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遊悠音詩人 さんのレビュー一覧 

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/07/22

    遂に理想通りのラフ2が姿を現した!

    ラフマニノフの交響曲第2番は、濃厚甘美な旋律の宝庫である。特に第3楽章はロマンティシズムの極みというべき美しさであり、一度聴けば忽ち恋に落ちるであろう。

    しかし、甘い旋律だけが魅力なら、単なるメロドラマに過ぎなくなる。この曲が、純然たる交響曲であるからには、何か別の魅力があるに違いないのだ。

    その魅力とは、構成原理にある。人は美しい旋律に目を奪われて、この曲に込められた一貫した意識に気づかない。だが、構成原理に目を遣ると、第1楽章序奏部の4小節目にヴァイオリンにて提示された動機が、全ての楽章に姿を変えて現れ、全曲を統一していることに気づくだろう。濃厚甘美な第3楽章のクラリネットのソロも、この動機の発展形と見做すことが出来るのだ。

    私は、こうした一貫性に、一度は作曲の筆を折られるまでに追い詰められたラフマニノフの、再起を賭ける意思の強さを感じる。長い冬を越えた人生の束の間の春を愛でるかのような旋律と、それを支える強靭な信念の調和があって初めて、この曲の真価が発揮されよう。

    動機は、全曲に渡って、裏に表に出てくる。だが、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストのラフマニノフらしくピアニスティックな音形が頻出する曲の中で、ややすると動機が埋もれがちになる。特に、美しい旋律の裏で装飾的に動機が登場する場合は尚更だ。大方の指揮者の場合、美しい旋律を響かせることばかりに重きを置いて、肝心要の動機の処理を御座なりにするか、逆に、動機を活かすことばかりに気を取られる余り、カンタービレの精神を忘れるケースが多い。

    その点、キタエンコはさすがである。旋律を緩急抑揚たっぷりに歌わせながら、各声部のバランス配分を完璧にコントロールすることで、埋もれがちな動機や微細な音まで拾い上げる。その結果、掛け合いの妙やニュアンスの変化まで克明に聞き取れ、微妙な心情の移ろいまで感じ取ることが出来るのである。テンポも中庸を得ており、有名なプレヴィン盤に近い。それゆえ、例えばマゼールのように拙速で旋律の美しさを犠牲にすることも、スヴェトラーノフのように感情過多で食傷気味に陥ることもない。しかも、プレヴィンのような汎ヨーロッパ的な洗練さとも異なり、あくまで響きの重心は低く渋く、深いコクがある。そのうえ絶妙なテンポの揺れがあり、通り一辺には些かも陥っていない。アンサンブルも素晴らしく、艶やかな弦や咆哮する管など、魅力に溢れている。最強奏でも決して響きがダマにならず透明感を確保しているし、ガラス細工のようなピアニシモまで、ダイナミクスの幅が凄い。暗く渋いホールトーンを再現する録音も優秀であり、これでこそラフマニノフのメランコリックな性格に似つかわしいと言える。

    因みにHMVレビューでは「ヴァイオリン両翼配置」と銘打っているが、これは誤りで、通常配置であることを指摘しておこう。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/04/17

    冒頭、異常な興奮状態にある観客の万雷の拍手に迎えられたホロヴィッツ。何と、バッハのド頭からミスタッチ!それからもミスタッチの連発で、おまけに特有のアクの強いデフォルメに彩られる。勿論、技術の完璧さのみが音楽の全てではないし、いやむしろエモーショナルなものであることは百も承知である。長き封印を破ったホロヴィッツに去来するものが一入だっただろうことも、想像に難くない。だが、それを斟酌してもやはり、この演奏会は異質だったと言わざるを得ない。オリジナル・マスターテープからのDSDマスタリングが、ますます彼のミスや誇張を助長させる、皮肉な結果となった。これでは、“Historical Return”ならぬ“Hysterical Return”だ。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/04/02

    眉唾物!

