トップ > My ページ > 宗仲 克己 さんのレビュー一覧

宗仲 克己 さんのレビュー一覧 

検索結果:13件中1件から13件まで表示

%%header%%

%%message%%

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/03/28

     教授が71歳の誕生日にリリースしたアルバム『12』は、あまりにも美しい、すさまじいドキュメントである。シンセサイザーとピアノの音色が、美しく静謐な空間を創り出す。「時間」の概念についての思惟が、「音」となって無限の空間に広がっていく。聴き手は、その空間に身を委ね、感性が研ぎ澄まされていく。収録された12曲中で最長の第7曲『20220214』の演奏時間は9分を超えるが、私は長さをまったく感じない。繰り返し大きく押し寄せる音の紆濤りにつつまれる。心地よい瞑想の世界を揺蕩っているうちに、文字どおり、あっという間に時間が過ぎる。時間の感覚が無くなるというのが正しいだろう。教授は、「時間の疑わしさ」について、「時間は言ってみれば脳が作り出すイリュージョン」と語っている。教授が創り出す 『Magic』に、まさしく魅了されているのだ。私はこのアルバムを何度も繰り返し聴いている。教授が奏でる音たちに深く癒されながらも、大きすぎる非在と喪失に激しく苛まれ続けている。
     日本のメディアは、坂本龍一を「世界的音楽家」としての枠に押し込めている。坂本龍一は、世界が認める超一流の音楽家であると同時に、思想家であり、信念に基づく活動家(Activist)である。彼は、権威主義と拝金主義を批判し、「生命」と「自由」を人間の最高の価値とする。「2001.09.11」をうけて出版した『非戦』の監修と、自身の論考『報復しないのが真の勇気』、『NO NUKES』 『MORE TREES』の活動など、一貫して非戦・反核・環境保護を訴え、実践してきた。「核や原子力と人間は共存できない。」「樹々は万人に、開発は既得権者らだけに恩恵をもたらす。」「忖度すること、権力に阿ることは恥ずべきこと。」 これらの言明は、叡智に満ちた卓見である。現在の日本は、商業的な「成功」に価値をおく人々のほとんどが、空気を読み、社会的な発言を避けている。権力への順応主義者(Conformista)が跋扈し、民主主義が未成熟である。そんな「あいまいな」日本社会において、坂本龍一は傑出した存在である。心ある多くの人々が彼を熱く尊敬する所以だ。坂本龍一は未来に希望の光を照らす存在であり続ける。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/01/01

     過ぎ去った希望の反射光として美が照らしている・・・。第九交響曲についてのテオドール・アドルノの哲学的言辞は、マーラーが完成した最後の交響曲の性格をよく表している。アドルノは、「マーラーはウィーン楽派の原点」と考えた。ブーレーズは、このアドルノの考えに影響をうけて、「私はシェーンベルク、ウェーベルン、ベルクを“発見”したのちに、彼らの音楽との連続性からマーラーを発見した。」と語っている。
     ブーレーズは、1950年代にバーデン・バーデンで、ハンス・ロスバウトから「この交響曲を聴きなさい」と、彼が南西ドイツ放送交響楽団を指揮した第九のレコードを勧められた。このときブーレーズは第九を初めて聴き、大変印象深かったと回想している。
     マーラーの交響曲はテンポの設定が重要であり、特に第九は両端の重要な緩徐楽章のテンポの設定に、指揮者の姿勢が顕著に表れる。ロスバウトの1954年1月7日の演奏は、第1楽章が23分06秒、第4楽章が21分38秒である。1950年のヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン交響楽団の「超速」の演奏には及ばないが、最速の演奏の範疇に属する。ロスバウトの1960年の演奏も、この速さを維持している。
     ブーレーズは、彼が首席指揮者を務めていたBBC交響楽団と第九を取り上げ、1971年と1972年にライヴ録音をしている。1971年6月6日の演奏は、第1楽章が32分16秒、第4楽章が23分20秒である。 1972年10月22日の演奏は、第1楽章が26分57秒、第4楽章が21分37秒である。この当時、ブーレーズは第九の演奏の実験をしていた感がある。ブーレーズは、1990年代からドイツ・グラモフォンでの録音が多くなり、1995年12月に、DG・マーラー・チクルスの第4弾としてシカゴ交響楽団とともにセッション録音に臨んだのが本ディスクである。演奏時間は、第1楽章が29分17秒、第4楽章が21分25秒、全曲は79分23秒である。純音楽的に最も重要な第1楽章をじっくり、第4楽章は比較的あっさり、全曲を1枚のCDに収めてしまうテンポ設定に落ち着いた。第1楽章をより重視する指揮者の代表例は、ブーレーズの他にはワルター(コロンビア響)やジュリーニをあげることができる。一方、第4楽章をより重視する指揮者の代表例としては、バーンスタインやベルティーニをあげることができる。この指揮者の姿勢の違いは聴き手の好みが分かれるところであるが、私は第九交響曲については第1楽章をより重視する演奏を好む。ブーレーズの演奏は、前打音やポルタメントなどの細かな指示は強調しないが、全楽章で総譜に忠実に音楽を奏でている。ごく一例をあげると、第1楽章冒頭の第4~5小節のヴィオラのトレモロにも曖昧さがない。オーケストラ全体が奏でる音楽には、厳格な構成美があり、各パートの音量のバランスも的確である。第九の総譜を実際の音で認識するためにも、最も適した演奏である。怜悧な解釈と表現でありながら情熱もある。マーラーの伝記を排し、純粋に音楽の美を追求した理想的な演奏の一つと言うことができる。
     シカゴ交響楽団による第九の正規録音は意外に少なく、現時点においても、1976年のジュリーニ、1982年のショルティ、そして1995年のブーレーズの3つのみである。時が流れてオーケストラのメンバーも変遷しているが、いずれもシカゴ交響楽団の圧倒的な実力を遺憾なく発揮した超弩級の名演奏である。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/09/28

