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norry さんのレビュー一覧 

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  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/28

    ショスタコーヴィチの5番は、私にとっては必ずしも関心の高い曲ではない。もちろん、曲として本当に良くできていることは認めるし、それだけに、いったん聴きだすと、結構繰り返して聴いてしまって、「やっぱりいい曲なんだな」という感想は持つのであるが、それにしても必ず残念さが残ってしまう。それは、どうしてもこの曲は、ショスタコーヴィチの、あの有り余る才能を出し惜しんで小さくまとめた曲だという感が否めないからだ。彼がこの曲しか残さなかったとすれば、そうも思わなかったと思うが、1番、4番、7番、8番、10番〜15番という傑作(12番については議論もあろうがインバルは好んでいるようだ)を前にすれば、あまりにコンサートプログラムにおいても優遇され過ぎていて、例えば同じ規模なら1番をやってもらったほうがずっと満足感は高いのに、と思ってしまう。そういう残念な曲を、インバルという、これまた有り余る才能と実力を誇る指揮者と、都響という世界的に見ても屈指の実力を誇るコンビが演奏するのは、ちょっともったいないというか、どうせやるなら他の曲を、と、この演奏の実演も聴いた私は思ってしまうのである。もちろんその不満は、この3月、4月での4番、10番の実演で跡形もなく吹き飛んだばかりか、未だに心に爆弾が落ちたような衝撃として残っている(後者の方は辻井くんのショパン目当ての聴衆が多く、終演後の反応が鈍かったのは残念であるが)。そうは言っても、この演奏の完成度の高さは、インバル自身の2種の録音(FRSOとVSO)をもはるかに凌ぐ。こう言っては不謹慎であるが、今のインバル・都響の実力からすれば、この成果は何ら驚くに値しないと言えるだろう。東京文化会館でのタコ5と言えば、バーンスタイン・NYPのライブ録音(ソニー)が名高いが、この録音は、完全にそれに取って代わる地位を占めると言ってよい。そしてこのCDは、おそらく今年中には発売されるであろう、4番、10番の、あの恐るべき演奏のCDの前奏曲のようなものと言えるだろう。私の言葉を嘘と思うなら、レコ芸5月号の宇野功芳氏の「楽に寄す」を御一読いただきたい。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/02/11

    「マーラー指揮者」とは、どんな指揮者のことをいうのだろうか。いろいろな考え方があるだろうが、私は、中期の5,6,7番を完全に自家薬籠中のものとして演奏できるか否かが最も重要な基準と考えている。というのも、この中期の3曲こそ、マーラーをマーラーたらしめているものだからである。言い換えれば、中期の3曲こそ、マーラーを他の作曲家と画然と異なる唯一無二の作曲家たらしめているということである。そのことを本当に理解できているかどうかこそ、マーラー指揮者がどうかの基準である。そして特に中期の3曲に対する理解の深さにおいて、インバルはまさに他の追随を許さない。それでは中期の3曲の特徴とは何か。4番までのマーラーにおいては、音楽(交響曲)は、自己の人生経験に基づいて認識した世界観や思想を表現する手段という位置づけであったが(ヘーゲル流に言えば即自的存在)、マーラーが作曲家、音楽家としての地位を確立した中期以降、マーラーにとって音楽(交響曲)は、人生や世界を記述する手段としてそれらと別のものではなく、人生と世界そのものとなった(ヘーゲル流にいえば対自的存在)。敢えて大胆に言い換えれば、マーラーという人間の人格とそれが認識する世界そのものが交響曲になったと言ってもいいだろう。従って中期の3曲は、それぞれに完結した、マーラーの人格と世界との関わりであるということができるだろう。それでは7番はどのようなマーラーの人格と世界との関りに対応するのであろうか。以前そのようなことを論じた人がいるかどうか分からないし、それが正しいかどうかも分からないが、私はその昔インバル・FRSOの録音でこの曲を初めて聴いて以来、聴くたびに、消費文明の象徴としての都市が持つ闇の深さや夢やギラギラとした輝きといったものを思い起こさずにはいられないのである。あるいは、都市に生きる近代人(としてのマーラー)の人格が有する反自然性がテーマなのではないだろうか。特に議論の多い終楽章は、音楽をはじめとするあらゆる芸術さえも消費の対象になってしまう都市の文明が放つあだ花のような輝きと言えないだろうか。マーラーはそれを予見していたかのようである。さて、今回のチェコフィルとの新録であるが、5番と同様に、FRSOとの録音にあった狂おしいまでの完璧さの追求は、ここでは見られない。むしろ、より自由になった表現と、多彩な音色が支配的である。それによって都市(にこだわる必要もないのだが)の夜のナマナマしい不気味さが、よりストレートに伝わってくる。本当は、この演奏のどこがどういう風にいいのか、説明するのがこういうレビューの役割なのだと思うが、そもそもインバルのマーラーは、そういった枝葉末節をアピールするのではなくて、上記のような曲や作曲家の本質にストレートに向き合わせてくれるところが何よりも素晴らしいのだ。だから敢えてここのテンポがどう、あそこの表現がどう、ということを論ずる気は起こらない。特にこの7番の場合、FRSOとの録音も、その昔聞いたベルリン放送響との実演も、この演奏も、説得力において本当に他の追随を許さない。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/10/02