    樋口氏の熱烈なファンから聴いて欲しいと言われ渋々聴いたが、「三大テノールを彷彿とさせる」云々など、よく言えたものだと訝しく思えるほど、素人臭くて仕方ない。

    常に上擦る音程、日本語のカタカナのような発音、おまけに、演歌コンサート並みのナンセンスなアレンジなど、「どこがパヴァロッティだ?どこがカレーラスだ!?どこがドミンゴだー!!??」と、怒り心頭。

    盲目的なファン心理を疑う。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/03/30

    ラヴェルは矛盾を孕んだ作曲家だと思う。軽妙洒脱でありながら、古典的造形美にも事欠かない。人一倍感性が豊かなのに、計算づくで曲を書く。オーケストレイションは極めて精緻な癖に、そこはかとなくデカダンやペシニズムの香りが漂う。

    思えば、チェリビダッケもまた、矛盾に満ちた人間である。親の仇のように録音を嫌い抜いていたにも拘わらず、メディアと無縁でいられない放送局お抱えの楽団を振りまくる。厳格極まりない暴君のようでいて、意外なほど人懐こい。ブルックナーで大伽藍を築くかと思えば、近代音楽ではユーモアの限りを尽くす。

    そうしたことからも、チェリビダッケの芸風とラヴェルの作風は、意外なほどにマッチしているのだろう。現に何種類かの録音が知られている。

    しかし、またしても、チェリビダッケ壮年期の《ボレロ》がお預けだ。シュトゥットガルト放送響盤にもフランス国立放送響盤にも、そして当盤にも、おおよそ“ラヴェル管弦楽曲集”と銘打つ盤には必ず入っているはずの《ボレロ》がない。

    現在CDで聴けるチェリビダッケの《ボレロ》は、1993年収録のミュンヘン・フィル盤しかない。チェリビダッケ晩年特有の激遅テンポ(18分11秒!)で、スペイン舞曲的な昂揚やフランス的なエレガンスとは無縁の、息詰まるほどに緻密な演奏だった。壮年期のチェリビダッケは晩年ほど精緻に固執することなく、さりとて細部のニュアンスの妙は驚くべきもので、そこに晩年にはない前進性が乗っている絶妙なものだった。その時期の《ボレロ》は、どうやら映像なら残っているらしいのだが、CD化に適うだけの音質ではないのだろうか。何とも残念である。

    しかしながら、ここに残された演奏は何れも秀逸だ。もっとも、曲目は既出盤と丸被りだが、ここでは音質の良さとオケの機能美において、一日の長がある。シュトゥットガルト放送響盤は、中音域が強く出過ぎて。相対的に高音域の抜けが悪い。オケの反応もいささかおっかなびっくりな感じである。フランス国立放送響盤は、低音域がモコモコとしているが、その分中高音域は割と豊かで、特に管楽器が浮かび上がるように聴こえるのが面白い。対して、このスウェーデン放送響盤は、北欧オケらしいひんやりとした質感で、録音もやや余韻が短く響きも硬いが、バランスはよい。特に、チェリビダッケの魔術的な弱音が、ノイズに埋もれることなく明瞭に聞き取れるのが嬉しい。もっとも、観客の咳ばらいが多いのはご愛嬌だろう。

    欲を言えば、《ダフニスとクロエ》は合唱付きで演奏して欲しかった。フランス国立放送響盤には合唱が付くが、肉感的で切れば血の出るようなパッションがほとばしった名演だっただけに残念。

    しかし、《クープランの墓》や《マ・メール・ロワ》では、より繊細な響きとなっており、聴き物である。何より、余韻を掻き消すブラボー合戦ではない、マナーある観客の反応も有り難い。

    それにしても、コストパフォーマンスの悪さは、何とかならないかしら。《ボレロ》復活の期待も込めて、その分減点だ。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2015/03/06

    ミケランジェリの全盛期は1950〜70年代頃で、晩年は心臓の病の影響で技巧が衰えた、などという人がいる。

    確かに、切っ先鋭い演奏は1950年代のライヴ録音に顕著だが、一方、当演奏も決して技巧は衰えておらず、加えて、壮年期にはない伸びやかさを獲得している。老いたりとは言え、決して誰かのように「ひび割れた骨董品」には些かも陥っていない。

