トップ > My ページ > 遊悠音詩人 さんのレビュー一覧

遊悠音詩人 さんのレビュー一覧 

検索結果:608件中16件から30件まで表示

%%header%%

%%message%%

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/07/24

    イエペスの《アランフエス協奏曲》は彼の十八番と言ってよく、その証拠に、かのギターの神様、セゴビアも、イエペスの演奏に一目置き、自ら演奏することは終生なかったという。

    さて、イエペスはこの曲を、1958年のアルヘンタとの共演を皮切りに、ほぼ10年毎に録音している。世評は、70年代に残したナヴァロとの共演盤が、音質の良さも相俟って高い評価である。しかし、個人的には、イエペス特製の10弦ギターの弱点である小回りの効かなさが目立ち、指が回らない、歯切れの悪い演奏という印象しかない。

    そこへいくと、69年の録音であるこのアロンソ盤は、10弦ギターの強みである豊かな音色と、スペイン音楽らしいリズム感、更に、室内楽的緊密さが同居した、素晴らしい演奏になっている。

    いわゆる、激しく掻き鳴らすようなギターでもないし、オケと丁々発止の火花を散らす感じでもない。むしろ、この曲の持つ抒情的な側面にスポットを当てていると言えるだろう。とりわけ、第2楽章の歌心は格別だ。

    これはオケにスペイン放送響を得たことも多分に影響していると思える。スペイン音楽の持ち味である情熱と哀愁の見事な融合は、さすがお国柄がよく出ている。そこはかとなく匂い立つ空気感が、他とは一線を画している。

    音質も、DGらしい安定した音で楽しめる。

    カップリングの《マドリガル協奏曲》も、スペイン音楽好きには是非とも薦めたい。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/05/31

    “ミケランジェリ演奏会隠し撮り大全集Vol.1”

    ……というタイトルがピッタリ(笑)な程、非正規海賊版的いかがわしさのある10枚組である。

    当然、録音状態も玉石混淆(というより、種々雑多)の域を拭えない。1970〜80年代になってもモノラルでレンジの低い録音もある(ドビュッシーの前奏曲集やショパンのスケルツォ第2番、幻想曲など)。また、ステレオでも音像が比較的安定しているものから、ぼやけたものまである。

    このうち、録音、演奏ともに良好なのは

    ・モーツァルトのピアノ協奏曲第15番(録音年不詳)
    ・シューマンの謝肉祭(1973)
    ・ベートーヴェンのソナタ第11番、12番(1981)
    ・ブラームスのバラード、パガニーニ変奏曲(1973)
    ・バッハのシャコンヌ(1973)

    辺りだろう。他は、年代不相応な音質と考えて宜しい。

    ただ、例えばシューマンの謝肉祭など、2年後のEMIの正規盤より音がいいし、ミケランジェリお得意のガルッピなど、音質はよくなくとも内容がよいものもある。

    値段も値段だし、どこまで許容するかで評価が分かれそうだ。

    因みに私は、上記の状態のよいものだけをパソコンに取り込んで、新たにCDに編集してしまっている。編集出来る人はその方がいいかも知れない。初めから音質傾向を揃えてソートして欲しかったのは、私だけではあるまいし、正規盤ならなおいいのに、と思う人が多いだろうことは、もはや言わずもがなであろう。

    10人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/05/17

    これほど物語性のある《ローマの松》は、今まで聴いたことがない!

