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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/11/23

    10月28日のベルリン・フィル・デビュー公演でも圧巻の指揮を披露したミナージ、手兵アンサンブル・レゾナンツとのモーツァルト録音第2弾も凄い出来だ。まず両曲の性格がはっきりと描き分けられているのに感心する。『リンツ』はハイドン風の軽快で洒脱なシンフォニー、全リピート実施で演奏時間36分に及ぶ『プラハ』は堂々たる重量感のある大交響曲というわけだ。だから同じアンダンテでも『リンツ』の第2楽章はかなり速いのに対し、『プラハ』の第2楽章はテンポの伸縮を含みつつも、そんなに速くはない。『リンツ』の終楽章プレストのめざましい快速に対し、同じプレストの『プラハ』終楽章はさほどでもない。『リンツ』序奏の思い切った畳み込みと自在な緩急に早くも唖然とするが、第1楽章主部もこんなに魅力的な音楽だったかと目の覚めるような思い。しなを作るような最初の楽想の媚態から行進曲テーマの豪快な鳴りっぷりまで、すべてが新鮮だ。『ドン・ジョヴァンニ』での石像の登場を先取りする『プラハ』序奏終盤での低弦の拍動の強調はホラー映画さながら。主部は少し遅めのアレグロながら、同音連打楽想での急迫、第1主題部終わりでの露骨なリタルダンドなど例によって緩急自在。テンポを落とした第2主題はかつてのブルーノ・ワルターを思い出させるが、ノン・ヴィブラート/開放弦でポルタメント気味に歌うヴァイオリンの美しいこと。そしてもちろん小結尾はテンポを元に戻して、火を噴くように盛り上がる。ティンパニはもとより、ホルンもトランペットも目一杯の強奏だ。

