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つよしくん さんのレビュー一覧 

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  • 8人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/11/03

    ショルティは、とある影響力の大きい音楽評論家の罵詈雑言も多分にあると思うが、実力の割に過小評価されている指揮者であると言える。同じく罵詈雑言を浴びせながらも、フルトヴェングラーと並ぶ大指揮者として評価の高いカラヤンに匹敵するほどの膨大なレコーディングを遺しながら、一部の熱心なクラシック音楽ファンを除いて現在では殆ど忘れられつつある存在と言えるだろう。ショルティは、もちろん交響曲や管弦楽曲などの分野において名演を遺しているのであるが、カラヤンと同様に、そのレパートリーの中心にはオペラが存在したと言える。特に、ショルティの名声を決定的にしたのは、ウィーン・フィルとのワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の初のスタジオ録音(1958〜1965年)であったと言うのは論を待たないところだ。そして、本盤におさめられたR・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」は、前述の歴史的なスタジオ録音を終了させた後に行われたものである。ショルティとウィーン・フィルの相性は必ずしも芳しいものではなく、ウィーン・フィルの主要な楽団員をして、ショルティとは契約に定められた演奏(録音)以外は好んでともに演奏することはないなどと言わしめたほどである。しかしながら、実際に録音がなされた演奏の出来が悪いかと言うと、必ずしもそうではない。前述の楽劇「ニーベルングの指環」にしても、現在でも同曲最高峰の名演としての地位を譲っていないところであり、お互いに反発し合うところはあっても、真のプロフェッショナルとして名演奏を成し遂げようと言う不断の努力は行わなかったということであろう。本盤の楽劇「ばらの騎士」も、そうしたショルティとウィーン・フィルによる真のプロフェッショナルとしての偉大な名演奏が刻み込まれていると言えるのではないだろうか。同曲の名演としては、カラヤンの新旧両盤(フィルハーモニア管弦楽団との1956年盤、ウィーン・フィルとの1982〜1984年盤)が2大名演とされており、それにカルロス・クライバー&バイエルン国立歌劇場管弦楽団ほかによるライヴ録音(1973年)が追う展開となっている。ウィーン・フィルを起用した名演としてはエーリヒ・クライバーによる録音も存在しているが、本盤のショルティ盤もタイプは異なるが、前述の各名演に次ぐ存在と言えるのではないかと考えられるところだ。本演奏におけるショルティの指揮には、カラヤンの旧盤やカルロス・クライバーによる演奏が有していた躍動感や、カラヤンの新盤のような老獪な味わい深さは存在していないが、ショルティの特徴とも言える強靭とも言えるリズム感とメリハリのはっきりとした明朗さが、R・シュトラウスが施した華麗なオーケストレーションを細部に至るまで明晰に紐解くのに成功し、スコアに記された音符の数々を忠実に音化したという意味での完成度の高さは天下逸品。正に、同曲の音楽の素晴らしさをダイレクトに聴き手に伝えることに成功している点を評価したい。そして、ショルティのややシャープに過ぎるアプローチに適度の潤いと温もりを付加させているのが、ウィーン・フィルの極上の美演であると言えるところであり、その意味ではショルティとウィーン・フィルが表面上の対立を乗り越えて、お互いの相乗効果を発揮させたことが、本名演に繋がったと言えなくもないところだ。そして、本演奏の場合は歌手陣も素晴らしい。何と言っても、元帥夫人をレジーヌ・クレスパンが歌っているのが最大のポイント。元帥夫人役としては、カラヤンの旧盤においておなじみのエリザベート・シュヴァルツコップのイメージが強い役柄ではあるが、巧さはともかくとして味わい深さにおいては、クレスパンはいささかも引けを取っていない。オックス男爵役のマンフレート・ユングヴィルトやオクタヴィアン役のイヴォンヌ・ミントン、ゾフィー役のヘレン・ドナートなども素晴らしい歌唱を披露していると高く評価したい。英デッカによる今は無きゾフィエンザールによる名録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