    キラキラとまばゆいばかりの「ボルゲーゼ荘の松」から一転、モノクロームな「カタコンベ付近の松」に暗転する見事さ!多くの指揮者がアタッカで繋げるところを、チェリビダッケときたらまるでブルックナーの全休符のような無音状態を作る。極彩色の世界から、一気に夜の世界へと聴き手を放り込む。

    地底から呻くような低音が、霧がかった静寂を支配する。そこへトランペットが神の啓示の如く鳴り響く。途端に、空気感が変化する。霧がうっすら晴れていく感覚だ。まさに音の色彩のマジックである。やがて上昇していく旋律は、荘厳そのものである。

    「ジャニコロの松」の神秘的な表情も美しい。ドビュッシーを思わせるような、夢想的な空気が支配する。殊に弦の透明感と、クラリネットのソロの上手さには思わず息を飲む。風のような揺らぎを感じさせる絶妙なアゴーギクは素晴らしい。何より、ナイチンゲールの囀りと、弦のヴィブラートの質感がピッタリ一致するのには脱帽である。ナイチンゲールの囀りをも、一つの楽器として作用させているのだ。

    そして、「アッピア街道の松」は圧倒の一言に尽きる。じわりじわりと歩を進めながら、巨大なクライマックスを形成する。しかも、そんな時にも細部へのこだわりを見せるのがチェリビダッケの流儀だ。4分21〜22秒付近で一度スッとボリュームを引くのには驚きで、その際、透明な空気感を作っておいて再度盛り上げる手法は、聴き手の感情をいやが応にも刺激する。「ブラボー!」というよりも「ワオ!」という驚嘆に近いような拍手にも納得である。

    音質も、一部音揺れが認められるものの、年代離れした良い音質である。自信を持って推薦したい。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/05/17

    「えっ、これがあのフルニエか?」

    聴いた瞬間、真っ先に浮かんだ言葉がこれだ。「あのフルニエ」とは、勿論、有名なセル&BPO盤での彼のことである。端正で知的で、如何にも「チェロの貴公子」と呼ばれるだけあるな、と思わせる彼だ。

    だが、このライヴでのフルニエは、様子が違う。録音がチェロをクローズアップさせ、音像が肥大化しているせいもあるからなのだろうが、それを斟酌しても、熱量が凄い。

    まるで、いつも理知的に振る舞っている人が、突然剥き出しの情熱を吐露するかのようである。セル盤では、いささかバックがうるさいくらいに感じていたが、ここではチェリビダッケと丁々発止のやりとりを感じさせ、オケ共々唸りに唸っている。弓をグイと走らせ、床を震わせる様が目に映る。

    こう書くと、如何にも奔放な演奏のように感じるかも知れない。だが、そこはチェリビダッケである。情熱的であるのはあくまで表層であり、細部へのこだわりは怖いほどである。特に、音の重なりのバランス配分は神業的で、ここでこんな響きが作れるのか、こんな音が隠れているのか、と、目から鱗が落ちる。

    録音は、上記でも触れたが、全体的に音像が肥大化していて、殊にホルンが時折ハウ気味に聴こえることがある。チェリビダッケなら、もっと繊細な音が聴こえるだろうにと思うところも無きにしもあらずだが、年代を考慮すれは充分鑑賞に堪えうるレベルである。

    これからも、チェリビダッケの秘蔵音源の発掘と丁寧な復刻に期待したい。

    蛇足:録音嫌いのチェリビダッケが、天国で何と言うか。「俺は許さんぞ!」とでも言いそうな…(笑)

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/04/10

    こんなにも美しいショパンがあるものなのか……!

    ミケランジェリのショパンを聴いてすぐに、千変万化する響きの美しさに心奪われてしまった。

    これはショパン自身が、ありきたりな和音をわざと半音ずらしてみたり、右手と左手を割り切れないリズムで弾かせてみたりするなどといった工夫を施しているからだが、それら工夫をこれほどまでに再現したピアニストが他にいるだろうか?