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     2023/11/05

    「ヘアハイム最初の躓き」などとドイツの批評では貶されたが、いや全然ありでしょう。確かに四部作全体を貫く二つの基本コンセプトがあまりうまく機能していないことは私も認めよう。
    1)『ラインの黄金』冒頭に出てくるのは、トランクを抱えた着の身着のままの避難民たち。ドイツ人なら第二次大戦後、ソ連やポーランドに割譲することになった東方領土からの引き揚げ者をイメージするだろう。その後、60年代ヒッピー風のジークムントを経て、『黄昏』のギービヒ家の面々や群衆は完全に現代のファッション。つまり、『指環』物語内の時間経過と戦後ドイツの歩みを重ね合わせようというわけだ。トランクはフンディング家、ミーメの家の壁を形作るなど、以後の舞台美術で活用されるし、群衆(元避難民)は『ジークフリート』最終場で主役カップルの心理を先取り、増幅したりするのではあるが、資本家(神々族)/中産階級(巨人族)/プロレタリアート(小人族)という定番通りの階層区分と併せて、シェロー演出へのオマージュとしても、もはや陳腐と言わねばなるまい。
    2)最初から最後まで舞台上にグランドピアノが置かれ、人物達はしばしばピアノの鍵盤で弾きまねをし、総譜を開きながら歌う。こうすることで、舞台からは観客に、あなたが見ているのは現実じゃない、音楽劇の上演なんだというメタメッセージが発せられ続ける。メイキングで(余談ながら、メイキング映像にも日本語字幕があるのは感心。オペラ本編の字幕も上出来だ)演出家は「観客の現実逃避を妨げるため」と述べている。ピアノの中はセリになっていて、多くの人物がここから出入りするし、ピアノの中はブリュンヒルデの眠るベッド、ジークフリートの棺にもなるのだが、だから何なのよと問い詰められると、どうも苦しいか。
    けれども、以上の二点を除けば、演出はほんのちょっとした小ネタに至るまで実に周到に考えられており、ここぞというクライマックスの見せ方のうまさ、いつもながらの音楽とアクションのシンクロ度の高さはさすが。『指環』上演史上でも屈指の名舞台と評価できる。以下、良いと思うところを列挙。
    1)『ラインの黄金』では例の避難民の一人が白塗りの化粧をしてアルベリヒに「なってゆく」が、白塗りのクラウン(道化)とはつまり「ジョーカー」。一方、ローゲは20世紀の名優、グスタフ・グリュントゲンス演ずるメフィストフェレスのイメージだ。ラインの黄金自体は金色のトランペットで、アルベリヒがそれで黄金のライトモティーフを吹くまねをする、エンディングではノートゥングのモティーフのところでヴォータンが剣を取り出し、投影されたトネリコの樹に突きたてるなど、ライトモティーフとアクションのシンクロは見事。
    2)『ワルキューレ』はすでにフンディングとジークリンデの間に男の子があり、彼女はジークムントと逃げる際に、この子を殺さねばならなかったという読み替え設定。ジークムントの子がお腹にいると知らされるまでの彼女の罪責感は異常で、われわれには理解できないが、これで了解しやすくなった。
    3)『ジークフリート』のミーメはベックメッサーと並んで、ワーグナーによるユダヤ人カリカチュアの典型とされているが、この演出ではベレー帽をかぶった作曲家本人の肖像画通りの風貌になっている。ワーグナー自身にユダヤ人の血が入っているのではという疑惑もかねてから囁かれているわけだが、これはこの作曲家の反ユダヤ主義に対する痛烈なしっぺ返し。
    4)『神々の黄昏』第1幕第2場のモノローグをハーゲンが歌い終えると、アルベリヒが出てきて息子の顔におしろいを塗る。ハーゲンは客席に降りて、最前列中央にいたヴァルトラウテと交代。そのまま客席で第1幕終わりまでの出来事を見ることになる。第2幕第1場のアルベリヒとハーゲンの対話は舞台と客席の間で行われ、その後、ようやく舞台に戻ったハーゲンは「ジョーカー」の顔になっている。第4場の修羅場ではブリュンヒルデが「神々よ」と叫ぶところで舞台後景にいるヴァルハラの神々たちが見えるようになり、槍の穂先での宣誓はハーゲンが奥のヴォータンの所から取ってきた、折れたグングニルで行われる。このあたり、実に良く出来ている。葬送行進曲ではノートゥングのモティーフのところでハーゲンが剣を取り、ジークフリートの首を切り落とす。「自己犠牲」では、ブリュンヒルデが「父よ、安らいでください」と歌うところでヴォータンが後景から降りてきて、ピアノの前に座る。最後の箇所など、当然そうあるべきなのに、これまでそういう演出がなかったのが不思議なほどだ。
    さて、歌手陣について。『ラインの黄金』は全員が歌、演技ともうまく、全体としては最も水準が高い。『ワルキューレ』以降は玉石混淆。それでもステンメのブリュンヒルデがついに三作通して見られるのは有難く、いわば救世主のように公演全体に君臨している。『ワルキューレ』以後のヴォータン、パターソンは小物感を払拭できないが、それでもなんとか健闘。ジョヴァノヴィチ(ジークムント)はキャラとしては合っているが、声自体の輝きが欲しい。タイゲ(ジークリンデ)はしっかり歌えてはいるが、印象薄い。2020年に歌ったダヴィドセン(第3幕の一部のみネット上で見られる)の方が遥かに上だった。愛嬌ある巨体の持ち主、クレイ・ヒーリーには従来ならこの悲劇のヒーローに求められたはずの「陰影」や「深み」がまるでない。しかし、ジークフリートは大人になり損ねた主人公であり、悪ガキのままで殺されてしまったのだと考えれば、こういう役作りもあり得るか。ペーゼンドルファー(ハーゲン)は荒っぽいが、演出のおかげでずいぶん得をしている。
    ラニクルズの指揮は中庸なテンポで、低回趣味とは無縁。しかし劇場的な嗅覚はとても鋭く、一昔前の指揮者ならショルティのようなセンス。この大作を味わうのに不足はない。