    この演奏も実演で聴くことができたが、本当にアンサンブルと解釈いずれをとっても完成度が高く、曲の真価を知らしめる実に優れた演奏だった。2番は、ブルックナーの交響曲の中でも最もマイナーで、そのため、CDも取り出して聴くことの少ない曲だったが、これほどまでに内容の豊かな曲であったかと思い知らされた。ブルックナーの場合、例えば次の3番など典型であるが、アルプスの巨大な高峰を描くかのような雄大な曲想が多いが、この2番はそういった客観的な世界よりも、ブルックナーの心理の襞を表現するような複雑で入り組んだ曲想が展開される。あたかも、日常生活の中でのブルックナーの心象風景をそのまま曲にしたような感じである。こういった性格の曲は、この2番1曲だけだと思う。そういった曲だけに、演奏においてはアンサンブルの精度が物を言うが、その点この演奏における都響の精度の高さは、頻出する歌謡的な旋律の歌いまわし(例えば3楽章のトリオにおけるビオラの旋律の見事さ!)を含め、ちょっと真似のできないレベルに達している。そして弦と管のバランスが本当に絶妙である。他の曲のような、朗々たる金管のコラールが他の楽器を圧倒する部分がなく、ほぼ全曲に渡って、ほとんど室内楽的といっていい繊細な音楽が展開されるが、その一方でブルックナーの特徴である強靭なリズムと律動感は失われていない。本当にブルックナーの恐るべき才能を十全に表現した演奏である。インバルの解釈は、テンポの緩急、音量の配分、音色の配合、どの要素をとっても説得力に満ち、完璧である。FRSOとの旧録も優れた演奏であったが、音楽的に見てもアンサンブルの精度においてもこの新録が一回りも二回りも優れている。終演後の喝采と拍手を聴けば分かるとおり、我々に音楽を聴くことの本当の純粋な喜びをもたらしてくれる、本当に満足感と幸福感の大きな演奏である。もちろん、エクストンの録音の優秀さの寄与が大きいことも忘れてはならない。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/09/23

    EMI盤のフルトヴェングラー,BPOによるブルックナー8番(1949年3月14日。ダーレムのゲマインデハウス〔公民館〕における放送用録音)は,実は,バイロイトの第9ほどではないにしても,マスターテープのソースに問題を抱えている。それが最初に問題になったのが,TESTAMENTが1998年に発売した同じ演奏のCDである。このCDでは,ライナーの解説に,従来からEMIで発売されていたものは,実は3月14日のダーレムでの演奏と,翌15日のベルリンのティタニア・パラストでのライブとのmixtureであると指摘され,今般TESTAMENTが発売したのが正しく14日の演奏の録音である旨指摘されている。実際にこのTESTAMENT盤と,従前から我々が親しんでいたEMI盤とはだいぶ趣が異なっていて,特に,前者は,第1楽章冒頭で,第1主題がトゥッティで轟然と轟く部分が,余りの大音響のせいか,エンジニアが慌てて録音レベルを落とす様子が手に取るように分かるのが特徴的である。これに対し後者は,もともとブライトクランク(独エレクトローラが開発した人工ステレオ)で発売されたためか,かなり残響が加えられているとともに,上述の録音レベルの問題もうまく処理されており,かえって非常にフルトヴェングラーらしいと言えば語弊があるが,若干モヤモヤ感はあるとは言え,ダイナミックレンジの広い音響に仕上がっている。そして,今回発売のこのSACD盤であるが,一聴する限り,これはTESTAMENT盤と非常に似ているように思う(なぜか表示されている時間は割と違うのだが)。特に,1楽章の録音レベル切り下げの問題は全く同じである。私はいかにも元の放送用録音という感じの音のTESTAMENT盤も嫌いではないのだが,この録音レベル切下げは補正してほしかったと思う。本当にこの部分こそフルトヴェングラーならでは,という音が鳴り響いているからだ。各楽器の分離のよさや音場感の広さはこのSACD盤が優れていると思う。それでも,これを聴いて,やはり従来のEMI盤も手放せないことが分かってしまった。いずれにしてもこういった事情について,CDのライナーでもここのレビューでも他の雑誌等でも誰も触れていないのは残念である。演奏論について述べる余裕がないが,一言で言えば,やはりフルトヴェングラーのブルックナーは,他のあらゆる指揮者の到達しえない高みに達していることは,30年間聴いてきてますます明らかになってきたと思っている。最後になったが,是非リスナーの方には3月15日盤も聴いていただきたい。これは14日の演奏をさらに上回る,鬼神も避けて通るような凄まじい演奏である。このような演奏が可能な人間と団体が本当にいたのか,と思うような。

    6人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/06/06

    日本のオーケストラ演奏史において、合奏のレベルの高さにおいても、そして何よりもその感銘度の高さにおいても、前人未踏の領域に達しており、世界的に見ても指折りの充実度を誇ると言ってよいインバル・都響のコンビが、今度はオーケストラのレパートリーにおいて王道中の王道と言ってよいブラームスの1番をリリースした。これも既発売のブルックナーやベートーヴェンのシリーズと同様、ライブ一発録りの録音であるが、内容もこれまで同様、充実の極みである。この演奏も、実演後の各ブログ等で絶賛されており、実演に行くことができなかった私としてはCDのリリースが本当に待ち遠しかった次第であり、正規の発売前に5月11日の英雄の生涯の演奏会で先行発売で買うことができた。実演の評では、「これぞドイツ音楽」という、重厚なブラームスの響きを心行くまで堪能できた、という趣旨の評が多く、それはこのCDを聞いてもそのとおりであると思う。ただ、そこはやはりインバルであり、同時に、ブラームスのスコアを徹底的に分析し、あらゆる微細な音色の対比の妙や、ブラームスならではの充実した中声部の響きを、実に見事に浮かび上がらせている。その結果、同じコンビによるブルックナーの名演と同様、重厚でありながらも非常にアグレッシブなブラームス像を提示することとなった。震災がなければ、次のリリースは3月にあったはずのブルックナー9番やバルトークの青ひげ公になったのであろうが、インバルの再登壇は5月になってしまったため、おそらく次は英雄の生涯とブルックナーの2番ということになるのだろう。いずれも超のつく名演であり、これらのリリースも本当に待ち遠しい限りである。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/05/08

