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マーラー(1860-1911)

SACD 交響曲第6番『悲劇的』 インバル&東京都交響楽団(2013)(2SACD)

交響曲第6番『悲劇的』 インバル&東京都交響楽団(2013)(2SACD)

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    norry  |  東京都  |  不明  |  2015年12月20日

    とうとう待望のワンポイントヴァージョンが出た。2014年7月20日、このチクルスの10番の演奏会場であったサントリーホールで、7番のワンポイントヴァージョンが発売されており、そのときにプロデューサーの江崎氏がおられたので、是非6番のワンポイントヴァージョンを、と要望したのだが、とうとうその願いが叶った。6番のワンポイントヴァージョンが欲しかった理由は何よりもその曲の特性にある。6番は、多種多様な楽器や弦楽器の特殊奏法に基づき、新ウィーン楽派に連なる前衛的で革新的な響きが曲を支配していることが何より重要だが、このような響きはあくまでトータルな音場の中で捉えられなければならない。ところが、レコーディングにおいては、このような響きの細部を捉えようとして、個別マイクを多様した録音がむしろ他のシンフォニーに増して磨きをかけて行われることになる。それはそれで、マーラーがスコアに書き込んだ音や、何より個々の奏者の妙技が手に取るように分かってよいのだが、曲全体の理解という点では、本質に遠くなる弊がないではない。この6番の通常盤も、素晴らしいミキシングで、改めてマーラーのスコアの豊かさと、都響の奏者の見事な演奏(特に木管の音色の豊かさ!)を味わうことができ、よかったのだが、他方で、インバルがFRSOと録音した6番の、あの前衛的にして革新的な響きが少し失われた感があったのは正直残念なところもあった。しかし実演自体は見事なものであったから、おそらくワンポイントで聴けばあの響きが蘇っているであろうと思っていたのだ。そして予想は当たっていた。本当に、破天荒としか言い様がないこの曲をトータルな空間の中に一つの一環した響きとして纏め上げ、しかも、スケールや音楽としての新しさと美しさを全く失わせないインバルの手腕は改めて驚異的だと思う。他のどのマーラーの曲の演奏にも増して、この曲のときほど、インバルがいかに超人的な耳を持っているか、感じることはない。凄い曲の、凄い演奏、ここに極まれりである。

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    Reimagining India  |  INDIA  |  不明  |  2014年07月20日

    何よりも、冒頭の低弦による刻みの決然たる表情とアンサンブルの精確さ、それを生々しく伝える録音技術が、このディスクの唯一無二さを物語っている。インバルは、都響という、現在その絶頂期にあると言っても過言ではない名器を携え、かつての名盤と言えども聴き及ぶことのできなかったダイナミズムを、この自家薬籠中の曲に吹き込んでいる。時折、局所での大胆なギアチェンジと変幻自在な表情の変化にハッとさせられるが、棒に難なくピタリと寄り添って、マーラー随一の音絵巻を忠実かつ集中力高く表現する、プレイヤーの自発性溢れる演奏はもはやワールドレベル。聴きどころ満載だが、敢えて一カ所搾るなら、淡々と進みながらも万感籠る第3楽章中間部か。今回のマーラーシリーズはどれも必聴だが、中でもこの「悲劇的」はマストアイテム。