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     2023/07/26

    ピアノ協奏曲第4番の1808年稿は初演の際に作曲者が即興で入れたアインガングやヴァリアントをそのまま譜面に書き込んでしまったもの。既に耳のだいぶ悪くなっていたベートーヴェンは現場でオケとコンタクトをとることが難しいと考え、全部を楽譜に書いてしまったようだ。初演というのは1808年12月の第5、第6交響曲も初演された有名な演奏会で、作曲者が自作ピアノ協奏曲を弾くのは、これが最後になった。第4番はベートーヴェンの5曲のみならず、古今のあらゆるピアノ協奏曲の中でも、きわだって非ヴィルトゥオーゾ的な曲だと思われている−−余談ながら、アルゲリッチがこの曲だけは絶対に弾こうとしないのも、たぶんそのせい(ご本人はクラウディオ・アラウの演奏に衝撃を受け、それ以来、この曲は弾けなくなったと語っているが)。その第4番に、普通に弾かれる1806年出版譜と全く逆の性格のヴィルトゥオーゾ的な稿があるというのは実に面白いこと。
    これをわざわざ発掘してきて弾くというのは、もちろん独奏者カシオーリのこだわりなわけだが、演奏としてはミナージ指揮のオケが例によって、あまりに凄いので、独奏はオケの一部のように聞こえてしまう(何となくカラヤンとワイセンベルクみたい)。第4番では第2楽章の峻厳な弦と瞑想的なピアノ、それと最大のコントラストをなす終楽章の活気が圧巻。ロンドの第2副主題でテンポを落とすという「いつもの手」を使うが、それが見事にはまっているのには唖然とするしかない。第6番ことヴァイオリン協奏曲のピアノ版も尖鋭かつ繊細。特に終楽章は元のヴァイオリン協奏曲版を含めても、これ以上の演奏を他に知らない。独奏にホルンがかぶってくる所など本来、こう響くように書かれているはずだが、他の指揮者は誰もこのように聴かせてくれなかったのだ。ここでもロンド第2副主題でテンポを落とすが、そのはまり具合もお見事。

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     2023/07/22

    実に音の美しい、歌い口のうまいヴァイオリニスト。ストラディヴァリウスの名器「カンポセリーチェ」(映像はイザイしかないが、たぶん弾いているのはこれ)を完璧に鳴らす術を心得ている。全楽章とも遅いテンポで終楽章など「優雅」と言うにふさわしいが、節回しがきれいなのでもたれない(その点、ほぼ同時にディスクが出たヴェロニカ・エーベルレとは大違い)。第1楽章は彼女自作のカデンツァが長い(5分近い)せいもあって、27:56という空前の長時間演奏だ。名高いクライスラー以下、五種の第1楽章カデンツァを別収録しているのも、このディスクの特色だが、結局、自分のカデンツァが一番良いだろうと誇っているようなもので、少々厭味ではある。実際、彼女のものに比べるとクライスラーはもはや「甘すぎる」と感じるほどで、作曲家としても相当な腕前のようだ。もっとも、第2、第3楽章のカデンツァにはそんなに感心しなかったが−−そもそも、第2楽章の終わりにあまり長いカデンツァを入れるのは私の好みではない。
    ホーネックの指揮は手兵ピッツバーグ響とのベートーヴェン・シリーズと同じく大編成ながらHIPを加味したスタイル。遅いテンポは独奏者に合わせたものと思われるが、第1楽章カデンツァ後のひときわ遅い入りと最後の一撃、第2楽章でオケがffで入ってくる所のハードな感触など見事だ。