    FRSOとの旧録音も素晴らしい演奏であったが、それをさらに凌ぐ名演である。チェコ・フィルのマーラー5番と同時発売であったため、そちらに注目が行ってしまい、私自身もこの録音(実演ももちろん!)の素晴らしさに圧倒されながらも、レビューはマーラーの方を優先してしまった。ただ、マーラーの方は多少好みが分かれる部分があると思うが、この都響とのブルックナー6番の方は、実演後に出たいろいろなブログでのレビューでも絶賛一色であったし、この録音についても(チェコフィルのマーラーと同様)レコ芸は特選と、極めて評価が高い。とにかくこのブルックナーの全交響曲の中でも地味でありながら、特に4楽章のように複雑な構造を持ち一聴しただけでは飲み込みにくい曲が、これほどまで全曲を通して一貫して強い説得力をもって響いたという例は、インバル自身の旧録を含めちょっと思い浮かばない。ここに存在しているのはもはや、再現芸術行為に従事する指揮者とオーケストラという社会的な存在の枠を超えた、一つの倫理的な実体である、という気がする。彼らは一体となって、ある強烈なメッセージを発している。Langsamer Satzという非常に素晴らしいブログがあり、この管理人の方は、この録音の前日に同じプログラムを東京文化会館でお聞きになったようだが、この方の言葉を使えば、私が感じたメッセージは「肯定への激しい憧憬」ということだと思う。この演奏については私がこれ以上駄文を草するよりも、このLangsamer Satzの文章を是非皆さんに読んでいただきたいと思う。この管理人の方とは何の面識もないが、音楽についてこれほどよい文章にはなかなかお目にかかれるものではない。話がそれてしまったが、インバル・都響は本当に日本のオーケストラでは全く前人未踏の境地に達しつつある。スクロヴァ・読響のブルックナー7番も実演に行き、素晴らしい演奏であったが、残念ながらオケは指揮者が要求するレベルには達していなかった(金管のミスが目立ち、緊張感に欠けていた。)ように思う。それに比べると、都響はそのような緊張感の欠如を感じさせるどころか、指揮者の要求に自信をもって堂々と答え、それだけでなく、それを上回るものを提示しようという気迫を感じさせる。本当に素晴らしいオーケストラになったものである。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 15人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/04/15

    この全集について語りたいことは山ほどあって、到底このレビュー欄には収まりきれない。マーラーの各交響曲のことや、インバルの解釈のことについては、現在進行中の都響やチェコフィルとのチクルスの盤で語る機会もあるので、ここではこの全集について端的に指摘しておきたい。マーラーの音楽の本質である独特のポリフォニーを、この全集ほど十全にそして完璧に表現しえた演奏はかつてなかった。この全集の特徴を一言で言えば、「完璧さ」である。この時代のインバルとFRSOが、いかに狂おしい情熱をもってマーラーのスコアの本質の完璧な再現に挑んだか、これはその前人未踏の記録なのである。このレベルの録音が、わずか2年の期間で、しかも番号順(8と9は前後した)に発売されたというのは、いまだにレコード業界での奇跡であろう。「冷静、分析的」であると評されることが多いこの全集であるが、それは、情熱を抑制、制限した結果での冷静さや分析的再現なのではなく、むしろ、完璧さを目指して熱狂的であればあるほど達成される冷静さであり、分析的表現である。ここを誤解してはならない(誤解している人が多い)。それにしても、これほどまでに潔く首尾一貫した態度でのレコード製作というのも珍しいであろう。しかも巨費を投じなければならないマーラーの全曲演奏という仕事においてである。これは、川口義晴という稀に見る志の高いプロデューサー(デンオンにおける氏の業績はもっともっと評価されなければならない)と、ピーター・ヴィルモースという天才エンジニア(B&Kマイクによるワンポイント録音という方式も、氏の天才的なセンスあってこそ至高の音響に繋がったと思われる)、そして何よりも、インバルという天才指揮者のトライアングルによって達成された、20世紀の文化遺産である。やはり製作会社が、バブルに向かって突き進んで行く時代の日本の会社(デンオン)であったということも大きいであろう。大袈裟かもしれないが、私が歴史家なら、この全集はバブル期の日本が世界の文化に貢献し得た最大の事例の一つと評価したいところである。マーラーの全集は他にも枚挙に暇ないところであるが、どれが歴史の評価に耐えるものであるか、この全集は身をもって証明するだろう。「端的に」のつもりが長くなってしまって恐縮である。

    15人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/04/02

    初発売後9年近くを経て、ようやく購入した。実は、きっかけは先日発売された復活の新録音であった。レビューにも書いたが、私はこの復活の新録音にはさっぱり感心できない。私のレビューに相当多くの方に共感していただき、我が意を得たとも思ったが、しかし、他方で多くの方は極めて高く評価しておられる。どうも、ラトルのマーラーは、人によって本当に評価が分かれるようである。そう思ってこの第5のレビュー欄を見てみると、復活以上に評価が分かれている。いったいどういうことだろうと思って買ってみたのである。一聴して、なかなかいい演奏だと思った。第5は、それまでの曲以上に対位法を用いたポリフォニーが特徴的であり、それだけに指揮者、オーケストラともに本当に高度な能力が要求される。この曲の場合、そのような技術的な面をクリアすることが、実は「内容」的な共感を表現することよりもずっと重要なことなのだが、その点、この演奏はほぼパーフェクトに感じられる。「復活」ももちろん、技術的な点は十分及第点なのだが、要するに曲の内容にラトルが心から共感していないような距離感が感じられた。それに対してこの第5については、そのような距離感も感じられない。またカラヤンのような(これは世代的な限界であろうが)過剰な演出感もないし、アバドよりも表現が角張っていてマーラーには相応しいと感じられる。BPOとの演奏ではハイティンクと双璧ではないか。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/04/02