    8人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2012/11/03

    20世紀後半を代表する指揮者の一人であったジュリーニであるが、いわゆる完全主義者であったということもあり、そのレパートリーは、これほどの指揮者としては必ずしも幅広いとは言えない。そのようなレパートリーが広くないジュリーニではあったが、ドヴォルザークの交響曲第7番〜第9番については十八番としており、それぞれ複数の録音を遺している。これは録音を徹底して絞り込んだジュリーニとしては例外的であり、ジュリーニがいかにドヴォルザークを深く愛していたかの証左であるとも言えるだろう。本盤におさめられたドヴォルザークの交響曲第7番について、ジュリーニは本演奏を含め4種類の録音を遺している。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのライヴ録音(1969年)、ベルリン・フィルとのライヴ録音(1973年)、本盤におさめられたロンドン・フィルとのスタジオ録音(1976年)、コンセルトへボウ・アムステルダムとのスタジオ録音(1993年)であるが、この中で、最も優れた演奏は、ジュリーニの全盛時代の録音でもあるベルリン・フィルとのライヴ録音と本盤のロンドン・フィルとのスタジオ録音ということになるのではないだろうか。そして、演奏の安定性という意味においては、本演奏こそはジュリーニによる同曲の代表盤と評しても過言ではあるまい。ジュリーニによる本演奏のアプローチは、チェコ系の指揮者のように同曲の民族色を強調したものではなく、むしろ楽想を精緻に描き出していくという純音楽に徹したものと言えるが、各旋律の歌謡性豊かな歌わせ方は豊かな情感に満ち溢れたものであり、その格調の高い優美さは、ジュリーニの指揮芸術の最大の美質と評しても過言ではあるまい。必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ジュリーニの確かな統率の下、持ち得る実力を最大限に発揮した最高のパフォーマンスを示しており、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。いずれにしても、本演奏は、全盛期のジュリーニの指揮芸術の魅力を十分に堪能することが可能な素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質は、1976年のスタジオ録音であるが、もともと良好な音質と評されていたこともあって、これまでリマスタリングが行われた形跡はないものの、私が保有している輸入盤(第8番及び第9番とのセット版)でも比較的満足できる音質ではあったところであった。ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、従来CD盤とは段違いの素晴らしさであり、あらためて本演奏の魅力を窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、ジュリーニによる素晴らしい名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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     2012/11/03

    生前は原則として一切の録音を拒否し、幻の指揮者と言われていたチェリビダッケであるが、没後、相当数の録音が発売されることになり、その独特の芸風が多くのクラシック音楽ファンにも知られることになった。数年前にブルックナーの交響曲第8番とともに、本盤におさめられた交響曲第5番の来日時(1986年)のコンサートのライヴ録音のCD化が行われたのは記憶に新しいところである。今般、ついに、そのライヴ録音CDが、第8番とともに、シングルレイヤーによるSACD化が図られることになったのは、チェリビダッケの芸術を更に広く知らしめる意味においても、極めて意義の大きいことと言わざるを得ない。チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであったと言える。チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追及しようというものではない。むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、正に音のドラマ。これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、それはブルックナーの交響曲についても言えるところだ。EMIから発売されているブルックナーの交響曲集についても、第3番や第6番は素晴らしい名演であったが、第5番や第8番については、超スローテンポによる演奏で、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないだろうか。ところが、1986年の来日時の演奏である本盤におさめられた第5番、そして同時発売の第8番については、アプローチとしては基本的に変わりがないものの、チェリビダッケが愛した日本での公演であること、当日の聴衆の熱気、そして何よりも極上の高音質録音によって、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることなどが相まって、スローテンポであってもいささかも間延びがしない充実した音楽になっているのではないかと思われるところだ。確かに、この演奏をブルックナーの交響曲演奏の理想像と評価するには躊躇するが、いわゆる音のドラマとしては究極のものと言えるところであり、良くも悪くもチェリビダッケの指揮芸術の全てが如実にあらわれた演奏と言うことができるだろう。いずれにしても、聴き手によって好き嫌いが明確に分かれる演奏であり、前述のように、ブルックナーらしさという意味では疑問符が付くが、少なくともEMIに録音された演奏よりは格段に優れており、私としては、チェリビダッケの指揮芸術の全てがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。そして、前述のように、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは、シングルレイヤーによるSACD化によって、音質が更に鮮明になり、なおかつサントリーホールの残響の豊かさが活かされた臨場感溢れる音質であることも一躍買っていることを忘れてはならない。

