トップ > My ページ > ひのき饅頭 さんのレビュー一覧

ひのき饅頭 さんのレビュー一覧 

検索結果:46件中1件から15件まで表示

%%header%%

%%message%%

  • 13人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/10/16

    シューベルトの「怖さ」とは何だろうか?人は「希望」とか「憧れ」を持っている。普通はそうだ。しかしその「希望」とか「憧れ」が現実と軋轢を生ずる場合、現実と折り合えない場合、現実とかけ離れている場合、そこには必ず現実との摩擦が生じる。それはどうしても現実との歪みとして顕在化してしまう。人同士の関係性とか、システムの因果関係で吸収とか処理できる程度の歪みなら問題にはならないが、現実との軋轢が大きいほど、それは吸収できず、増殖する。その歪みは人の理性やシステムの中では、必ず憎悪とか悪意といった形で表出してくる。それは「希望」や「憧れ」を侵食し、醜く変形させてしまう。「悪意」が実行されてしまうと、「希望」や「憧れ」は消失し、2度と復元されることはない。ギリシャ神話のパンドラの箱の逸話、人の世に巣食う全てのおぞましきもの数々が箱から抜け出たあと、一番底に「希望」が残っていたのは、その「戦慄すべきおぞましき悪意と絶望」の数々は全てが「希望」から生じたものだからだ。だから「希望」は一番「底」に張り付いていたのだ。人はそのような現実を社会で数多く見て学習するのだが、それでも人は「希望」が捨てきれない、それは人の業そのもの、ある宗教ではそれを「原罪」と呼ぶ。それがパンドラの箱の逸話の正体だ。シューベルトは音楽の世界で、それを正面から見据えて、それでも「希望」と「憧れ」を歌い続けた極めて業の深い作曲家だ。20世紀のシューベルト演奏はそれでも「合理的」なものをシューベルトの音楽に求めようとした。まだ20世紀の前半の時代は、合理的な評価がそのまま通用する時代で、それは演奏家の精神や活動に大きな影響を与えている。ヴァントやブレンデルなどの極めて「合理的」な演奏が極めて優れた演奏になったのは当然の結果だったのかも知れない。しかし、今世界は全く「合理的」ではない。いや、「合理的」であろうとすることは、現実との軋轢を生み、悪意に満ちた悲劇を降臨させてしまうことを、特に20世紀後半以降、我々はあらゆる局面で目撃している。日常生活でももちろんそうだ。現在のクラシック音楽の状況はまさに不合理そのもの、無能がコネで幅を利かす時代。その不合理は、現代の演奏家の活動にも影を落としている。「合理的」なものではなく「不合理」なシューベルト演奏。観念的な懐疑ではなく、構造とその構成を極めて高い技術を使って丁寧に洗い直すことで、シューベルトの「不合理」を提示してしまう演奏。不合理に苦しむ様々なものが、その不合理を憎悪するのではなく、その不合理が様々なシステムを支えるために機能する矛盾を見つめる視点。そこから表出する何か。現在の本当に実力のある音楽家は、そのようなものまで「音」にし始めている。ポール・ルイスは現在「世界最高のシューベルト弾き」と評価されている。このようなシューベルトを、これほどの高い技術で奏でる初めてのピアニスト。しかもブレンデルを中心とした、これまでのシューベルト研究の成果を高い次元で身に着けている物凄い逸材。彼のこれまでの録音も最高レベルをいくものだったが、今回は本当に驚かされた。20世紀的な視点でルイスのシューベルトを聴いていたら違和感を感じてしまうが、18番が再録だったため、私自身の先入観と間違いに気付くことができた。18番の深まりは素晴らしく、これまでリヒテル、ブレンデル、アファナシェフでも上手くいかなかった18番だが、20世紀的な視点で、この曲を表現することは軋轢を生じてしまい、曲の表層で格闘するだけの結果に終わることを、この演奏は初めて教えてくれたように思う。海外で一足先に入手して本当に良かったと思った一枚。

    13人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 22人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/02/02