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  • ★★★★★ 

    norry  |  東京都  |  不明  |  2014年03月08日

    マーラーのシンフォニーの中から、代表作をどれか一つ選べと言われたら、第6を選ぶという人は、少なくないのではないか。私もその一人である。第8、大地の歌、第9、第10という後期の傑作群がより高次の精神的次元に達した曲であることはもちろんであるが、そもそもマーラーが、ヨーロッパの音楽、特に交響曲の存在と概念を根本的に新しくして、20世紀につなげた存在と考えたとき、第6こそそのような地位を確立させた作品だということができる。第6を自らも指揮したウェーベルンは、「これこそ僕らの第6だ」と言ったというし、ベルクの傑作「3つの管弦楽曲」にハンマーが登場するのは周知のとおりだ。端的に言って、新ウィーン楽派の本質の一つをなし、20世紀の管弦楽にあっては不可欠の技法となった音色旋律という発想は、この曲(と同じくマーラーの第9)の強い影響下にある。さらには、クラスター的な大音響、ムチやハンマー、カウベル、チェレスタ等の伝統的なオーケストラにない楽器の多用による新奇な響きの創造、よく語られるイ長調→イ短調の連結和音のモットーによる曖昧な調性感といった特徴も、20世紀の音楽のあり方の基礎を作ったと思う。この曲がなければ、ショスタコーヴィチの交響曲、特に第4以降からのいわゆる「戦争交響曲」は生まれなかっただろう。 このような20世紀音楽を準備したという意味での前衛性に加えて忘れてはならないこの曲の特徴は、マーラーの全シンフォニーの中でも、唯一、ソナタ形式の4楽章制の交響曲という点である。この強い形式性は、私見では、マーラーが、(あたかもベートーヴェンのエロイカのように)ソナタ形式を一つの人格の展開としてとらえる試みとしたことに起因すると考えている。ただしそこで展開する人格は、ベートーヴェンのような「世界精神」としての英雄ではなくて、国家や社会の巨大な不合理に翻弄されつつも愛する女性への憧憬を抱きつつ決して闘争を止めることのできない孤独で「悲劇的」な英雄(芸術家)である。大げさに言えば20世紀における人格(芸術)の「疎外」もここに予見されているのであって、この曲が20世紀を予見しているというのは、音楽的技法面のみならず、そこに盛り込まれる文学的・叙事的な内容においてもそうなのである。この曲がショスタコーヴィチの戦争交響曲を準備したと言ったのはそのような意味でもある。 余りに作品論が長くなってしまったが、特にこの曲に関しては、これだけのことを念頭に置かなければ、適切に演奏を論ずることは不可能である。要するに、これだけ、存在する次元の異なる多様な要素を、どれか一つに偏ることなく、だからといって散漫になることなく、そして形式感を失わないように緊張感を持って表現しきることが求められることになる。一般に、この曲の演奏では、「悲劇的」というタイトルに表面的に引きずられる形で、八方破れで悲憤慷慨調の演奏がもてはやされる(というか期待されう)傾向にあるが、そういった演奏では、この曲の前衛性が含む多様な音色や響きが犠牲になってしまう。かといってそちらばかりに凝っていては、本質的な悲劇性の方が犠牲となり、醒めた味わいだけが残ってしまう。 もう28年前の1986年にインバルがFRSOと録音した演奏は、初めてこの曲が持つすべての要素を極めて高度な次元で精確に再現した演奏で、未だにこの曲の演奏の規範の地位は揺るがないと思うが、この度ここに登場した都響との録音は、さらにこの曲の持つすべての要素の表現を深化させ、高度なものにしたと言ってよいだろう。とにかく、インバルと都響のマーラー演奏のこれまでのすべてに言えることだが、テンポの設定が絶妙であるとともに、あらゆる瞬間における各楽器の音量、音色のバランスがさながら黄金比のように完璧であり、だからといって全く萎縮せず精気に満ち、瑞々しい。複雑な高次の連立方程式の解を見出したかのような演奏である。実演でも感じたが、この本当に瑞々しい音色の氾濫は、あたかもラヴェルを聞いているかのように感じる瞬間もある。この曲でこういったことまで感じたのも初めてである。それと併せて強調したいのは、特に1楽章のアルマの主題他の歌謡的な主題の歌わせ方が極めて情熱的であり、感動的であることだ。いずれ英雄は闘争の中で破れ、死んで行くにしても、最後まで愛は忘れない。こういうと口はばったいが、ハードボイルドに徹していたFRSOの演奏にはなかった今のインバルのこういった解釈が、この演奏に一種の明るさももたらしている。インバルの演奏は常にそうであるが、この都響との新録音も、これまでの誰のどのような演奏とも似ておらず、というよりも、他になかった新たな発見に満ちた演奏である。 最後に、エクストンの録音のことについて一言言っておきたい。このシリーズが、異なる演奏会場での演奏をつなぎ合わせているために、ライブ感というか、演奏としての一貫性が失われているという趣旨の意見を聞いたことがある。おっしゃりたいことは分かるような気もするが、そもそも、インバルの演奏の本質は、テクストとしての音楽の本質を完璧に再現することにあるのであって、実はそこには、必ずしも演奏行為としての一回性に拘る必要性のない側面があるということである。もちろん、インバルのライブのものすごさは私が指摘するまでもなく、誰もが御存知のことであって、だからこそ、上記のような意見も出てくるのだと思うが、私が言いたいのは、インバルの音楽性の凄さは、ライブの一回性のみに尽きるものではない、ということだ。インバルのマーラー解釈という極めて高度な芸術的営為は、一回のライブのみで味わいつくせる、ないし理解しつくせるものではなく、だからこそインバル自身が録音に積極的であり、デノン(昔はデンオン)のころから録音にもうるさいのである。エクストンの録音が、ライブだけでは足らないインバルのマーラー解釈の理解に大いに貢献していることは明らかである。CDにライブ感を求めるのももちろんありだし大事だが、「レコード芸術」の楽しみというか意義はそれに尽きるものではないということは強調しておきたい(とはいえエクストンには第5のときと同様、ワンポイント版の発売を期待したい)。

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  • ★★★★☆ 

    村井 翔  |  愛知県  |  不明  |  2014年03月08日

    マーラー・ツィクルス2シーズン目の第1弾。最初のフランクフルト放送響との録音からこの印象は変わらないが、インバルは6番をやはり特別な作品と考えているようだ。近年の彼の多くの演奏とは違って、かなりテンポは遅めで、特に第1楽章などは音楽の身振りが重く、アルマの主題もテンポを伸縮させて、濃厚にしなを作る。指揮者が作品に対して「構えて」いるのが良く分かる。6番なんだから「構えて」どこが悪い、という声も当然あるだろう。しかし「構えた」結果、いつものインバルの「自然体」なように聴こえる演奏(実際にはそのように聴こえるだけで、声部のバランス調整など実は色々と仕掛けがあると思う)とは、ちょっと違ったものになっている。もちろんバーンスタインやテンシュテットのような情念山盛りの演奏ではないが、たとえば先頃出たノット/バンベルク響のような端正なスタイルと「情念」型の間ぐらいの感じ。終楽章では第1主題の再現あたりにクライマックスを持ってくる(その前の「ピウ・モッソ」からの第2主題の加速は激烈!)設計の確かさはいつもながらだが、全曲を通して絶対的なインバル印の刻印はあまり感じられない。中間楽章がスケルツォ/アンダンテの順なのは、ブルックナーでも初稿主義者のインバルとしては当たり前。横浜公演では災難だった首席トランペット氏も、もちろん傷のない方のテイクが採られていて、都響の技術力は相変わらず確かだ。指揮者のやや重めの解釈に沿って、力一杯の力演を見せる。2007年のフォンテック録音とは段違いの、きわめてなまなましい録音もこれまで通り。

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