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     2012/10/28

    ショルティはマーラーの交響曲を得意としていたが、意外にもシカゴ交響楽団との全集を完成させた1983年以降は、殆どマーラーの交響曲を録音していない。その後、10年以上にもわたって、様々な楽曲のレコーディングを行ったショルティにしては、実に意外なことと言わざるを得ない。しかしながら、そのようなショルティにも例外があり、交響曲第5番だけは、全集の一環としてスタジオ録音(1970年)を行った後、シカゴ交響楽団とのライヴ録音(1990年(本盤))、そしてショルティのラスト・レコーディングとなったチューリヒ・トーンハレ管弦楽団とのライヴ録音(1997年)の2度にわたって録音を行っている。ショルティが同一の楽曲を3度に渡って録音するというのは、ベートーヴェンの一部の交響曲、そして、マーラーの交響曲で言えば第1番のみであることから、今後、新たなライヴ録音が発掘されることが想定されるものの、ショルティがいかに同曲を深く愛していたのかを窺い知ることができるところだ。ショルティの遺したマーラーの交響曲第5番の3つの演奏のうち、最もショルティの個性が発揮された名演は、何と言っても1970年の演奏である。シカゴ交響楽団の音楽監督に就任したばかりであるにもかかわらず、シカゴ交響楽団を見事に統率し、耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂するなど、強烈無比とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。血も涙もない音楽が連続するなど、正に、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、かのバーンスタインや&ウィーン・フィル盤(1988年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1991年ライヴ盤)の名演にいささかも引けを取っていないと言えるものであった。これに対して、本盤の演奏は、1970年の演奏ほどの強烈さは存在しない。切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さはショルティの指揮芸術の特徴であり、そうした特徴は本演奏の随所に感じられるのであるが、演奏全体としては角が取れたある種の懐の深さが支配していると言えるところであり、1970年の演奏を聴いた者からすると、やや物足りない気がしないわけでもない。もっとも、本演奏の有する前述のような懐の深さ、そして安定感は、ショルティの円熟の成せる業とも言えるところであり、1970年の演奏さえ度外視すれば、十分に素晴らしい名演と評価してもいいのではないかと考えられるところだ。シカゴ交響楽団は、相変わらずスーパー軍団の名に相応しい圧倒的な名演奏を展開しており、当時もいまだ健在であったトランペットのハーセスやホルンのクレヴェンジャーなどのスターたちが、最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本演奏を聴く醍醐味と言えるだろう。ショルティは、前述のように、1997年にも同曲を録音しているが、ラスト・レコーディングということに食指は動くが、オーケストラの統率力に陰りがみられること、トーンハレ管弦楽団にもある種の戸惑いが感じられることなどもあって、私としては、1970年の演奏を除けば、本盤の1990年の演奏の方を名演として高く評価したいと考える。音質は英デッカによる1990年の録音でもあり極めて優秀なものであるが、1970年の演奏が先般シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化がなされたにもかかわらず、本演奏が、今般、ルビジウム・クロック・カッティング盤として発売されたものの、現在でもなおSHM−CD化すらされていないのはいささか残念な気がする。いずれにしても、今後は、本演奏についても、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化をこの場を借りて望んでおきたい。

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     2012/10/28

    ここ数年のインバルの新譜はいずれも素晴らしい。指揮者がかつてと比較して小粒になったと言われる現代において、なお巨匠指揮者時代の残滓を感じさせるだけの存在感を有していると言えるところであるが、それはインバルのここ数年の偉大なる新譜によるところが大きいと思われるところだ。インバルの名声を確固たるものとしたのは、かつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音したマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)であるというのは論を待たないところだ。この全集は、現在でもなお、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集であるが、インバルは、数年前より、東京都交響楽団とチェコ・フィルを起用して、新しいマーラーの交響曲チクルスを開始している。既に、チェコ・フィルと第1番、第5番、第7番、東京都交響楽団と第2番、第3番、第4番、第8番を録音しており、「大地の歌」は第8弾ということになる(フォンテックレーベルにも第6番を録音していることから、再録音するかどうかは予断を許さないが、それを加えると第9弾ということになる。フォンテックレーベルには、他に第5番を録音している。)。
    インバルは、前述の全集において「大地の歌」をスタジオ録音(1988年)していることから、今般の演奏は24年ぶりの録音ということになる。前回の演奏もインバルの名声をいささかも傷つけることのない名演であったが、今般の演奏は、それをはるかに凌駕する圧倒的な超名演であると言えるのではないだろうか。かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。1988年録音の「大地の歌」についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。ところが、本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがなく、骨太の音楽作りが行われているというのは、さすがの至芸と言うべきであろう。いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。メゾ・ソプラノのイリス・フェルミリオン、そして、テノールのロバート・ギャンビル、そして東京都交響楽団も、インバルの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。音質は、SACDによる極上の超高音質録音であり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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     2012/10/28