    ネットでは難しい文章は敬遠される傾向にある。気分だけわかれば良い記事が求められる傾向が強い。それは音楽でもそうだ。その傾向は強くなってきていると思う。でもそれでいいのだろうか?自信がないとき、人は気分のみで物事を判断しようとする。でも、気分に支配されていて、音楽家のメッセージ性の強い傾向を持つ楽曲を理解できるだろうか?それは気分次第で別のもの置き換えられて、そのまま誤解されるか、もしくは無視されてはいないだろうか?基本ショスタコの楽曲は楽器の音をそのまま使う。ブレンドした響きより、生の響き、溶け合う響きより、線が明瞭さのほうが大切。そのように意図して作曲されている。例えば交響曲第2番では27声もある対位法を駆使する。私見でなくともそれは線の音楽と思う。そうでなければ「24の前奏曲とフーガ」という音楽をショスタコが書くことは無かっただろう(ショパンは「響き」の人だった(無自覚な演奏が多すぎるけど)だから前奏曲しか書かなかったのだが)。特にこの曲は多層性に満ちた複音楽で、きれいなだけとか、左手が伴奏、縦の線が合わないなどという勘違い演奏は、その時点で失格だと思う。例えば交響曲演奏でも相当に気になるのだが、ショスタコの音楽はリズムがいい加減に扱われる演奏が相当に多い。名演とされているものの9割はそうだ。もっと多いかも知れない。ショスタコとフェインベルグが、ショスタコの交響曲10番をピアノの連弾で行い「レニングラードのオケが私たちくらい巧くやってくれればいいのだが」といったのは、表層を巧く演奏しろと発言したのではなく、リズムとか、線の表出、音符の長さを正確に扱ってほしいという要求だったことは、録音を少し聴けばわかる。だから私は交響曲演奏では、リズムが正確なインバルとショルティとケーゲルが結構気に入っている。その他ド迫力の演奏は細部が潰れて、多層性が単純化されており、乗れない。当然だが構造がぶっ飛んでいる演奏は論外だ。今まで作品87ではシチェルバコフの演奏を好んでいた。リズムや音の長さを正確に扱い、テンポが安定し、ことさら煽り立てないので、細部が良く聴き取れる。複音楽としての多層性を良く表現できている。これは優れた安定した技術が無ければ難しい。以上の理由でリヒテルやニコラーエワでは楽曲自体が要求してくるものを満たしているか?と問われれば、素晴らしいと認める演奏もあるのだが、保留を付けざるを得なかった。ショスタコの自演の選集はさすがに素晴らしいが、細部まで聴き取れる録音ではない。そこでこの録音。これまでテクストの再生のレベルに留まっていたこの曲を、視点を持ったテクストの解読のレベルにまで持っていっている。全く素晴らしい仕事として評価したい。
    「視点を持ったテクストの解読レベル」このレビューではそれを描写するつもりでした。でも私程度では無理です。ごめんなさい。ほんと音楽が表現できるものって凄い。言語化の領域を軽々と超えてくれる。やはりこの曲は20世紀の大傑作です。