     最終楽章のコーダでマーラーの魂は最期の輝きを放つ。わずか7小節を残す、第394小節のH♯から第395小節のG♯までの1オクターブ+6度の音域を、ヴァイオリンとヴィオラの奏者全員が Portamento で燃え上がる。そして、G♯も奏者全員で viel Bogen で強く長く伸ばす。最後の4小節で嬰へ長調で下降する5つの音は、まさしく人生の最期に心の平穏を見出した安堵の溜息のようである。煉獄をめぐり、魂の叫びの不協和音のカタストロフを経て、「生への回帰」を希求したマーラーの魂の最期の輝きは、痛ましいほどに美しい。

     インバルの演奏を聴くと、インバルの職人気質の生真面目さが感じられる。一般的には、この部分は H♯から G♯へ一気に跳躍する演奏の方がむしろ多い。ピアノで弾く場合でも、グリッサンドをかけることなく跳躍する。Artist であり Artisan であるインバルは、この部分の Portamento を厳密に追求する。本ディスクの1992年1月のフランクフルト放送響との演奏は、2011年6月のコンセルトヘボウ、2014年7月の都響との演奏と並んで、マーラーの最期の Portamento を最も忠実に演奏したものである。実際には、Portamento をかけながら G線・(D線)・A線(ヴァイオリンもおそらくA線まで)と弦を乗り移り、全体として滑らかに音をつなぐためには非常に高い合奏技術を必要とする。第1・第2ヴァイオリンとヴィオラ奏者の総勢40名前後が、弦を乗り移る際の音程を少しずつずらすことによって、音がスイープするように滑らかにつながる。 G♯の viel Bogen も然りである。強奏ゆえにボウイングの速度は速いが、演奏者のそれぞれが弓を返すタイミングを意識的に少しずつずらすことによって、一つの音が切れ目なくつながる。一人で弾いたら絶対に不可能なことが、大勢で弾くことによって可能となる。まさしくオーケストラによる合奏の妙である。

     「マーラーの本当の“最後の音楽の遺言”は、交響曲第9番の最後ではなく、交響曲第10番の最後である。」とクックは指摘している。マーラーが遺した最終楽章のわずか4段の略式譜は私の胸を打つ。「君のために生き!君のために死す!アルムシ!」という書き込みや、Portamento や viel Bogen といった指示の一つひとつにも、自身の音楽の最後に込めたマーラーの意思を感じる。村井教授は、「絶望の叫びと聴くか、勝利の雄叫びと聴くか、様々な聴き方が可能」と指摘されている。 Portamento による表現は、マーラーの音楽のアンビヴァレントで複雑な性格を象徴していて効果的である。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/07/16

    山下達郎のソロデビューアルバムは途轍もなく鮮烈だった。1976年12月にリリースされた『Circus Town』は私が生涯で最も衝撃を受けたアルバムの1枚である。特にアナログA面の「New York Side」が凄い。中でも第1曲『Circus Town』は傑作である。「山下達郎の楽曲を1つだけ挙げると?」と問われれば、私はちょっとズルをして、1982年の『Sparkle』に加えてこの『Circus Town』を挙げる。ドラムス・ベース・Eギター・ピアノ・パーカッションに、ブラスセクション、ストリングスセクション、バックボーカル、さらにピッコロを加えた編成である。プロデュースとアレンジを託した Charles Calello が構築し、超一流のミュージシャンたちが演奏したサウンドは、豪華絢爛で切れ味が抜群である。ドラムスは Allan Schwarzberg、トランペットのトップは Randy Brecker、アルトサックス・ソロは Louis Marini、 ・・・。吉田美奈子による凝縮された詞もセンスがいい。「いつか君連れて抜け出すさ 愛の迷路を」を見事に歌いきる山下達郎の歌唱も爽快だ。セッションならではの完璧な歌唱とサウンドは、まさにレコード(CD)を聴く醍醐味である。ボーナス・トラックの2曲『Circus Town』と『Windy Lady』のTVトラック(カラオケ)は、セッションの凄味をリアルに実感するためにも、改めて必聴である。最近は若い世代にも山下達郎ファンが増えている。山下達郎のソロ活動の原点である『Circus Town』は、若い方々に特にお勧めしたいアルバムである。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/04/20

     クック版に果敢に手を加えた演奏である。デリック・クックは自身の研究成果に「A Performing Version of the Draft for the TENTH SYMPHONY」という控えめなタイトルをつけた。クックは自身の版を絶対視していない。そのため、クック版を採用しながら、独自に手を加える指揮者も多い。ザンデルリンクによる加筆は多岐にわたり、かつ大胆である。だが、基本的にはクックの意図を汲んでいるため大きな違和感はない。このザンデルリンク盤は、マーラーの音楽から逸脱することなく、第10交響曲の表現の可能性を提示する貴重なディスクである。ザンデルリンクのテンポ設定は、第1・3・4楽章は中庸、第2楽章は遅く、第5楽章は速めである。このテンポ設定は、1984年のニューヨーク・フィルとのライヴ演奏でも同様である。