    指揮を務めるコード・ガーベンは、マネージャーとして、この気難しいピアニストと“綱渡り”をしてきたことでも知られる。オケは北ドイツ放送響だが、名巨匠ヴァントに鍛え上げられた合奏能力は確かで、ガーベンの棒のもと、好サポートぶりを見せる。因みに同オケは1993年にも、フリードリヒ・グルダの弾き振りで20番をライヴ録音しており、聴き比べも面白い。共に天才だが、その性質は似て非なるものだ。奔放なグルダに対し、ミケランジェリはあくまで理知的なコントロールが効いている。ライヴだからといって興に入りすぎて突っ走ることなど皆無であり、むしろ怖いくらいクールだ。

    録音も、ミケランジェリの美音をよく捉えている。

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  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/03/05

    椋代さん、コメント有り難うございます。また、他のレビュアーの方々にも、感謝申し上げます。

    事情通による海賊版同然の録音、当演奏には無関係の署名、おまけに、音楽を愛する人は看過すべしと言われたら、すっかり買う気が失せました。ミケランジェリをこよなく愛する僕ですが、彼の名誉の為にも、聴かないことにします。

    演奏曲目も、彼の十八番レパートリーなので、他の録音で十分ですね。

    奇しくも今年はミケランジェリの没後20年。良質な録音が発掘され、彼の真価が世に知れ渡ることを願ってやみません。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/03/05

    新たにALTUSからチェリビダッケとの共演盤が出た今日においては、そちらを第一に推薦したい。録音の優秀さも相俟って、ピアノの音がよりタイトに響くし、チェリビダッケの微細を穿つ絶妙なバックも、ジュリーニの上を行く。

    とはいえ、この盤の価値が損なわれることはない。何しろ、大の録音嫌いのミケランジェリが生前リリースを許諾した唯一の《皇帝》である。磨き抜かれた美音が、ホールに満遍なく広がる。煌めくような高音と鋼のような低音、そして、細やかで整然とした中音域。それらが絶妙なバランスで絡み合い、得も言われぬ絢爛な音響世界をつくりだす。

    有名な録音なだけに、色々な盤が存在するが、国内盤よりドイツ盤の方が、音にふくよかさがあってオススメだ。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2015/03/04

    その完璧主義ゆえ、極端にレパートリーが少なかったミケランジェリだが、《謝肉祭》は好んで演奏していたらしく、録音もいくつか存在している。

    有名なのは1957年のDG盤で、モノラル録音だが擬似ステレオ化されている。人工的な音響は現代人の耳にはやや違和感を覚える。だが、後年の演奏に比べて、より技巧が冴えている点で、評価は高い。

    同年にライヴ収録されたものも、テスタメントから出ている。こちらはモノラルだが、ライヴゆえか、より緊張感があり、ピアノの音もよりタイトに響いている。

    1973年には二種類のライヴ録音が収められた。一つは、メンブランから10枚組のボックスとして出ているものだ。ボックス自体は玉石混交の詰め合わせだが、《謝肉祭》は録音状態がよい。1957年収録の両者よりテンポが遅くなり、丁寧かつ彫りの深い演奏になっている。もう一つは来日公演盤で、ALTUSからリリースされている。基本的なコンセプトはメンブランのものと同一だが、完成度の高さでは一枚上手だ。録音も、丁寧なリマスタリングが奏功し、ミケランジェリのライヴ盤の中でも屈指の出来映えだ。ゆえにこの盤を、ミケランジェリの、いや《謝肉祭》そのもののベスト盤に推したいと思っている。

    では当盤の演奏はどうか。結論から言えば、録音で相当損をしている。正規録音のはずだが、ピアノの音がまるで玩具のようであり、ミケランジェリ特有の煌めくような高音が、全く再現出来ていない。だからではないが、ミケランジェリらしからぬ粘着質な演奏に聞こえてしまうのだ。完璧主義者の彼が、前述の来日公演盤から僅か2年後にこんなに劣化するとはとても思えず、非常に残念。

    ミケランジェリの《謝肉祭》は、ALTUS盤(ALT174)で決まりである。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/03/04