    22人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/10/26

    今回は限定された興味の範囲でのレビューです。最初に断っておきます。優秀録音とは何か?録音には多くの操作が加えられていることが多い(露骨なデジタル処理は論ずる以前の論外だが)。例えば、一聴すると自然なアコースティックに聴こえるが、長時間聴くと聴き疲れする録音。編集過多で揺らぎ成分が飛んでいるトホホなものもあるが、実はもっと深刻な問題がある。それは「刺激成分」。これを操作すると、表層が良く聴こえるように錯覚してしまう。構造を理解できず、かつこの成分に無自覚な者は、「刺激成分」が入っていない録音では、たとえそれがアコースティックな音の本質を見事に捕らえた録音であっても、その良さが理解できないという事態が起こってしまう。慣れと無自覚というものは本当に怖ろしい。残念だが、アコースティックな音を知らなければ、この「刺激成分」を見破ることは難しい。そのような刺激成分のない、クリアで自然な音場を収録できてこそ、本物の優秀録音だ。TACETレーベルは、本物の超優秀録音を提供してくれる世界最高のレーベル。これほど録音が凄いと、奏者の癖や弱点は明確に「音」に還元される。だからこのレーベルの音楽家の実力は驚くほど高い。ただしあまりにも音楽への要求レベルが高いと、楽器をある程度専門的に追求し、かつある程度の技量を有する人でなければ、それを理解すること自体が難しくなる。理解すること自体に訓練が要求される。世界最高レベルとはそうゆうものだ。結果このレーベルがオーディオマニアから絶大な信頼を得ているというのは、なんとも複雑だが、仕方が無い。録音もここまで凄いと、僅かな楽器の鳴りのバランスの微妙な狂いまで明確に再現されてしまう。そのためマスコミ等で「世界最高」などと騒がれている程度のレベルの低い「プロ」、音楽以外で武装しないとやっていけない演奏屋さん達が、このレベルで録音すると、とても持たない。最初のフレーズ、いや最初の1音でボロが出る。それを誤魔化すためにデジタル技術や刺激成分を悪用する。それが現実だ。「優秀録音」その本当の凄さの理解は難しくても、当然だがそれを聴くこと自体は敷居の高いものでは無い。それは聴いているだけで心地よい。生々しいのに、いつまで聴いていても聴き疲れない(「刺激成分」が入ってないので当然なのだが)特有の心地よさは、体験するだけの価値があるし、知っておいたほうが良い。ところでこのパルティータの録音、実は音楽評論家(音楽評論屋)連中から評判が悪い。それは仕方が無い、仕事で「刺激成分」の入った音源を無理矢理聴いていると、無自覚のうちに聴覚がズレてしまう。このパルティータは、まるで音楽家のプライベート録音のように、自分がやりたい音楽しかやっていない。それは構造しか弾かないという(録音が超優秀なので構造を誤魔化すと一発でわかるためだろうか?)極めて高度で厳しいものだ。いわゆる「話題」とか「お祭り騒ぎ」とは全く別の地点にある演奏として、大変好ましいものだ。この録音に堪えうる高度な技術も素晴らしい。入手するなら必ずSACDで入手することを薦める。CDの音質も超優秀だったが、「次元」が違う。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/10/17

    ハフの凄さに圧倒される。表層的な凄さが圧倒的なのではない。ハフの技巧はその圧倒的な指使いだけではない。ペダリングの分野でも超絶的に素晴らしい。とにかく絶妙かつ精妙。その音色の操作技術には毎回感心させられる。ブラームスのチェロソナタにはロストロとゼルキンのちょっと信じ難い、本質だけを的確に射抜いた抜群の名録音があるが、方法論を、楽譜の可能性を開拓する視点から論じた場合、明らかにハフのピアノはその名録音を凌駕している。ブラームスの「意図」をここまで「音」として提示できた録音は無かったのではないかと思う(ピアノパートの話です)。それは超絶的な技術の高さで初めて実現できる世界で、これを超えることは無理かもしれないと思わせるほどの高いレベルだ。ハフとイッサーリスのコンビの録音は、何故か全てが最高水準を抜く凄いものばかりだ。ハフはチェロの響きまで計算して最善のペダリングを行い、総体としての響きをブレンドし、しかも踏みすぎない、過剰な響きが一切ない。まさにべダルの超絶技巧。これほどのサポートは他では聴けない。普通レベルの高い演奏家同士のコラボになると、お互いの視点の微妙な違いや楽曲や音響、構造に対する考え方の違いまで音になって出て来るため、全体のまとまりは疑問に思えるケースが多いのだが、このような組み合わせならその心配は無い。「あれ?この録音が推薦されている?イッサーリスなのに??」と思った人もいると思う。特に「音」のみで勝負する演奏が好みの人なら、「神」とか「受難」とか、「物語」という外側からの装置を使用して音楽に取り組もうとする日頃のイッサーリスの姿勢には疑問を持つ人が多いことも事実だ。しかし音楽とは不思議なもので、単独では「?」でも、相性によって神懸り的に化けるケースがある。その一つのケースがハフとイッサーリスのDUOだ。まあハフのコンポーザーとしての音楽性が超絶的に凄いのが原因なのだが。イッサーリスも自分の適性に合う仕事をすれば本当に素晴らしいのにねえ。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/09/17