    「第5」がマーラー全交響曲中でも極めて重要な位置を占めることについてはいかなるファンも異論はなかろうが、その理由についてはいろいろな語り方があるだろう。私は、それ以前のマーラーの交響曲は、曲によって様相の違いはあれ、マーラー自身の内奥から迸り出てくるもの、という意味での自分の「語りたいこと」、つまりは「内容」を曲に表現するというアプローチであり、従って楽章構成も含めた曲の「形式」については極めて自由な態度で作曲されていたのに対し、第5では、ベートーヴェンからブラームス、ブルックナーに至る伝統的な「交響曲」というジャンルの存在様式が強く意識されている点が何よりも特徴的であると考えている。第4で青春時代の幕を閉じ、芸術家としての壮年期を迎えたマーラーは、「抽象的な主題の展開による音響のドラマ」、「絶対音楽」としての交響曲に挑戦した。そして完成した作品は、表面的には、「暗黒から光明へ」、「苦難から勝利へ」というベートーヴェンの第5のプログラムを表面的には踏襲しつつも、性格の異なるいずれもユニークな主題を多くの場合同時に展開させる極めて高度な作曲技法を駆使することにより、「高貴なものへの卑俗なものの貫入」、「同質的なものからの排除」、「絶対に到達できないものへの渇望」といった、マーラー自身の矛盾に満ちた精神性を見事に抽象化・結晶化したものとなった(終楽章がブルックナーの第5のフィナーレを意識したものであることはマーラー自身の言葉としてアルマが語っているとおりである)。このような第5の特徴を前提とすれば、その演奏は、第4まで以上に、指揮者とオーケストラの極めて高度な能力が何よりも必要とされることは明らかである。特に重要なのは、マーラー特有のポリフォニーを十全に表現し切ることである。この曲は冒頭のファンファーレはじめ、一度聴いたら忘れられない多くのユニークな主題が登場するが、どんなに特徴的な主題が展開されているときでも、音楽はその部分だけに収斂されない(というよりも、されてはならない)。音楽は、常に全体で鳴っている音響(しかもブレンドは決してされない)そのものにある。一般に優れた指揮者や奏者は、作品の部分・部分において主導的な地位を占める箇所を鋭く嗅ぎ分け、その響きを前面に出すことによって演奏の交通整理を行うものだが、マーラーでは、そのような方法では音楽の半分しか表現したことにならない。だからといって、全部の音をのべつまくなしに鳴らすのでは音楽自体が崩壊する。マーラーの演奏は、いかなる瞬間も、崩壊する一歩手前まで響きを拡散させつつ、主題は主題として明確に認識させるという、極めて矛盾した能力が要求される。そしてインバルほど、この種の能力を高度に身につけた指揮者を私は知らない。それは能力というよりは、民族性に裏付けられた本能のようなものだろう。1986年1月に録音されたFRSOとの第5は、彼のマーラー指揮者としての名声を世界的に決定的なものにした名演であり、今聞いても神がかった、あるいは狂気としか言いようのないほどの繊細さに裏付けられた完璧さは、今後もおそらく凌駕し得ないものであろう。今回のチェコ・フィルとの2011年1月の録音は、そのような「完璧さ」を誇るものではない。インバルは最早そのような狂気じみた完璧さを追求する時期は既に過ぎたと自覚しているのであろう。代わりに、最近の都響との超名演にも現れているように、スコアの指示を精密に再現するために十二分な繊細さはあくまで維持しつつも、よりテンポの動かし方の点においても、主題の歌わせ方の点においても、長年の経験に裏付けられた自由自在さが支配的である。そして、やはりチェコ・フィルの、特に管楽器の華やいだ音色の豊かさはかけがえのない魅力である。ただ、同じチェコ・フィルの録音でも、トランペットとホルンが強調され、両楽器の協奏曲のように聞こえたノイマンの93年の録音(エンジニアは同じ江崎友淑氏)と異なり、本録音はどの楽器に偏ることもなく、あくまで響きがトータルに捉えられているのは、インバルのアプローチに沿った方向性であり、ある意味、ワンポイント録音を売り物にしていたFRSOとの録音とも共通する趣と感じられる(トランペットはケイマル氏ではないように思えるが)。そのような録音の方針のせいもあってであろうが、終楽章のコーダはまさに青空の空中で太陽の輝きを一身に浴びるような壮大にして爽快な感銘を覚える(練習番号33の6小節目の、コラールに入る直前で大きな間を空け、そこにティンパニがクレッシェンドでトレモロを打ち込む場面は鳥肌ものである)。カラヤン、ハイティンク、アバド、ラトルと、この曲はBPOの名演が多いのであるが、BPOやVPOでは、弦の響きに厚みがあるため、終楽章では熱演になればなるほど、ゴリゴリと響きが野暮ったくなってしまう。例えば同じ複雑な対位法が用いられたフィナーレでも、ブラームスの第2やブルックナーの第5だと、こういった弦の分厚い響きも相応しいものとして感じられるのであるが、マーラーの第5の場合は、どんなに弦の各部がそれぞれのユニゾンで複雑に動く場合であっても、軽やかさは不可欠であり、インバルのアプローチはFRSOにおいても、チェコ・フィルにおいてもまさに理想的である。そうであってこそ、4楽章のアダージェットの主題がGraziosoで登場する場面が生きてくるのだ。いずれにしても、今回の録音は、チェコ・フィルの、素朴にしてエレガントな響きを得たことにより、1楽章の葬送行進曲も、2楽章の激動する嵐も、3楽章の生と死の舞踏も、4楽章の甘美極まりないアダージェットも、終楽章の輝かしいロンドも、すべてが滴るような美しさに満ちている。インバルがこの録音を残したかったのも全く肯けるところである。ただ、私は、今の都響がインバルと同じこの第5を演奏したとして、これに劣る演奏になるだろうとは全く思えない。東日本大震災の影響で、3月と4月のインバル・都響の演奏会が全てキャンセルされてしまったのは本当に残念であるが、今後も両者には引き続き名演を次々と残して行ってもらいたいと思う。もちろん、インバル・チェコ・フィルのマーラーも引き続き続けて行って欲しいものである。既に第7が録音済みのようであり、リリースが待ち遠しい。インバルという本当に稀有な指揮者の録音は、いくらあってもよいと思うし、特にマーラーはそうである。