    ミケランジェリのピアノは、他の比較を絶する美しさに溢れている。強弱、緩急はもとより、並の人間の聴覚では捉えきれないほどの微細な空気の振動、更に言えばそこに立ち込める空気の色香までもコントロールしてしまう。毒舌家として知られるかのチェリビダッケをして、「彼は私の感じないものを感じることができる」と言わしめるほどの超人的感覚が、彼を筋金入りの完璧主義者に追いやったのだろう。

    しかし、レパートリーを極端に絞り込んで磨きに磨き抜いた結果として残された録音は、孤高の境地を描き出す。

    特に、《沈める寺》。冒頭の一音からして、深い。濃い霧が立ち込める古代的幻影。やがて霧が晴れていき、眼前に大伽藍が姿を現す。モノクロームの世界から、いとも艶やかな極彩色の世界へと誘われる。空気、色彩、心象風景が見事に移ろう。これほどの描写力を持ったピアニストは、ミケランジェリをおいて誰がいようか?

    この一曲だけでも、当盤の存在価値は無限である。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/03/03

    新たにALTUSからチェリビダッケとの共演盤が出た今日においては、そちらを第一に推薦したい。録音の優秀さも相俟って、ピアノの音がよりタイトに響くし、チェリビダッケの微細を穿つ絶妙なバックも、ジュリーニの上を行く。

    とはいえ、この盤の価値が損なわれることはない。何しろ、大の録音嫌いのミケランジェリが生前リリースを許諾した唯一の《皇帝》である。磨き抜かれた美音が、ホールに満遍なく広がる。煌めくような高音と鋼のような低音、そして、細やかで整然とした中音域。それらが絶妙なバランスで絡み合い、得も言われぬ絢爛な音響世界をつくりだす。

    有名な録音なだけに、色々な盤が存在するが、国内盤よりドイツ盤の方が、音にふくよかさがあってオススメだ。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/01/21

    チェリビダッケは、殊にチャイコフスキーに限ったことではないが、テンポの遅さを云々されることが多い。交響曲第4番だけみても、晩年(1993)のミュンヘンでの演奏では一段と遅くなり、第1楽章だけで23分を超える。有名なムラヴィンスキー盤(1960)が約18分半だったことを思い合わせると、尋常ではない。推進力は減衰するが、楽譜に書かれたものの全てをつまびらかにするような緻密さで迫る。特に中間部は、ハイビジョンのスロー再生を観ているかのような錯覚を起こす。稀有な演奏だった。

    さて、当盤はミュンヘン盤から遡ること約四半世紀、1970年の録音である。この時、チェリビダッケは58歳。まさに男盛りな年齢である。身体もよく動いていたと見え、晩年のような極端なテンポの遅さではない。第1楽章終結部のアッチェレランドや第4楽章に覇気を感じる。だが、この時から既に、精妙な響きの構築に傾斜していたことは確かだ。第1楽章中間部や第2楽章中間部でたっぷりとしたテンポを採用していることからも、それが窺える。チェリビダッケは一体いつから極端なスローテンポになったのか。その要因は何なのか、無学な私に論じる資格はない。だが、この演奏が、その過渡期に位置するものであることは確かだ。

    オーケストラも、冷ややかな透明感がある。過度にビブラートをかけず、木管が浮かび上がり、金管もシャープな質感を持っている。金管もろともビブラートをたっぷり効かせるロシア(ソ連)のオケとは、かなり性質を異にする。ビブラートをかけない分、音程が安定するのだろう。細部まで見通しがよく、チャイコフスキーが仕掛けた巧みなオーケストレーションが味わえる。

    交響曲第5番についても、ひんやりとしたオケの質感が似つかわしい。チェリビダッケも、覇気ある壮年期と静謐な晩年の中間にある過渡期を迎えていたとみえる。ややゆったりとしたテンポながらだらけず、強弱のメリハリや推進力にも事欠かない。勿論、ライヴゆえの若干の瑕疵はあり、完成度の高さではミュンヘン盤に一歩譲るだろうが、それも僅差である。

    録音は、やや音圧が低いが安定感は申し分ない。欲を言えば、第5番に関してはもう少し左右の広がりが欲しいところだ。録音会場が一般のホールではなく小学校の講堂だから、アコースティック特性も余りよくないのかも知れない。だが、1968年のライヴ録音ということを鑑みれば充分なレベルである。