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     2023/07/08

    期せずしてラルス・フォークトの遺作録音となってしまったが、そういう感傷を抜きにしても、圧倒的に素晴らしい録音。「すっきり爽やか」に奏でられがちな第1番の第1楽章からして、この演奏はすこぶるスケールが大きく、ロマンの深みを感じさせる。心持ちテンポを落とす第2主題の美しさはふるいつきたくなるほどだ。逆に第2楽章はやや速めのテンポ。明らかに子守歌の性格を持つこの楽章だが、リズムの揺れが快い。スケルツォは実に繊細、終楽章は元気溌剌だ。第2番は曲の性格通り、一段と大柄な演奏。名高い第2楽章はリズムの刻みが明確で、葬送行進曲の性格が明らか。中間部の修羅場も凄まじい表現力を見せる。ノーカットかつ提示部のリピートを含めて演奏すると19分台の演奏時間を要する終楽章は難物だが、この演奏は提示部の反復こそ省くものの、ペータース版以来の98小節に及ぶ展開部のカットは復元。かねてより、しばしば採られている折衷案だが、この演奏はアレグロ・モデラートという割にはかなり速いテンポで、音楽がだれないように配慮している。結局、演奏時間は15:17。「天国的な長さ」という印象にはほど遠いが、現代人のための演奏としては大いにありうる解釈だろう。他にはヴァイオリンとピアノのためのロンド ロ短調がヴィルトゥオジティ炸裂、まさしく白熱的な演奏。 

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     2023/07/06

    フライブルク・バロック・オーケストラのコンマスであるフォン・デア・ゴルツがソロを担当、ベズイデンホウトがフォルテピアノで通奏低音(当然ながら譜面はない)を弾きながら、全体の統率をとっている。写真を見るとアンサンブルの中心にいるのはゴルツで、ベズイデンホウトはその右、チェロ奏者のとなりにいる。彼とチェロ奏者以外は全員、立奏。弦は5/4/3/2/1という小編成だ。各楽章ともやや長めのカデンツァが弾かれており、その他に楽譜にないアインガングを加えるところもある。カデンツァの作者については記載がないが、おそらくフォン・デア・ゴルツ自作だろう。いずれのカデンツァも初めて聴くが、ファウスト盤のシュタイアー作カデンツァのような違和感はない。ゴルツはソリストとしても実績十分の人で、これらの曲を聴く上では全く不足のない演奏。通奏低音パートはおおむね大人しく弾かれているが、稀にはっとするような即興を聴かせる。第5番終楽章の「トルコ風音楽」パートなどは、かつてないほど強烈。やはりベズイデンホウトの存在感は格別だ。

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     2023/05/08

    マーラー6番、(今シーズン開幕公演の)7番と並んで今のところ、このコンビの最も見事な成果の一つ。キリル・ペトレンコはモーツァルトがとても良いので−−コンビとしてのデビュー録音だった『悲愴』よりも、同じコンサートで演奏された『ハフナー』交響曲の方が遥かに上だった−−特にオペラをもっと演奏してほしいと思ってはいるのだが。さて、8番と9番は無観客公演だが、奏者間のディスタンスを取りすぎて不発に終わった2020年8月の開幕公演(『浄夜』とブラ4)のような失敗はない。オケのテンションはむしろ普段以上に高く、8番第3楽章、10番第2楽章のような、そもそも暴力的な音楽では凄まじい威力を発揮している。この時期(4番までを初期、13番以降を後期とするなら中期か)のショスタコの音楽では、特にテンポの遅い長大な楽章で、速筆の天才作曲家ゆえの散漫さをほんの少しだけ感じることがあるが、例によって、引き締まったテンポの指揮からは、そうした不満を全く感じない。似た名前のヴァシリー・ペトレンコの方がより劇的な振幅の大きい振り方をするが、キリル・ペトレンコはそれに比べると、硬派でハードボイルドだ。今では10番は9番完成後、まもなく着手されたと考えられているが、9番が例のジダーノフ批判を招いてしまったので、スターリン没後まで発表が控えられた曲。この3曲を三部作として聴いてみるのも悪くない。