    一点の濁りもない澄み切った音には倍音成分が余りにも豊富にあり、それらが完全なる比率で幾重にも折り重なった時のみ醸し出せる複雑玄妙な響きが、そこかしこに立ち上がって来るのである。

    特にバラードとスケルツォは、他の演奏との比較を絶している。前者の、主題の描き分けの上手さ、とりわけフレーズの橋渡しの際の質感の変化の見事さは、ルービンシュタイン、フランソワ、はたまたアルゲリッチやポリーニといった名だたるピアニストが束になっても敵うまい。後者も凄い。どんなに分厚い和音でも、驚くほどのクリアネスを保っており、音の一つひとつの粒立ちが煌めいている。

    勿論、マズルカの各曲も、ミケランジェリの美意識全開であり、あらゆる感情移入や表現を越えて、音のみの力によって全てを語らしめるような凄みがある。そこには、ショパンに付き纏う女々しさなど皆無で、ある種のハードボイルドな雰囲気さえ漂わせる。

    星がいくつあっても足りないくらい素晴らしい唯一無二の芸術であり、ピアノ好きには是非ともオススメしたい。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/04/01

    スヴェトラーノフのいつもの爆演でもなければ、ミュンヘン・フィルならではの精緻さもない。お互いの持ち味がまるで発揮出来なかった残念至極の演奏だ。

    やはり、スヴェトラーノフは手兵ロシア(ソ連)国立響でこそ本領を発揮するものだ。ティンパニの轟音や金管の咆哮は、他のオケでは聴けない。

    一方のミュンヘン・フィルは、やはりチェリビダッケが振ってこそ妙味を発揮する。重厚でありながら、音の一つ一つが透けて見えるほどのクリアネスの高さ、なかんずく、最強奏でも耳障りにならない艶やかな質感は、チェリビダッケに鍛え抜かれたゆえに生まれたものなのだ。

    そもそもスヴェトラーノフとチェリビダッケとでは、アプローチがまるで違う。

    例えば、曲の終結のffの鳴らし方。スヴェトラーノフは、“スヴェトラーノフ・クレッシェンド”と言われるように、終結を引き延ばすだけ引き延ばし、最後の最後にティンパニがトドメの一発を打ち付けるような終わり方を好む。

    しかしチェリビダッケは、そうした終わり方を無節操なものとして嫌悪した。彼は最後の一音で、サッと力を抜くのだ。それにより、完全に調和した和音の余韻をホールに充満させるのである。終演後から拍手の間が異様に長く感じられるのは、こうした余韻を殊の外重要視していたからに他ならない。

    終わり方が異なれば音の初めも違う。スヴェトラーノフの場合、音の頭に、演歌で言うコブシのようなアクセントがつく。それにより、音楽にうねりが生まれるのだ。殊にチャイコフスキーやラフマニノフなどのお国物となると、如何にも民謡的な、ロシア的な音楽になるのである。

    一方のチェリビダッケは、出だしも柔らかい。それは例えばシューマンの4番やR=コルサコフの《シェヘラザード》の冒頭を聴いてもらえれば分かる。鋭角的なアクセントを置かず、ふわりと始めるのがチェリビダッケ流なのである。

    チェリビダッケは常々、「始まりの中に終わりがある。終わりの中に始まりがある」と言っていたそうだが、始まりも終わりもこのように違えば、ミュンヘン・フィルの団員も相当戸惑っただろう。現に団員の回想録を読むと、スヴェトラーノフの指揮にかなり不慣れであったことが窺える。

    これはスヴェトラーノフの名誉のためにも、そしてミュンヘン・フィルの名誉のためにも、聴かないほうがいいような気がしてならない。

    余談だが、解説も、例によって紋切り型の駄文がマイクロ文字で記載されており、これでは収録するだけ野望だ。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/04/01

    「盲目でこれほどのピアノが弾けるのか。」

    辻井伸行を聴くとき、大方の人はそう言うだろう。

    もし、彼が盲目でなかったとしたら、クラシックファン以外の知名度など皆無に等しいヴァン・クライバーン国際音楽コンクールでの優勝という快挙が、あれほど津々浦々にまで知れ渡り、マスコミにより連日騒ぎ立てられ、数多の俄かファンを生むなどという異様な現象は起こらなかったかも知れない。