    例えばチェリビダッケは「バルトークの複雑な変拍子はルーマニア語で昔話をしているリズムと一致する」と発言していたそうだ。彼にはそう聴こえたのだろう。この意見には一理ある。例えば4分の2拍子とは一般的に「強、弱」のパターンを持つことを暗喩しているのだが、バルトークの場合、音価が偶然に合うから4分の2拍子の指定になっているにすぎない。例えばバルトークの作品を国際基準での様式で、明解な4分の2拍子の「強、弱」のパターンで、ドイツ音楽でもやるように規律化することはどうだろうか?特にバルトークの場合は、楽譜に拍子の記載があるからといって西洋音楽の伝統的な拍子感覚で解釈すると音楽にならない。表拍と裏拍の差を明確にして作品全体を仕上げる西洋音楽の伝統的な拍子感は、世界中の音楽と比較すると、実は特殊で、例外的な少数派に属する。2拍子系と3拍子系が交互に出現したり、同時進行することは珍しいことではない。民俗音楽に深い造形のある作曲家(ショパン、リスト、ヤナーチェク、ザイグンなどなど)の楽譜を読むとき、強拍の位置が別の拍子系で数え直されるケースもある。この程度の知識を持って作品と接すると、結構面白かったりする。ただし、演奏家によって「視点」や「立場」は様々なので、民俗音楽的な作品は民俗音楽的に演奏されなければならないとは全く思わない。しかし作品の持つ拍子の性質はある程度認識されるべきだとは思う。音楽は「快楽的」とか「感覚的」のみで説明できるものではない。「音楽」の面白さの、その理解の幅を広げるには、音楽的な「視点」は知っておいたほうが良いと思う。さて、ここまで読んで戴いた方は気が付いたと思う。「カルミナQの演奏は少し違うんじゃない?」正解です。カルミナQは個々の音の表現力を限界まで追求しようとするスタンスでバルトークにも取り組んでいる。国際基準の様式を崩してでも、音の表現に拘る。結果、西洋音楽の伝統的な拍子感では説明の付かない、複雑な拍の揺らぎが音になって出てくる。機械的ではない、身体感覚的な拍の処理。バルトークが指定する拍の複雑な事情を、彼らなりに見事に再現し、西洋音楽的とも民俗音楽的とも異なる「身体感覚としての音楽」を触知することに成功している。バルトークの持つ独特な拍子の性質が、彼らなりの方法で再現されているところに私は強く惹かれる。このような視点の音楽をやらせると、カルミナQは現代最高のユニットに間違いないだろう。SACDが手に入るうちに買っておいたほうが良い。希望としてはSACDで全集が出てくれれば最高なのだが。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 9人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/27

    アルテミスQを推薦するなら、このリゲティを挙げておくべきだろう。例えばアルディッティQは精緻に音を並べて、この曲の豊かさな世界を聴かせた。アルテミスQは、慎重に響きを重ね、この曲が弦楽四重奏における響きの可能性を極限まで追求したものであること、それはユニットの能力次第で、響きの可能性を際限なく開拓できることを提示することに成功した。この曲の代表的な名演の1つ。アルテミスQから1枚だけ選べといわれたら、私なら躊躇なくこのリゲティを選択する。ところでアルテミスQはABQ以降の「世界最高」を期待されている。この「世界最高」とは何か?ABQの凄かったところは、例えば1000人以上入る巨大ホールで、隅々まで音を響かせて、自分達の解釈を聴かせることができたことで、抜きん出た存在だったということだ。表現力が凄いとか、音楽性が高いとかとは違った領域、音のデカさで「世界最高」だったということだ。でも、その結果、ABQは微細なニュアンスが硬直し、内容や音楽の深みを描く点では他のユニットに遅れを取った。アルテミスQはマネジメント的にそのABQの抜けた穴を埋める存在として、現在最も期待されているが、さて、弦楽四重奏曲のコンサートは基本ガラガラである(欧州でもそうです)。当日余裕でチケットが取れる(私は助かるけど)。300〜500人程度のホール(それでも空席できるのだが)で最良の音楽を聴きたいなら最適のチョイスだ。アルテミスQも超巨大ホールに照準をあわせず、600〜800人(それでも物凄いことなのだが)程度のホールの隅々まで自分達の音と解釈を完璧に届けるくらいの音楽を作ったほうが、より柔軟な演奏ができると思うのだが。その点、現在のほとんどの若手は適正な空間での演奏を前提に活動をしている。弦四では利益が上がらない、利益を追求しないからマネジメント的な拘束が少なく、比較的自由な活動ができる。現在最高最良最強の音楽体験をしたいなら、弦楽四重奏のコンサートを薦める。最良のコンディションのときにオケやピアノが聴かせる次元の音楽に遭遇する機会は、残念ながら少ない。しかし弦四のコンサートに行けば相当に高い確率で次元の高い音楽に遭遇できる。最近の技術の高い若手の演奏会は本当に凄い。話が相当に逸れてしまい申し訳ない。それでは弦四で聴ける最高に次元の高い音楽とはどのようなものか?アルテミスQの録音なら、まずこのリゲティを聴いて欲しい。