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     2023/05/08

    芸術家の自己批判は、ちょっと常人には理解しがたいところがある。レヴァイン/ベルリン・フィルとの『4つの最後の歌』はなぜ発売されなかったのかと長年思ってきたが、聴いてみて納得。より緻密に歌おうとしたのだろうが、今なおこの曲の最良のディスクであるマズア/ゲヴァントハウスとの圧倒的な録音と比べて、明らかにスケールダウンしている。『大地の歌』でもレヴァイン/ベルリン・フィルとの盤よりデイヴィス/ロンドン響の方が良いのと同じだ。『クレオパトラの死』もバレンボイム/パリ管との録音の方が上。ただひとつ、『トリスタンとイゾルデ』の全曲録音が実現しなかったのだけは、本当に残念。マーガレット・プライスも舞台で歌ったことはなかったわけだから、クライバー盤のヒロインが彼女になってもおかしくなかったし、晩年のカラヤンにまだ全曲を振る体力があれば、再度の全曲録音が実現したかもしれない。こればかりは指揮者との相性や録音タイミングの問題が難しい。ここに聴かれる1998年の録音では、声自体はややピークを過ぎた感もあるが、表現としてはまことに見事。相手役のトマス・モーザーも健闘しているし、シュヴシァルツ、ボストリッジといった豪華な歌手が付き合っているので、このままマズア指揮で全曲録音になってもおかしくなかったが、彼女自身も自分の衰えを感じたかもしれないし、フィリップスにはバーンスタイン盤があったせいもあり、そうならなかったのだろう。

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     2023/05/08

    これも昨今では珍しくなったオペラの全曲セッション録音だが、『トゥーランドット』に関しては大いに意義あるCD。アルファーノ補筆部分のノーカット録音にはジョセフィン・バーストウの歌ったものがあったが、全曲盤としてはこれが初だからだ。アルファーノの補筆は確かに無難な出来にとどまり、あまり誉められないとしても、ここにはプッチーニが作曲するはずであった歌詞が含まれており、そこではヒロインが「氷の姫君」になった理由がはっきり語られているからだ。つまり彼女には男に支配されたいというマゾヒスティックな欲望があり、謎解きに勝てない男の首をはねるという残酷な所業に及んだのは、それに対する反動形成の産物だったということ。現代のポリコレの観点からは、あまり好ましい設定ではないかもしれないが、文句はゴッツィの原作戯曲に言ってもらいたい。だからアルファーノ補筆版で演奏するなら、この初稿版がベスト。トスカニーニのやったように104小節もカットしてしまうのは論外と言うほかない。
    パッパーノの指揮は相変わらず周到。この曲では浮きがちな喜劇的要素と劇的、叙情的要素のバランスがとても良い。まもなくここのポストを去る聖チェチーリア音楽院管弦楽団も素晴らしい演奏で応えている。ラドヴァノフスキーは実に輝かしい声。補作初稿版では特に求められる繊細な女心の表現でもなかなか健闘している。イタリア語が聞き取りにくいという弱点はあるが、この役なら致命的欠陥ではない。重い声のカウフマンはピンカートンのような軽薄男には全く合わなかったが、カラフ役としては悪くない−−この男も何を考えているのか良く分からない奴なのだが。ヤオはかなりドラマティックな声の持ち主で(蝶々夫人も歌う)、繊細というよりは全集中の表現で押してくるが、立派にトゥーランドット姫の対抗軸になりえている。