    ひとつ残念なのは、コストパフォーマンスがよくないことだ。この値段でチャイコフスキーならば交響曲全集が買える。管弦楽曲も聴けるだろう。それを、SACDならまだしも、通常CD2枚組、しかも収録が2曲だけでこのお値段とは……。チェリビダッケ御子息が親の遺産で私腹を肥やしているだなんて悪口は言いたくないが、どうにかならないかしらと思う。その分減点だ。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/01/02

    ベームに対し、堅固で純ドイツ的な音楽をやる指揮者というイメージを持ちやすい。勿論、それには異論ない。だが、スタジオ録音のときにやや型に嵌まりがちなベームの姿は、ライヴには見られない。ライヴのベームからは、あくまで堅固な土台が築かれつつ、思い切り生き生きと、まるで音楽が今まさにその場で形成されていくような雰囲気が感じられる。

    とにかく、音楽に流動性がある。特にブラームスの終楽章で顕著だ。別に、殊更早い訳ではない、中庸を得たテンポではある。だが、常に次に来る音が前の音に喰いついているようなのだ。結果、音楽が前のめり気味になる。そこに、単なる拍子とは別の、何か野性的な脈動の存在を感じるのである。

    相手がお決まりのウィーン・フィルではなく、客演先のバイエルン放送響であることも、ベームのライヴ感に拍車をかける。ベームの指揮にこなれている訳ではないが、抜群の機動性を、このオケは持っている。だから、ベームの前のめり気味の指揮に、いい意味で煽られ、結果、燃えるような演奏をしているのだ。

    グルダはクレバーな才能の持ち主である。だが、ベームが些か真面目なのか。グルダならば、もっとエキセントリックな演奏も出来たはずである。しかし、型破りに過ぎてしまうのを、ベームがきっちりと押さえているのは面白い。そして、ベームが作る枠組みの中でも、出来るかぎりの自由度の発揮を試みるグルダ。両者の丁々発止のやりとりが面白い。

    音質は、69年の放送音源にしてはかなり優秀である。もっとも、オルフェオの悪癖たる低音の弱さをやや感じるが、十分に補正可能なレベルである。音揺れや歪みも無く、安定している。

    総じて、素晴らしい実演の記録と言えよう。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/11/29

    如何せん音質が……。

    ステレオとは名ばかり、モノラル同然の音響の狭さだ。加えて盛大なノイズと音揺れ、やたらとうるさい低音などなど、ミケランジェリを鑑賞するには申し訳ないが堪えられなかった。

    もっとも、ミケランジェリは録音の絶対数が少ない訳だし、しかも録音の悪さを超越した凄みがあることは百も承知だが。

    やはり、DGや73年の来日盤のステレオがあれば十分な気がしてならない。

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     2014/08/23

    アナログ期のファリャの名演を、抜けるような豪快サウンドで聴く!

    注目は何と言っても《三角帽子》。初演指揮者アンセルメが晩年、ステレオで残した名盤として名高い。元々DECCAの録音がよかったが、ここではSACD化によって、黄金のサウンドに更に磨きがかかっている。

    もっとも、SACD化は先にESOTERICが手掛けているが、流通量が少なく、中古でも数万円もするほど値段が跳ね上がっており、とても手がでない。その点からも、PragaによるSACD化は有り難い限りだ。

    演奏は、スイス・ロマンド管にしてはいつになくハイテンションだ。《三角帽子》はバレエ音楽だが、多分にフラメンコの要素が盛り沢山である。情熱と哀愁、歌と踊り、そこにスパイシーな皮肉を織り交ぜている。これらを面白く聴かせるメリハリが、演奏を成功に導く鍵だが、さすがはアンセルメ、ツボを押さえた素晴らしい指揮をしている。エッジが効いていて、あたかも踊り子の足踏みや手拍子が目に映るかのようだ。優秀な音質により、特に打楽器群が出色の出来だ。

    対する《スペインの夜の庭》はPHILIPS原盤。PHILIPSの初期ステレオ盤は、特にピアノの音がダマになりやすい傾向にあるが、SACD化によって見事に解れた。

    ピアノは晩年のクララ・ハスキルが担当している。モーツァルトなど古典派作品に相性のよい、明晰で丸みのあるタッチが、印象派的な作風を持つこの曲に合致するのかといえば、正直やや違和感は拭えない。やはりこの曲のベストはラローチャだろうか。