    カラヤンは、ブルックナーの交響曲の第8番を、DVD作品などを除けば、3度スタジオ録音している。ベルリン・フィルの芸術監督に就任後、間もなくスタジオ録音されたベルリン・フィルとの演奏(1957年)、その後全集に発展する第1弾としてスタジオ録音されたベルリン・フィルとの演奏(1975年)、そして最晩年のウィーン・フィルとの録音(1988年)の3種であるが、本盤におさめられた演奏は、その最初のスタジオ録音である(これに加えて、戦前のベルリン国立歌劇場管弦楽団との演奏が存在しているが、第1楽章が欠落しており、本稿ではカウントしないこととしたい。)。この3種の録音は、いずれも優れた名演であるが、それぞれの演奏の録音年代が均等に離れているだけに、録音当時のカラヤンの芸風が窺い知ることができるという意味においても、極めて意義深い演奏であるとも言えるところだ。本盤の演奏は、後年の演奏、例えば1975年のカラヤン&ベルリン・フィルの全盛期の演奏のようなある種の凄味があるわけではない。その後は世界を席巻することになるカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の名コンビであるが、当時のベルリン・フィルにはフルトヴェングラー時代の主要メンバーが多数在籍していたところであり、カラヤンとしても未だ必ずしもベルリン・フィルを掌握していたとは言い難いと言えるのではないか。それだけに、カラヤンも自我を極力抑え、むしろベルリン・フィルに演奏の主導権を委ねたような趣きも感じられるところであり、音楽そのものを語らせると言うアプローチは、1988年の最晩年の演奏にも通底するものがあると言える。もっとも、音楽の精神的な深みという意味においては、最晩年の名演には到底太刀打ちできないものの、その一方で、演奏全体には、壮年期のカラヤンならではの強靭な気迫と生命力が漲っており、それこそが、本演奏の最大の魅力であると言えるのかもしれない。いずれにしても、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルが歴史に残る稀代の黄金コンビに発展していくことを十分に予見させるとともに、ブルックナーの音楽の魅力、そして壮年期のカラヤンの力感溢れる芸風などがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質は、後年の演奏とは異なり、1957年のステレオ初期の録音というハンディがあり、ARTによるリマスタリングが施されてはきたものの、必ずしも満足できる音質とは言い難いものであった。ところが、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化がなされるに及んで、見違えるような良好な音質に蘇った。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても素晴らしい仕上がりであると言えるところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、壮年期のカラヤンによる素晴らしい名演を高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2012/10/27

    本盤の演奏は、ウィーン・フィルとのワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のスタジオ録音(1958〜1965年)、ロンドン交響楽団とのバルトークの管弦楽のための変奏曲のスタジオ録音(1965年)と並んで、ショルティの初期の録音の中でのベスト3を形成する素晴らしい名演と高く評価したい。ショルティは、本演奏を皮切りとして、マーラーのすべての交響曲(第10番を除く。)の録音を開始することになったが、本演奏の価値はそれでもなお色あせることなく、現在でもショルティの代表盤の地位を失っているとは言えないのではないかとも考えられるところだ。ショルティ自身も、本演奏の出来には相当に満足していたようで、後年、1970年の交響曲第5番の録音をはじめとして、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集の録音を開始したが、その際、第4番を再録音するかどうかについて相当に逡巡したとのことであった(結局、1983年に再録音を行うことになった。当該演奏も一般的な意味における名演ではあるが、とても本演奏のような魅力は存在していないのではないかと考えられるところだ。)。いずれにしても、ショルティとしても突然変異的な名演と言えるほどで、ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感や明瞭なメリハリが、本演奏においてはあまり全面には出ていないとも言えるところだ。マーラーの交響曲の中でも、最も楽器編成が小さく、メルヘン的な要素を有する第4番は、かかるショルティの芸風とは水と油のような関係であったとも言えるが、本演奏では、そうしたショルティらしさが影をひそめ、楽曲の美しさ、魅力だけが我々聴き手に伝わってくるという、いい意味での音楽そのものを語らせる演奏に仕上がっていると言えるだろう。ショルティも、多分に楽曲の性格を十二分に踏まえた演奏を心がけているのではないかとも考えられるところであり、逆に言えば、若き日のショルティにもこのような演奏を行うことが可能であったということだ。これはショルティの指揮芸術の懐の深さをあらわすものであり、とある影響力の大きい音楽評論家などを筆頭にいまだ根強いショルティ=無機的で浅薄な演奏をする指揮者という偏向的な見解に一石を投ずる演奏と言えるのではないだろうか。また、コンセルトへボウ・アムステルダムの北ヨーロッパならではの幾分くすんだ響きが、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることを忘れてはならない。終楽章のソプラノのシルヴィア・スタールマンによる独唱も美しさの極みであり、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。音質は、1961年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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     2012/10/27