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     2023/03/01

    モーツァルトのヴァイオリン・ソナタからベスト3を選ぶとしたら、多くの人がこの3曲を選ぶだろう。そんな超名曲を3曲とも「VOL.1」に集めてしまって「VOL.2」以降の選曲は大丈夫だろうかと心配になるほどの名曲揃いアルバム。もちろんこれを誉めるのは曲目が良いだけではなく、演奏自体が飛び抜けて素晴らしいからだ。ファウスト/メルニコフ、イブラギモヴァ/ティベルギアンといった大御所の録音と比べても何の遜色もないばかりか、一段と「とがった」演奏と言って良い。たとえばホ短調K.304の第1楽章。「ほのかな哀しみをたたえた」ようなトーンで奏でられることが多いこの楽章だが、この演奏は冒頭から緩急の起伏が大きく、かつて聴いたことがないほどの劇的な様相を見せる。加えて、ヴァイオリン・ソナタではこれまで聴かれなかったほどの装飾、変奏がリピートに際して加えられる。小カデンツァと言ってよいほどの挿入句もある。ピアノ・ソナタでも近年、好んで行われるスタイルだが、そのためこの演奏は「スムーズに流れる」ことよりも「バロック的に微視的なアーティキュレーションの起伏をつける」ことを重視している。激烈なト長調K.379の第1楽章(主部はト短調)など、このスタイルにぴったり。緊密な二重奏ソナタであり、フォルテピアノとヴァイオリンがついに対等になるイ長調K.526も目覚ましい出来ばえ。フォルテピアノを弾きこなすピアニストも珍しくなくなってきたし、ガット弦・バロック弓の楽器も扱うヴァイオリニストだっていないわけではないが、庄司/カシオーリ、この二人の研究、実践の成果には大拍手を送りたい。コロナ禍で通常の演奏活動ができなくなったことが、二人には幸いしたようだ。

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     2023/02/27

    HMVレビューの通り、ソナタ楽章のリピートにおける装飾、変奏をかつてないほど大胆に行った演奏。再現部の前に挿入句が入る場合すらある。作曲者自身の演奏も含めて、18世紀にはこのように弾かれたに違いないのだが、これだけ奔放に「譜面通りでない」弾き方をしても、ほとんど恣意的な感じがせず、「うん、これもありだな」と納得させられてしまうのは、モーツァルト学者と演奏家という「二足のわらじ」を長年、履き続けてきたレヴィンの経験のたまものだろう。実際、管楽器のための協奏交響曲(再編曲版)は言うに及ばず、ハ短調大ミサ曲(キリエの楽想でアニュス・デイをでっち上げてしまった長大な版)もレクイエムも、私はレヴィンの補作をベストと思ってきたのだ。最近では、これまた魅力的なニ短調のピアノ三重奏曲K.442の補作もあった。このディスクにもレヴィン補作によるソナタの断章が3曲入っているが、リリー・クラウスのモノラル録音の頃から知っているト短調K.312の補作版など、見事なものだ。
    それでも贅沢な不満であることを承知の上で、ごく僅かな瑕瑾を述べれば、やや音楽が直線的過ぎると感じる局面があること。たとえばイ短調K.310の終楽章(プレスト)は申し分ないが、第1楽章(アレグロ・マエストーソ)、第2楽章(アンダンテ・カンタービレ)は私の感覚では速すぎる。こういう所ではベズイデンホウトの「たおやかさ」が懐かしい。逆にもともと「バロック的」なハ短調K.457やヘ長調K.533/494は文句のつけようもないけど。イ長調K.331、第1楽章の変奏装飾も、別のところで誉めたオルリ・シャハムがあまりに素晴らしかったので、レヴィンのは少し過剰に感じる。もちろんリピートは楽譜指定通り、すべて実施。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2023/02/26