    しかし、バックを務めるマルケヴィチとラムルー管はよい。マルケヴィチといえば、後にスペイン放送響を設立するほどスペイン音楽は得意だし、ラムルー管も、フランスのエスプリに裏打ちされた確かなアンサンブルで、特に印象派作品には抜群の相性を持つ。彼らの手によって、時折ドビュッシーを思わせるような幻想的な雰囲気が加味されているのが素晴らしい。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/08/14

    甘美なだけがラフマニノフではない。無論、ロマンの極みとも言える旋律も魅力的だが、それだけでは単なるメロドラマに過ぎない。ややすると冗長になりがちな美しい旋律を束ねる、一貫した構造があるのだ。

    この曲の醍醐味は、冒頭に示した動機が全曲中に姿を変えて現れることにある。勿論、第1楽章の主題もそうだし、第3楽章の甘美この上ない旋律も動機の派生によって成立している。そして動機は、各楽章の主題のみならず、対位法的にも処理され、至るところに、あたかも一貫した意識を示すように登場するのである。

    この恐るべき伏線の敷き方は、ブルックナーにも比肩しうるものである。このことを強く印象づけて、初めて名演と呼べるのではないだろうか。

    この意味において最も成功しているのは、エド・デ・ワールト&オランダ放送響だろう。録音の超優秀さも相俟って、面白いくらいに動機とその展開が手に取れる。ただ、難を挙げれば、弦のヴィブラートが粗く、今ひとつ艶やかさに欠けることだ。

    その点、このプレヴィン&ロンドン響は素晴らしい。ロンドン響の特性は汎ヨーロッパ的であり、ロシア風味に欠けるところも無きにしもあらずだから、もし濃厚なロシア風味を堪能したいならばスヴェトラーノフ&ロシア国立響を薦める。だが、ロンドン響のアンサンブルの丁寧さや管と弦のバランスの良さは捨て難い。なぜなら、ロシア系のオケは往々にして、金管の咆哮によってモティーフが埋没してしまう、などということがあるからだ。

    プレヴィンはロンドン響の美質を十分に活かし切る。イギリスのオケ特有のノーブルさを保ちながら、細やかな緩急をつけて、味わい深い演奏を引き出している。勿論、情に溺れることはなく、甘美な旋律を歌いつつもスタイリッシュにまとめあげるのはさすがだ。各楽器のバランス配分は完璧で、一つ一つの楽器が存在意義を持ちつつ、なおも全体が溶け合っている。プレヴィンの面目躍如といえよう。

    さて、オケの質感に対する印象は、多分にリマスタリングの良さも作用している。初期リマスタリングはスカスカだし、決定盤1300は人工的なイコライジングでバランスを欠いていた。現時点で最新となる品番WPCS23020のリマスタリングは、2011年施行ということで、恐らくSACD用にアビーロードでなされたものだろう。リマスタリング・エンジニアにはAllan Ramsayの名がクレジットされている。さすが、SACD化に堪えうる音に仕上げられており好印象だ。今までより細部の情報が密になったおかげで、動機の展開による伏線がはっきりと意識出来るようになったのは大きい。オケがマスでなく、楽器一つ一つが聴き分けられる分離感が、40年前の録音から確かに感じ取れる。勿論、最新盤にはもっといい音が出るものもあるが、往々にして内容が伴っていない場合が多い。だから、この名盤の音質向上は有り難い限りだ。

    購入の際には、リマスタリングがいつ誰によってなされたものか調べる必要がある。HMVのレビューでは、Art盤、決定盤1300、SACDなどといった、音質にかなり差のあるものが一緒くたに扱われてしまっているから、注意が必要だ。私はあくまで、品番WPCS23020を聴いたレビューであることをお断りしておく。

    甘美な第3楽章に耳を奪われがちだが、良い演奏と録音で、全体の伏線を意識しながら聴くと、起承転結が鮮やかに分かる。そんな面白さに誘う永遠のスタンダードだ。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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