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     2011/02/16

    マーラーの6番は、マーラー版「英雄の生涯」である。ただ、それを、血と汗に満ちた波乱万丈の物語として味わいたい方には、この演奏は不向きであろう。しかし、そのような捉え方では、この曲の半分しか理解したことにならないし、この曲が、マーラーの中期のさらに真ん中に位置する、要の位置にあるということも考えれば、上記のような捉え方はむしろ皮相的なものといわざるを得ない。この曲は、その叙事的な内容に増して、むしろ、新ウィーン学派へと繋がる音楽の未来を切り開いた曲としてこそ、より重要なのである。シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンがマーラーの弟子というのは、特にこの曲と、後は9番の後継者としてなのだ。詳しくは専門家の分析を読んでいただければよいが、端的に言えば、交響曲の進行において、和声的な展開を前面に出すのでなく、調性をあいまいにするとともに、多様な楽器による多様な音色の展開による対位法的な進行の主導によって交響曲を組み立てた点が革命的なのである。そしてインバルによるこの演奏は、この曲のこのような真の新しさを完璧に表現しつくしている。何度聴きなおしても、これ以上の表現はないし、他のどの演奏(バーンスタイン、ショルティ、テンシュテット、アバド等、名演は枚挙にいとまないことは否定しない)を聴いても、結局これに帰ってくる。インバルは、実演ではそれこそ心臓が止まるような凄まじい演奏を繰り広げるのであるが、レコーディングではこれだけ冷静になり、曲の本質のみを描きつくす演奏ができるのがこの指揮者の非凡極まりないところである。声涙ともに下るような破滅型の演奏では、この曲の真の価値を味わいつくすことはできない。そもそもこの曲に情念のカタルシスばかりを求めようとする態度は、マーラーの比類ない音楽的知性を愚弄するものというべきだろう(あるいは、マーラーの音楽の真の新しさを理解せず、強引にロマン派風の理解を押し付けようとする弊害というべきだろう)。録音に癖があることは、この全集通じて言えることであるが、逆にそれまで聴いてきたマーラー演奏による塵と垢を洗い流して耳を傾ければ、これほど得るものの大きい全集はないのである。繰り返しになるが、この演奏を聴くと、シェーンベルクがなぜこの曲を高く評価していたかが本当によく分かる。