    ベズイデンホウトの「決定盤」とも言える全集録音でほぼ勝負がついてしまった感もあったモーツァルトの鍵盤楽器作品だが、近年、再び録音が活発化し、続々と新録音が現われている。フォルテピアノの演奏では、別にレビューを書くロバート・レヴィンの全集が特筆すべき成果だが、緩徐楽章における旋律装飾のみならず、ベズイデンホウトがあまり積極的でなかったソナタ楽章のリピートにおける装飾、いわばインプロヴィゼーション(即興)に独自性を発揮している録音ばかりだ。モダン・ピアノによる演奏では藤田真央の全集も、音楽の構造把握の確かさ、旋律装飾の小粋なセンスが光る録音だが唯一、惜しまれるのはソナタ楽章後半のリピート(展開部〜再現部)をすべて省いてしまっていること。繰り返し聴かれる録音では省いた方が良いという判断だったのかもしれないが、提示部のリピートで彼自身の演奏が示している通り、このジャンルの音楽におけるリピートは単なる反復ではなく、更なるインプロヴィゼーションの機会なのだから、これではもう一段の「仕掛け」のチャンスを自ら放棄してしまったのと同じだ。
    というわけですべてのリピートを実施しているこの録音、第1集も絶賛したオルリ・シャハムのディスクは実に素晴らしい。ヘ長調K.332の第1楽章では反復のたびに新しい装飾が少しずつ加わってゆくが、センス良く、元の美しい旋律を無様に歪めるようなことはない。ソナタ楽章のない「異形のソナタ」であるイ長調K.331でも変奏の繰り返しの際の装飾が美しい。この演奏のもう一つの美質は、繊細な歌い回しと、それとコントラストをなす「男まさりな」(断じて差別用語ではありません)ダイナミズムが同居していることで、まさしく劇的なイ短調K.310の第1楽章やへ長調K.332の終楽章も聴き応え十分。さらに付け加えれば、録音がきわめて美麗であることも演奏を引き立てている。モーツァルトのピアノ・ソナタ録音では、ピアノの中にマイクを突っ込んだような直接音過剰な録音になるか(ウィリアム・ヨンの全集など、このせいでぶち壊しになった)、ホールトーン過剰なピンボケ録音になる危険があるが、このディスクの録音は理想的だ。

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     2022/09/11

    「渋くて重厚」というこれまでのブラームス・イメージを完全にくつがえす画期的録音。つまりは驚くべき快速テンポ、すべての声部が透けて見えるような明晰な響き、スタッカート気味ですらある鋭角的なフレーズの切り上げなど、ブラームスに関して「これだけはやっちゃいけない」と言われてきたことを徹底的にやりまくった演奏。パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルの来日公演(2014年)は確かに凄まじかったが、その後の彼らの録音・録画は意外におとなしく、室内オケによるブラームス録音ではティチアーティ/スコットランド室内管をベストと考えてきたが、あらゆる点でそれを凌ぐ。
    鬱屈した第1番は私にとって大の苦手曲で、ブラームスの交響曲、嫌いじゃないけど1番だけは御免こうむりたいと長年、思ってきた。そういう私にとっては絶好の「解毒剤」。それだけに守旧派の皆さんのアレルギーも強かろうが、第1楽章主部では楽章を駆動してゆくリズム・モティーフがホルン、トランペット、ティンパニで次々に打ち込まれてくるのを明確に聞き取ることができる。ティチアーティ盤は3番が最も良く、2番は物足りなかったが、この全集のハイライトは最後に録音された第2番かもしれない。「音のドラマ」としてのこの曲の頂点は第2楽章だが、これまでの指揮者たちは遅すぎるテンポでAdagio non troppo(あまり遅くないアダージョ)のクライマックスをぶち壊しにしてきたことが良く分かる--譜面のテンポ指定、ましてメトロノーム表記などは音楽の分からぬ間抜けのためにあるに過ぎないと言ったのはマーラー先生だけど。音量を抑えた出だしから一気に炸裂する終楽章も痛快そのもの。コーダの大盛り上がりはワルター/ニューヨーク・フィル(1953)以来だ。
    第3番第3楽章では名高い名旋律を奏でるチェロとホルンが明瞭に分離して聞こえる(ブラームスでは響きをブレンドさせなくちゃ駄目と言われたものだが)。中間部でのスタッカートとレガートの使い分けも初めて聴く。第4番の34:13というHMVの演奏時間表記はさすがに間違いだろうと思ったが、いやいや本当だった。この曲には第1楽章提示部を含めてリピートが一切ないので、演奏時間を決めるのは指揮者の解釈だけだ。ここまでやられると、枯淡の趣きは全く見当たらず、さすがにタメが欲しいと思う局面もないではないが、中庸なテンポの行進曲(Andante moderato)である第2楽章などはまさしくわが意を得たり。名前の通りのバロック(いびつ)かつ前衛的な傑作がその姿を現わしている。