    9人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/26

    ペーターゼンQはドイツ・オーストリア圏でABQを超えたと言われている。これに嘘はない。芸事の世界では、先達と並んで「まだまだだねえ」、超えて初めて「並んだね」と評価される。信用できる人々が「超えている」と指摘する場合、これは完全に凌駕している場合が多い。現在、最高のベートーヴェン後期作品集を聴かせてくれるユニットとして指摘する場合、私ならペーターゼンQとアウリンQを挙げる。個人的にはアウリンQの音楽要求度の高さが好きなのだが、彼らの演奏は、この作品集に娯楽とか感覚的快楽を求めたいと思った人々を必ず戸惑わせるだろう(それほど徹底的に音の意味だけを追求しているユニットで、本当の「万人向けではない」音楽だ)。ペーターゼンQの演奏を聴いてまず驚くのは、その音色。美しい音色だが、ただの美しさではない。曲の世界を表現するために吟味されたベートーヴェンの音。ただし作品18の演奏は、見事だし立派なのだが、様式的に行き過ぎ。余談だが、作品18を18世紀の音様式を現代楽器に翻訳し、それを現代の響きと現代的なアプローチで再現する意味を模索した演奏なら、今ならミロQを薦める。現在のユニットで後期を聴くならペーターゼンQは文句無く推薦できる。大フーガが凄い。6つ目の大演奏としてお薦めだが、まず一押ししたいのが12番。12番は抜群の技術が無ければ聴かせ難い曲。ABQの12番は彼らのベートヴェン演奏のなかでも16番と並ぶ最高の出来だったが、魅力的に聴かそうとして、感覚的音色を選択し、それはそれで魅力的だが、ペーターゼンQはもう一枚上手だ。決して線をおろそかにしない。その立場に立って最善の音色を選択していることがわかる。特に冒頭の和音。独特の不協感を出しながら、うねっているのだが、濁らせない絶妙のバランス。しかも響きが干渉し合う事なく、豊かに響く。この冒頭だけで、この楽団がドイツ・オーストリア圏で屈指の実力を持つ団体であることがわかる。例えばライプチッヒQのような、運動機能は優れているが軽い音捌きではなく、手ごたえがある芯の鳴るような音。しかも重くない。それに十分な響きを与えるが、決して響きすぎない。現代のユニットの持つ最強の技術を聴くことができる。聴かせる音楽としての意味を問うペーターゼンQの凄さを聴きたいなら、案外難しい曲が良いようだ。斬新で個性的、しかも音楽的意味に裏付けられた音出しに支えられた抜群のユニットですね。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/09

