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ウロウロ さんのレビュー一覧 

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2020/01/03

    年代と曲目、オーケストラからして「DVDと同じかしら?」と思いつつ購入したら案の定でした(笑)
    まあ、それはともかく、グルダだって、ペライアだって、ヘブラーだって、みんなそれぞれ良いじゃないですか。
    「人それぞれに人それぞれのモーツァルト」があっていいし、本来はそうなんだろうと思います。

    ただ、個人的には、やっぱりグルダさんの演奏をよく聴きますかね。
    こちらが身構えることなく、スーッと入っていける、みたいな。
    それでいて、モノによっては、いい意味ですごく唸らされるというか。

    DVDでは、第3楽章のカデンツァで、お得意の装飾を「まだやるか」っていうぐらいやっていて、それを見ているオーケストラのトップの人がニヤッと笑っていたのが印象に残っています。

    あれは、侮蔑・嘲笑という意味合いの「笑み」ではなく、「やってる、やってる」という音楽家特有の「笑み」。
    もちろん、好意的な意味での「笑い」です。

    こういう交歓がある演奏、私はいいと思います。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 9人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/12/11

    手塚治虫さんの漫画「ブラックジャック」に「六等星」というエピソードがあります。
    言うまでもなく、一等星より光が見えにくいわけですが、実は六等星の方が一等星より大きかったりする場合もあるわけです。
    プレスラーさんは、今年多分90歳になられると思いますが、この演奏を聴いて上記のエピソードが浮かびました。
    「一等星」が誰にあたるかは、それは人それぞれでしょうが、プレスラーさんの場合、母体となるボザールトリオが解散してから、こういったソロ・アルバムがポツポツでてきたというところは、100歳まで活動を続けたかのミエチスラフ・ホルショフスキーの履歴と似たところがあると思います。そして一等星が次々と消えていく中、六等星の存在がこういうかたちでクローズアップされることは聴く側にとって、まさに「福音」だと思います。
    ホルショフスキーと同じで、無論高齢でのレコーディングですから、いわゆる「バリバリ」弾く感じではありません。しかし、なんと「こころ」に平穏をもたらしてくれる演奏でしょうか。これは神様からの素敵な贈り物だと思います。

    9人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2013/10/12

    ある意味、グリモーにとっては「かわいそうな」仕上がりである。
    問題は指揮のネルソンスにある。
    グリモーの1番というと、ザンデルリンクとの旧盤との比較がまず論じられるところだが、スケールの極めて大きい、骨太のバックを構築したザンデルリンクと、まだ若いネルソンスを比較すること自体ナンセンスではある。
    しかし、「若い」のであれば、相応の踏み込みや活気といったもので曲に向き合えるはずなのに、安全運転に終始してしまっていて、バイエルンからブラームスの響きが十分に出てきていない。
    グリモーの演奏は、前回より踏み込みの鋭いものになっているだけに残念である。

    第2番については、グリモーは「理解するのに時間を要した」旨述べているが、それは個人的には共感できるものがある。彼女の美点は、特に第4楽章の軽やかなタッチに見てとれる。
    第1番と決定的に違うのは、やはりオーケストラがウィーン・フィルであるという強みである。どんな指揮者が来ようが、ウィーン・フィルはやはりウィーン・フィル、自己の矜持を崩さない。素晴らしい音色の溶け具合である。「ブラームスの響き」が香っている。

    結論としては、両曲を入れたディスクとしては、かなりのレベルにあるといってよいと思う。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/02/19

    私はこの実演をミュンヘンで聴いている。会場はデッドな響きで、バイエルンの弦も5,4,3,2,1人という少人数だったから、ずいぶん全体としては淡白な印象を与えられた。また、グリモーはサントリーでのK.310も聴いているが、もともとブラームスなどのロマン派を得意としているだけあって、モーツァルトにもそういうロマンティックな志向を持っていて、モーツァルトのエッセンスを引き出すところまではいっていなかったように思う。表現はとても淡白なところと妙にロマンティックな箇所が共存していて、まだ研鑽の余地があるように思われた。指揮者がいなかったことも災いして、またグリモーが弾き振りしているわけではないので、テンポが安定しないという箇所も散見された。しかしながら、彼女がK.505をカップリングした気持ちはよくわかる。この曲はモーツァルトが協奏曲とオペラの要素を盛り込んだ素晴らしい作品だからだ。エルトマンもよく歌っていると思うが、グリモーが左手で煽る場面もあり、この曲にそんな強靭な表現はいかがかとは思った。そういう意味ではシェーファー、ピリス、アバド盤の方がやはりエッセンスをよくつかんでいると思う。実演で「音楽」が出てきたのはK.488の2楽章あたりからで、それまではサラサラ流れるところが多かった。モーツァルトを熟知した指揮者がいれば、もっとエッセンスを引き出せたと思う。ただ、繰り返し聴くのに耐える演奏であることは確かである。それはいろいろ留保はつくが、基本的には耳に心地よい演奏となっているからだ。