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     2022/09/09

    猛烈な表現主義的演奏で、速いテンポに加えて、一貫したホルンの強奏が凄まじいばかり。選ばれたのはモーツァルト全作品のなかでも、とりわけ「疾風怒濤」的な交響曲第25番と『エジプト王タモス』からの4つの間奏曲。弦は5/4/2/2/2の小編成で交響曲は全リピートを実施、リピートの際にはオーボエに譜面にないヴァリアントと通奏低音パート(フォルテピアノ)が加わるが、様式的に妥当という以上に実にいいセンス。『タモス』は最近、アントニーニとバーゼル室内管の素晴らしい演奏も出たが(ハイドン交響曲全集・第7巻)、交響曲第25番は文句なしに現在、ぶっちぎりのお勧め演奏。モーツァルトと並べられると、やはり天才にはかなわないなと思うけど、グレトリーの同名オペラの序曲とバレエ音楽から成る組曲も尖鋭な演奏のおかげで、とても聴き映えする。

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     2022/09/09

    イタリアの地方劇場ながら意欲的なプロダクションで知られるシチリア島のパレルモ・マッシモ劇場での上演。2001年の『ルル』(録音のみ)、2008年の『メフィストーフェレ』ではオケがかなり頼りなかったが、2014年の『フォイヤースノート』はとても良く、演奏水準が飛躍的に上がっていることがうかがわれる。このディスクでも最大の聞きものはヴェルバーの素晴らしい指揮。きわめてテンポが速く、響きの透明度が高い。第1幕は約91分、第2幕62分、第3幕65分。CDではブーレーズ、ケーゲルに近い印象だが、各楽器の音がブレンドされず、ダイレクトに出てくるので一段と尖鋭だ。歌手陣ではレリエのグルネマンツが出色。老人ではなく、まだ男盛りなのも、久しぶりに本当に「いい人」として描かれた演出の趣旨に合っている。トマソンのアムフォルタス、ガゼリのクリングゾールも良い。ハバードは前半のやんちゃ坊主風のところが特に良く、全体としてはまあまあの題名役。フーノルトのクンドリーは残念ながら存在感薄い。
    COVID-19のため、惜しくもこれが遺作となってしまったヴィック演出は典型的な現代化演出。舞台は現代の中東とおぼしき砂漠地帯。ヘアハイム演出のように精巧無比な舞台を見てしまうと、他の演出にはどうしても点が辛くならざるをえないが、バイロイトのラウフェンベルク演出と似たところはあるものの、あれに比べれば、あらゆる点で遥かに上。奥行きの深い舞台の特徴を生かすべく、舞台奥に幕を設置、グルネマンツの物語の間には説明的な影絵を、両端幕の間奏曲では象徴的な影絵を見せる。第1幕の聖餐式には(ただのマグカップだけど)一応、聖杯も出てくるが、アムフォルタスの血を飲んだ聖杯騎士こと兵士たちがそれぞれナイフで自分の腕に切りつけるなど、宗教的オルギアの様相が濃い。第1幕でのクンドリーはヒジャブで全身を覆ったムスリムとして表象され、諸宗教の抗争と和解が演出のテーマだが、その描き方も良い。「聖金曜日の音楽」の見せ方も美しいし(このあたり、ラウフェンベルクがひどすぎるんだけど)、最後、クンドリーはもちろん死なず、パルジファルが取り出した聖杯の覆いの中には何もない、聖杯は空っぽだという仕掛けに至るまで、実に好感の持てる演出。

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