    戦略的で意欲的な演奏を提供してくれる素晴らしい団体。「情報量」の領域で弦四の概念を変えてしまったスーパーユニット。様式形式を遵守する(ここまでやると嫌がらせのレベルだが(笑))にもかかわらず、その枠の中で可能性をしゃぶりつくすかのように好き勝手をやりつくす。「伝統」とか「理論」とかを重視することで、クラシックの伝統を重んじていると錯覚している聴き手達を徹底的にムカつかせる痛快なユニット。誰かが「チョイ悪」と書いていましたが、まさに本質を射抜いた適切な指摘だと思う。徹底的に知を揺さぶりをかける精神のアウトロー。彼らは常に「視点」を持つ。これが素晴らしい。バルトークもショスタコもバッハも他の団体では絶対に真似できない自由で高度な演奏を聴かせてくれる。現在自分達のやりたい録音が比較的自由にやれるのは、室内楽ではエマーソンQとミロQ(彼らは自分達で勝手にやってるだけだが、そこが素晴らしい)ぐらいのものだ。この北欧の作品を集めたコンセプトアルバムも素晴らしい。白眉はニールセン。これは「秘曲」で紹介されているが、これは良くない。一部の暗号を組み込んだ儀式としての音楽は別として、「秘曲」とはだいたい凡庸な曲が多い(だから秘めなければならないそうだが)。この曲は違う。『アンダンテ・ラメントーソ』はニールセンの最高傑作の一つ。北欧音楽の最高峰を行く傑作。構成、構造、原理、実に良く書けている曲です。しかも演奏が素晴らしい。要素を特化して独自の表現を聴かせたバルトークやウェーベルン、一時期おとなしかったが、理屈は完璧だがやっていること自体は全編危険極まる反則技の応酬で、弦四のユニットで最強のバッハを目指したその意欲。そのユニットが雰囲気と表層を整理して、骨格と構成でシベリウス、グリーク、ニールセンを解体していく凄さ。このユニットは他の団体と同じことはやらない。必ず自分達の方法論を貫く(その点はミロQも似ている)。表層的な技術なら若手の方が凄いが、様式と構造、原理まで含めると、メロスQと絶頂期のブランディスQ以降の、最高のユニットの一つであることに間違いない。DGは現在メタメタになってしまい迷走を極めているが、それでも、まだ良心的な部分が残っている。エマーソンQやツィメルマンの録音がそれを証明している。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/08

    18世紀の調律法「ナイトハルト」が使われているそうだが、では少し奇妙な音響が聴けるか?というとそれは誤解だ。「平均律」という言葉。曲集を差すために使われるなら良いのだが、この「平均律」という概念は誤解の無いように押えておかなければならない。インターネットの辞書などでは「12平均律」などという変な言葉が使われているケースがあるが、これは「音」を良く知らない人が書いているのではないか。一般に「平均律」とされているのは、正確に書くと「12等分音律」のことで、コレは現在最も世界で使われている音律法です。常識だが「等分」と「平均」の概念は異なるものだ。「等分音律」と「不等分音律」は違う。さて「ナイトハルト」は等分音律法の一つです。だからこの録音には、我々が通常知っている等分音律法とは異なる等分音律法が使われていることを意識して聴いてもらいたいと思います。演奏者のシェーファーは、カラヤン時代の最後にベルリンフィルでインテンダントを務めていた、指揮者で作曲家でピアニスト。この録音はモダンコンサートグランドをナイトハルト(この調律法には複数あるのだが)で調律をしています。響きの好きな人にはいくつかの和音で聴かれる純度の高さ、微妙な陰影はたまらないと思う。ところで21世紀に入ってから登場した「平均律」録音のほとんどは、人類の貴重な文化遺産を意図的に貶めているのかと思われるような酷いものが多く、私は憤慨しています。@「構造の和音」を平然とバラす(これはもう音楽ではない)。A意図的なデジタルエフェクトで響きを醜く歪める(鑑賞に支障がでる)。B楽器が満足に弾けていない(論外)。などに注意して聴いてもらうと簡単に判別できます。そうゆうものは駄目です。良いものを選んでください。余談ですがこの「GLISSANDO」というレーベルの見識の高さは見事なものです。シェーファーはバッハのスペシャリストです。目的と意味、明確な方法論を使いこなす本当の意味でのバッハのスペシャリストです。このような音源こそ大切に聴かれるべきです。第2巻が楽しみです。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/06

    弦楽四重奏曲の「響きの概念」を変えたメロスQ、弦楽四重奏曲の「情報量」の概念を変えてしまったエマーソンQ。彼らの後、弦楽四重奏は新しい世代に突入したと発言しても言い過ぎではないだろう。彼ら以前の世代の演奏は、どれほど物凄いと評価されたモノでも、彼ら以降の世代と比較するとどうしても苦しい。例えば海外においてベートーヴェン演奏でABQより高く評価されていたターリッヒQ(大フーガと12番16番はABQの方が断然優れてるけど)。そのターリッヒQさえも、最近の緻密で鮮烈な色彩を武器にする新世代のユニットの前では残念だが聴き劣りがする。それほど20世紀最後の20年の弦楽四重奏ユニットの技術の向上は凄いものだった。第1ヴァイオリン主導型から、各楽器が緻密なアンサンブルを争うスタイルに、各声部の独立性の表現から、総体として得られる響きと線の両立へ、最近の若手の実力派はテクスチャをより明解かつ緻密、声部を自在に使いこなすスタイルへ。SQのユニットを聴くならば、若手の実力派から聴いたほうが音楽の形が良くわかる。このミロQの演奏も、新世代の優秀なユニット群が持つ技術があって初めて開拓できる領域の音楽で、それは高度な機能性を前面に出して初めて可能になる世界だ。しかもベートーヴェンの初期集を、自分達からメーカーに売り込みをかけてリリースしてくるところに、この団体の意識の高さと自信が伺える。現在彼らは大資本から距離を置き、自分達が本当にやりたい音楽に取り組んでいるのではないだろうか?どの録音も喜びと魅力に溢れており、見事だ。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/06