    だが、こうした風潮が、昨今世間を賑わせている「耳が聴こえないのにあれだけの交響曲を書ける作曲家」という、虚像を生み出したに違いないのである。

    おおよそ、話題性と芸術的真価とを取り違え、ハンディキャップを持つ人間に対して、憐憫という名の差別意識を持つ人が余りにも多い。

    これを克服しない限りは、我が日本におけるクラシック音楽のレベルは未来永劫ヨーロッパに太刀打ち出来やしないだろう。

    実際、ここに聴くドビュッシーも、綺麗なのだが何かが明らかに足りない。

    それは「色彩」である。

    ドビュッシーは印象派の巨匠として名高い。印象派といえば元々は絵画の世界の言葉だ。モネ、マネ、ルノワールなどの絵画を見れば分かると思うが、輪郭線に頼らず、光と陰のコントラストによってモティーフを浮かび上がらせようとする手法が、ドビュッシーの音楽にも如実に現れている。

    ゆえに、ドビュッシーの名盤と呼ばれるものには、フランソワにせよミケランジェリにせよ、こうした色彩感覚が実に豊かなのである。

    しかし、辻井の演奏には、「色彩の変化」というものがない。タッチは確かに美しいが、光と陰が絶えずたゆとうような感覚は、如何せん皆無である。

    色彩は視覚的なものであり、視覚を奪われた辻井にとっては再現不能なものかもしれない。確かに「心象風景」という、視覚よりはメンタル的な意味での色彩感覚というものもある。だが、それは心の中に浮かぶものを、過去にその目で見た様々な色彩と関連付けて、始めて生まれるものなのだ。

    ゆえに、ドビュッシーを聴きたいのであれば、同じ3000円をフランソワやミケランジェリに注いだ方がはるかにいい音楽を聴けるはずだ。一過性の話題に振り回されては、本物は分からない。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 8人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/03/29

    チェリビダッケとミケランジェリ。大の録音嫌いのペアだ。あのドタキャンも厭わないミケランジェリも、チェリビダッケには全幅の信頼を寄せていたと見え、耳をそばだたせずにはいられないほどの美音を撒き散らす。

    このペアによる《皇帝》といえば、つい先頃スウェーデン放送響とのライヴ盤(Weitblick)が出たばかりだ。またミケランジェリとしては、有名なジュリーニ&ウィーン響盤(DG)もある。こう矢継ぎ早に同曲異演盤が発掘されては、天国の両巨匠も困惑しているだろうが、クラシックファンとしては何とも嬉しいことではないか。

    事実、ここでの両巨匠のアプローチは充実の極みを行く。チェリビダッケは、例によって精緻なバランス配分を見せるが、ミュンヘン時代のような遅めのテンポではなく、ナチュラルスピードである。オケも、スウェーデンやミュンヘンやシュトゥットガルトよりも明るくラテン的である。特に、木管§の音色に、往年のフランスのオケ特有の軽やかさを感じる。

    こうした特長は、ミケランジェリのピアノの音色にも見事に合致する。ミケランジェリの人柄というと、気難しく、神経質で、冷淡であると思われがちだが、ピアノの音色は、まるで別人かと思えるほど、生気に富み、輝かしく、蠱惑的な美しさを放っているのだ。

    だから、この曲にドイツ的な渋さを求める向きには、やや的外れになってしまうだろう。だが、これほど覇気に富んだ演奏はそうそうあるものではなく、ましてライヴならではの臨場感と良好な音質に恵まれる盤も少ないだろう。

    更に特筆すべきは、ジャケットデザインのセンスの良さ!アーティストのポートレイトを貼り付けるだけの陳腐なジャケットが余りにも多い中、いい音楽に相応しい意匠である。

    演奏、曲目、音質、ジャケット、総てにおいて高品質な一枚といえよう。

    8人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/03/24

    フルオーケストラでかくも透明感溢れるブラームスになるものなのか……!