    ショルティはマーラーの交響曲の中で最も規模が大きい第3番を2度にわたってスタジオ録音している。本盤におさめられた演奏はその最初の録音(1968年)であり、オーケストラはロンドン交響楽団である。そして、2度目の録音は、シカゴ交響楽団との唯一の交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1983年)だ。ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと言えるのではないだろうか。我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことであると言える。特に、マーラーの交響曲の演奏は、いずれも一聴の価値のあるものであると言えるところであり、今般、一連の録音が廉価のルビジウム・クロック・カッティング盤で発売されるのは、ショルティの再評価に繋がるのではないかと密かに期待もしているところだ。それはさておき、本演奏であるが、さすがに1983年のシカゴ交響楽団との演奏と比較すると若干落ちると言わざるを得ない。というのも、1983年の演奏は、シカゴ交響楽団の卓越した技量を全開させた圧倒的な超名演であるからである。当該演奏は、故柴田南雄氏が「燦然たる音の饗宴」と評した演奏であるが(氏は、それ故に内容空虚であることを指摘して、本演奏を酷評している。)、これほど当該演奏を評した的確な表現はあるまい。正に、当該演奏は有名レストランでシカゴ交響楽団が出す豪華料理と高級ワインを味わうような趣きがあり、我々聴き手は、ただただレストランにおいて極上の豪華な料理と高級ワインを堪能するのみである。もっとも、あまりの料理やワインの豪華さに、聴き手もほろ酔い加減で幻惑されてしまいそうになるが、当該演奏は、それほどまでに空前絶後の「燦然たる音の饗宴」に仕上がっていると言える。確かに、故柴田南雄氏が指摘されているように、楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような奥深さには欠けている演奏であると言えるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1988年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもなく、私としてはマーラーの演奏様式の一翼を担った名演として高く評価したいと考える。これに対して、本演奏はいささか分が悪いと言わざるを得ない。何と言っても、ショルティの壮年期の演奏であり、やや力づくの強引さが見られる箇所もないわけではなく、1983年の演奏の時のような円熟味にはいささか欠けると言える。加えて、ロンドン交響楽団も、一流のオーケストラではあるが、シカゴ交響楽団のようなスーパー軍団とは言い難いところであり、特に、ショルティのようなアプローチに対しては、シカゴ交響楽団の方がより相性がいいと考えられるからである。もっとも、本演奏も、1983年の演奏との比較さえしなければ、そして未だマーラー・ブームが訪れていない時代の演奏ということを考慮すれば、なかなかの佳演ということが言えるのではないだろうか。ショルティの指揮芸術の特徴である切れ味鋭いリズム感のメリハリの明瞭さは、本演奏全体を貫いており、オーケストラがロンドン交響楽団ということもあって、オーケストラの技量面よりも、ショルティの個性がより全面に表れているというのも、1983年の演奏とは違った本演奏の特徴とも言える。前述のように、やや力づくの強引さも見られるなど、若干の懐の深さが欲しい気もしないではないが、そうした期待は、1983年の演奏の方に委ねるべきと言うべきであろう。ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると言えるのではないか。アルトのワッツをはじめとした声楽陣も最高のパフォーマンスを発揮していると言える。いずれにしても、本演奏は、1983年の名演に至る確かな道程にある佳演と評価したいと考えており、★4つのさせていただきいと考える。音質は、1968年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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     2012/10/27

    クレンペラーによるベートーヴェンの交響曲全集の掉尾を飾るに相応しい巨匠ならではのスケール雄大な素晴らしい名演だ。EMIは、過去の名演を100種選定して、昨年末からSACD化して発売しているが、当該SACD化がハイブリッドであったのに対して、今般はより高音質化が望めるシングルレイヤーによるSACD化であり、加えてLP時代のカプリングやジャケットへの強い拘りも、高く評価されるべきであろう。近年においては、ベートーヴェンの交響曲演奏は、ピリオド楽器やピリオド奏法による演奏が一般化しているが、本盤の交響曲第9番の演奏は、そうした近年の傾向とは真逆の伝統的な、ドイツ正統派によるものと言えるだろう。本演奏において、クレンペラーは格調の高さをいささかも損なうことなく、悠揚迫らぬテンポで精緻に楽想を描き出している。木管楽器を強調するのはクレンペラーならではのユニークなものではあるが、各楽器を力強く演奏させて、いささかも隙間風が吹かない重量感溢れる重厚な音楽が紡ぎだされていく。テンポの振幅などは最小限に抑えるなど、ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、演奏全体の造型は極めて堅固であり、スケールは極大であると言える。ベートーヴェンの交響曲第9番の名演としては、フルトヴェングラー&バイロイト祝祭管弦楽団によるドラマティックな超名演(1951年)の印象があまりにも強烈であるが、本演奏は当該名演とはあらゆる意味において対照的な演奏であると言える。巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これは正に質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。いずれにしても、本演奏は、前述のフルトヴェングラーによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したいと考える。独唱陣はいずれも優秀であるが、とりわけバリトンのハンス・ホッターとメゾ・ソプラノのクリスタ・ルートヴィヒは比類のない名唱を披露していると言える。クレンペラーの統率の下、フィルハーモニア管弦楽団や同合唱団も最高のパフォーマンスを示しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。併録の「レオノーレ」序曲第3番や「シュテファン王」序曲についても、交響曲第9番と同様に、クレンペラーのスケール雄大な音楽づくりを味わうことができる素晴らしい名演だ。音質は、1957年のスタジオ録音であるが、従来CD盤でも、そして数年前に発売されたHQCD盤でも、比較的満足できるものであった。ところが、前述のように、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで、圧倒的な高音質に生まれ変わったと言える。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても素晴らしい仕上がりであると言えるところであり、あらためてシングルレイヤーによるSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、クレンペラーによる素晴らしい名演を高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2012/10/21