     マーラーが遺した草稿には随所にメッセージが書き込まれている。第4楽章の表紙には、Der Teufel tanzt es mit mir. Wahnsinn, fass mich an,Verfluchten. …(悪魔が私と一緒に踊る。狂気よ、私をつかまえろ、この呪われた者を・・・)とある。第2楽章と対をなすこの楽章は、悪魔的なスケルツォと優美なワルツが共存し、主部とトリオが頻繁に交替する。ヴァイオリンやヴィオラによるワルツの音色は夢見心地である。ザンデルリンクの演奏は、アンビヴァレントなこの楽章の性格をうまく表現していて好ましい。第5楽章は、クライマックスのトーンクラスターの再現の後、第284小節(11:47)で第1楽章冒頭のヴィオラによる主題に回帰する。この15小節は、クック版ではホルン4本とトランペットのみだが、ザンデルリンクは弦を厚く重ねている。第3部が始まる第299小節(12:45) から第313小節までは、クック版ではヴァイオリンを全休符としている。ザンデルリンクは第307小節(13:29)からヴァイオリンを加えている。このヴァイオリンの加筆は、第3部の初めからヴァイオリンに主旋律を担わせるカーペンター版など他の亜流に近いものといえる。主旋律を歌うヴァイオリンを加えて「分かりやすさ」を追求するか、マーラーの遺したパルティチェルに思いを馳せるかは、聴き手の好みが分かれるところであろう。ザンデルリンクは、以降、コーダまでテンポを落とすことなく音楽を推進し、高揚感を重視している。どのようなテンポ設定であっても、感動的な音楽は感動的である。このディスクで聴くことができるベルリン交響楽団の弦の誠実な響きやホルンの暖かい音色も、私は気に入っている。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/01/01

     じつに味わい深い第九交響曲である。シノーポリは、1993年12月のフィルハーモニア管弦楽団との全集版のセッション録音では、平均的なテンポを採用していた。しかし、わずか3年あまり後の1997年4月のSKDとのライヴ録音では、全楽章でテンポを遅く設定した。特に第1楽章の演奏には32分53秒をかけている。これは、マゼールとフィルハーモニア管弦楽団による2011年のライヴ録音の35分38秒に次いで、現在でも史上2番目にゆったりとした演奏である。全曲の演奏時間も92分22秒であり、最長演奏時間の部類に属する。 1993年の録音は、若干硬さが感じられたが、 1997年のライヴ演奏は、音楽表現の熟成度が増しており、じつに味わい深い。以前、このHMVのレビューで、村井教授は、SKD 盤について、「すでに『あちら』に行ってしまった人が人生を回顧するかのごとき印象だ。」と評されていた。村井教授の演奏評はいつも的確であり、共感できる。しかし、私は、シノーポリの第九交響曲は、SKD盤のほうを好んで聴いている。
     第九交響曲は、やはりヴァイオリンの両翼配置が効果的だ。 SKD盤の第1楽章の冒頭の呈示部の演奏は理想的であり、心にすっと入ってくる。第46小節 (03:25) 以降のリタルダンドをかけた圧倒的な頂点の築き方、第71小節(05:25)以降の弦とホルンの掛け合いの切ないまでの美しさなど、聴き所も満載である。展開部の第2部の第163小節(11:46)からの molto espress Allmahlich fliessender と指示されたオーボエの「溜め」のある表現も絶品である。また、Schon ganz langsam と指示された第406小節(28:31 )以降のコーダでは、人生を回顧し、その人生に別れを告げる深い情感が表現されている。
     第3楽章の中間部のニ長調によるエピソードにおいて、第394小節(07:28)以降の Mit grosser Empfindung では、第1ヴァイオリンが極端にテンポを落とし、チェロが優しく続く。この大胆ともいえる表現には、外連味はまったく無い。まさしく大きな感動に包まれている。
     第4楽章の第49小節(06:19)以降の高揚感もみごとである。第56小節(07:29)の lang gezogen 以降の各音の伸ばし方も理想的だ。シノーポリは、 1990年11月25日のフィルハーモニア管弦楽団との演奏会では、この小節は指揮棒をあっさりと振っていた。だが、このSKD盤からは、音楽表現をより深めようとするシノーポリの強い意志が感じられる。第4楽章の終盤では、特に総譜の最後の4ページを残して、音楽はすでに異次元の響きを帯びている。第134小節(18:26)の第1ヴァイオリンの上行のポルタメント、 第147小節(21:17)の第2ヴァイオリンの下行のポルタメントをはっきりと聴き取れる。総譜の指示は、前者はpp、後者はppp だから、一般的な演奏ではほとんど目立たない。ポルタメントを際立たせた音楽表現上の明確な意図によって、聴き手は異次元空間を浮遊するような不思議な感覚におそわれるのである。
     シノーポリは、抜群の知性を背景にした緻密な分析力と情熱的な表現力を兼ね備えた稀有な指揮者であった。1990年11月には、東京芸術劇場の開館を記念する Mahler Zyklus として、フィルハーモニア管弦楽団とともに、歌曲と 『嘆きの歌』 を含めて、すべての交響曲を、16日間で10回の公演で演奏しきった「つわもの」であった。シノーポリは作曲家でもあるため、交響曲第10番のクック版をどのように評価していたかは分からない。しかし、1987年に録音されたフィルハーモニア管弦楽団との全集版の第10番 『アダージョ』 は、聴き手を戦慄させる驚愕すべき名演奏である。そのため、私はシノーポリが指揮するクック版第10番を熱望していた。
     シノーポリは、長生きをしていたなら、名実ともに指揮界の巨匠として、さらに多くの優れた演奏を聴かせてくれたであろう。あるいは、彼自身の作曲作品も数多く生まれたかもしれない。いかにもインテリゲンチャらしい険しい表情、一方で気さくな人懐っこい笑顔、演奏後の聴衆の熱烈な拍手に応えて何度でもステージに出てきてくれたシノーポリの姿を、私は今も鮮明に記憶している。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2022/09/28