    ブラームスの交響曲は、とにかく和音が分厚い。それゆえ、凡百のオケがやると、どうしても響きが混濁しがちである。この曲の名盤としてはザンデルリンクやベーム、クライバーなどが挙げられようが、何れも説得力はあるものの響きのクリアネスは今一歩であった。

    さりとて、昨今流行りのピリオド奏法ともなると、逆に、激昂する感情の起伏を表現するに足るだけのダイナミクスを確保しづらい。マッケラスやジンマン、ノリントンなどがこの系統に属するだろう。第一、“ピュアトーン”云々を追求するあまり、内声部がスカスカになり、ブラームスが随所に仕掛けた伏線がおざなりになってしまい、実につまらないのである。

    このように、“重厚だが透明感のない渋過ぎるブラームス”か、“透明感はあるものの骨粗鬆症のように密度の乏しいブラームス”か、いずれかに偏ることが余りにも多いのが現実である。

    そんな中、チェリビダッケは、腰の座った重厚なフルオーケストラながら、普通では考えられないほどの透明感を獲得しているのである。

    冒頭、無の世界から忽然として現れてくるかのような滑らかな出だしからして、他の演奏とは一線を画す。第二楽章は、独特の間合いも相俟って幽玄なる美を創出している。終楽章の畳み掛けも凄まじく、殊に楔を打つかの如くそそり立つザードロのティンパニと、それに呼応するチェリビダッケの掛け声は壮絶だ。

    何より美しいのは弦楽器§であり、寸分の狂いのないピッチやボウイングにより、少しの刺もない、滑らかで艶やかで蠱惑的な程の響きを創出する。

    管楽器§も、迫力がありながら耳障りにならない。常にシルキーな質感がある。これはチェリビダッケが、互いの音をよく聴き合い、一つに溶け合うように徹底していた成果であろう。

    これほどのこだわり抜いた演奏が恣意的に出来るわけがなく、ひとえに、音楽に対する理解と美しい響きの追求の賜物と、敬意を表さずにはいられない。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/03/16

    Jazzの、しかもLiveとなれば、即興性も倍増するはずである。即興は、その場に流れている空気をアーティストが絶妙に掬い上げて、初めて成立する。

    さて、このコンプリート盤が出る前は、当夜のLiveは“Waltz for Debby”と“Sunday at the Village Vanguard”の二枚に分かれており、しかも各々に別テイクを付加する形で“編集”されていることは周知の通り。しかし、編集によって、Liveならではの会場の空気の変化と、それに伴うプレイの変化を味わうのが難しくなったと言わざるを得ない。即興が生まれるベクトルが、編集によって捩曲げられているのだ。

    そこへいくと、このコンプリート盤は、当夜のLiveをほぼそのままの形で再現しており、次第に演奏者も聴衆も熱を帯びていくのが分かる。とはいえ、あからさまにテンションを上げるようなことはせず、あくまで抑制の効いた、それでいて情熱を内に秘めたプレイを披露しているのはさすがだ。何より、演奏後の拍手や演奏者同士のやり取りも、省略されることなく収められており、会場の空気の変化が克明に刻まれている。

    演奏はもはや言わずもがなの歴史的名演だ。特に、“Waltz for Debby”“My Romance”“Alice in Wonderland”といった定番曲で、これほどお洒落に仕上げた人が他にあろうか?三者三様に絡み合うインタープレイの鮮やかさ、エヴァンスのタッチの軽やかさ、ラファロのベースの深さ、なかんずく、絶妙な“間”!これはヤラレる!しかも新たなリマスタリングとSHM化によって、これら妙技が従来盤より鮮やかになっているのが嬉しい限りだ。ラファロのベースがグッとパワフルになり、モティアンのドラムのキレが増し、そしてエヴァンスのピアノに円やかさが加味された。

    こうして聴いてみると、エヴァンスのピアノのセンスの凄さがよりはっきり認識出来る。彼はクラシックから影響を受け、尊敬するピアニストの一人にアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリの名を挙げたという。なるほど、納得である。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/02/01

