水」に至るまで、細かい部分が実に良く出来ているのには毎度ながら感心させられるが、第2幕に登場してくる女帝自身がゲルマンの女装なのは傑作。
    ゲルマン役のディディクは前の録画(2010年リセウ)に比べるとかなりお腹が出てきたが、輝かしい声は健在。スラヴ系テノールにありがちな発声上の癖がなく、美しいベルカントなのもありがたい。リーザのアクショーノワはこの役にしては細身な声だが、歌・演技ともに素晴らしい。伯爵夫人(ディアドコワ)はドスを効かせ過ぎない音楽的な歌唱。普通の上演に比べて遥かに出番の多いエレツキー役のストヤノフももちろん非常に達者だ。ヤンソンスは作品の重苦しさ、暗さを強調せず、端正にまとめているが、演出がきわめて雄弁なので、これもまた賢明か。

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     2018/08/09

    第6番、第7番の収録は済んでいるはずだが、指揮者としては意に満たぬところがあるのだろう。次の第4番、第11番が先に出てきた。第11番は昨年の来日公演の圧倒的印象が忘れがたいが、来日時のインタヴューでもネルソンスは標題交響曲として一段低く見られがちな第11番がいかに重要な作品かについて熱弁をふるっていた。「1905年」という表題は建前に過ぎず、1956年のハンガリー動乱を契機に「圧制者」(この時代ではまさにソ連軍)に対する怒りをショスタコーヴィチが改めて表明した作品というのが近年の解釈だが、この演奏もそういう解釈に従っていると見て良いだろう。第2楽章末尾の「一斉射撃」に向かってひたすらクレッシェンドしてゆく前半も見事だが、後半の出来はさらにそれ以上。第3楽章の嘆き節は心に沁みるし(この指揮者、こういう緩徐楽章が本当にうまい)、終楽章冒頭、革命歌の引用である第1主題を思い切って遅いテンポ、強いアクセントで始めているのは、第5交響曲終楽章を作曲者指定のテンポで始めた時のようなパロディ効果が歴然。ショスタコ先生の怒りがふつふつと沸き上がる終楽章後半もまた壮絶。
    第4番はコンセルトヘボウのサイトで2014年のライヴ録画を無料で見ることができるが、最新、2018年の収録であるこの演奏は一段と彫りが深い。他にネゼ=セガン/ロッテルダム・フィル、プレトニョフ/ロシア・ナショナル管と同時期に計三種類の新録音が現われたが、これが断然、他を引き離している。第1楽章は冒頭から緊張感みなぎる出だしだが、プレストで始まるフーガの前の部分がかなり速いのが特徴。つまり「唐突」感を演出するのではなく、このとんでもない部分が楽章全体の構図にうまく収まるように配慮している。第3楽章は冒頭の葬送行進曲と終結部が遅いのに対し、アレグロ部、特に軽音楽的な展開になってからは速い。しかも対位旋律を抜かりなく聴かせて、不穏な感じを演出している。クライマックスでのティンパニの強打、金管の咆哮は凄まじいが、最後の部分では清澄なチェレスタを響かせつつも、低弦を強めに押し出して、重苦しい余韻を強調しているのは目新しい解釈。この大傑作の最右翼と言うべきディスクであるのは間違いない。

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     2018/08/09

    フレミングの元帥夫人「引退」公演の録画。陰影を付けようと力むあまり歌の美観を欠く箇所もなくはないが(たとえば終幕三重唱の冒頭など)、全体としてはさすがの貫祿。声の衰えをさほど気にする必要のない役なのも彼女に幸いしている。役柄の作り方は古風なものだが、ショヴァルツコップ・コピーもここまで堂に入ればご立派だ。同じく、これでこの役は「卒業」だというガランチャのオクタヴィアンは大変素晴らしい。男装姿もりりしいし、女装してオックス男爵を翻弄する第3幕も鮮やかな出来ばえ。グロイスベックのオックスは相変わらず見事。類型的な三枚目ではなく貴族的かつスタイリッシュな演唱だが、すこぶる魅力的。エーデルマン以下、私の知る限りでは最高のオックス男爵と言って差し支えない。モーリーのゾフィーはそもそも若い娘に見えないし、気の強さはうかがえるが、新鮮さがないのが残念。欲を言えば「もう一皮」むけてほしいヴァイグレの指揮はいつも通り手堅い。
    カーセンの演出は基本的には2004年ザルツブルク版通りだが、第3幕の舞台は同じく娼館の一室ながら、全裸の男女の登場は無く、保守的なメトの観客に配慮したようだ。幕切れに登場してくる「元帥」率いる兵士の一団は元のままだが、カメラが「引き」気味であることも手伝って、かつてほどのインパクトはない。カーセン演出のなかではもともとそんなに過激なものではないと思っていたが、今や立派に「クラシック」の枠組みにおさまった。それでもヴェルニケ、クプファーと並んで時代を20世紀初頭に移したものでは代表的な名演出だと思うけど。

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