     大地の歌・交響曲第9番・第10番(Cooke版)、すなわちマーラーの最後の三部作は、すべてのレコードを聴かずにはいられない。新譜がリリースされれば、必ず購入してしまう。これは、マーラーの作品、とりわけ第6交響曲以降の後期の作品の魅力に憑かれた者の性(さが)である。大地の歌については、クレンペラー盤(ルートヴィヒ)とラトル盤(コジェナー)を聴ければ、私は満足してしまう。しかし、優れた演奏に新たに出会えたときは、それはまた大きな喜びとなる。
     カサドシュとリール国立管弦楽団の演奏を、私はこのCDで初めて聴いた。二人の独唱者ウルマーナとフォービスの歌唱とリール国立管弦楽団の見事な演奏に感服した。2008年7月3日のサン=ドニ大聖堂におけるライヴ録音である。聴衆の間からだけでなく、演奏者たちの間の非常に微かな音が無数に収録されている。まるで指揮者のすぐ背後で聴いていると錯覚するほどリアルな録音である。しかし、音質はとても良いので、ライヴ録音と割り切って、臨場感に深く浸る鑑賞方法がよいと思う。本CDがリリースされた時は、収録から10年以上が経過していた。非常に優れた演奏であるため、CD化が企画されたのではないかと、私は推察している。

     第6楽章「告別」の終結部「Die liebe Erde …」(460小節以降)のテンポは、クレンペラー盤よりも遅く、ラトル盤(バイエルン放送響)とほぼ同じである。総譜にある「すべての拍をひじょうにゆっくり振る」という指揮者への指示に忠実な演奏であり、一拍ずつ噛みしめながら聴くことができる。チェロとヴァイオリンのドラマチックな上行、大きく紆濤るオーケストラが感動的である。「新しく!いたるところ、そして永遠に、はるか彼方まで青く輝く・・・永遠に・・・」 ウルマーナの絶唱と、春の大地を夢想する寂寥感が胸を打つ。心の中で音楽がまさに永遠に鳴り響くようだ。その残響は、第9交響曲の冒頭へとつながって行く。

     本CDは、ジャケットデザインも秀逸だ。マーラーが没した翌年に制作された「吹き荒れる風の中の秋の木」は、感動的な作品である。
    1991年に Bunkamura・ザ・ミュージアムで開催された 「エゴン・シーレ展」 で、私はこの作品と出会い衝撃を受けた。背景の空は、多量の灰色をベースにした繊細な色彩と荒々しい筆触のテクスチャーによって、激しく動く大気を表現する。無慈悲な嵐に樹幹は大きく撓り、画面いっぱいに広がる細い枝々の顫動は、観る者に不安感を与える。80p四方のカンヴァスは、シーレの鮮烈な魂を放射していた。この作品がもつ異様なまでの迫力は、印刷物やディスプレイではなかなか表現されないのが残念である。シーレが制作した実物のカンヴァスをご覧になることを是非お勧めしたい。二十世紀初頭のヴィーンの美術界で、革命的な精神で表現主義を牽引し、早逝した天才が遺した傑作である。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2022/06/30

     クック版交響曲第10番の初のステレオ録音である。ゴルトシュミットの指揮による、1960年の第1稿の初演と1964年の第2稿の初演は、いずれもモノラル録音であった。ロンドンでの第2稿の初演後に、いち早くアメリカ初演の許諾を得たオーマンディのパイオニア精神が粋である。彼が音楽監督を務めるフィラデルフィア管弦楽団と、1965年11月5日に第2稿のアメリカ初演を行った。本CDに収録されているのは、同月17日のフィラデルフィア Town Hall におけるセッションである。これはクック版交響曲第10番が世界に広く認められていくきっかけとなった先駆的な記録である。録音は優秀であり、各楽器のバランス・定位がしっかりしている。 現在から60年近く前の録音とは思えないほど、音質面も十分に満足できる。

      1964年の第2稿の初演時は、テンポの設定など、クックとゴルトシュミットの共同研究の途上の感があった。オーマンディは、両端の緩徐楽章をやや速めに演奏し、ゴルトシュミットの初演時のテンポをおおむね踏襲している。第1楽章は、マルティノン盤および第1稿初演のゴルトシュミット盤に次ぐ速さで、演奏時間は21分36秒である。第2楽章から第4楽章は平均的である。第5楽章はやや速めであり、演奏時間は21分24秒である。この時代のフィラデルフィア管弦楽団は、特に弦の音色が美しい。やや速めのテンポ設定と豊麗なフィラデルフィア・サウンドがあいまって、クック版交響曲第10番の全体像をはっきりと示した演奏と言える。同じフィラデルフィア管弦楽団の演奏でも、1980年に録音されたレヴァインの指揮による第3稿第1版の演奏は、第5楽章に歴代最長の28分30秒をかけている。同じオーケストラにおける、指揮者による表現の違いを聴き比べるのも興味深い。第5楽章の第3部(第299小節以降)は、速めのテンポにもかかわらず、「ありとあらゆる交響的な作品の中でもっとも美しい楽節」(コンスタンティン・フローロス)という評価は揺るがない。ややあっさりした演奏ではあるが、指揮をしながらオーマンディが涙を流していたと伝えられている。オーマンディの人柄が偲ばれるエピソードである。

     ちなみに、私が購入したオーマンディ盤の本CD(輸入盤)では、トラッキング付与の位置が1か所間違えている。なんと、第4楽章の最後の大太鼓の一撃が第5トラックの冒頭に入っている。したがって、第5楽章だけを聴こうとすると、冒頭に大太鼓が2回続けて打たれる。もちろん、第4楽章と第5楽章を続けて聴く際には問題はない。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2022/03/25