    朝比奈のレパートリーの中核となっていたのは、ブルックナーやベートーヴェンの交響曲であり、ブラームスの交響曲もそれに次ぐ存在であったと言える。ただし、あくまでも私見ではあるが、朝比奈が遺したブラームスの交響曲全集の録音は、大阪フィルや新日本フィルなど複数を数えているものの、ブルックナーやベートーヴェンの交響曲の演奏と比較すると、今一つ冗長と言うか、面白み味に欠けるような気がするのだ。スケールは雄大であるが、細部におけるニュアンスの込め方に今一つ欠けているというのが、そのような気にさせる要因であると言えるのかもしれない。良く言えば、細部に拘泥しない恰幅の良さ、悪く言えば大味な演奏とも言えるのではないだろうか。ブルックナーやベートーヴェンの交響曲とは異なり、ブラームスの交響曲の場合、細部における細やかな表現の在り様は、演奏を行うに際しての生命線とも言えるだけに、朝比奈の演奏のアキレス腱ともなっていると言えるところだ。しかしながら、本盤におさめられた東京都交響楽団とのライヴ録音だけは超名演だ。朝比奈による数あるブラームスの交響曲第1番の演奏の中でも最高の名演であるにとどまらず、同曲演奏史上でもトップクラスの超名演と高く評価したいと考える。本演奏におけるアプローチは、これまでの朝比奈による同曲の演奏と基本的には何ら変わるところはない。スケールは雄渾の極みであり、細部に拘らず、ブラームスがスコアに記した音符の数々を恰幅よく鳴らし切るという、いわゆる直球勝負のスタイルによる演奏だ。そして、あたかも重戦車が進軍するが如き重量感に溢れており、その力強さは、同曲演奏史上でも空前にして絶後の凄まじいまでの強靭な迫力を誇っていると言える。加えて、これまでの朝比奈によるブラームスの交響曲演奏の唯一の高いハードルにもなっていた細部におけるニュアンスの込め方についても、何故か本演奏においては、どこをとっても独特の表情付けがなされるなど、過不足なく行われていると言えるところである。したがって、本演奏は、例によって繰り返しを忠実に行うなど、全体を約53分もの時間を要してはいるが、これまでの朝比奈による同曲の演奏のように冗長さを感じさせるということはいささかもなく、隙間風が一切吹かない内容の濃さを有していると言えるところだ。
    いずれにしても、本演奏は、スケールの大きさと細部への入念な配慮を両立し得た稀有の名演と言えるところであり、朝比奈としても、会心の出来と評すべき超名演と言えるのではないだろうか。それにしても、東京都交響楽団のうまさを何と表現すればいいのであろうか。東京都交響楽団は、崇敬する朝比奈を指揮台に頂いて、ドイツのオーケストラに決して負けないような重厚かつ重量感溢れる豪演を展開しており、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。DSDマスタリングによる鮮明な高音質も見事という他はない。ただ、DSDマスタリングをするのであれば、これだけの素晴らしい超名演であるだけに、SACD盤で発売して欲しかったと思うクラシック音楽ファンは私だけではあるまい。

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     2012/10/21

    これはいかにもショルティならではの強烈無比な演奏だ。録音は1966年であり、かの歴史的な超名演であるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」をウィーン・フィルとともにスタジオ録音している最中のもの。かかる録音も終わりに近づいており、そうしたことに去来するであろう自らの指揮芸術に対する漲るような自信と誇りが演奏自体にもあらわれているかのようである。ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。したがって、ショルティは、マーラーの交響曲第2番を1980年になって、当時の手兵であるシカゴ交響楽団とともに再録音を行っているが、この1980年の演奏は、本演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっていたと言える。シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。これに対して、本演奏は第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは、他の指揮者によるいかなる演奏よりも(ブーレーズの旧盤が匹敵する可能性あり)、そしてショルティ自身による1970年のマーラーの交響曲第5番の演奏にも比肩するような凄味を有していると言えるだろう。したがって、1980年の演奏に抵抗を覚えなかった聴き手の中にさえ、このような血も涙もない演奏に抵抗感を覚える者も多いのではないかと思われるが、私としては、マーラーの交響曲の演奏様式の一つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が全開した名演と評価したいと考える。ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っているとともに、ソプラノのハーパーやアルトのワッツをはじめとした声楽陣も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。音質は、1966年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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     2012/10/21