    ハース版かノヴァーク版で聴くのが一般的なブルックナーだが、クナッパーツブッシュはシャルク版だ。“改竄版”とも言われ、ブルックナー指揮者として高名なヴァントをして「メンデルスゾーンとワーグナーの合いの子のようで、興醒めする」と言わしめるほどの問題作だが、クナッパーツブッシュの手にかかると、そんなことなどどうでもいいと思えるから不思議だ。勿論、ブルックナーにイメージされる神秘性とか幽玄なる雰囲気などは望むべくもなく、一般的にはヴァント、コアなファンにはチェリビダッケを薦めるが、ブルックナーに付き纏う固定観念を逸脱したところで音楽を楽しもうとする向きには好適であろう。弦楽器がオクターブ上がったり、リズムパターンが変だったり、展開部がバッサリ省かれたり、挙げ句クライマックスで打楽器がドンチャン騒ぎして大見得を切ったり凄いことになるが、クナッパーツブッシュの息遣いの深さが、一歩間違うと下世話になりかねないところを堂々たる演奏に昇華している。録音も年代離れした優秀なもので、改竄版ならではの面白い音響をいい意味で助長させている。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/01/19

    僕は20代の人間だが、おおよそアイドル濫立状態のJ-POPには全くといっていい程、関心がない。だから音楽の話が合う同世代に恵まれないが、それでも、J-POPを自ら好んで聴こうとは思えない。

    何故か。一言でいえば、雑音でしかないからだ。本来、音とは物理的には空気の振動であり、微細な振動が幾重にも折り重なって玄妙なる響きを創造するものなのだ。そんな“響き”というのが、イマドキの贋物音楽には皆無なのである。やたら電気的に増幅したノイズの塊をバックに、金切り声で踊り騒いでいるとしか思えないのだ。

    本当にいい音楽には、豊かな響きがある。空気を微風のように優しく振動させるものがあり、それが、愛撫するかのように鼓膜を伝うのである。僕はこれこそ音楽の真髄であり、“癒し”の正体であると思っている。

    ここに聴く音楽は、カベソンを中心に、彼と同世代の作品が並ぶが、何て優しい風が流れていることか……。古楽器は倍音の成分が現代楽器より複雑であり、扱いが難しいというが、それらを何の過不足もなく自然のままに奏でることによって醸される響きの美しさ、繊細さに心奪われる。何より、ゆったりとしたテンポは、忙しない日常に流れている時間軸とは真逆の、悠久の時を感じさせる。

    とりわけ美しいのが歌声だ。清らかで、ビブラートを抑えた、透明感溢れる歌声……。人間の声は、かくも流麗に響くものか。

    我々は、一体いつから、自らの手で雑音を作り上げ、また雑音に躍らされるようになったのだろうか……。いにしえの音楽が、静かに現代に疑問符を投げかけている。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/01/17

    SHM-CDの威力!

    BLUE NOTEの国内盤が、東芝EMIからUniversalに移行し、しかも24bit 192kHzリマスタリングおよびSHM-CD化で復活したことは喜び以外の何物でもない。

    僕はクラシック畑の人間だが、東芝EMIにはまるで信用していない。クラシックの場合輸入盤はアビィロード・スタジオでのプレスだが、東芝盤との音質の差は歴然で、断然輸入盤の方が優れている。というより、東芝盤はお話にならないくらい貧弱な音に改竄されることが常であり、某掲示板でも散々にこき下ろされている。他のレビューに、mono録音と勘違いされたふしのコメントが掲載されているが、恐らく、マスタリングからカッティングに至るプロセスにおいて、劣化したものと考えられる。

    事実、例えばクラシックの名盤である《クリュイタンス指揮/ビゼー:アルルの女》をEsoteric復刻盤と東芝EMI盤で聴き比べると、何れもStereo標記なのにも拘わらず音場がまるで異なり、Esoteric盤では綺麗に分離するが、東芝盤ではほぼmono同然の分離の悪さである。使用音源自体は同じでも、復刻プロセス如何で雲泥の差になることもあるのだ。