     黄昏時の都会を歌った数多くの名曲を創作している吉田美奈子の初期の傑作アルバムである。1977年の発表から45年の歳月が流れたが、洗練された音楽センスは現在でもまったく色褪せていない。まさに「Oldies But Goodies」である。全9曲のアルバム全体が『 Twilight Zone 』の世界観で統一されており、格調が高い。詞・曲・編曲・歌唱・演奏のすべての要素が絶品である。吉田美奈子が弾くピアノが全曲を主導し、ふとドビュッシーを感じさせる瞬間もある。アントニオ・カルロス・ジョビンの “Casa” のピアノの譜面台には、ドビュッシーの楽譜が広げられていたという。吉田美奈子も含めて、新しい音楽を開拓してきた音楽家たちは、ジャンルが異なっても、その音楽性には共通する精神があると感じられる。
     吉田美奈子の歌唱力と卓越した表現力は、すでにデビュー当時から聴き手を唸らせるものがあった。演奏は、本アルバムでは、村上秀一・大村憲司・松木恒秀・佐藤博など、錚々たるメンバーがバックを固めている。彼らが創った音楽は、今後も永く聴き継がれていくであろう。ホーンセクションを加えたアレンジもお洒落だ。共同してプロデュースをした吉田美奈子と山下達郎の力量が発揮されたアルバムである。
     
     第1曲『 Twilight Zone “Overture” 』の冒頭のピアノの和音が響くと、『 Twilight Zone 』 の世界が一気に広がる。歌詞は「 Illumination 」の一語のみ。小曲であるが、Piano・Guitar・Harp・Flute・Strings が、思慮深い音楽を紡ぐ。その内省的な雰囲気は第2曲『 恋 LOVE 』に引き継がれ、以降、タイトルチューンである終曲『 Twilight Zone 』まで、名曲が並ぶ。
     

     私の思い入れが特に強い楽曲は、第8曲『 さよなら SAY JUST GOOD-BY 』 だ。吉田美奈子の Vocal は高域まで美しく伸びやかである。彼女の表現力は驚嘆に値する。大村憲司の Electric Guitar Solo は優しく語りかけるようだ。向井滋春の絶妙な Trombone Solo は情趣に富んでいる。夕闇に包まれた都会の喧噪に、別離を受けとめる切ない情感が静かに沈んでいく。音楽のすべてが心に深く沁み入る、スローバラードの傑作である。
     
     第5曲『 恋は流星 Shooting Star Of Love 』は、アルバムを代表する人気曲だ。黄昏時の美しい光たちを描いた詞は全編が秀逸である。「とても素敵」「いつも好き」の冒頭の Vocal だけの歌い出しも粋である。フルコーラスに続く後奏は2分間を超え、岡崎広志の Alto Sax Solo、向井滋春の Trombone Solo、中沢健次の Trumpet Solo が冴えわたっている。ジャズ的なアプローチを具体化した音楽は素敵である。
      『 恋は流星 』は、人気曲ゆえに、カヴァーヴァージョンも多い。その中でも私の一番のお勧めは米光美保だ。1995年発表のアルバム『 FOREVER 』に収録されている(現在は廃盤のため入手が難しいのが残念)。こちらは軽快な『 恋は流星 』に仕上がっている。米光美保は、ソロデビューの前はガールズ・グループ「TPD」のメンバーだったが、彼女の歌唱力は本格的である。アレンジ面では、古き良き1970年代のサウンドから、「打ち込み」が全盛となった1990年代へのポピュラー音楽の進展が興味深い。その一方で、後奏では Sax Solo・Trombone Solo・Trumpet Solo の華麗な演奏が、吉田美奈子のオリジナルヴァージョンの構成をそのまま引き継いでいる。編曲とプロデュースをした角松敏生の、吉田美奈子と山下達郎へ対するリスペクトが表れていて感動的である。
      『 Twilight Zone 』は、私の最も好きなアルバムのひとつである。今回のSACDハイブリッド盤は、私にとっては LP・CD に続いて3回目の購入となった。特別な名盤は、何度でも購入する価値がある。音質面は、アナログのマスターテープが音源であるため、ヒスノイズがわずかに認められるのは仕方がない。しかし、SACD 化によって、もともとの録音の優秀さを改めて確認することができた。私の再生装置でも、倍音成分まで丁寧に再現され、豊かな臨場感で聴くことができる。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2022/01/01