    ショルティは偉大なマーラー指揮者の一人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、3種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番と第5番しか存在していない。第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。3種類の録音のうち、本演奏が最初のもの、そして同年(1964年)のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そしてシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっていると言える。ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。したがって、1983年の演奏は、本演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっていたと言える。シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。これに対して、本演奏は第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは圧巻の凄味を誇っていると言える。ショルティは、同年にウィーン・フィルとライヴ録音を行っており、演奏の性格は同様であるとも言えるが、オーケストラの安定性(ウィーン・フィルは、この当時、ショルティにかなりの嫌悪感を抱いていたと言われる。)、オルフェオレーベルの今一つ低音が響いてこないもどかしさもあって、本演奏の方をより上位に置きたい。いずれにしても、1983年の演奏に比して、あくまでも直球勝負の本演奏に抵抗感を覚える者も多いのではないかとも思われるが、私としては、マーラーの交響曲の演奏様式の一つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が全開した名演と評価したいと考える。ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。音質は、1964年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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     2012/10/21

    エルガーのチェロ協奏曲は、悲劇のチェリストであるデュ・プレの代名詞のような楽曲であったと言える。エルガーのチェロ協奏曲とともに2大傑作と称されるドヴォルザークのチェロ協奏曲については、ロストロポーヴィチをはじめ数多くのチェリストによって録音がなされ、あまたの名演が成し遂げられている。ところが、エルガーのチェロ協奏曲に関しては、近年では若手の女流チェリストであるガベッタによる名演(2009年)なども登場しているが、デュ・プレの名演があまりにも凄いために、他のチェリストによる演奏が著しく不利な状態に置かれているとさえ言えるだろう。かのロストロポーヴィチも、デュ・プレの同曲の名演に恐れをなして、生涯スタジオ録音を行わなかったほどである(ロストロポーヴィチによる同曲のライヴ録音(1965年)が数年前に発売された(BBCレジェンド)が出来はイマイチである。)。デュ・プレは同曲について、本盤のスタジオ録音(1965年)のほか、いくつかのライヴ録音を遺している。テスタメントから発売されたバルビローリ&BBC響との演奏(1962年)なども素晴らしい名演ではあるが、演奏の安定性などを総合的に考慮すれば、本演奏の優位はいささかも揺らぎがないと言える。本演奏におけるデュ・プレによる渾身の気迫溢れる演奏の力強さは圧巻の凄まじさだ。本演奏の数年後には多発性硬化症という不治の病を患い、二度とチェロを弾くことがかなわなくなるのであるが、デュ・プレのこのような凄みのあるチェロ演奏は、あたかも自らをこれから襲うことになる悲劇的な運命を予見しているかのような、何かに取り付かれたような情念や慟哭のようなものさえ感じさせると言える。もっとも、我々聴き手がそのような色眼鏡でデュ・プレのチェロを鑑賞しているという側面もあるとは思うが、いずれにしても、切れば血が出てくるような圧倒的な生命力と、女流チェリスト離れした力感、そして雄渾なスケールの豪演は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分であると言える。それでいて、エルガーの音楽に特有の人生への諦観や寂寥感、深遠な抒情の表現においてもいささかの不足はないと言えるところであり、その奥深い情感がこもった美しさの極みとも言える演奏は、涙なしには聴くことができないほどのものだ。このような演奏を聴いていると、同曲はデュ・プレのために作曲されたのではないかとの錯覚さえ覚えるほどであり、さすがのロストロポーヴィチも、同曲のスタジオ録音を諦めた理由がよく理解できるところである。デュ・プレのチェロのバックの指揮をつとめるのはバルビローリであるが、ロンドン交響楽団を巧みに統率するとともに、デュ・プレのチェロ演奏のサポートをしっかりと行い、同曲の数々の抒情的な旋律を歌い抜いた情感豊かな演奏を繰り広げているのが素晴らしい。併録の歌曲集「海の絵」も、ジャネット・ベイカーの歌唱が何よりも美しい素晴らしい名演と評価したい。音質は、1965年のEMIによるスタジオ録音であり、従来CD盤では音にひずみが生じているなど今一つ冴えないものであったが、数年前にHQCD化されたことによって、音場が広がるとともに音質もかなり鮮明に改善されたところだ。そして、先般、待望のハイブリッドSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところであるが、今般のシングルレイヤーによるSACD盤は、当該ハイブリッドSACD盤をはるかに凌駕していると評しても過言ではあるまい。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてシングルレイヤーによるSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、デュ・プレやバルビローリ等による素晴らしい超名演を、超高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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     2012/10/21