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     2011/02/12

    インバルの「復活」は、私にマーラーを初めて理解させてくれた演奏である。もちろん、1985年のFRSOとの録音である。それまで、私はマーラーに疎かった。というより、他のどの指揮者のどの曲の演奏を聴いても、さっぱり理解できなかった。しかし、当時番号順に確か2か月に1度くらいの頻度で発売されていた(それ自体今でも他に例がない驚異的なことである)FRSOとのチクルスを、大学の友人から薦められ、最初に買ってみたのが「復活」であった。1楽章開始の弦のトレモロの音を聴いた瞬間、何かそれまで耳にした演奏とは全く次元の違うものを感じた。脳髄のすべての神経細胞に電流が走ったかのようであった。聴き進んでいくにつれ、あたかも、それまで全く聴き取れず、意味の分からなかった外国語の意味が手に取るように分かるような、そんな体験の中に自分がいるのを感じた。それは私に「啓示」としてマーラーの言葉が訪れた時であった。私は、音楽そのものが、比喩ではなく存在として「言葉」そのものであるという、マーラーの音楽の革命的にして比類なき性格を、他の誰でもなく、インバルから教わったのである。それ以後、マーラーを筆頭とするインバルの演奏、録音は、私にとって常に導きであり続けた。そして四半世紀を経て、今度は都響によるこれまた比類のない録音が出た。この実演を妻子とともに聴くことができたのも、誠に感慨深い。「復活」という曲は、私の理解では、犯行を行わなかったラスコーリニコフの曲である。つまりこの曲の主人公である自意識過剰の青年は、現実の犯行に手を染める代わりに、音楽の中で、自らを滅ぼし、そしてその再生を希求したのだ。インバルの「復活」の1楽章は、そんな自意識過剰の青年の危険極まりない自意識の刃そのものである(ハンス・フォン・ビューローはその刃を感じ、拒否したのだろう)。2楽章は自意識の夢想であり、3楽章は自分を受け入れてくれない日常性への呪詛であり、4楽章は祈りであり、5楽章は自意識が自らの刃で滅ぶとともに、自己の全エネルギーを再生への希求として放出するドラマだ。人によってはこの5楽章の力みかえった、「こけおどし」的な性格を嫌う人もいるが、インバルの、徒な描写的表現に走らない、極めてストレートでかつ精密な演奏では、そうすることで自己の自意識からの救済を企図せざるを得なかったマーラーの内的必然性が感じられ、極めて説得的である。ただ、今回の都響との演奏では、FRSO当時より年月を経てインバル自身がラスコーリニコフから遠くなっていることで、表現に余裕と、何よりも絶対的な自信が感じられる。あたかも、青春の「危機」から脱する道がここにある、と、慈父のように指し示してくれているかのようである。多少演奏論らしい話をすれば、とにかくインバルの演奏は、スコアに忠実である。もちろんそれは盲目的な墨守とは次元の違う話である。御存知のとおりマーラーのスコアには、強弱やテンポの指定のみならず、コル・レーニョ、グリッサンド等の特殊奏法、別働のバンダ等細かい指示がゴマンとあるのだが、インバルは、スコアのどの部分を縦に切っても、その瞬間における音響の全体像を押さえた上で、それぞれの楽器に対する指示が具体的にどのような意味を持つのかが徹底的に考え抜かれ、かつ正確に実践されている。残念なことにほぼ同時期にリリースされたラトル・BPOの演奏も例に漏れず、部分的に特異な響きを強調したり、特異なテンポを取ることがマーラー解釈であると誤解している指揮者が多いが、インバルはいかなる演奏をするときにもそのような愚かなミスを犯すことはない。なぜなら、どんな指示に基づく音響も、スコアの縦の線の中での位置づけを明確に認識した上でなければ音にしないし、また、前後(横の線)との関係でテンポも考え抜かれているからである。そうでなければ、マーラーがスコアに徹底して意識的に刻み込んだ「言葉」が伝わるはずがないのである。アドルノの碩学を待つまでもなく、マーラーの音楽は「書かれたもの」なのである。私は、ときどきインバルの演奏が一つの巨大な「文字」に感じられることさえある。それは恐らくユダヤ教の精神世界とも通じるものなのであろう。本演奏では、声楽の素晴らしさも讃えなければならない。ナーデルマンは本当に清らかな乙女のような声であるし、フェルミリオンの深く優しい声は、マグダラのマリアを連想させる。二期会合唱団の精密な声のコントロールも見事である。そしてまた最後になってしまったが、都響の精密極まりない、しかしエネルギーに満ち溢れた白熱の演奏は、(何度も引き合いに出して申し訳ないが)ラトルの振るBPOを明らかに凌いでいる。インバルが振るときの、合唱を伴う大オーケストラのクライマックスでは、あたかも超新星爆発のような膨大なエネルギーの放出を素粒子レベルで見通せるような、極端な規模の大きさと極端な精密さが同時に実現される(特にFRSOとのシェーンベルク「グレの歌」の終結部!)のであるが、今回の都響の演奏も全くそのとおりの成果を実現している。実は、この演奏の終演後、会場のサントリーホールの前のアークヒルズのレストランで家族で食事をしていたら、演奏を終えた都響の方々がやってきて、ちょうどその日にやっていたワールドカップの日本・オランダ戦をテレビ観戦して大いに盛り上がっていた。私にもしもう少し財力があったら、彼らにこの演奏への感謝を込めてビールを一杯ずつ奢りたかったところである(あるいはブルックナーがVPOにしたように揚げパンか?)。彼らの充実感に満ちた笑顔は忘れられない思い出でもある。いずれにしても、今後もインバル・都響の快進撃はまだまだ続くようだ。この幸福は何にも代えがたい。

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     2011/02/11

    大いに期待をもって購入したが、結論から言って非常に残念な出来である。大きな理由の一つは、1楽章のテンポ設定が非常に恣意的なことである。後半当たりから非常に間延びして、緊張感がなくなり、音楽に全く必然性が感じられなくなってくる。スコアを見ても、どこにそのテンポを取る手掛かりがあるのか全く分からない。もちろん、クレンペラー等、遅いテンポでも説得力のある演奏はあり、それは、各楽器間の音色を対比させるに必要な緊張感が常に維持されているからであるが、この演奏ではそのような緊張感もテンポの弛緩と平仄を合わせたように萎えて失われてきてしまう。終結の下降音型にたどり着くころには始まりのときと同じ楽章とはとても思えない。どこにそのような指示が書いてあるのであろうか。これに対し、2楽章、3楽章は、まずは及第点である。ただ、ベルリン・フィルであれば、もっと実力が出せたはず。4楽章も、あえて自分の奥さんを起用しなければならなかったほどの歌唱であるとは思えない。5楽章も1楽章と同様のテンポの弊があり、もともとの弱点であるこけおどし風の音楽が本当にこけおどしに聞こえてしまったのは残念である。同じベルリン・フィルであれば古くなったがハイティンクを聴くべきであろう。私はマーラーでは断然インバルを支持しているので、バイアスがかかっていることは否定しないが、その頑固者の私でも、例えば、ショルティ/シカゴ、小澤/サイトウキネン、アバド/ルツェルン等は極めて高く評価している。これらの秀演に比べれば、これは初演のオケのベルリン・フィルであるだけに残念という他ない出来である。1点ラトルのために申し添えれば、EMIの録音でかなり損をしているとは思われる。いずれにしても、マーラー・イヤーにおけるベルリン・フィルとその常任指揮者の演奏だから誉めなければならないわけではなかろう。