    ここに聴くArt Blakeyの超名盤でも、SHM-CDの特長たる中音域の伸びの良さと全体的に潤いを帯びたサウンドが、ややするとうるさいだけになりがちなブラスセクションを鮮やかに蘇らせている。特に、今日ではEテレの《美の壺》のオープニング曲としてお馴染みの標題作“MOANIN'”が格好いい。また、“Drum Thunder Suite”のドラムのアグレッシヴな抜けの良さも上々である。とても1958年の録音とは信じ難い(商業用ステレオ録音の開始が1954年だから、まだ黎明期の録音である)。もっとも、マスターに起因する若干のノイズや劣化部分があるのは致し方あるまい。むしろ、これ程の音で聴けることに感謝したい。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/01/16

    Jazzの、しかもLiveとなれば、即興性も倍増するはずである。即興は、その場に流れている空気をアーティストが絶妙に掬い上げて、初めて成立する。

    さて、このコンプリート盤が出る前は、当夜のLiveは“Waltz for Debby”と“Sunday at the Village Vanguard”の二枚に分かれており、しかも各々に別テイクを付加する形で“編集”されていることは周知の通り。しかし、編集によって、Liveならではの会場の空気の変化と、それに伴うプレイの変化を味わうのが難しくなったと言わざるを得ない。即興が生まれるベクトルが、編集によって捩曲げられているのだ。

    そこへいくと、このコンプリート盤は、当夜のLiveをほぼそのままの形で再現しており、次第に演奏者も聴衆も熱を帯びていくのが分かる。とはいえ、あからさまにテンションを上げるようなことはせず、あくまで抑制の効いた、それでいて情熱を内に秘めたプレイを披露しているのはさすがだ。何より、演奏後の拍手や演奏者同士のやり取りも、省略されることなく収められており、会場の空気の変化が克明に刻まれている。

    演奏はもはや言わずもがなの歴史的名演だ。特に、“Waltz for Debby”“My Romance”“Alice in Wonderland”といった定番曲で、これほどお洒落に仕上げた人が他にあろうか?三者三様に絡み合うインタープレイの鮮やかさ、エヴァンスのタッチの軽やかさ、ラファロのベースの深さ、なかんずく、絶妙な“間”!これはヤラレる!しかも新たなリマスタリングとSHM化によって、これら妙技が従来盤より鮮やかになっているのが嬉しい限りだ。ラファロのベースがグッとパワフルになり、モティアンのドラムのキレが増し、そしてエヴァンスのピアノに円やかさが加味された。

    こうして聴いてみると、エヴァンスのピアノのセンスの凄さがよりはっきり認識出来る。彼はクラシックから影響を受け、尊敬するピアニストの一人にアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリの名を挙げたという。なるほど、納得である。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2014/01/11

    “鍵盤の獅子王”との異名を持つバックハウスだが、獅子王が真に獅子王だったのは1930〜50年代前半だと思われる。古い録音を聴くと、無駄を排した筋肉質な音色で駆け抜けるように弾きこなしている様子が判る。このステレオ盤に、若き日の芸風を求める訳にはいかないが、その代わり、貫禄と包容力のある表現が聴かれるようになった。愛器ベーゼンドルファーならではの丸みのある響きと、往年のVPOの覇気溢れる伴奏との相乗効果が素晴らしい。加えて、さすがDECCAというべき年代離れした良好な音質も特筆される。いつ聴いても落ち着きをもたらしてくれる、正攻法によるアプローチは、昨今のピリオド奏法に代表されるハッタリ虚仮威し演奏とは対極にあり貴重だ。これぞベートーヴェンというべき演奏だ。併録の四大ソナタもエバーグリーンである。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

検索結果:608件中16件から30件まで表示