     マーラーの交響曲第9番の録音史を振り返ると、現在までに最も多く録音しているオーケストラはベルリン・フィルで、その回数は11回である。続いて、ウィ−ン・フィル、ウィーン響、フィルハーモニア管(ニュー・フィルハーモニア)、バイエルン放送響がそれぞれ8回、ニューヨーク・フィルが6回、ロンドン響、南西ドイツ放送響、チェコ・フィル、イスラエル・フィルがそれぞれ5回、コンセルトヘボウとスウェーデン放送響がそれぞれ4回で続いている。シカゴ交響楽団は意外に少なく、ジュリーニ、ショルティ、ブーレーズの3回のみであるが、いずれもオーケストラの実力を遺憾なく発揮した超弩級の名演奏である。日本のオーケストラでは、都響、新日本フィル、大阪フィルがそれぞれ3回で並んでいる。
     マーラーの交響曲第9番をベルリン・フィルと録音した指揮者は、バルビローリ、バーンスタイン、カラヤン(4回・非正規盤を含む)、シャイー、アバド(3回) 、ラトルである。ベルリン・フィルによる交響曲第9番の録音は、いずれも話題性に富んでいる。その中でも私が一番に推したいのはラトル盤である。2007年10月24日から27日にかけてのライヴ録音だが、本HMVのサイトでもレビュアー諸氏が賞賛しているとおり、瑕疵のない、まさに完璧な演奏である。ヴァイオリンを両翼に配置して臨んだベルリン・フィルとラトルの集中力が伝わってくる。演奏時間はすべての楽章で中庸であるが、ラトルらしいテンポの緩急のメリハリもある。ラトルとベルリン・フィルの演奏の音楽性は、凡庸さとは無縁である。
     第1楽章の呈示部の終局の102小節以降は、総譜にAllegro と指示されているとおり、激しくテンポを速める。私個人としては、Allegro という指示にもかかわらず、あえてテンポを上げない演奏を好むが、ラトルのこの表現は正統であろう。ラトルとベルリン・フィルの凄さは、全編にわたって隙のない緻密な演奏を繰り広げながら、要所要所でマーラーの意図をきわめて的確に表現しているところである。例えば、第1楽章の148小節以降のヴァイオリン(p(p) aber ausdrucksvoll)、163小節以降(Allmahlich fliessender) 、267〜270小節のヴァイオリン(sehr zart, aber ausdrucksvoll hervortretend) 、347小節(molto espress.) 434小節以降(Wieder a tempo aber viel langsamer als zu Anfang 〜 Zogernd)、第3楽章の347小節以降のエピソード、第4楽章の冒頭の2小節(Sehr langsam und noch zuruckhaltend)、56小節(lang gezogen)、122小節のヴァイオリン(viel Bogen)、185小節(ersterbend)などをあげることができる。 (以上、表示の制約のため、Umlaut を省略。)
     交響曲第9番は、マーラーが完成した最後の交響曲となった。マーラーが創作力の絶頂期を迎えつつある時に、極度の集中力をもって作曲した最高傑作である。この作品を貫く孤高の精神、圧倒的な強靭さと品格の高さを、ラトルとベルリン・フィルは、知性と感情のバランスをとって、深い共感をもって表現している。録音もディスクの音質も優秀である(SACD)。交響曲第9番を初めて聴く方にも、ある程度聴いている方にも、まちがいなくお勧めできる名盤である。
     私が交響曲第9番の録音について本HMVのサイトでレビューさせていただくのは、ジュリーニ/シカゴ交響楽団、マゼール/フィルハーモニア管弦楽団に次いで、このラトル/ベルリン・フィルが3回目である。これらが私が選ぶベスト3だ。マーラーの交響曲第9番は傑作であるだけに、優れた演奏が非常に多い。私のライブラリーは、交響曲第9番だけですでに140種類を超えている。あれこれ引っ張り出しては、じっくり鑑賞するのが私の楽しみのひとつである。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2021/11/04

     クック版の交響曲第10番といえばウィン・モリスといわれた時代が長かった。LPレコードのジャケットに描かれたローマ数字の巨大な]が、未知の妖しい世界へと誘うように、異彩を放っていた。1972年10月のセッションは、デリック・クックによる「第10交響曲の構想による実用版」第3稿第1版(CookeU)の初の録音である。2007年10月のハーディング指揮・ウィーンフィルハーモニーによる第3稿第2版(CookeV)の決定的な名盤を聴き込んだ現在は、版が異なるとはいえ、このモリス盤が意外と力強く派手な面も見せる演奏であることに改めて気づく。
     モリスは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを対向に配置している。1965年11月のオーマンディ指揮・フィラデルフィア管弦楽団の録音は、通常の配置だったので、ヴァイオリンの対向配置を採用したのはモリスのこの録音が初めてだったと思われる。(ゴルトシュミットが第1稿と第2稿を初演した録音はどちらもモノラルであるため、各楽器の配置を確認できない。)交響曲第10番において、ヴァイオリンの対向配置は、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの旋律の対話を際だたせ、特に最終第5楽章の第3部(アダージョ)において感動的である。
     モリスの演奏のいちばんの特徴はテンポの設定である。全曲を通した演奏時間は83分50秒で、現在でもクック版の最長演奏時間である。特に第1楽章の演奏時間は27分51秒で、クック版においては最長演奏時間である。Andanteと指定された冒頭の15小節のヴィオラのモノローグは速めであるが、第16小節のAdagioの指定以降は適切にテンポを落とす。(ちなみに、ウニフェルザール版の『アダージョ』単体の演奏では、1987年4月のシノーポリ指揮・フィルハーモニア管弦楽団の録音が32分40秒で最長演奏時間である。これは聴き手を戦慄させる驚愕すべき名演奏である。)第4楽章の演奏時間は13分17秒であり、これもクック版の最長演奏時間である。第5楽章は、第3部が始まる第299小節(13:57)以降は、コーダにかけて、ぐんぐんテンポを落としていく。モリスの指揮は、テンポの設定だけでなく、音響表現でも独特な面を見せる。第342小節(18:04)からの4小節においては、第2ヴァイオリンとヴィオラのパートを際立たせている。これはモリス独自の解釈ともいえるが、とても素敵である。他の演奏に慣れ親しんでいる方が、このモリス盤を聴くと、この部分でも新鮮な印象を受けるのではないかと思う。第353小節(19:24) Immer Adagio(nicht eilen!)の盛り上がり以降、コーダにかけて、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを軸に、低弦群・木管群・ハープ、そして4本のホルンの暖かい音色に包まれて、マーラーの“最後の音楽の遺言”となった最高に美しい楽節がきわめて丁寧に演奏される。クック版の交響曲第10番に対する、モリスの深い愛情があふれた感動的な演奏である。第3稿第1版(CookeU) の数ある名演奏のなかでも、このモリス盤は交響曲第10番全曲版の演奏史を飾る名盤としてあげるにふさわしい。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2021/01/01