    「ミロク(弥勒?)が悪魔の音楽を奏でている(?)」というので確認してみると「ミロQがブラック・エンジェルスを演奏したCDが出ている」とのことだった(笑)。「ミロクを私のパソコンに降臨させてやる(?)」確認してみると、某サイトでミロQの音源をダウンロードすることを、一部のマニアさんが冗談でそう言っているのだそうだ(困惑)。ちなみにミロQの音源は某サイトで、ダウンロード件数でトップに輝いたそうだ。そのようなことが起こるはずは無いのだが、もしも仮にそのような形で人気が出たとしても(ワルノリの世界だが)、これが並みの音楽家ならすぐに消えてしまうが、この団体なら大丈夫だろう。ミロQの実力は相当なもので、アメリカのスーパーとされるSQ、エマーソンQ、フェルメールQ、クロノスQあたり、ミロQもその中に含めて良いと思う。ジョージ・クラムを演奏し、ベートーヴェンを(しかも初期)本格的に取り上げる。この姿勢は素晴らしい。クロノスQやアルディティQでもやらなかった快挙だ。クラムの「ブラック・エンジェルス」にはクロノスQの決定的な名演が有名だが(というより、あの録音は20世紀音楽屈指の大傑作録音だ)、コレと比較の対象になる演奏が出現するだけでも、これは事件だ。緻密に仕上げられた「ブラック・エンジェルス」だ。ミロクは時が来れば大勢の人を救済するため降臨するそうだが、ミロQもさらに腕を磨いて、良い音楽を求める人々を救済できるユニットになって欲しい。でも私はダウンロード(降臨)より、CD購入しますけど(笑)。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/04

    現在若手で上手い弦楽四重奏団はどこだろうか?表現力なら圧倒的なカルミナQ、やたら音楽的要求度の高いアウリンQ、強烈な音量と色彩ならアルテミスQあたりはやはり有名で凄いけど、クスQも素晴らしい。今、弦楽四重奏団は大ホール向けの音作りをやめて、小ホール向きの繊細な音を作る、本来のフォーマットにあわせた活動が多く、大変好ましいが、思うのだが、このクスQ、「弦楽四重奏の技法」という項目に絞りこめば、もしかして若手の筆頭ではないだろうか?と思うことがある。例えばシェーンベルグのSQの1番を、これほど線を描き込みながら、総体としての音響を見事に響かしてくれた録音ってあったかな?と思うほど見事だ。同じく若手のオーリンQとは全く違うアプローチで曲の魅力を引き出している。この団体は是非コンサートで聴くべきだ。弦楽四重奏のコンサートは当たりはずれが少なく、スリリングなものが多い。推奨します。今の若い団体はどれも緻密な音楽ときらびやかで鮮やかな色彩を聴かせてくれます。クスQはその中でも抜きん出た存在に違いない。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/08/04