    フルトヴェングラーの過去の名演のSACD化が着々と進んでいる。それには、EMIが膨大なフルトヴェングラーの名演のSACD化に踏み切ったことによるところが大きいと言えるが、他のレーベルも負けておらず、キングインターナショナルが、アウディーテレーベルから一昨年発売されたフルトヴェングラーのRIAS音源のSACD化を行ったことは、高音質の呼び声が高いだけに、クラシック音楽ファンにとっては大朗報と言えるだろう。SACD化の対象となったのは、1947年と1954年のいずれもベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番。1947年の演奏の方は、フルトヴェングラーの第二次大戦後の復帰コンサートということもあって、歴史的な超名演との評価が定着しており、本盤におさめられた1954年の演奏については、やや分が悪いと言わざるを得ない。フルトヴェングラーの演奏は、演奏内容の深みにおいては共通しているものの、一つ一つの演奏会に対して、はじめて楽曲に接する時のような気構えで臨んだとも言われていることから、各演奏の違いには顕著なものがあると言える。そうした中にあっても、1947年と1954年の演奏の違いはけた外れであると言えるところであり、とても同じ指揮者による演奏とは思えないほどであると言えるだろう。交響曲第5番において顕著であるが、フルトヴェングラーの美質でもあった実演におけるドラマティックな表現は、本盤の演奏では随分と影を潜めており、その意味ではある種の物足りなさを感じるかもしれない。もっとも、そうした踏み外しはないものの、演奏の持つ奥行きの深さ、彫の深さ、独特の深沈とした味わい深さは、交響曲第5番及び第6番ともに、1947年の演奏を大きく凌駕していると言えるところであり、大巨匠フルトヴェングラーも死の年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にある演奏と評しても過言ではあるまい。いずれにしても、本盤の演奏は、1947年の演奏などとの対比において諸説はあると思うが、私としては、フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番の演奏解釈の究極の到達点とも言うべき至高の超名演と高く評価したいと考える。それにしても、音質は素晴らしい。1947年の演奏についても、従来CD盤との違いは歴然としていたが、1954年の演奏については、より後年の演奏だけに、SACD化の効果については歴然たるものがあると言えるだろう。1954年のライヴ録音、そして音質が悪いとして定評のあるフルトヴェングラーのCDにしては、各楽器セクションの分離度や鮮明さは圧倒的であると言えるところであり、シングルレイヤーによるSACD化により、さすがに最新録音のようにはいかないが、この当時の演奏としては最高水準の音質に仕上がったと評してもいいのではないだろうか。いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2012/10/14

    フランスの巨匠指揮者の一人であったマルティノンは、例えば、ウィーン・フィルとともにチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の名演(1957年)のスタジオ録音を遺しているなど、広範なレパートリーを誇っていたが、それでもそのレパートリーの中軸に位置していたのはフランス音楽であったと言える。ドビュッシーやラヴェルの管弦楽曲集などは、今なおマルティノンの代表的な遺産の一つとして高く評価されているが、本盤におさめられたサン・サーンスの交響曲第3番やフランクの交響曲ニ短調の演奏も、そうしたマルティノンの貴重な遺産であると言える。マルティノンは、これら両曲のうち、サン・サーンスの交響曲第3番については、本演奏(1970年)の5年後にも、サン・サーンスの交響曲全集の一環としてフランス国立管弦楽団とともにスタジオ録音(1975年、EMI)を行っている。当該演奏も、サン・サーンスの名声をいささかも貶めることのない名演であると言えるが、エラートにスタジオ録音を行ったフランス国立放送管弦楽団との本演奏こそは、録音面などを総合的に考慮すると、より優れたマルティノンによる代表的名演と評価したいと考える。それにしても、フランス音楽の粋とも言うべき洒落た味わいと華麗な美しさに溢れた同曲の魅力を、単なる旋律の表層の美しさのみにとどまらず、演奏全体の引き締まった造型美などをいささかも損なうことなく描出し得た演奏は、フランス人指揮者によるものとしては稀少なものと言えるところであり、諸説はあるとは思うが、本演奏こそは、同曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。演奏終結部に向けての畳み掛けていくような気迫や壮麗な迫力は、ライヴ録音を思わせるような迫力を有しているとも言えるところであり、本演奏は、様々な名演を遺してきたマルティノンの最高傑作の一つと称してもいいのではないだろうか。フランクの交響曲ニ短調は、マルティノンの知的かつ洗練されたアプローチが、重厚で重々しさを感じさせる演奏が多い中においては清新さを感じさせると言える。もっとも、重厚にして引き締まった造型美におおいてもいささかも不足はないところであり、いい意味での剛柔のバランスのとれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。これだけの名演だけに、これまで高音質化が望まれてきたところであるが、長らくリマスタリングなども行われず、いささか残念な気がしていたところであったが、今般、SACD化がなされたというのは、演奏の素晴らしさからしても極めて意義が大きいと言えるだろう。サン・サーンスの交響曲第3番の一部においては、若干の音質の混濁が気にならないわけではないが、基本的には、音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても超一級品の仕上がりであると言えるところであり、とりわけオルガン演奏とオーケストラ演奏が明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的であると言える。いずれにしても、マルティノン&フランス国立放送管弦楽団ほかによる素晴らしい名演を高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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