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     2010/12/02

    3番はマーラーの青春の総決算であるとともに、音楽によって森羅万象を描こうとする壮大な試みでもある。しかしそれは、リストやR.シュトラウスの交響詩のような、音楽による絵画ではなく、19世紀ヨーロッパ哲学・文学の流れに深く棹をさした、「世界解釈」の試みである。そして(4楽章のテクストの出典がツァラトゥストラであることに加え)多くの識者が指摘しているように、この曲は、「(神の死と)超人」、「力への意思」、「永劫回帰」をそれぞれ倫理的、存在論的、認識論的核心とするニーチェ哲学に深く関わっている。暗く混沌とした金管の咆哮と低弦のうねりの中から力強い行進曲が繰り返し生まれついには凱歌をあげるに至る様子を描いた1楽章は、世界の実相としての「力への意思」への賛歌であろう。ただしマーラーは、その描写において、自己の体験に根ざした卑俗な旋律やリズムを用いることにより、「高尚」なジャンルであったはずの交響曲にイロニーとパロディを導入した。それは、ニーチェの語りの特徴の一つである告発調を迂回する、マーラー一流の「神の死」に関する語り方であろう。特にこの「神の死」のテーマは、5楽章の(映画で言えば)「予告編」を経て、4番でまとまった作品として結実することとなる。さて、そろそろ本題のこのインバルの新録である。実演でも魂が震える感動を覚えたが、(他のインバルの演奏に漏れず)その感動の本質は決して(例えばバーンスタインに特に著しい)情念のカタルシスではなく、あらゆる物理的・肉体的制約を超越し、あたかも脳内に直接移植されるかのようにしてマーラーの「言葉」を認識し得た喜びと充実感である。私はそれを「何を大袈裟な」と嘲笑されたとしても、「啓示」という言葉で表現することに躊躇を覚えない。その啓示がなぜ生まれるかと問われれば、ひとえに彼の演奏では全ての音に神経が通い、緊張感で張り詰め、にも関わらず限りなく充実しているからである。そして(ここが重要であるが)それにより、音と音の差異が極限まで際立ち、そこから限りなく豊饒なる(ソシュールの術語を借りれば)シニフィアン、小生の勝手な解釈で言えば始原的なる言葉が生まれ出るからである(この点において、インバルのマーラーは、MTT、ブーレーズ、アバド、ヤンソンス等の、むしろ最近は主流となった「精緻」なマーラー演奏と完全に一線を画している)。インバルは決して音を情念の媒体としない。どんなに音が熱く燃えていようと、それは、情念を誘発するためでなく、他の音との差異を際立たせることによって、始原的なる言葉を生み出すために燃えるのである。このような演奏で2楽章と3楽章を聞くと、両楽章が(人間以外の)無垢の地上の命を描くものであることも直ちに了解可能である。特に3楽章の舞台袖から聞こえてくるポストホルンは、無垢な魂にしか聞こえない(そして人間にとっては死んでしまったかもしれない神の)呼び声であるかのようである。4楽章では、ツァラトゥストラ第4部の「酔歌」の悼尾で永劫回帰の秘蹟が語られる「ツァラトゥストラの輪唱」がテクストとして用いられているのであるが、この演奏では、6楽章が4楽章のテクストと深くつながっていることが痛感させられる。つまりそれは、「愛による世界の救済」といった単純な大団円ではない。むしろ、深く世界に絶望しつつも、永劫回帰の認識をもって、絶望の深さの深奥に生の喜びの可能性を見出そうとするマーラーの叫びであるかのようである。村井翔氏は、高著「マーラー」において、6楽章終結部のティンパニの連打を、R.シュトラウスの「ツァラトゥストラ」冒頭のティンパニの連打と対比し、後者がニーチェの「ツァラトゥストラ」第1部の冒頭の日の出の場面であるのに対し、前者は第4部終結部で言及される朝日のようであると指摘したが、蓋し、炯眼であり、至言である。そして小生などはこの指摘はこのインバルの演奏にこそ相応しいと思うのだが、同氏による評価が必ずしも高くないのは残念至極である。字数も相当量を費やしてしまったが、都響の演奏への賞賛を省略するわけにはいかない。この3番は、広いキャンバスに伸び伸びと絵筆を振るうかのような自由闊達な書き方がされているだけに、演奏も雄大なスケールを強調した、ある意味「緩い」表現でも納得させられてしまうことが多い。それだけ「名演」が生まれる幅は広いと言ってよく、そのような演奏に慣れた耳からすると、この演奏の豊饒ながらも厳しい響きは、若干違和感を感じさせるのかも知れない。しかしそれでも、この演奏の、特に内声部の極めて充実した響きと合奏の正確さ、精密さは、欧米の超一流のマーラー・オーケストラの水準に一歩もひけを取らない(というより凌駕している)。この都響の響きは、若干例えが唐突ではあるが、黒澤映画の、力強く骨太ながらも、隅々まで精密に焦点のあったパン・フォーカスの映像を想起させる。(また大袈裟と言われるかも知れないが)都響に代表される日本のマーラー演奏は、黒澤、小津、溝口等が活躍していた黄金期の日本映画の国際的水準に比肩し得るレベルに達していると言ってよいのではないか。来年度はマーラーのプログラムは2012年3月の大地の歌のみのようであるが、代わりにショスタコーヴィチのシリーズ(特に最高傑作である4番を含む)が予定されている。本当に楽しみである。エクストンさん、今後も名録音を宜しくお願いします。