    ウィーンにはウィーン独特の音の出し方があるが、あの独特の音の出し方には、当初、音楽的な理由があったのだ(うーん、クラシック市場の現状を見渡すと、説得力がない発言ですね(笑))。アーロンQは、今のところ、その音を音楽的に使いこなしているほとんど唯一の団体です。シェーンベルグは新ウィーン楽派と紹介されるけど、普通の団体で聴いていると「どこがウィーンやねん」と突っ込みを入れたくなるのだが、ところが、これが「ウィーンの音」と記憶されている傾向の音で処理されると、シェーンベルグから特異的で妖しく、甘美で退廃的なニュアンスが引き出されてくるから驚く。ラサールQなど現代音楽を得意とする団体ではこのような音楽を聴くことはできない(当然他の団体でも無理)。これは、例えばカルミナQの、圧倒的な表現力で描き尽くされた、うねるようなドラマを突きつけられるようなシェーンベルグとは違った魅力を持つシェーンベルグ。このような演奏をする若い団体にもっと注目が集まるべきだと考えるのだが。「ウィーンの香りと雰囲気を表現する団体」と紹介されると「実力もないくせに、宣伝費だけ使って無知の素人に付け込む上っ面だけの3流の団体か」と思われる人も多いと思うが(事実そんなのばかりだし、過去にそのような地雷を踏んでしまい後悔した人達にとって、それは仕方がないことだが)、このアーロンQに関してはそのようなことは全く無い(現時点では)。理想的な意味でウィーンの音という素材を使いこなしている。本当に素晴らしい団体だし、シェーンベルグのSQが好きな人は是非聴いてみるべきだと思う。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/07/31

    メジャーで活躍している団体には共通点がある。@キレイな音を出すこと。A正確な音程を再現すること。その2点を演奏の中心に持ってくる傾向がある。アルテミスはメンバーを入れ替えてからその傾向が強くなった。抜群のテクニックに支えられた鮮烈とも言える音楽。特にアルテミスのチェロの技巧は抜群。世界の頂点に君臨する1人といっても間違いないほど巧い。表層的に驚異的な音世界を提供してくれる。新しく加わったペーターゼンQのヴィオラの実力も物凄いのだが、でも、私は今のところは旧メンバーの録音を推薦する。@キレイな音とA正確な音程を最優先する新生アルテミスは商品としては最上なのだろうし、分かりやすいのだろうが、旧メンバーの、手の内を知り尽くした奏者同士の強烈な色彩感と輝かしいばかりの圧倒的な音量の掛け合いは凄い。この団体のARS時代に録音したリゲティ、ベートーヴェンは自分達の持てる技術の全てを注ぎ込んだ意欲的な録音だし、ブラームスとヴェルディのカップリングは、それぞれの曲の特質を見事に引き出す考え抜かれた抜群のカップリングだ。20世紀後半から四重奏団は表層的感覚的な演奏を極めんとその方向に極端に傾斜しているが、アルテミスもそうだ。メジャー系に移籍すると、会社は演奏家を商売の道具として干渉し(例えば利益を優先し、明らかな実力不足と組ませるなど)、結果自分達の音楽が脅かされることを悟った演奏家が団体を去るという現象が良く起きる。その後魅力を落としてしまうケースが多い。メーカーも考えるべきだ。技術的に凄い人材だけを集めても、互いに音楽を作るという意識がなければ話にならないことは近年のベルリンフィルがその都度証明してくれているというのに。この録音で聴けるアルテミスは@とAを優先することより、もっと自分達の目指す音楽を模索して格闘していたことをはっきりと聴き取ることができる。@とAはあくまでも手段だ。手段が目的になることは変だ。私はそう考えている。

    10人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/07/30

    ついに出るエッシェンバッハの最高傑作群。別名「黒のプレリュード」。これを聴いた当時の優秀な評論家達は本気で心配していた。「こんなピアノを弾いていたら、この人は精神的に持たない。ピアノが弾けなくなってしまう」と。間もなくエッシェンバッハは指揮者に転向してしまう(もともと指揮者が希望だったそうだが)。この頃DGに残したショパンの「練習曲集」(別名「黒のエチュード」)、シューベルトの21番(これこそ彼岸のソナタと呼ぶにふさわしい演奏)。この3枚がエッシェンバッハの最高傑作かつ、音楽表現としての決定的な名演です。私がポゴレリチやアファナシェフ程度の演奏で「暗黒・異様の極み」と喜ぶ評論家を「認識が甘い」と発言するのは、このような演奏を知っているからです。できるだけ録音の良い物を選択することを薦めます。ユニヴァーサルの日本盤でいいから、全部出してもらえないだろうか?これはケンプ+クーベリックのシューマンのピアコンに匹敵するDG最強の音源群なのだから。(某廉価版で音が良ければいいのだが、コレまでの経験上、私はまず日本盤を買います):今回は個人的趣味丸出しの暴走レビューで申し訳ない(笑)。

    10人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

検索結果:46件中1件から15件まで表示