    マゼールは、すごい『第九』を遺してくれた。2011年10月1日のロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおけるライヴ録音は、極端にテンポが遅い演奏である。マゼールの指揮に応えて、フィルハーモニア管弦楽団はプロフェッショナルの矜恃を存分に発揮している。特に第1楽章は、限界ともいえる遅いテンポでありながら、音楽的な緊張感がみなぎる見事な演奏である。総譜の冒頭には Andantecomodo の指定がある。しかし、第1楽章は、その内容のシリアスさゆえに、「気楽に(Comodo)」始められる音楽ではない。
    現在までにリリースされている『第九』のレコードは、すでに200種類を超えている。全レコードの第1楽章の演奏時間の平均値は27分41秒で、標準偏差σは2分15秒である。(未聴盤があるため若干の誤差はご容赦を)第1楽章の遅いテンポの演奏は、ブーレーズ指揮・BBC交響楽団の1971年の録音(32分16秒)や、シノーポリ指揮・ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の1997年の録音(32分57秒)が有名である。(ちなみに最も速いテンポの演奏は、シェルヘン指揮・ウィーン交響楽団の年の録音(21分06秒)である。)2011年のマゼール・フィルハーモニア管弦楽団の演奏時間は35分38秒であり、平均値から3σを越える遅さである。第1楽章冒頭の第107小節までの呈示部については、全レコードの演奏時間の平均値は6分31秒で、標準偏差σは42秒である。 マゼールは、呈示部の演奏に9分20秒をかけており、平均値から4σを越える、驚くべき遅さである。特に第46小節 (04:15) のリタルダンドがかかったフォルティシモの盛り上がりは圧倒的だ。以降、第79小節までの主要主題の展開部も、たっぷりと3分13秒をかけて演奏している。遅いテンポでありながら弛緩することなく、オーケストラの各パートは美しい音色で正確なアンサンブルを奏でている。その雄大さは感動的である。
    マーラーの『第九』は、二十世紀初頭に、伝統的な調性の崩壊を予感させた。作曲されてから100年が過ぎた現代に生きる私たちの心に、『第九』はますます切実に響いている。現代における『第九』の意味を、マゼールはこの演奏で示してくれたと、私は感じている。マゼールにとって最後になってしまった『第九』は、彼の多くの遺産の中でも、最も重要なひとつとなった。第7番・第8番も、秀演である。聴いていて、とても心地がよい。
    マゼールは、私が好きな指揮者の一人である。(山下達郎氏も「Sun-Son」で、好きな指揮者としてマゼールとチェリビダッケをあげていた。)だが、私がマゼールの実演を聴いたのは、残念ながら一度のみ、1978年7月にフランス国立放送管弦楽団を率いて来日した時であった。曲目はベルリオーズの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』全曲。遥か昔の夏の夜の思い出である。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2020/10/21