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     2010/10/31

    汲めども尽きせぬ魅力に満ちた演奏である。一見、昨今の時流に反した大編成のオーケストラによる大時代的なベートーヴェンに聴こえるが、実際にそこから立ち現れてくる音楽は、あらゆる意味において紋切り型のイメージを打ち破るものである。だからと言って、奇を衒ったアプローチや音響は皆無であり、演奏の根底にあるのは、インバルの指揮の下、それぞれのパート譜が内包する音楽を最大限正確かつ真摯にあらわし尽くそうとする都響の各奏者のもちろん高度な能力に裏付けられた献身的な姿勢である。そういった各奏者が放つ瞬間瞬間の音楽の充実が、一貫して比較的余裕を持ったテンポ感に基づいて設定される大きくて風通しのよい音楽空間の中に展開し、あたかも誕生間もない宇宙のような、多様な種類のエネルギーに満ちた高密度の時空を作り出している。そのエネルギーは、「精神」という言葉を用いて表現したくなる何かであり、つまりはベートーヴェンの言葉に他ならない。他の演奏との比較で言えば、アンサンブルは極めて緊密かつ正確ではあっても、セルやクライバーやショルティのような、ギリシア彫刻に範を取るような筋骨隆々たる造形美を誇るタイプのものではない。また、編成は大きくても、晩年のカラヤンのような耳を覆わんばかりの音響の洪水でもない。むしろ内容的にはフルトヴェングラーやクレンペラーのように、大きな精神そのものを感じさせる。あたかも、シェイクスピアのドラマやヘーゲルの絶対精神が、同時代の存在として我々に語りかけてくるようである。そしてベートーヴェンの音楽とはやはりそのようなものではないか、という問いかけを、インバルは我々に提示している。精神論はこれくらいにして、より即物的にこの演奏の長所を語るとすれば、とにかく、各パートのバランスが絶妙であるということに尽きるであろう。それは、全体の響きをあらかじめ措定し、それに合わせるように各部分の長短を切り揃えて作られるようなバランスではなく、上記のように各パートが最大限自己のパートの音を充実させることによって自ずから達成されるバランスである。その中でも、例えば第5の1楽章や終楽章におけるテヌートの強調など、インバルがさりげなくも大胆に自らの「署名」を施している点も、この演奏の巨匠的な性格を印象づけている。これらの演奏の実演は聴くことができなかったが、最近の定期演奏会の某指揮者のブルックナーなどを聴いても、現在の都響は、堂々と自信を持って自分たちの演奏を指揮者と聴衆に提示している。単なる技術面のみならず、メンタルな面でも、従来の小じんまりとした日本のオケの枠を完全に超えてしまったと言えるであろう。それに至るには若杉、ベルティーニ、デプリーストの貢献もあったであろうが、何といっても、プリンシパルとしてのインバルの指導力が決定的であることは疑いを容れない。

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     2010/09/25

    ブルックナーの初稿をどう理解するかはファンにとって一つの問題である。同じ作曲者である以上偽典とは言えないし、外典と言おうとしてもむしろこちらが先に書かれている。今やブルックナー演奏界において最も権威ある教父たる地位を獲得したと言っていいギュンター・ヴァントは初稿を蛇蝎のように嫌っていた。ブルックナーが真の神の啓示にたどり着く前に逢着した悪夢とでも看做していたのであろうか。楽理的な分析は専門家に任せるとしても、今回の8番で言えば、広く流布した第2稿に慣れきった耳からすれば一聴して余りに奇異な響きに満ちており、その印象は、第2稿の響きが余りにも「神々しく」美しいものであるだけになおさらである。しかし、この、インバル・都響による初稿の実に見事な新録を聴くと、逆にそのような第2稿の分かりやすさがむしろ陥穽ではないか、という気がしてくる。無邪気な某評論家は、ブルックナーの本質は「宗教性」であるとか「自然」であるなどと言うが、第2稿の響きは、確かにそのような特定の形而上学的な概念に収斂させやすい性質を持っている。それは、要するに初稿について支持者の理解を得ることができなかったブルックナーが行った改訂作業が、(意識したかどうかは別として)そのような統一的な概念=響きに曲を収斂させる方向で行われたからということなのではないか。要するに、初稿はもともと、そのような「神」や「自然」といった(それ自体歴史的に形成された)形而上学的概念による統一的な理解を拒否する書き方がされているのである。いささか強引かも知れないが、むしろ初稿は、いかなる概念(単に「意味」と言ってもよい)にも結びついていない、始原的なる言葉として書かれたものなのだ。そしてこれこそ、インバルが音楽の本質として確信しているものに他ならないし、敬虔なカトリック信者として自他ともに認めていたブルックナーの音楽の、もう1つの(隠された)本質である。だからこそインバルは、ここまで初稿にこだわるのである。ブルックナーだけではない、彼のマーラーも、ベートーヴェンも、ショスタコーヴィチも、ベルリオーズも、すべてが始原的なる言葉として見出されたときの新鮮な美しさと驚きに満ち満ちている。このような音楽の本質の捉え方において最もラディカルな原理主義者であるインバルは、このブルックナー8番の20数年前の初録音時においてもそうであったはずであるが、今回の新録の、この段違いの説得力は何であろうか。ここにこそ「円熟」という言葉が当てはまるところであろう。敢えて言えば、第2稿と比較して頻出する薄い響きや強弱・音色の対比を、極めて丁寧に、かつ繊細に再現しているところが成功の原因であろう。もちろん、これは、進境著しい都響の献身的な演奏によるところ極めて大である。例を挙げれば、第1楽章の第1主題提示部開始時の弦のトレモロ!これこそ裂帛の気合と言わずして何であろう。同楽章の中間部の巨大なクレッシェンドで、ティンパニが打音の音色を少しずつ変えていくところなども、鳥肌ものである。具体例を挙げるときりがないのでこれくらいにするが、いずれにしても、ここまで「豊饒さ」を感じさせてくれるブルックナー演奏もかつてないものである。この演奏も5番と同様実演で聴いているが、この演奏はむしろこの録音の方がさらによく曲のことを理解できるように感じたのも新鮮であった。来月は既にベートーヴェン5番、7番のリリースが決定しているようであるが、インバル・都響そしてエクストンがさらに豊饒なる音楽の恵みを我々にもたらし続けてくれることを切に願いたい。

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