    6人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/02/11

    1/27のサントリーホールでの同一プログラムを聴いた。確かにモーツァルトは個性的な表現で好みが分かれるだろう。全体的には叩きつけるようなタッチが気になったが、曲目をみればそれも得心がいく。圧巻はベルクとリスト。前者はロマンティックに偏ることも、機械的に偏ることもなしに、クリアな音でいい意味での中庸さを保ち、この曲を聴きやすいものにしていた。リストは鬼神のような演奏だったが、グリモーがこの曲の構成を完全に把握した上で、構成が実によくわかる、もっと言えばグリモーの演奏によって、このソナタが初めて聴きやすいものに感じられたと言ってもいい。パーフェクトな技巧で全体にみなぎる緊張感も並々ならぬものがあった。30分にわたる長丁場を見事に弾ききったこともあるが、ブラボーが出たのもうなずける。バルトークはいわば食事の後のデザート、アンコール的な感じで、リストの後間髪いれず演奏されたが、軽やかな音で爽快に舞曲を弾いてみせた。アンコールはグルックの聖霊の踊りとショパンのエチュードの二曲。因みにNHKのカメラが入り、今後放映とのこと。楽しみに待ちたい。

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  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2011/01/27

    この演奏に関しては、誰の演奏との比較とか、批評、分析、完成度、そういったことを論じるのは全く不毛に近いことだと思う。一期一会の特別なライヴであることも大きいが、それ以前に同じ日本人として、客観的なことなど私には書けない。ただ言えるのは、目頭が熱くなったこと、心を揺さぶられたこと、体が震えたこと、それだけである。でもそれは、小澤さんとサイトウ・キネンが、裸になって何もかもかなぐり捨てて、真心を持って火の玉のようになって指揮・演奏したからに他ならないからだと思う。心から出た音楽は必ず聴き手の心に届くはずだから。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2010/02/12

    「幻想」についてのみ書く。私はこれを聴いて◎という図形が思い浮かんだ。私は市販されている「幻想」すべてを聴いたわけではない。しかし、聴いたものの内9割は◎の内側の円から外にはみ出しておらず、常套的、安全得運転的な解釈の演奏が多かった。このミュンシュの演奏はEMI盤と同様に外側の○ギリギリのところまでいっている。外側の円を出たら、それは明らかに楽曲の許容範囲を超えた恣意的・作為的解釈になる。第一楽章は、EMI盤のような馥郁たる香りと、一気呵成に聴き手を「幻想」の世界に持っていくところまではいっていないが、それでも若者の「夢・情熱」は随所に感じ取れる。そして人間業とは思えないパリ管の技量に舌を巻く。第二楽章では、この演奏が決してうるさいだけの演奏ではなく、デリケートかつ粋な部分も併せ持っていることを示している。このような香りは今ではなかなか出せまい。それは第三楽章も同様で、繊細さを基本とした中に、「風景」及び若者の心境が手に取るように感ぜられる。第四、五楽章はいずれも冒頭の解釈に目を見開かされた。五楽章最初のTuttiの強奏も、とかくタテを合わせることに終始してつまらない演奏が多い中で、ミュンシュはさすがにタテを感じさせない表現にしている。「怒りの日」も金管によって十分に表現されている。素晴らしい天才的なアイデアである。トータルで大事なことは、この曲は「阿片」「幻想」がキーワードであり、常人的な捉え方で解釈しては意味がないということだ。その点、いい意味で「なんでもあり」のこのミュンシュのライヴは、解釈的に資料的価値が十分にあると思う。EMI盤と揃えて持っておいて損はない。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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