     沈みゆく陽の光を受けて「きらめく波」を、聴いた・・・。1975年にピエール・ブーレーズとBBC交響楽団の来日記念最新録音として発売された国内盤LPレコードは、作曲家の林光氏がライナーノートを執筆していた。第1部冒頭の壮大な管弦楽序奏についての林光氏の解説が秀逸である。「木管金管群あわせて50人、四つのハープ、鍵盤・打楽器のたぐい、細かくわけられた弦楽器群、これらが総がかりで、それぞれのパートが沈みゆく太陽の光を受けてきらめく波頭のひとつひとつを受け持ち、だがぼくたちは、そのひとつひとつをでなく、総体としての「きらめく波」を聴く。40段のスコアいっぱいに鳴り響いている「きらめき」のそれぞれを、くっきり浮き出させるというのは、だれにでもできることではないだろう。ブーレーズは、やはりそれをやっている。ブーレーズの演奏のちからが、それを可能にしたのだと思う。」そして、林光氏は「ブーレーズのやりかたは、正解にちかいのではないだろうか。」としめくくっている。
     当時高校生であった私は、このレコードで初めて『グレの歌』を聴いた。まず、美しい旋律の数々、創意あふれるオーケストレーションとその音たちの魅力に惹きつけられた。そして、「劫罰」と「救済」という劇的な内容を、青春の記念碑といえる壮大な音楽作品に仕上げたシェーンベルクの天才に、今もなお魅了され続けている。そして、現在まで45年間、愛聴盤として繰り返して聴いている。『グレの歌』は、現時点で20種類に迫るレコードが世に出ている。ケーゲル盤・シノーポリ盤・ラトル盤・ギーレン盤など優秀な演奏が多い。だが、私はやはりベスト盤としてこのブーレーズ盤を推す。その理由として、ブーレーズとBBC交響楽団の演奏の完璧さをあげることができる。独唱者と語り手の6人がみな理想的だ。ブーレーズと演奏者たち全員が『グレの歌』を完全にわがものにしている。それもそのはず、ブーレーズとBBC交響楽団と各ソリストは、1973年と1974年のBBCプロムナード・コンサートで、二年続けて『グレの歌』を演奏している。そして、1974年の10月から12月にかけて、入念なセッションを組んでレコーディングが行われた。
     ブーレーズは、第1部から第3部まで一貫してやや遅めのテンポを設定している。第1部冒頭の管弦楽序奏の演奏時間は7分16秒である。現在までにリリースされている全レコードの演奏時間の平均は6分54秒であり、標準偏差は28秒である。(ただし、林光氏がブーレーズ盤と比較検討されていたフェレンチク盤は、私は未聴である。)沈みゆく陽の光を受けてきらめく波と、黄昏が訪れて海と陸が蒼暗くなっていく情景の静寂さを描写する管弦楽序奏は、遅めのテンポ設定が必然的である。ヴァルデマルは、『グレの歌』の主役であり、第1部から第3部にわたって全部で8曲を歌う。歌手にとって非常に負担の重い役どころだ。テノールのジェス・トーマスは、張りのある声で力強く、ドラマティックな歌唱がみごとである。トーヴェは、『グレの歌』のもう一人の主役であり、第1部で全4曲を歌う。ソプラノのマリタ・ネイピアーは、美声であり、可憐なトーヴェ役にふさわしい。彼女のドイツ語の発音は正確なため、安心して聴ける。ちなみに、他の盤のトーヴェ役は、英語なまりで適当に発音する歌手が多く、興ざめてしまうことがある。トーヴェの歌の最後の “Denn wir gehn zu Grab wie ein Lacheln , ersterbend im seligen Kuss ! ” (表示の制約のため、Umlautを省略。以下同様。)の絶唱は感動的だ。「森鳩の歌」は、第1部を締める重要なパートである。森鳩役のイヴォンヌ・ミントンの歌唱が、『グレ』の悲劇にふさわしい重さを与えている。ミントンは、ブーレーズの信頼が厚く、私も大好きな歌手である。1977年録音のブーレーズとの『月に憑かれたピエロ』でも、すばらしいシュプレヒ・シュティンメを披露していた。第3部の農夫役のジークムント・ニムルスゲンは、出番は少ないが、亡霊となったデマルと臣下たちの夜行(やぎょう)の恐ろしさを歌う。道化役クラウスのパートは227小節にもおよぶ。斬新な音型とリズムを伴って、『グレの歌』という巨大な音楽に輝く個性を与え、作品の構成をひときわ魅力的にしている。クラウスは、亡霊となってヴァルデマルの狩りに随行しなければならない身の上を嘆く。難しい役どころであるが、テノールのケネス・ボウネンの歌唱がすばらしい。「夏風の荒々しい狩」の管弦楽序奏は、ピッコロ(および特殊楽器?)による非常に高いh2音とh3音が断続的に響く。少し不気味で神秘的な雰囲気が、「語り」の始まりを待つ私をわくわくさせてくれる。植物学者でもあった詩人イエンス・ペーター・ヤコブセンの詩による「語り」は132小節にもおよぶ。“ Herr Gansefuss, Frau Gansekraut, nun duckt euch nur geschwind, ” という始まり方が魅力的だ。夏の嵐の激しさの中に、蚊の群れ、葦、ブナの葉、蛍、霧、麦畑、蜘蛛、蝶、蛙などが描かれる。中盤の “ Still, Was mag der Wind nur wollen ? ” 以降は、死してなおヴァルデマルを愛し続けるトーヴェの愛による救済が暗示される。ヴァイオリンの音色が、まるで夢を見ているように心地よい。終盤の “ Ach, war das licht und hell ! ” 以降は、死が支配する長かった夜の世界が終わりを告げて、生あるものたちすべてが輝かしい朝の太陽の光を希求する。管弦楽と「語り」は躍動し、最後の一節 “ und spaht nach der Sonne aus. Erwacht, erwacht, ihr Blumen, zur Wonne ! ” を、ギュンター・ライヒは朗々と歌いあげる。終曲「太陽を見よ」の混声合唱へなだれ込む演出効果は絶大であり、圧巻と言うほかない。艶があり落ち着いたシュプレヒ・シュティンメが、壮大な音楽作品を格調高く仕上げている。ライヒを「語り」に起用したことが、このレコードの大成功を決定づけている。

     1975年のブーレーズとBBC交響楽団の来日時、私は5月24日のNHKホールにおける演奏会を聴いた。曲目は、ブーレーズ自作の『リチュエル〜ブルーノ・マデルナの追憶のために』、ドビュッシーの『遊戯』、ストラヴィンスキーの『火の鳥』(1910年原典版全曲)であった。現代音楽の世界初演と現代音楽の古典的作品2曲という刺激的なプログラムは、私にとって生涯忘れられない音楽体験となった。『火の鳥』は、ブーレーズが来日する4か月前にレコーディングが済んでいたニューヨーク・フィルとの演奏とも少し味付けが異なり、ライヴならではの熱い演奏であった。以来、私はブーレーズの新録音をすべて聴きこんできた。とくに、BBC交響楽団とのコンビによるレコードでは、ベルリオーズ、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、バルトーク、ベリオなどの作品に親しんでいる。優れた楽曲を優れた演奏で提供してくれたブーレーズとBBC交響楽団に、私は心から感謝をしている。
     ブーレーズの『グレの歌』もついにSACD化された。全集・選集・海外盤などいろいろあるが、親しい人へのプレゼントも含めると、本SACDは、国内初出LP盤から数えて8回目の購入である。最近、久しぶりにLPレコードに針を落としてみた。もともとの録音がたいへん優秀であることが確認できる。たとえば、第1部の管弦楽序奏においては、林光氏の指摘のとおり、各パートが鮮明に分離して聴こえている。総じて管弦楽の各パートの分離がよく、バランスもよい。非常に優秀な録音である。ただ、終曲の混声合唱の各声部の分離にはやや不満が残る。20bitマスタリングされたCDによって、以前から音質にはとくに不満を感じていなかったが、 SACDの方式上のアドヴァンテージを確かに感じることができる。より自然な音質で、音楽そのものに浸りきることができる。初出LP盤のジャケットデザインが復刻されている点も嬉しい。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

検索結果:13件中1件から13件まで表示